第2話 家業の作家と、趣味の打ち込み

 放課後、巴は平常通り一人で家路についた。男子は基本的に単独で下校、女子は幾つかのグループに分かれて帰宅というのが暗黙の了解。


 校門を出た辺りで後ろを振り向く。

 リュックを下げたひなが、こそこそついて来ていた。

 巴と目が合って電柱に隠れる。これこそ後ろめたいことじゃない。

 巴がおいでおいですると、てへへと照れ笑いをしながら寄ってきた。

 二人で並んで歩く。口火を切ったのは巴から。


「紅緒たちともっとお喋りした方が良いって、昼間言ってたばかりだったはずだけど」

「でも――」

「ひなはお喋りは苦手か? いや、そんな感じじゃないな。むしろ好きな方か」


 人見知りの気はあるのかもしれないが、内向的でもないし、物怖じはしないと思った。大きく見開いたひながはっきりと頷いた。


「本当によく分かるね巴君。うん、誰かと話すのは好きだよ。その時の私が私らしいと思うんだ。でも、直接言葉で伝えないとダメな気がして。お母さんたちがお下がりPCパソコンをくれたんだけど、SNSもインターネットもあまり興味が持てないの」

「そうか、それはしょうがない。でもせめて連絡用のツールとしては割り切るべきだな。ひなの家のそれはテレビ通話は可能か?」

「テレビ通話……?」


 都会の子だがそこまでは知識がないか。さすがに小学生だ。


「ウェブカメラを使うんだ。声とビデオ映像をお互いに映し合って、同時に会話するんだ。大分多くなってきたリモートワークもこれでやる」

「へえ……。巴君もやってるの?」

「やらないよ僕は。村の外だとあまり知り合いは多くないから」

「――そう。ね、一緒に帰ってもいいかな?」

「もう帰ってる途中なんだけどな。ひなはどこへ越して来たんだ?」


 問われたひなが、家の住所と家の周りの目印を挙げた。

 巴はああ、と納得する。巴の自宅とは方角が真反対だったのも予想がついていた。

 上野の村を上空写真から俯瞰して、上下左右、そして中央に分ける。

 巴の家は『中央寄りの下』の旧市街。古くからの村の住人が多い。要は下町だ。

 対してひなの家は、新規移住者やアパートの並ぶ『上と中央の間』くらい。越してくるならそこだろうと思った。

 小中学校は『中央寄りの右』。現在は『中央』の街道を『左』の方へ歩いているから、そろそろ道を分かれる必要がある。ひなは『上』巴は『下』と言わんばかりに。


「距離も離れていないから構わないが。でもいいのか。親御さんは心配しないのか?」

「……うん。大丈夫。今日はちょっと遅いから」


 横に並ぶひなは、一瞬だけあからさまに沈んだ表情を見せた。

 聞いてはいけないことを聞いたと、巴は己の軽率さを叩いた。努めて平静を装う。


「分かった。うちまで行こうか。その後で送っていくよ。これじゃ下校というか、村案内だな」

「よろしくお願いします、観光案内係の人」

「はいはい、承りましたよ、海外旅行好きのセレブの奥様」


 二人でクスクスと笑いあって、春らしい気候の道を登っていく。まだまだ陽も高い。


 道中では何気ない話を色々とした。

 ひなの転校前の学校などの話から始まって、今日話した新しいクラスメートたちの印象、巴の失敗談。

 道行く途中の施設や畑の広さ。この村には田んぼはあまりないこと。林業が盛んで、温泉があって、産業はあとは観光。第二次産業のメーカーも、まあないことはない、そういう話。

 意味のない話、意味のある話。

 ひなはよく喋った。本当にお喋り好きらしい。巴はどちらかと言えば聞き上手な方なので聞き手に回る。歩きながら二人でひたすらに会話を重ねる。

 気づくと巴の自宅の前に着いていた。おんぼろの家だ。一応掃除だけは常に心掛けている。


「もう着いちゃったんだ? 早いね。もっとお喋りしたかった。巴君、私の話を聞いてくれるの上手だから気が付かなかったよ」

「そうか。僕は多分、ひなと逆で会話を聞く方が好きなんだろう。人を知るのが好きなんだろうな」


 しかし、出会ってそうそうの女の子を家にあげる趣味も何もない。お茶でも出すからゆっくりしていってくれはさすがになしだ。回れ右をする。


「送って行こう。半分は同じ道だから飽きるかもしれないけど」

「じゃ、巴君。二人で一緒にお喋りできるところはない?」


 ないこともない。人があまり来ない場所だし、動物も虫も少ない。だから何もせずに過ごすのには適している。

 自宅の裏手の土手道を進む。巴も名前は知らない小川を登っていく。村を『左』から『右』へ街道に沿って流れる河川で鹿南川がある。これはその支流。

 次のカーブを曲がると浅瀬があるはず。瓦礫は転がっておらず、川藻も生えていない。よく見れば分かるが小魚の姿さえない。夏でも感じる冷気と相まって、一人で無為を過ごすのには良い場所だ。しかし。


