第3話 優しいあなたが大嫌い

 その荷物が、ひなの歓迎用だったと分かったのは翌日のこと。


 どうせ家に居てもやることがないと巴が朝早く登校すると、教室の窓に紙製カラーテープを張り付けている先生がいた。窓と格闘する姿はハムスターに似ていた。手伝おうと近づくまで巴に気づかない辺りがそっくりだった。

 背後から声を掛けられた先生は、青ざめながら、手伝ってと助力を素直に求めてきた。こちらに断る理由なんてない。


「やっぱり涼子先生はいい先生ですね。ここまでやる教師って今時なかなかいないから」

「八洲君こそいい子だよ」


 そんなことはない。純粋に善意でやっているわけじゃない。つまりは自己満足。

 暫くして秋吾と紅緒もやって来た。巴と先生の作業を見咎めて、揃って呆れ顔。


「これだから巴は」

「しかたがねえ。巴だから」


 そうならそうと何で自分たちに声をかけないのかと、先生ではなくて、巴へ文句を言うのがこの幼馴染たちなのだ。


「朝早々ご挨拶だな、二人共」

「朝なんだから挨拶するでしょ。おはよ」

「ああ、おはよう。……基本的に集団登校だったよな、うちの学校は」


 巴は反論することもなく話題を逸らす。秋吾がけっと舌打ちした。


「咎めてるてめえが単独登校してんじゃねえかよ。しょうがねえだろ、昨日からHRホームルームの集まりが悪いんだからよ。なお早見はやみの家とかは農林業だから多忙だろ」


 素直に同調した紅緒が、欠けたチョークを黒板に走らせる。


水無月みなづきとか珊瑚さんごの家も自営業だしね。年度開始は大変だから。私たちみたいなのが助けないと。家業が実質公務員だもの。巴、あんたこそ家で寝てなさい」

「僕はやることないからいいよ」

「やることやってるの。この間、近所の婆ちゃんのデイサービスの送り迎え手伝ってたって小耳に挟んだわ」

「紅緒の耳は福耳なのにな」

「誤魔化すな極大阿保! 人助けもほどほどにねって直接言われたい訳? あーもー、あんたの将来が心配。早く誰か良いお嫁さん候補を見つけて」

「お嫁さんって、紅緒、お前」


 紙テープを壁に貼り付けながら、後ろも振り向かずに巴は反論。


「似たような子、相性のいい子をね。どうしてもっていうなら、こっちに繋ぎとめてくれる子でもいいわ」

「今のうちにか? 僕らは小学生だぞ」


 気の早いことだと思ったが、目の前の幼馴染二人はコンビでありカップルだった。家同士の仲が良く、祖父たちが政治家で。おぎゃあと生まれたその日から婚約者。

 もっとも今は惚れ合った仲だとしても、自分たちの身の上に思うところがあると、巴は内心気を揉んでいる。家の呪縛はそれほどに強い。

 そんな二人だらこそお前だけでもと、こうやって助言してくれるのだろう。でも、その気遣いを素直に汲むことが巴にはできていない。


 ――こんな愛嬌もない男と添ってくれる人なんてな、さ


 片割れの秋吾が、先生がテープを張り付ける窓を押さえながら嘆く。


「そうだな。色恋の大事件が一切見えねえ。こいつ結婚できるのかねえ。お前も俺の紅緒みたいなのがいれば、俺らの苦労も減るのにな」

「お前たちみたいになれるよう、努力はするよ」


 既に将来結婚が約束されているような二人を見て、巴は口元で笑った。


 そして――。

 集団登校してきたひなが、教室に入るなり後ろへ飛び上がった。張り巡らされたテープと、黒板にでかでかと書かれた『ようこそ上野へ』という文字を見て。


「と、巴君、これ――」

「おはよう、ひな」

「お、おは……」


 巴の挨拶に、思わず両手で口元を隠した。その指には絆創膏。頭を下げてひたすらに、ごめんなさい、ありがとう、と繰り返した。昨日までのどこか鋳型通りに振る舞う姿はもうどこにもなかった。

