第5話 ずっと一緒
道の駅で秋吾と遭遇した翌日、巴は旧校舎の被服準備室の床に横になっていた。
広さは普通の教室と同じくらいだが、壁や窓一面に机と椅子が積み重ねて置かれていて、実際よりは狭く感じる。しかし巴の部屋よりは広いのだから開放感がある。
何日か前に涼子先生と1組の先生に合鍵を貰った。3年生が掃除の担当なのだが、場所が場所。本校舎から離れていて使用する回数も少ない。現在の被服室は本校舎の家庭科室と共同になっているから準備室はなおさらだ。全く掃除をしない。使用しないことはないのに。
だから時折巴がここの掃除に来るのだが、その際いちいち鍵を貸すのが面倒だと先生たちから押し付けられたのだ。
巴は手の内にある鍵を見る。ダイヤモンド状の頭部。公的施設の鍵にしては凝っている。
「暇つぶしには丁度いい。静かだしな」
家だとやることもない。あれから
何より、休日ということは、ひなはたまの休みを両親と楽しく過ごしているはずだ。
自分の出番もないだろうと判断して、巴も久方ぶりの休日を楽しんでいたのだけど、やけに落ち着いて気分が乗らない。
「面倒くさい。もう帰るか」
用務員こそいないが、サークルや運動系の団体、もしくは地元の有志の組織が使用するため、上野小学校は土日も人の出入りがある。
巴も何かあると手伝いに来る。だから巴が休日にここにいても不自然ではないので誰にも見咎められなかった。当直の先生も何も言わなかった。少し、物足りなさを感じた。
「……ん。休日に登校とは随分な不良がいるな。それとも優等生か?」
廊下の向こうから足音がする。ここは廊下の突き当り、他に教室もないから不思議だった。
ドアを開こうとして、鍵がかかっていることに気づいたらしい。そのまま音は後ろ向きにと思ったが、音の主は鍵を外した。
学校全体のマスターキーなど存在しない。合鍵は二つ。一つは巴、もう一つは――。
「巴君――」
顔を出したひなは嬉しそうだった。ドアを静かに閉めて内鍵をロック。手にはハート状の東部の鍵がある。
人気のない校舎でドアの音の気にするのがいかにもひならしいので、巴は苦笑した。ひながこちらに駆け寄ろうとしたのと同時に、上半身だけを起き上がらせる。ひなは床の上に直接座った。
合鍵をひなに託してあった。お互いに何かあった場合の集合場所にしておこうと。
「おうちに行ったけど鍵がかかっていたの。だからここだと思って」
「秋吾や紅緒の家は探さなかったのか?」
二人の家にそのうち行く――昨日秋吾に伝えたのを、ひなは聞いていたはず。
「初めてのおうちに一人で行けないよ。それも男の子のおうちだよ?」
それもそうか、と巴は当たり前の答えに反省するばかり。
「……僕の家は?」
「あなたが案内してくれたし、来ないでって言ってたよねっ?」
「ごめん、意地の悪い聞き方だった」
ふんっと拗ねたように視線を外す。必死にとりなす巴にひなは苦く笑った。
「いいの。本当はね、巴君が来ない方が良いって言ってくれたの、悔しいけど分かっちゃった。寂しそうなあなたを見るのは嫌だし、あなたのお父さんに遭遇するのも嫌」
「うちの親父がモンスターみたいな言い方だな。あるいは妖怪か」
モンスターペアレンツという単語が浮かんだが、すぐに握りつぶした。
「どうしたんだ? 今日はお父さんたちお休みだろう。一緒に遊びにでも行ってくるといいよ。見るところなら上野は結構あるから」
観光業も盛ん――というより、上野は観光業が主力産業。春季の混み具合はひとしおだ。
「夕方お買い物に行く約束はしたんだ」
「そうか。クラスメートの商店くらいなら紹介できる。僕の友達だって言えば、何割引きかしてくれる」
「大根3本分くらい?」
「まさか。うちの村全域が買い取れるくらいだ」
「巴君ったら、最近そういう冗談ばっかり」
クスクスと一通り笑ったひなは、部屋全体を見回した。改まって姿勢を正す。
「今日はお話しがあってきました」
「お話し?」
「そう、お話しだよ。お父さんたちには散歩してくるって言ったんだけど。変じゃなかったかな?」