 巴は後悔し始めた。ひなの顔色が変わってきたからだ。若干青くなって、表情も落ち着かない。浅瀬が見えた途端に、巴は足を止めた。


「あまり先回りして聞かれるのも不快だろうけど。――もしかして水苦手か?」

「……ごめんね、全然ダメなんだ。小川とか用水路なら我慢すれば、かな。でも大きな川とかは見るのも苦手で」

「そうか。当然海も駄目か?」

「もっとダメ。お風呂も苦手で。いつもシャワーなんだ。ちょっと家のお湯を張るのがもったいないの。お母さんはお風呂大好きだから」


 スキンシップを好む母親なら、娘と入浴するのも嫌いじゃないだろうに。


「戻ろう。こんなところに案内した僕が悪かった」

「いいの。行こう? 見るだけでいいから。ね?」


 少し震えるひなの手を巴は強く握った。あまり女の子に対しては行儀がよくない。

 ひなはとても驚いたが何も言わない。されるままに巴と道を進んでいく。

 土手の上、浅瀬が見える場所でブレーキをかける。これ以上はもういいだろう。

 乾燥して砂っぽい地面に、ひなはスカートごと腰を下ろした。意外とお転婆らしい。

 変に感心した巴も胡坐を掻いて座る。今度は巴から話す。できるだけ、早く切り上げよう。


「ひなは趣味はないのか? 読書でも十分趣味だし。映画鑑賞とかもあるけど」

「テレビもあまり見ないかな。時代劇くらい? 他にはお散歩かなあ。新しいところに引っ越すと歩いて見て回るのが好きなんだ。冒険してるみたいでワクワクするよね。あとは、あまり」

「掃除が得意なんだったよな? 料理は?」


 言ってからしまったと思った。モップかけ中に嗅いだひなの身辺の匂いが正しいなら、それは。


「するよ。お父さんたちが遅いから、私が作ってあげることも多いんだ。お休みの日は必ずお母さんが作ってくれるけど」

「……そうか。女の子は甘いものが好きだってよく聞くけど、ひなもそうなのか?」

「うん。ケーキとか大好きで。笑わないでね?」

「場合による」


 意味のない揚げ足とりに、ひなは頬を膨らませる。


「もうっ。誕生日のホールケーキを一人でぺろりと食べちゃって。お父さんびっくりしちゃって。お母さんはやっぱりひなは私の子だってお腹抱えて涙流してて。お父さん、拍子で椅子からひっくり返っちゃって。おかしくて皆で大笑い」


 くっと巴は噴き出した。

 リスか兎のように両頬を膨らませてケーキを食べ尽くすひなは、容易に想像が付いた。それを優しい空気に変換することができる家族にも。


「あ―ひどい、笑わないでねって言ったのにっ」


 抗議するひなだけど破顔している。巴は楽しくなって、襟首を抑えながら訊いた。


「悪かった。でも、いいお父さんたちだな。他にはないのか?」

「うーん。考え付かないなあ。巴君こそ何かないの?」

「僕は完全に無芸大食だからなあ。少食なのに。多芸多趣味な奴が羨ましい。何もないと家で寝てる。起きてても時間潰すとなると『広辞苑』読んでるくらいか?」

「巴君、やけに博識だけどそういうの日頃から読んでるからなんだね。なんていうか、本当にただの時間つぶしって感じ」


 どうせ時間を浪費するなら、無意味なもので潰した方がいいというのが巴の哲学だった。


「ひなはどう時間を潰すんだ。テレビか? ラジオ? それとも――」

「――打ち込みかな」


 それは、意外だ。


「お下がりで貰ったPCパソコンに編集ソフトがインストールされてて。ろじっくなんとかって言うんだけど。凄く古いソフトなんだけどね。気が付いたら真夜中まで熱中しちゃったこともあって。あ、ごめんね、よく分からないよね」