 先生と秋吾と紅緒がハイタッチして喜び、巴は。

 ――巴は胸のあたりに激痛のようなものが走るのを感じた。苦しくはない。ただひたすらにもどかしい。臓器移植した痕のような、そんなありがたい痛み。


                  ◇


 昼食後、裏山の奥の木の下で巴が空を見ていると、ひながこそこそとやってきた。

 そんな必要はないのにな、と胸中で呟く。すぐ真横へひなは腰を下ろした。


 上野の村には桜がほとんど植えられていない。気候の、あるいは土壌的な問題で育成が難しいそうだ。だから巴たちの背後の樹木は梅の大木。そして花弁は全て落ちている。


「びっくりしちゃった」

「朝のことか?」

「うん。あんなに歓迎してくれたこと一度もないの。凄く――嬉しかった。ありがとう、巴君」

「発案者は先生だよ。手伝いは秋吾と紅緒。礼なら3人に言ってくれ」

「いいの。紅緒ちゃんから聞いたよ。巴君が一番最初にお手伝いに来たんでしょ?」

「偶然だよ」


 ひなは昨日、クラスメイトの輪には積極的に加わらなかったようだ。雰囲気だけは大分浮世離れしていると巴は感じていたので少し心配だった。

 今日はいつの間にか紅緒ら女子が会話している隅にいて、時折談笑していた。そんなものでいいのだろう。一人でいることの気楽さというものはある。一概に否定するのはよくない。


 巴は気になったことがあったので、思い切って訊いた。


「プレーヤー、持ってきてないのか」

「うん、もういらない。お父さんのお古だったんだけどね。皆良い子たちだからお喋りするのとても楽しいの。本当に黒沢君の言う通り、ほんの少しだけ皆と近づけばよかったんだ」

「仕方ない。転校生だっていうのに構いすぎる、うちの子たちの方が例外だ。僕は知らないが、あんな連中他の学校にいないだろう」


 そうだね、とひなは眉を曲げた。


「じゃあ巴君もそうでしょ?」

「なんで」

「一緒に帰ってくれて、お話たくさんしてくれて。そんな子は、女の子はもちろん、男の子もいなかったよ」


 確かにそんな男子もないだろう。巴もクラスメイトや初めて会う子に、あそこまでしてあげたことはあまりないから不思議だ。ひながこちらに、とても近く接触してきたからかもしれない。

 何か話そうかという巴に、ひなは首を振った。

 結局また巴は質問を重ねる。昨日無理にでも聞いておけば良かったと未練があった。


「……夕ご飯、ひなが作ったのか?」

「うん。新じゃがのお味噌汁と、野菜炒めと、大根のお漬物とか」

「そうか、和食だな。僕はどちらかというと洋食を作るから、ひなの家の食卓は新鮮だな。お前のご両親には日常なんだろうけど……ひな?」


 言葉を止めたひなに、やはりと巴は上半身を起こして続きを問う。


「お父さんたち、食べてくれなかったのか?」


 物凄くためらいがあった。ひなは暫くして、俯いて口を開いた。

 その、表情は――。


「そう」

「いつものことか」

「帰って来たらいつも食べてくれるんだ。一度も箸をつけなかったこととかはないの。でもね、昨日は信じられないくらい遅くて」

「そうか、食べてはくれたんだな。どれくらいだ?」

「11時くらいだったかな」


 遅すぎるな、それは。午前零時近くまで親の帰宅を待つ小学生はそうそういない。


「もう冷めちゃったから。お味噌汁って本当に冷めるのが早いよね。じゃがいもも冷たいと美味しくないし」

「分かるよ。でも、頼りにしてしまう食材だよな、便利だ」

「うん、せっかくお隣さんから頂いたのを使ったのに。人差し指、ちょっと切っちゃった」

「ん、絆創膏貼ってたの、それだったか」


「そのあと、9時くらいにお風呂を沸かして。でも昨日お喋りした通り私は入れないからシャワーだけ浴びて。ちゃんとお湯を張ったのに、ちょっと冷たかったんだ。春だからかな。上野があるこの県は暑いって聞いてたのにね」

