残酷-2

 絢人が目を開くと、先程までとは異なる景色が広がっていた。視界いっぱいの緑は目に優しいはずなのに、今となってはむしろ暴力的な色彩に感じられた。絢人は何度かまばたきをしてから、ゆっくりと息を吐く。


 右手で、ナイフのに触れた。そしてそれを、鈍い動作で引き抜いた。銀色の刃が、森林の緑を反射してくらく輝いている。絢人はそのナイフを、うつろな目で見つめた。


 一回目のゲームでも二回目のゲームでも、絢人はナイフを使わなかった。ただ若干の重みを感じながら、共に過ごしただけだった。でも今回のゲームでは、その凶器を人に対して使わなくてはいけない場面が訪れるかもしれない。そう考えるだけで、心がきしむように痛んだ。


 誰のことも傷付けたくなかった。

 傷付くことは苦しいことだと、知っていたから。


 ふと、樹の幹に一つの的が設置されていることに気付いた。絢人はそれに近付いて、少し逡巡しゅんじゅんしてからナイフで壊した。白と黒の破片が、ぱりんという音を立てて地面に散らばる。


 ――こんなことをしても、すずめの涙なのに。


 そう思いながら、絢人は森の中を彷徨さまよい始めた。自分が誰かと出会いたいのか、誰とも出会いたくないのか、もはやわからなかった。


 ――罰だろうか。瀬川くんと弓山さんを殺してしまったことへの、罰……


 落ち葉を踏むと、かさかさという音がする。それが自分への嘲笑ちょうしょうのように聞こえた。絢人はのろのろと歩きながら、時折発見した的を壊して、無秩序むちつじょな呼吸を繰り返す。


 幾らか経った頃、かさり、という音がした。


 自分の足元ではなかった。もっと遠くから聞こえてきた音だった。絢人はばっと顔を上げて、辺りを見回した。そうして、彼女の存在に気付く。


 ナイフを右手にたずさえながら、長い黒髪を歩みと共に揺らしている。



「……鶴木さん」



 名前を呼ぶと、絢人とは幾らか離れた場所で、文香は立ち止まった。


「こんにちは、嶋倉くん。何だかよく会いますね」

「本当に、そうだね」

「まあ、私が貴方のことを探していたからなんですけれど。嶋倉くんは、今回のゲームの趣旨に気付いていますか?」


 その問いに、絢人は少しばかり沈黙してから、言葉を発した。


「……うん。きっと皆、他の誰かを殺そうとすると思う」

「そうですね。考えが一致して良かったです」


 そう言うと、文香は自身のナイフを少し遠くに投げ捨てた。

 絢人は目を見張る。彼女は冷たく微笑んで、荒れた唇を開いた。


「まず信じて頂きたいんですが、私は嶋倉くんを殺す気はありません。貴方と私は協力関係にあるのだから、当然ですよね?」


 文香の黒い瞳に見つめられながら、絢人はゆっくりと頷いた。


「……ありがとう。僕も、君を殺したくない」

「それはよかったです。では、相談をしませんか?」

「相談?」


 聞き返した絢人に、文香は両手の人差し指を立ててみせる。

 彼女の目には、残酷な意思が溶け込んでいた。



「影谷くんと糸野さん、どちらを殺すかの相談です」



 その言葉に、絢人は少しの間言葉を失った。

 それからゆっくりと、首を横に振る。


「……僕は、二人のどちらも殺したくないよ」


 文香はどうしてか、少しだけ微笑んだ。

 それから、絢人の方へ近付いていく。


「嶋倉くんは、死にたくないんですよね?」

「うん」

「そして、私にも死んでほしくないんですよね?」

「そうだよ」

「だとしたら、影谷くんと糸野さん、どちらかには死んで貰わないといけないんですよ?」


 絢人の目の前で、文香は足を止めた。

 彼のことを少しだけ見上げながら、言葉を紡ぐ。


「貴方は、どうしたいんですか?」


 その問い掛けに、絢人は文香から目を逸らしてから、答える。


「……瑠花を、救いたいよ」


 文香は、微かに口角をつり上げた。


「臆病な答えですね。でもとても、貴方らしいです」


 それだけ伝えて、文香は彼に背を向ける。少しの距離を歩いて、地面に落ちているナイフを拾うと、冷えた微笑みをこぼした。


「では、こうしましょう。殺害は私が行うので、貴方は側で見ていてくれればいいです。もし邪魔が入りそうだったら、妨害をお願いしますね。ああ、それと、二人のどちらを殺すかですが……」


 文香はナイフを見つめながら、つぶやくように言った。


「……糸野さんにしましょうか」


 絢人の表情が、歪む。文香はほのかに悲しそうな声音で、言う。


「影谷くんは男性にしては小柄な方ですが、恐らく私の力では敵いません。その点糸野さんは私よりも背が低いですし、非力に思えます。……きっと、殺せます」


 それから彼女は、絢人のことを真っ直ぐに見据えた。


「大丈夫ですよ。殺すのはあくまで私ですから。嶋倉くんは、場違いな罪悪感に悩まされないでくださいね?」


 その言葉は冷たいようでいて温かくて、だから絢人は泣いてしまいそうになった。

 最低だ、と思った。

 手を汚すことを彼女に押し付けている。そうわかっていながらも、自分が人を殺せないということも痛いほど理解していて、絢人は目を伏せた。


「……ごめん、鶴木さん」


 そんな謝罪に、文香は不思議そうに笑った。


「謝らなくていいですよ。貴方は何も悪くないでしょう?」


 そういう言葉をかけてくれる彼女を、尊い人だと思った。

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