「まあ、僕と一緒にここで旧校舎を掃除してましたって言い訳すれば、奇妙とは思われないよ」
「一緒――そう、一緒だよね」
巴は首を傾げた。ひなの心中がまるで読めない。
「あ、あのね?」
「うん」
「凄いことを言っちゃうような気がするんだけどね」
「いつものことだよ。僕も頭の悪そうなこと言うから」
「いつも――うん、いつもか」
いつも。一緒。繰り返す言葉が短い。
ひなは興奮しているのか、落ち着いてるのか。巴はそのどちらもだろうと思った。少なくとも、彼女にとってはポジティブな告白に違いない。
「……ひな? 言いづらいなら、いつものように――」
「いいのっ。あのね」
「私と、ずっと一緒にいてください」
――巴の世界が停止した。
どう、言ってあげたらいいのだろう。これまではお互いタンタンとやり取りができていたのに、今日に限ってすぐに言葉が出てこなかった。
ひなの言いたいことは何となくだけど分かった。でも、その意味が巴には混沌としていて
「――ひな」
「――なあに?」
まずは挨拶。
「ずっとって言うのは、そのままの意味でいいのか。一生とか、永遠って意味で」
「うん、巴君が選んでくれるならそういう意味だと思うよ」
第一通過点は良し。
「分かった。責任重大だな。……一緒っていうのは、最近の僕らの関係ってことでいいか」
「そう、一緒にいて欲しいの。暇があったら二人で座って。お昼寝して。どこか遊びに行って。……ううん、特に何もしなくてもいいんだ。それだけで満たされるから」
満たされる――良い言葉だと思う。
「昨日家に来て欲しいと言ってたけど、それも含める?」
「うん。やっぱりうちに遊びに来て欲しい。ご飯を作ってあげたいし、私は巴君のご飯も食べてみたい。上手だって聞いたから」
「誰に」
「紅緒ちゃんと黒沢君」
そうだと思った。
「どこか遊びに行くのは。僕が今言った、ご両親と一緒に出掛けるっていうのは同じか」
「同じだよ。巴君が連れて行ってくれるなら、どこへでも行きたい。川とか海とかは、まだ全然だけど。いつかは」
「そうか。なら特訓しようか。紅緒に頼むといいよ。あいつはひなが心底気に入ったらしい。温泉施設で入浴の特訓から始めるといい。納得できるまで付き合ってくれる。僕が保証する」
「……分かった。そうしたら巴君と一緒に入れるかな」
「それはちょっと勘弁してくれ」
残念そうにひなは目を伏せたが、口元が全然納得していない。悪戯っ子のような笑みだ。というか、本人も入るつもりは一切ないはずだ。
「この期に及んで冗談飛ばせるんだから大物だよ、ひなは」
「うん、さすがに一緒は難しいよね……。お母さんたちに見つかったら……」
100パーセント袋叩きだろうな。下手をすると、自分は村にいられなくなる。
大体、ひなの貞操観念は同年齢以上にきちんとあると思う。巴と同程度かちょっと下なら、可能不可能以前に、嫌悪感が湧くはずだ。
案の定、ひなは丁寧に頭を下げた。
「……忘れてください」
「はいはい、忘れます。……で」
――巴は残った不可解さ2つのうち、難問から解決しようとした。
「違うと思ったら断ってくれ。それでも僕らの関係は変わらないから。――僕と恋人になりたいって訳じゃないよな」
疑問ではない。巴の断定をさらに肯定して欲しかった。少なくともひなはそれだけを感じている訳じゃない。彼女ははっと何かに気づいた後、苦しそうに声を絞る。
「思わせぶりなことを言っちゃったんだ。ごめん。嫌な子だよね」
そう聞こえるかもな。分かるよ。でも大丈夫だよ、僕は推測で聞いてないからだ。
「構わない。だってひなはそういう気じゃないんだろう?」
何度も胸に手を置きながら考えた末に、違うよとひなは言った。
「違うの。そういうんじゃなくて――もっとずっと。長くて太いことなの。そうなりたい気持ちが、ないってわけじゃないけど」
抽象的な言い回しだけど理解はした。離れていても変わらないくらいの関係ということ。
