破滅-1

 桜並木に囲まれた道を、幼い零は歩いていた。右手は父親の手を、左手は母親の手をつなぎながら、楽しそうに歩いている。


「ねえねえ、おかあさん、おとうさん。ぼくはどうして、れいってなまえなの?」


 零はそんな疑問を口にする。父親と母親は顔を見合わせて、微笑んだ。

 答えたのは、母親だった。


ゼロという数字があるでしょう?」

「うん、ある」

「零にはね、どんな数字を掛けても零なの」

「そうなんだね」

「そう。だから貴方には、どんな悪い考えにも染まらない、自分だけの正義を持ってほしいの。そういう願いを込めて、名付けたのよ」

「へえー……」


 ――じぶんだけの、せいぎ。


 零はその言葉を、心の中で繰り返した。

 それが何かはまだわからなかったけれど、でもきっととても大事なものなのだろうと子ども心に思いながら、零は軽くジャンプする。


 春風は、温かな家族を包み込むように揺らした。


 *


 零の両親は、本当に心優しかった。

 零が素敵な行いをすれば、それを褒めた。零が間違った行いをすれば、それを叱った。

 いつだって零のことを一番に考えてくれて、様々な場所に零のことを連れて行ってくれた。分厚いアルバムは、家族の思い出を写した写真で埋まっていった。


 零は両親を愛していた。零だけに留まらず、様々な人に優しく接する両親のことを、誇りに思っていた。尊敬している人物を問われたとすれば、迷うことなく「お母さんとお父さん」と答えただろう。


 この幸福がいつまでも続くものだと、零は信じて疑わずにいた。

 しかしその思い込みは、零が小学四年生の頃、呆気あっけなく崩れ去ることになる。


 *


 零は黒い服に身を包んで、二つの棺桶かんおけを見つめていた。


「……酷い話よね、本当に……」

「……零くん、まだこんなに幼いのにな……」

「……本当、最低な事故よね……」

「……どうしたら、防げたんだろうか……」


 親族の言葉をぼんやりと聞きながら、零は立ち尽くしていた。

 両親は車を運転していた際、信号を無視した別の車と衝突して命を失った。相手側の運転手は飲酒をしていた。そして一命を取り留め、今は入院しているらしい。


 零の視界が、どれほど流したかもわからない涙でにじんでゆく。


「……お母さん、お父さん、」


 口角を、歪めた。


「帰ってきて……」


 *


 零は叔母夫婦に引き取られ、転校することになった。

 新しい小学校。零はぼんやりと、教室の入り口の前で立ち尽くしていた。


「はーい、それでは今日、転校生を紹介します!」


 先生の言葉に、教室の中がざわめいた。零は引き戸を開けて、虚ろな面持ちでゆっくりと足を踏み出す。

 教壇の上に立つ。数多の瞳が、零に向けられていた。視線の過度な集中に、零は萎縮いしゅくしてしまう。


「それじゃあ、影谷くん、自己紹介をお願いできる?」


 そう言われ、零はおずおずと口を開いた。


「……影谷、零です。九歳です。皆と仲良くなれたら、嬉しいです。以上です……」


 今にも消え入りそうな声で、零は自己紹介を終える。


「せんせーい、影谷くんに質問いいですかー?」


 活発そうな女の子が手を挙げる。先生はにこやかに、「勿論もちろんどうぞ!」と答えた。

 女の子は笑顔で、零に尋ねた。


「影谷くんは、どうして転校してきたの?」


 その何気ない質問が、零の心を容赦なく抉った。

 もうこの世にはいない両親のことが、零の頭の中を満たしていく。

 気付けば零は、嗚咽おえつを漏らしていた。


「うう……うっ、うう……」


 突然泣き出した零を、クラスメイトたちは驚いたように見つめていた。

 質問した女の子は、困ったように視線を彷徨さまよわせる。


「……何で泣いてんの?」


 誰かの言葉を契機けいきに、クラスに話し声があふれていく。


 ――やばくない? こんなんで泣くの? なんかこわーい。変な奴!


 先生が止めようとするが、生徒たちは聞く耳を持たない。

 悪意のある言葉に、零はさらに泣いてしまう。

 そのとき、だった。



「ちょっと、皆! 影谷くんは転校で、不安いっぱいなんだよ。そういう風に言うのやめなよ!」



 凛とした、声がした。

 同じ生徒からの声に、クラスメイトたちはしんと静まった。零は驚いて、滲んだ視界で顔を上げた。


 一人の少年と目が合った。

 焦げ茶色の髪をした、垂れ目の男の子だった。

 彼はにこっと笑って、片手でVサインをつくってみせた。

 すぐにわかった。彼が、零のことを助けてくれたのだと。


「ありがとう……」


 感謝を述べる零に、少年は「気にすんなよー」と笑った。

 これが、佐伯都羽さえきとわとの出会いだった。


 *


 零と都羽が仲良くなるのに、そう時間は掛からなかった。

 都羽は優しく、正義感に溢れた少年だった。温かな思いやりに満ちていた。そんな彼と過ごしていると、零は時折両親のことを思い出した。


 二人は小学五年生、そして小学六年生のクラスも一緒だった。一時はばらばらになった零の心も、破片を少しずつ組み合わせていくようにして、元の形へと戻っていった。

 零と都羽は小学校を卒業し、同じ中学校へと進学した。


 *


 中学二年生のとき、零と都羽は初めて違うクラスになった。

 それでも二人は、よく一緒に遊んだ。


 けれど夏頃から、段々と都羽の様子が可笑おかしくなっていく。

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