「暑いんだよ、夏とかは特に耐えきれない日がある」


「……自分の部屋でまたキーボードを叩いていたんだけど、不思議なくらい捗らなくて。インターネットは繋いであるから、どこかで面白いコードでもないかなって調べてたんだけどダメダメで。そのまま放置してた。私、作るのはできるのに聞くのは得意じゃないみたい。家にCDもないの」

「意外だな。でも勉強家のひならしいよ。そこまで調べてるんだから」


「……11時過ぎになったら二人とも帰って来てくれたの。でも、そういう日って大概、お勤め先の食堂かコンビニでいつもすませてるんだ。昨日もそう。……ちょっと違ったかな。やっぱり送迎会かな。お父さんはお酒臭くて顔が赤くて。お母さんは飲んでなかったけどお腹いっぱい。やっぱり歓迎会だね。私に『ひなごめんね、今日も遅くて。いつも遅くて。もしご飯を作ってくれたら食べるからって』――そう言ってくれて。いつものことだからね」


 ひなはそこでようやく一呼吸入れた。ケホケホとむせたが、喉の調子を気にしてはいない。


「私も、うん、もう食べちゃったから、また作るねって答えたんだけど。お母さんは作曲はしてるのって訊いてきて、今日は全然ダメだったって言うと困ったみたい。またあのパンフレットを持ってきたみたいで。いつものことなんだ。本当にそうなの。だから、大丈夫。私のことはいいよ、また作るよって。それで――」


 ひなの感情の鉄砲玉は止まらない。受ける巴も、呼吸のリズムが崩れそうだった。


「――それで?」

「それでね。それでねっ」


 ひなは目元に大粒の涙を溢れさせながら巴を見た。その声はもう声になっていない。


「食べて欲しかったの! 私が作ったご飯を一緒に食べて欲しかったのに! だって――だって私たちは家族だってずっと言ってきてくれたのに!」


「……そうだな」

「謝るくらいならもういいって言ってよお父さん! いらないって、大丈夫だって、はっきり言ってっ。私は作曲なんてどうでもいいよ。お母さんともっとお話しできたらそれで良かったのにっ。時間が余ったからやってるだけっ。なんで一緒にいてくれないの! ご飯を食べてお話しするだけでいいんだよっ? ものの30分もいらないよ!」


「酷いよな、それだけなのにな、望むことは」

「言いたかったよ! ずっと言いたかったけど、お母さんたち心配するでしょっ。私が転校するたびに気を遣う癖に、新しい学校は大変そうだなあって少し言うだけでごめんって謝るんだよっ。なんで謝るの! 謝らないでよっ。こんなに全国ずっと一緒に回ってるんだから、もう私は諦めだってついてるんだから!」


「友達とかもあまりできないものな」

「できるわけないよ。だって1年居れば良いってこともあったよ? 酷いと半年だよ! だからっ、だから踏み込んでくれて、ちゃんと友達だって、よろしくねって言ってくれる子が本当にいるなんて思ってるなら、そんなの鈍感なだけでしょ。そんな子、巴君が初めてだったんだよ! あとは紅緒ちゃんと黒沢君だけっ」


「言えないよな、言えないよ。友達になってくれなんてさ」

「言えないもん! お願いだから、私を見て話してよ! ご飯くらい一緒に食べようよ! うああああああん! ああああああああん!」


 ああ、ああとひなはもう止まらない。

 困り顔という印象に残る昨日のひなとはもう別人だ。これが素なんだろう。大声をあげて泣き喚くひなの顔は悲涙ひるいでぐちゃぐちゃだった。

 見ていられない。いられるわけがない。巴は手が震えるほど躊躇ちゅうちょした末に、孤高な情緒を受けとめるには未熟な体を思い切り抱いてやった。独楽こまのように小さい背中へ手を伸ばして、縮む背筋を何度も撫でて。


