雪原-2

 最初に動いたのは零だった。

 不協和音が響き終わった瞬間に、ナイフホルダーからナイフを取り出して、絢人へと切り掛かる。


「……っ!」


 絢人は目を見張ってから、その斬撃ざんげきをかろうじて避けた。逃げなければならないと思う。雪に足を取られながら、絢人は駆け出した。


「逃げるのか? 嶋倉!」


 零は挑発しながら、絢人を追おうとする。

 それを防いだのは文香だった。零の身体に体当たりすると、彼はよろけた。文香は一瞬自身のナイフに手を掛けてから、単純な切り合いでは敵わないだろうと判断し、その動作をやめて絢人の元へと走る。

 絢人と文香が合流し、零は少し離れた場所で二人の姿を忌々いまいましげに見つめた。


「結局二対一か。面倒だな」

「……ごめん」


 絢人の謝罪に、零は口角をつり上げた。


「まあ、『危うい仕掛け』とやらがあるそうだし、別に急いで殺し合いをしなくてもいいだろう。……そういえば、嶋倉。お前に一つ質問をしたい」

「僕に質問?」

「ああ、そうだ。嶋倉、どうしてお前は誰に対しても『優しく』振る舞うんだ?」


 その問いに、絢人は目を見開いた。

 零はさらに、言葉を続ける。


「初日、瀬川と話していたのを聞いた。お前は妹を病気から救いたいんだろう? だとすれば、競争相手となる他の参加者に『優しく』するのは可笑おかしい。何故なら、どうせ蹴落けおとすことになる存在だからだ。お前のそれは優しさではなく、単なる自己満足だと思わないか?」


 絢人は表情を歪める。文香は苛立いらだった様子で、自身の手を握り締めた。


「貴方なんかに、嶋倉くんの何が……」

「黙れ、鶴木。お前には質問していない。俺は嶋倉に尋ねているんだ」


 文香は悔しそうに俯く。


「ごめん、鶴木さん。僕が話すから、大丈夫だよ」

「……ありがとうございます」


 二人のやり取りに、零は嘲るような笑みを零す。


「ほら、お前はまたそうやって『優しく』振る舞う。正直、気味が悪いよ」

「……そうだね。そうかもしれないね」


 絢人は悲しそうに微笑んで、また口を開いた。


「でも僕は、自分の手の届く範囲の人には、幸せでいてほしいんだよ」

「幸せ? こんな状況で、それが叶う訳がないだろう。最後の一人以外は、皆死ぬんだよ」

「そんなこと、痛いくらいわかっているよ」

「だとすれば、冷酷になれよ。いいか? お前は優しいんじゃない、臆病なんだよ!」

「わかっているって言ってるだろ!」


 声を荒げた絢人に、文香はびくりと身を震わせる。零は楽しげに、口元を緩めた。


「ああそうだよ、僕は弱いよ! 糸野さんのことも傷付けられなかったし、今日は一睡もできなかった。本当に、自分に嫌気が差すよ」


 そこまで言って、絢人は首を横に振る。


「……ごめん、質問に答える。ずっと、思っているんだ。この世界に生きている全ての人が、幸せであればいいって。でもそれは難しいから、せめて周りの人には幸せでいてほしいと、そう思って生きてきた。だから僕は、僕なりにではあるけれど、優しく振る舞うんだよ」


 今にも泣き出しそうな顔をして、絢人は語る。


「認識が甘かったんだ。殺し合うということがどれほど辛いことか、わかっていなかった。優しくすればするだけ苦しくなるのも、理解している。でも僕は、人に優しくありたいよ。優しくあることを否定されたくないよ。理想と現実に雁字搦がんじがらめになってさ、もう何だか、」


 すぐに消えてなくなりそうな笑顔を、浮かべた。



「……疲れたよ」



 零がまた、口を開こうとする。

 けれど、彼は何も言わずに、驚いたような表情を浮かべた。

 少しして、零は言う。


「……なるほどな。そういう仕掛けか」


 零の視線の先に何があるかを確認するように、絢人は振り返る。

 そうして、言葉を失った。



 ――雪原に、大きな穴が空いていた。



 正方形の穴だった。そこにあったはずの足場は消え去っている。見下ろしても地面は見えそうにない。一度落ちてしまえば、もはや命は残されないだろう。

 零は辺りをざっと見渡すと、呟いた。


「九×十……九十マスと言ったところか。一マスずつ崩れていく」


 その言葉とほぼ同時に、幾らか遠くで再び足場が崩れる。雪の塊が落ちていく。


「法則性は今のところわからないな」


 零は目を細めながら、呟いた。

 次の瞬間、文香は何かを決意したような表情を浮かべ、絢人の手を掴んだ。驚いたような彼と目を合わせる。


「来てください」


 二人は雪原を走り出した。

 零と幾らか距離を取ったところで、文香は立ち止まる。それから零の方を向いて、挑発するように笑った。


「影谷くん、貴方の負けですよ! 主催者は言っていました、一人の死をもってゲームが終わると。だから二人が纏まっていれば、その足場が崩れることは恐らくない!」


 絢人は目を見張る。

 その仮説が正しいかどうかはわからなかったが、筋は通っているように感じられた。

 でも、それを零に伝えることで、不利になるのではないだろうか?

 絢人の疑問を裏付けるかのように、零が駆け出した。


「口は災いの元、という言葉を知らないのか?」


 右手に持っているナイフに雪のきらめきを映しながら、零はわらう。

 文香はナイフを取り出すと、一際冷えた視線を彼に向けた。

 二人の距離が肉薄していく。


 文香はナイフを零の胸に突き刺そうとする。零は屈んでそれを避けると、彼女のあごを左手で殴り付けた。

 文香は唾を吐き、地面を転がった。そうして、そのまま動かなくなる。彼女が手に持っていたナイフは、雪原の上に落ちた。


「鶴木さん!」


 絢人は駆け寄ろうとするが、零の方が早かった。目を閉じている文香を抱き寄せると、彼女にナイフを突き付ける。


「嶋倉、止まれ。そこから動けば鶴木の命はない」


 そう言われ、絢人はなす術なく立ち止まる。


「さて、動くことを許可する。五歩、後ろに下がれ。それ以外の動作を取り次第、鶴木を殺す」


 絢人は呆然ぼうぜんと呼吸しながら、後ろを見る。足場はあった。言われた通りに、五歩後退した。

 零は満足げに、口の端をつり上げた。

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