衝動-1

 黒色と黄色の対比が美しい揚羽蝶あげはちょうが、公園をっていた。


 千里はゆっくりと、蝶々に近付いた。低い位置で一つ結びにされた茶色の髪が、動物の尾のように淡く揺れ動く。

 彼女はそっと、揚羽蝶に向けて右手を伸ばす。優しげに微笑んだ。


 少しの時を経て、蝶々は千里の指に止まる。

 彼女は左手を、揚羽蝶に近付ける。

 羽をつかみ、右手もまた、もう片側の羽を掴んだ。


 びり。


 蝶々はようやく、ばたばたと羽を動かした。でももう遅かった。


 びり。びり。びり。


 蝶々が壊れていくにつれ、千里の口角は上がっていった。

 やがて千里は、揚羽蝶から手を離す。羽をもがれた蝶々は、もはや何もすることができずに、地面にぐったりと横たわった。


 千里は満足したように、歩き出した。

 また、茶色の髪が揺れた。


 *


 糸野千里が根谷ねや陽毬に初めて救われたのは、中学三年生の春頃だった。


 *


 その日、千里はいつものように猫を殺していた。

 人気のない路地裏ろじうらで、もう動かなくなった小さな体に、彼女は何度もナイフを突き立てた。飛び散る真っ赤な血を見ていると、自身の中に満たされているどろどろとした殺害衝動が、段々と透明になっていくような心地がした。


 透明にしなければならないと、千里は思っていた。

 この世界では人を殺してしまえば、社会から殺されてしまうのだから。


「……どうして、」


 千里はうつろな目をしながら、呟いた。


 ――どうしてわたしは、殺意を抱えて生まれてしまったのだろう?


 何か特別な切っ掛けも、背景も、理由もなかった。それなのに彼女の中には、いつだって誰かを殺したいというくらい欲望が渦巻うずまいていた。怒りはない。でも人間を殺したいと思う。憎しみはない。でも人間を殺したいと思う。悲しみはない。でも人間を殺したいと思う。


 動物で発散するしかなかった。そして、最近はその頻度ひんども増えてきている。

 千里は絶望しながら、確信していた。


 ――わたしはいつか、人間のことを殺してしまうのだろう。


 痛感するたびに、泣きたくなった。

 誰にも相談できずにいた。友人や恋人はいなかったし、家族は温かかったけれど皆「普通」だったから、話すことはできなかった。


「誰か、わたしを救ってよ」


 そうつぶやきながら、千里はまた、猫の死体にナイフを突き刺そうとした。

 そのとき、だった。



「……千里ちゃん?」



 名前を呼ばれて、千里はばっと振り向いた。

 誰? と思う。すぐには思い出せなかった。記憶を何とか手繰たぐり寄せて、そうしてようやく、彼女の苗字みょうじを思い出した。


「……根谷さん」


 彼女――根谷陽毬は、通っている中学校のクラスメイトだった。

 学級委員を務めていて、黒い髪をボブカットにした、可愛らしい少女。


「その、こんなところで、何して……」


 そこまで言って、陽毬ははっと息をんだ。猫の亡骸なきがらと、千里のナイフと、そこから滴る血液に気付いたから。

 千里はゆっくりと立ち上がる。彼女のことを、にらむように見つめた。


 ――見られた……どうしよう。うわさを流されたら、面倒なことになるな……


 そう考えながら、千里はぎゅっとナイフの柄を握る。


 ――そうだ。殺してしまおうか。うん、殺してしまえば、いいんだ……


 千里の呼吸が、徐々に荒くなる。

 陽毬はゆっくりと、千里に歩み寄った。その行動の意味が、千里にはわからない。どうして逃げもせず、近寄ってくるのだろうか?

 陽毬は微笑んで、千里の背中にゆっくりと腕を回した。

 千里は、目を見開いた。


「大丈夫?」


 そうやって、耳元でささやかれる。

 気付けば千里は、右手からぽろっとナイフを落としていた。


「……大丈夫じゃ、ない」


 言葉をこぼすのと同時に、涙があふれてくる。


「そっかあ。大丈夫、大丈夫だからね……」


 陽毬は、千里の背中を優しくさすった。

 千里は嗚咽をらしながら、ふと気付く。

 自分はずっと、こうやって誰かに抱きしめて貰いたかったのだろうと。


 *


 損得など考えずに、千里は陽毬に向けて、自分が抱えている苦しみを吐き出していた。


 人間への殺害衝動があること。それを抑えられず、衝動を動物に向けて発散していること。誰にも相談できなくて、孤独だったこと――


「わたし、変だよね、可笑おかしいよね、」


 泣きながら、千里は言う。にじんだ視界で陽毬を見ると、彼女は真剣な表情を浮かべながら、首を横に振った。


「そんなことない。誰一人として、全く同じ考えの人はいないよ。千里ちゃんみたいな人は珍しいと思うけど、私は変とか可笑しいとか思わないよ!」


 力強く言い切った陽毬に、千里の目からまた大粒の涙が溢れる。


「根谷さんみたいな人こそ、珍しい。この世界は、わたしみたいな奴が生きてちゃ駄目なんだよ。そういう社会なんだよ……」

「私は、千里ちゃんに生きていてほしいよ」


 陽毬の言葉に、千里は目を見張ってから、口角を歪めた。


「何で。わたしと根谷さんは、友達でも何でもないじゃない」

「ええっ、そうなの? ここだけの話、私ね、誰かを友達だと思うハードルがすっごい低いの! 千里ちゃんとは何回か話したことがあるから、友達だと思ってたよー」

「わたし、あなたと話したことあったっけ」

「あるよー! 下駄箱の近くで会ったとき、おはようって言うとおはようって返してくれるじゃない!」

「そりゃ無視なんてしないでしょ」


 千里は涙を流しながら笑ってしまう。変な奴、と思った。それと同時に、陽毬が持っている純粋な輝きが、まぶしくてうらやましくてしょうがなかった。


「ねえ、千里ちゃん。私に何か、できることはないかなあ?」

「え……?」

「千里ちゃんは今、すっごく辛いんだよね。だとしたら、私、貴女の助けになりたい!」


 千里の瞳を真っ直ぐに見つめながら、陽毬は告げた。

 何と答えたらいいかわからなかった。

 けれど気付けば、千里の口は動いていた。


「あなたの、血を見たい」


 その言葉に、陽毬は目を見張ってから、優しく微笑んだ。


「いいよ、千里ちゃん」


 彼女はそう言って、洋服のそでをまくった。白く、綺麗な肌に、千里の欲望が強く波打った。地面に落ちていたナイフを、千里は拾う。刃を、陽毬の手首に近付けた。


「……本当に、いいの?」


 すがるように、尋ねた。


「うん」


 陽毬の目を見て、それから彼女の腕を見て、千里はそっとナイフをすべらせた。

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