「お母さんのバカ、お父さんなんて嫌い!」

「……本当に?」

「大っ嫌い! 私がいなくなっちゃえばいいんだ! 家出して消えちゃえばいいんだ!」

「……嘘だよ。本当は嫌いじゃいよな。ひなは優しい子だから」

「嘘だよ! 大好きだよ。世界で一番好き」

「分かってるよ」


 分からない方がどうかしている。


「私のお父さんたちはお父さんたちだけ!」

「帰ったらそう伝えればいいよ。きっと受け入れてくれるから。だってひなのご両親なんだぞ。お前のような子に育つんだから、凄くいい人だよ」

「うんっ。優しくて、かっこよくて、温かくて」

「ああ――そんな人たちなら、ひなの言うことなんてちゃんと聞いてくれるから。だから何があっても言うんだ、例え12時越えて帰って来ても。翌朝に帰って来ても」

「分かってるよ。巴君なんかに言われなくても分かってるよっ。だって私のお父さんとお母さんだから!」


 知ってるよ。見れば、いや、見なくても全部分かるよ。


「ごめんな、僕が余計だった。でも」

「でも嫌いって言いたいよっ。言わせてよ、こんな時くらい。嘘でもいいから。嫌い、お父さんもお母さんも嫌いっ。こんなに優しい巴君も大っ嫌い! バカ、みんなバカだよ!」

「そうだな。言えばいいよ。ご両親も僕も逃げないから」

「大っ嫌いっ。うわああああああ。ぐすっ。ああああああああああ」


 ひなはそのまま5分も10分も泣き続けた。頬を伝う涙は止まらなかった。

 転校前の環境は、この様子からすぐに読み取れる。ずっと我慢してきたのだろう。家にいても休まる場所なんてきっとない。

 彼女の両親はきっと善人だし、それを分かってはいるのだろう。それでも口に出さなければ同じこと。


「分かるよ」


 綺麗で際限のない滂沱の雨がようやく涸れ果てた頃。巴はぽつりと言ってやった。気持ちだけは想像できた。

 ひなはこくりと頷いて、巴を抱き返す。その体温は春なのに酷く冷たい。

 今度は巴の瞳に熱いものが溜まりそうになって、ぎゅっとまた抱きしめた。二人の熱がどこかへ行かないように。目の前の孤独な少女が、もう二度と同じ涙を零さないように。それが巴がしてあげられる唯一のことだから。


                  ◇


「もう平気か?」

「うん、もう泣かないよ。ありがとう、巴君」


 泣き止んだひなは大分落ち着いてから、また巴に向き直って――。


「私ね、本当はお父さんたちの子供じゃないんだ」


 え、と今度は巴が詰まった。ひなの話しぶりから察するにとても繋がりの深い家族で、養子と養親のような関係には思えなかった。

 まさか里親というのではあるまいと、一瞬疑問が持ち上がった。


「生んでくれたお父さんたちは凄く昔にいなくなっちゃって。私だけ助かったんだ。それで――」

「いやいい。そんなことまで話す必要は――」


 微笑したひなは首を小さく横に振った。


「いいの、聞いて。――津波で、街ごと流されちゃって。私は助かったっていうか、たまたま難を逃れたっていうか。お父さんたちは、ダメだった。体だけちゃんと残ってたけど。だから今のお父さんたちはともかく、私の故郷はもうないんだ。だって土地ごとないから」


「津波、街? 土地ごと。……ああ、あれか」


 ほんの僅かだけど閃くものがある巴に、ひなは大きく目を開いた。


「知ってるの? 本当に物知りなんだね。もう誰も知らないと思ってたけど」

「有名だよ。いや、有名だったんだよ。でもまさかひながそうだったとは」


 巴が5、6歳の時だったか。もしくは7歳か? 秋吾や紅緒と幼稚園で出会った頃よりもっと後。だとしたらひなが被災した年齢も同じか。父親が出版の仕事で妙に気が立っていたから印象に残っている。