「俗にいうデスクトップミュージックってやつだろう。知識だけならあるよ。そうか、ひならしい趣味だな。良い意味で浮世離れしてよく合ってるよ」


 巴としては誉め言葉だ。パソコン上による音楽編集とは――。

 妙にあか抜けたひなに、よく似合っていた。ひなはどう感じたのか判じえないが、素直にうんと頷いてくれた。


「巴君も何かを作るってことはしないの? 絵を描くとかは?」

「ないな。絵心はない。ただ、趣味と言うほどでもないし、もしかしたら家業なのかもしれないけど」


 自分からこれを口にするのは初めてか。


「……小説」

「小説? 書くの? 巴君が?」


 ああ、と頷いた。ひなは目を輝かせたが、巴としては複雑だった。


「小学2年だったか。作文だか読書感想文だかを親父に持って行ったんだ。当時の僕としては多分親父の気を引きたかっただけなのになあ。そうしたら親父、目の色変わって。『お前には才能がある。私の見立てに間違いはない。日本の文壇のトップに立つのは夢じゃない』ってさ」

「お父さん、何をしてる人なの?」

「出版社の編集。それから書け書けうるさくて。何だったかな、こうも言われたか」


 ――お前のような子を表舞台に上げるのが私の役割なんだ。巴一人でも、生きていけるようにしたい。お前は凄い子だよ、巴。私に似ずにな


 何が親父に似ずだ、と巴は父親の記憶を打ち消した。


「大人になる頃にまで磨き上げれば、全国でも名前の通った小説家になれるから書けってさ。さすがに保留にしてあるけど。あんなに鼻息荒くして言われても」

「家業ってそういうことなんだ。音楽家とかは家系があるけど、小説家の家系って珍しいからおかしいかなと思っちゃったんだけど」

「まあいなくはないけど、確かにひなの言う通りだよ。物書きの才能って想像してる以上に引き継がれないから」


 いや、引き継ぐも何もない。だから余計に複雑だ。

 間をおいてひながぽつりと言った。


「……私も同じなの」

「なんで。歌手とか指揮者とか。ひなのお母さんは別にそういう人じゃないんだろう?」


 案の定、彼女の母親は文化系とか美術系とかは無理解らしい。


「どっちかっていうとお父さんの方が本を買う人だよ。でも実はね、ここに越してくる直前だったかな。そのお母さんがパンフレットを持ってきてね」


 ――これね、興味はないかな?


 差し出されたのは音楽の国際コンペの応募だった。いくつかの大手のレコード会社や音楽協会などが協賛していて、それは由緒正しいものなのだという。

 ひなも、もちろん巴も聞いたことのない世界的な音楽家や歌手が、それに受かってデビューして、羽ばたいていったとか。


「私には無理だよって言ったんだ。だって、私、ピアノも弾けないし楽譜も読めないんだよ? 巴君が想像するほど上手じゃないの。作った音楽はノイズみたいな出来だもの。こんな大きな大会送るだけ無駄だし、むしろ大会に申し訳ないよって、見当違いな恥ずかしいことを言っちゃったんだけど」


 ――そうかなあ。やってみることが大事じゃないかな


 ひなに似てマイペースな母親は全然めげてないらしい。

 それからひながヘッドホンを耳に当ててノートPCパソコンに向かっている最中に、何度か強く応募を勧めてきた。母親にしては珍しい強引さで、普段はそういうことをしない人だとひなは念を押した。


 ――やりたいことやできることがあるなら、私は応援するからね、ひな


「お母さんたちは趣味とか夢を我慢して――諦めてきた人だから。多分、できるだけ私の才能を伸ばしてあげたいんだと思うの。親心だよね。せめてひなだけでもって。嬉しくて、でも不安で。お母さんが喜んでくれるならそれでもいいかなって、そう思うんだけど」

「時間はあるよ。ゆっくり考えればいい。僕らはまだ小学生だから」

「そうかなあ」

「今から将来を決めるというのも酷な話だよ」

「ちょっと考えてみるね」


 苦手な河川をじっと見つめるその横顔はやけに綺麗だった。


「巴君も本当に小説家になるつもりなの?」


 どうだろう。それは、趣味で食べて行けるなら一番なのかもしれない。


「いや、自分で言っておいてなんだけど、これは趣味って程じゃない」


 好きか嫌いかで言えば別に好きではない。ひなもの作曲も、好きかなくらいの範疇はんちゅうだろう。


「やはり家業――この場合、作業か仕事なんだと思う。割り切ってる気がする。だからまだはっきりとは返事はしてない。もう3年も経つのにしつこいけど、親父は」


 ひなが両頬を手で覆って上目遣いに巴をのぞき込む。


「巴君って、やっぱりちょっと大人びてるんだね。言えないよ、割り切るなんて。だってお父さんもその道の人なんでしょ。そんな人に反論してるから。大人びてるの」

「ひなもそうだよ。受け答えとか、とても子供とは思えないから。僕との会話もそうだったけど、お母さんとの話もな。あれって要は話を濁すってことだから。保留にする。大人の対応ってやつだな。まあこれは本来は誉め言葉にしちゃいけないんだろうけど」