巴は頷いて難問を問う。これはひなが傷つくかもしれない。
「これは僕が嫌なことを言う。家族になりたいとか、そういう意味? ひなが好きな――ご両親みたいに」
「……とっても近いと思うよ」
我が意を得たりとばかりにひなは大きく頷いた。
「いいのか、両親がいるのに、僕がそれに近い関係に収まって」
「巴君に、私のお父さんになって欲しいわけじゃないよ。お母さんには――あれ? どうなんだろう? ……巴君、なりたいの? ま、まさか、女装趣味とか……」
「いや、あのなひな」
「い、いいよ? 私も一緒に男装してあげるよ? スーツ姿とかかっこよさげだよね」
「良いわけないだろう」
冗談だよ、とひなは頬を緩める。この状況でとんでもない大胆さだ。
巴はやられたとばかりに首に手を当てた。少し脇道に逸れた、追加の疑問。
「家族になるっていうのは結婚するってことだけど、そういう意味でもないんだな」
「それは違うね。手前にある気もするけど」
手前。――分かった。何となくだけど。
ずっと一緒に居たいというのは、結局そのままの意味だろう。ここ数週間で築いた関係のこと。
悲しい過去や寂しさ、喜怒哀楽を共有する。まずはそういう関係があって、欲や恋はそのあと。信頼や共有といった関係を維持していきたいのだ。できる限りの期間、直接触れ合って。それは一言でいうのなら。
そう――日常の共有。
そうしたら確かに『家族』が一番近いはずだ。家族は赤の他人同士が結ばれ、一つ屋根の下で生活を共にすることだから。家族の『手前』が結婚だ。
ただ、巴にも的確な言葉が見つからなかった。婚姻のない家族などあり得るのかと思った。ブリタニカ百科事典や
それでもいい、そんな頭でっかちな紙の束よりも、ひなと構築した繋がりの方が厚くて太いはず。
動きの止まった巴にひなは不安になったのか、口元を押さえて震えた。
「ともえくん――?」
「分かったよ」
巴も気がつく。やはり、自分も寂しくなってしまった。誰かがいないと生きてけない体に成りあがってしまったのだ。それは、弱くなったっていうことだ。
強がりなんてしていない。周りに友だちや仲間がいても、一人で十分というのは本音だった。しかしここ数週間のひなとの『一緒』は、自身の胸の内のプールタンクに温水を入れて温めてくれた。これより水位が下がったら、もうプールが氷山で埋まりそうになる。
ひなと初めて会った時の痛みを、自身の成長痛とする。弱くなったのを巴は恥とは思わない。
――見つけなさい。こっちに繋ぎとめてくれる子でもいいわ
紅緒の忠告を思い出す。大分早くに見つけてしまった。
恋人でもないし、彼女たちみたいな関係でもないのに。――いや、いつかはそうなる可能性もあるが。でもまあ今はいい。ひなもそう言った。
「僕はひなと共有し合いたい。どうも、ひながいないと最近寒くてたまらないから」
「え――?」
「だからちゃんと言わせてくれ。ひなは僕のためにとても勇気を振り絞ってくれたんだろう?」
「そうだよ。断られたらどうしようって昨日から眠れなかったの。ここに来るまで引き返そうかなって何度も思ったんだけど。……やっぱり足が動いてた。あなたはきっとここで待っててくれるって信じてたから」
そこまでさせてしまってこれ以上待たせては、巴が悪人になってしまう。
覚悟なんていらない。巴はひなをしっかりと見て自身の意思を口に出す。
「いいよ。ずっと一緒にいてあげる」
ひなは最初、巴の言葉を聞き間違いだと思ったらしい。気抜けしている。
「ホント?」
ああ、と頷く。簡素にして唯一の答え。
「ホントにホント? ずっとだよ。巴君が言うなら一生って意味だよ?」
「まあ、可能な限りって言った方が重くないか。僕なりに努力はするよ」
「……信じられないよ。本当はね、私も自分で何を言ってるのかよく分からないのに」
そうだろう。二人してまだ齢は11。表現できる語彙は少なく幼稚だ。言葉を同世代よりは扱いなれている巴でさえそうだから。