 国内で、観測史上最大級の津波と呼称されている災害だったはず。

 マグニチュードは低いけど、震源と海岸の地形、気候とかの複雑な条件が偶然重なって巨大な津波になってしまったらしい。

 ひなの言う通り、土地ごと街ごと消えたそうだ。痕跡すら残らなかったという。

 しかし、衝撃的な被害の姿とは正反対に、被害者の総数も被害総額も極端に高いものではなかったらしい。

 そんなに酷い災害なら、もっと亡くなっている人がいるでしょう? ――そういう想像に対して肩透かしを食らったとでもいうか。とんでもなく身勝手な、イメージと現実の齟齬だ。


「――忘れられるのも早かったよな。遺族にとっては、どちらが正解なのか分からないが」

「そう、複雑」


 3ヵ月もすると忘れられていった。凄惨すぎて現実感がなかったのか。忘れようとしていた人も多かった気もする。巴は何となくずっと覚えていたけど。


「水がダメなのもそのせいなの。一度だけクリニックへ通ったこともあるんだけど、慣れるしかないって先生が」

「酷いな。もっと気を遣った言い方をすればいいのにな」


 それでも医者かとふつふつと怒りが湧いた。


「あ、違うよ。お医者様はもっと丁寧に優しく言ってくれたよ。だから私はしょうがないって思ってたんだけど、お父さんがしきりに謝ってきて。ひなが一番辛いはずなのに、俺は代わってあげられないから――って」


 そんな慰めは逆に辛い。先ほどのひなの慟哭を聞いて、この感情をどこへぶつければいいのか分からなくなった。


「今のお母さんたちは、生んでくれたお母さんたちの親友だったんだって。すごく歳が離れていたけど、でも親しいお付き合いをしてきたって……。亡くなったお父さんとお母さんの前で何も分からなかった私をそっと抱きしめてくれて。引き取ってくれるって」

「いい人たちだな。……他の親類とかはいなかったのか?」

「うん。生んでくれたお父さんもお母さんも親戚とは縁が薄くて。特にお母さんは、けー、けい、る?」

「係累?」

「そう。係累が絶えてるって一度だけ聞いたよ。聞いたことない家のお嬢様だって言ってたけど」


 駆け落ちでもしたのだろうかと、巴は最低な想像を張り巡らせてしまった。これが物書きの性だというのなら、この瞬間だけはひなの前から消滅したかった。


「でもそれは私の勘違いかもしれない。私にとっては普通のお父さんたちだったから。それでね、お父さんたち――今のお父さんたちは引き取ってくれたあとは、できるだけずっと一緒にいてくれて。その代わり共働きで。二人して転勤も多くて」


 二人揃ってはあまりないパターンだ。特に母親もそうなのは意外だった。


「お二人とも転勤族か、所謂」

「そう。どうしてもお金が欲しかったみたいなの。お父さんたちね、実は凄く若くて。そういう人たちってお給料もあまり高くはないでしょ? だから少しでも稼ぎたいって。力仕事でないなら、転勤が多い人の方が、手当っていうのかな、それが多いって何となく分かるから。でも、それだって――」

「ひなのためか」

「ごめんね、私に言わせて欲しかったよ?」


 巴は舌打ち一つして片目を閉じた。


「僕こそごめんだ。本当に良くないな、この習性は」


 自身の洞察力が嫌になる。特に秋吾からは直せと散々指摘されていた。要らないいざこざを招きかねないからと。そう説教する本人は癇癪かんしゃくもちで喧嘩っ早い。正論だけど現行相反げんこうそうはんだ。