「そうかな」

「そうさ」


 その対応こそが、子供の資質や才覚を潰しかねないこともある。

 大人になるばかりが良いことじゃない――巴は本気でそう思う。もちろん、子供には子供のデメリットもあるのは分かっていた。だから大人の対応とか都合とかという言葉は面倒なのだ。


「あと、紅緒や秋吾とまともに会話できるのもすごい。あの二人、今日は借りてきた猫ほどに大人しかったけど、普段の爆発力はあんなものじゃない。暴走機関車な二人なんだ。特に二人が揃うと相乗効果で大変だ」

「巴君もしゅう――黒沢君を抑えていたし、紅緒ちゃんにお説教されても平気だったから凄いって私は思うけどなあ」


 慣れだよ、慣れ。


「あ、ごめんね、今日はありがとう。黒沢君と揉めてた時に助けてくれて。あの子にいじめられたって訳じゃないけど」

「秋吾のあれをいじめじゃないって思えるからひなは凄いんだよ。あれ、普通にいじめだから。でも、ひながあいつにまともについていける子だって分かったよ」


 その上で、と前置きした。


「できたら秋吾のこと、嫌いにならないでやってくれ。普段は本当に面倒見がいい、凄くいい奴だから。僕も世話になってる。まあ、口の悪いのがマイナス点なんだけど」

「ならないよ、いい子なのはすぐに分かったもの」


 ひなは片目を瞑った。


「紅緒ちゃんもどちらかと言えば言葉が鋭い感じだよね。苦手な子は、いるんじゃないかな」

「でもあれも面倒見のいい子なんだ。うちの学校、いじめがほとんどないのは紅緒のおかげだ。大体解決するから。ひなの言う通り、最初は委縮する子がいるけど、最終的には大概が懐いてくれるよ」


 その反面、学校全体が変人の巣窟なのはご愛嬌か。


「あと、あのクラスには女子に毒舌気味な子がいる」

「わ、凄いね?」


 ひなは怯むことなく頷いた。とても楽しそうだった。


「巴君は穏やかでのんびり屋さんみたいだけど、そういうのはないの?」

「痛いところを付くなあひなは。僕はヒートアップすると罵倒、というかなじるような言葉遣いになるからな。ああ、何だ。うちの村の子、揃って口が悪いな」

「変な村だねっ」

「その変な村に越して来たから、ひなも今日から変な村人だよ。変な村人Sさん」

「そうだね、お揃いだねっ」


 また二人で笑い合った。


「もう平気、もうここでやっていけるよ」


 ひなが穏やかな顔で呟いたので、巴はすくっと立ち上がった。そろそろいいだろう。


「……帰ろう。ひなの家まで送るよ。でも道案内だけはしてくれ」

「はい、お客様――どちらまで行かれますか?」


 ひなの自宅へ、ナビのセットは完了したばかり。巴も乗ってあげた。


「お姫様のお気の召すまま、どこへなりとも」


 微笑んだひなの手を握って立たせると、彼女は浅瀬をちらと振り返ってから、巴に背を向けたまま歩き出した。その足取りは力強く、水への恐怖などみじんも感じさせないもの。

 強い子だと巴は感心して茜色の空を仰いだ。

 そんな巴に聞こえないような声色で彼女は言った。綺麗なほどに気丈で、しっかりとした雰囲気をまとって。


「こんなに楽しくて寂しくない日、きっとすごく久しぶり。ありがとう」


                  ◇


 ひなの自宅は移住者用の住宅地街にあった。

 巴の記憶が確かなら、ここの区域の家は純粋な新規購入用の一戸建てではなくて、お試しの入居もできる家屋だったはず。

 つまりこうだ。村おこしのとして新規移住者に補助金は出す。そして、移住者用の借家を村で用意している。もし気に食わないことがあったらすぐに転居して貰って構わない。残った家はリフォームか何かしてまた新しい移住者に貸し出す。自治体レベルのホームステイだ。