「僕も多分ちゃんとした言葉にはできていない。でも、意味が分からなくても、何となくだけど気持ちは通じたから。ひなも僕の答えは通じたか? 僕の気持ちは――」
「通じたよっ。同じ気持ちだよね? そうだよね?」
ひなはまだ不安げだった。
だから巴は返答ではなくてこちらから言葉を主張する。彼女を信じさせるために。
「僕もひなと一緒にいたい」
受け止めたひなは被りを振って、顔を上げた。あの日見たように、その瞳は大粒の水をためている。温かくて、綺麗な涙を巴は指で拭ってやった。ひなはそれをされるがままに受け入れた後、消えるよう声で、でもしっかりと返事をした。
「うん」
「それでいいか?」
「うんっ。うんっ。それでいいよ。違うよ、それがいいのっ」
妥協なんてしていない。これは巴とひなの二人で出した答え。これも『一緒』の成果だろう。
「嬉しいよぉ。今日頑張ってよかった。一生分の勇気がなくなっちゃった」
「いいんだ。ひなは凄いな」
「凄くないよっ。私に優しくしてくれるあなたの方が凄いよ。だって転校してきて間もないのに、こんなことしてくれた人いないよ。先生にも友達にも。……お父さんたちくらいだよ」
恐らくひなにとっては、父親や母親と比較するのは最上級の誉め言葉だ。
巴は胸の悲鳴に手を当てた。臓器移植の痕はまだ痛む。それが心地よかった。
「正直に言わせてもらえば僕もひな以外にここまでしたことはない。ひなが特別だ」
「私だけ――。ホントに? 紅緒ちゃんにもしてないの?」
「なんであいつが出てくるのかは分からないが、もちろんしていない。追記するなら秋吾にもしていない。ちなみに先生は僕が優しく手伝おうすると逃げる」
「先生らしいね」
声をあげて笑うひなにもう涙はなかった。その跡だけが残っている。
「言い方を変えるなら、ひなは強い女の子だよ」
「強い――」
意地っ張りが強い面もある、とは水を差すので言わないでおいた。
「頑張り屋ってことだよ。だからその分ご褒美があったんだと思う。神様は頑張った分、この涙の分だけでもご褒美をくれるって信じているから」
そうでなければ、巴たちが生まれた意味がなくなってしまう。
「自信を持っていいと思う。それだけは紅緒たち二人よりひなが上だよ」
「そう、なんだ――。うん、受け止めたい。あなたを言うことを信じるよ」
「そうか」
これこそが告白のような気がして巴は今更ながら恥ずかしさがこみ上げてくる。なんというか、巴も一世一代の大言壮語を繰り出した気がした。
「本当はね、家族みたいになりたい――じゃなくて、昨日までみたいに一緒にお昼寝したいって言いたかっただけだったのかもしれない。でも、不安で。あなたを悩ませてしまって」
巴はひなの手を取り、しっかりと強く握った。
「僕なりの信頼の挨拶だよ」
そう、と納得したひなはおずおずと手を伸ばして巴の頬に触れた。赤ちゃんの体温のような熱量が巴の肌を焼く。
「私の挨拶はこれでいいかな。お母さんが心細くなった時によくしてくれたの」
「ひなのお母さんは本当にいい人だな。羨ましいよ」
「うん、自慢のお母さんだから。……本当に、お母さんにあなたを紹介してあげたい」
「いつかな」
ひなは小さく首肯した。巴は暖かくなってきた部屋の室温を振り払う。
「ここや梅の木の下でたくさん話そうね。これがずっと一緒ってことなんだね」
「ああ、多分な」
ひなの帰宅時間ギリギリまで準備室で過ごした。この小さな世界には、二人以外何もなかった。時折ツバメの鳴き声が聞こえた以上、まだ春の気配は去る様子がない。
何度も何度も笑ってひなは巴の名を呼んだ。そのたびに肩と肩が触れ合う。
「ここに越してきて本当に良かった。私はきっと巴君が必要」
この光景を誰かが目撃した人がいたら何というだろう。
マセた恋人同士か、仲の良い兄妹か。でもやはり別のものだと巴は思う。
そう思うことにして、長く太く、二人で道を歩いて行きたい。
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