「いいの。だってそんな巴君の前だから、私はさっきあんなこと叫んじゃったんだよ?」


 恥ずかしい話だ。ひなこそあんな姿を巴に見せたくなかっただろうに。

 でも、ひなはふふと笑って、空を見上げて。


「ここ最近は本当に忙しいみたいで。次の日の朝に帰ってくることも多いし。お休みの日も少ないし。寂しくて。だからね、私のご飯を食べて欲しいってどうしても言いたかったんだけど。言おうとする時にずっと悲しそうに笑うの。ひなを一人にしてごめんねって」


 それは。


「でも、でもね――?」


 それは言えない。言えないよ。


 そんな優しい二人に、ひなはとても我がままなんて言えないのだと巴はよく理解できた。心配だってかけられない。そんなものは我がままでも何でもないはずだ。それくらい、どんな親でも受け入れてくれる。可愛い娘の願いの一つや二つ。

 もしかしたら、命を拾って、新しい――それも飛びぬけて優しい両親ができて、もうこれ以上欲しがるのは天罰でも下ると、そうひなは思っているのだろうか。それなら、この少女の孤独はもう誰にも癒せない。


「お友達にも寂しいって言うのは抵抗があって。家に帰っても誰もいないからずっと遊んで欲しいだなんて。普通の家の子ならそうだよね。でも私はすぐに越して行っちゃうから」


 そうだろうさ。今の叫びの10分の1でも簡単に受け入れてくる子供なんている訳がない。

 今よりずっと幼い頃から、それを容易に想像できてしまうひなの感受性はずば抜けて鋭い。それが確かに、ひなには音楽の才能がある証左だろう。


「それから、それからねっ」


 ひなは訴えたいことがまだあるはずなのに、その感情に身体が追い付いていないらしい。あれほど長い悲痛の吐露だ。何年分も累積しているのだろう。一言も周りに言わなかったに違いない。それでもまだ吐き出し足りないのは分かる。

 でもこれ以上は、と巴は手をかざした。


「もういいよ。あとで聞くよ。時間はたっぷりあるから」

「……分かった。もう言わないね。ね、休み時間の間、ずっとこうやっててもいい?」

「いいよ。僕もやることがない。ひなは少し寝ているといいよ。疲れただろうから」

「うん、おやすみ……。あったかい。まだ春なのに、夏みたいだよ」


 うとうとし始めたひなはすぐに寝入った。巴は寝ずの番だ。

 何分か、何十分か二人でそうしていた。ひなは目を瞑っていて、巴は空を仰いでばかり。

 ひなの両親はどこまで行ってしまったのだろう。あの青い空の先なら、まだ救いはあるのだろうか。


                  ◇


 もうチャイムが鳴る。今日ほど鳴って欲しくない日は珍しい。


「ひな、そろそろ予鈴だ。帰ろう。特に紅緒が心配するといけないから」

「……あっ。ごめんね。起きる。戻る」


 ふあと欠伸を一つして、ひなは立ち上がった。


「僕は少し遅れて行くよ。ちょっと疲れた。教室だと秋吾がうるさいから」

「でも巴君と言い争ってる黒沢君はちょっとだけ嬉しそう」

「やかましいからな。そうか、僕が戻らないと秋吾の奴が心配するのか」

「すぐに来てね。私も寂しいからね」


 ん、と返事を返してひなはとことこと校舎の中へ消えて行った。

 巴はひなの孤独を受け止めて、整理が付いていない。まだ少しだけその苦しみに同調していたかった。それが、優しさゆえに口に出したくなかった叫び――それを引き出してしまったことへの、せめてもの自分が負うべき責任の取り方だと思ったから。


 一息ついてひなと同じ経路を辿って校舎に入ると、何故か紅緒が立っていた。


「こんなところでどうした? 予鈴が鳴るぞ」

「巴、あんた」


 訳が分からない。巴が反応に困っていると紅緒はふっとため息をついて、なにやら嬉しそうな顔をした。ますますその意味が不透明になる。


「……何でもない。いいのよ、あんたはそれでいいの。きっとそれがいいのよ」

「ごめん、僕はよく分からないが」


 早く来なさい、と紅緒はさっさと教室に戻って行く。実に慌ただしい日だった。

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