 現村長が取り入れた政策だったが、地元の有志や不動産を抱き込んだサポート体制のおかげで効果が表れており、このご時世に村の人口は増加している。

 ――2階建ての一軒家で、周囲の家とは間隔がある。見栄えがよくシンプル。

 庭がほとんどないが、まあ周囲全てが山で広場も多い上野では、ガーデニング趣味でもない限り困るような家ではない。オンボロで大昔を引きずっているような巴の自宅とは正反対。


 春だからまだ日は落ち切っていない。玄関前で足を止める。これ以上は聖域だ。

 ひなも巴も別れ際に何も言わなかった。何かしら挨拶でもすべきだと口を開くと、先回りしてひなが、あの、と言う。勇気を振り絞るように、両手を握った。


「あの、ね。巴君」


 紡ぐ言葉がそこで消えた。巴は予定通りに表情を変えずに口元を動かす。


「また明日」

「うん、またあしたね。おやすみ」

「まだ夕方なんだけどな。ああ、おやすみ」


 零れるような笑顔で小さく手を振ったひなに、巴も礼を返して帰路に就く。

 途中坂の下で振り返ると、ひなはまだこちらを見ていた。

 大きく手を伸ばしたひなに、早く家に入れと口パクをしてそのまま振り向かずに帰った。


                  ◇


 道中、友人や同級生には誰も遭遇しなかった。不思議なこともあるものだと、スーパーに寄って食材だけは購入。その日の晩飯は珍しく豪勢で、いつもは自室で食べるけど、今日に限って食堂に皿を並べる。

 巴以外誰もいない部屋。今まで違和感など覚えなかったのに、今日はとても広く感じる。テレビをつけて、またすぐに消した。リモコンをテーブルに放り投げる。


「面倒くさい」


 不機嫌そうに呟いた。こんな吐き捨てるような言葉を使ったのはいつ以来だろう。何に苛ついているのか自分でもよく分かっていない。


「こんなに面倒くさかったか。夕ご飯を作るのも。そもそも食べるのもか」


 独り言自体をそんなに言う奴じゃないだろうお前は、と別の巴が言う。その通りだよ。


 今日の夕ご飯を、ひなはどうしたのだろう。

 カレンダーを見る。当然平日。ひなが作って両親と食卓を共にしたのだろうか。いやしかし、あの口ぶりだと。


「あのまま家まで入って行けばよかったか……?」


 馬鹿なことを考えるなと首を振る。そんなことは許されない。

 残った大根のスープと自家製のザワークラウトを一気に平らげると、巴はダンダンと足音を立てて階段を昇り自室のベッドへ倒れ込んだ。横目でデスクトップPCパソコンを眺める。


「何が返事をしていないだ、八洲巴。返事をしていなくったって、書き続けているじゃないか」


 そう、結局巴は小説を執筆し続けている。休日、近所や村で色々と所用に精を出す以外はPCパソコンの前に向かうことが多い。気づいたら書いている。誰のためでもないのに。

 自分のためでもないのだろう。目標のようなものは特になかったから。

 父親に見せると9割が酷評。というか、駄目、出来が悪い、見せられるものじゃない――その一言で没にされた。1割はまあまあ。それでもはっきりと褒めてはしない。

 小説家になってみてはどうかと強く勧めるくせに、巴の作品については、優しい言葉を一度だってかけたことなどない人だった。それでも巴はめげることなく習性のように書き続けてきたから、今まではそんなものかと思っていた。


 できることがあるなら応援するというひなの母親と、できることがあるなら、それでお前を一人でやっていけるようにしたいという自分の父親。同じような言動のはずなのに、何かが違うような気がして。


「お前のお母さんが羨ましいよ。それだけは羨ましい」


 むくりと起き上がる。PCパソコンのスリープ解除ボタンに触れようとして――やめた。

 おやすみとひなと挨拶し合ったが、とても寝れるような気分でもなく、眠る時刻でもない。巴は戸締りをして家を出て、家の裏から続く土手道を進んだ。終点まで時間はかからない。

 午後に訪れた浅瀬をずっと眺めていた。水音も虫の鳴き声も何も聞こえない。小魚すらいないから当然だ。青い匂いが鼻孔をツンとくすぐったのが不快だった。


「面倒くさい。僕は今日どうすればよかったんだ?」


 秋吾の家に行けば苦虫を潰したような顔の村長が歓待してくれ、紅緒の家に向かえば彼女の母親が風呂掃除を命じた後で夕ご飯を出してくれるだろう。そういう家々なのだ。

 でも、それ以上を望むのは巴の我がままなのだろうか。


「これなら学校にでも泊まりたいくらいだ」


 乱暴に言い捨てて立ち上がった。そういえば先生は、買い出しの品を何に使ったのだろうと考えながら。

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