いぬ-3

「……あれ、」


 蘭は目をこすった。ぼんやりとした視界に、白く清潔な壁が映った。


 自分の部屋ではなかった。勉強机、椅子、本棚、箪笥たんす、ベッド――そんな生活感のある家具が並んでいる。蘭は、ローテーブルの近くにあるクッションに座っていた。


「あたし、何してたんだっけ」


 蘭はそう呟いた。何か、とても大事なことを忘れている気がした。でも思い出そうとしても、記憶がかすみがかっていてわからない。蘭は体育座りをしながら、困ったような表情を浮かべる。


 とんとん、と扉が叩かれた。


「あ、どうぞ!」


 そう答えると、ゆっくりと扉が開く。


 そこには一人の少年が立っている。シルバーメッシュの入った黒い髪と、長い睫毛まつげが印象的な瞳。着ている制服は、蘭と同じ高校のものだった。


 蘭は安堵あんどしたように、表情を柔らかくした。


「……雅雪まさゆき先輩」


 彼の名前を、呼んだ。


「待たせてごめん、蘭。飲み物を持ってきたよ」


 少年――雅雪はそう言って、持っているお盆に乗った二つのブラッドオレンジジュースを、ローテーブルの上にことりと置いた。赤色と橙色が混ざり合った鮮やかな液体に、幾つかの透明な氷が浮かんでいた。


「ありがとうございます」

「お礼なんていいよ。これ、好きだったよね?」

「うん、大好きです」


 蘭は微笑みながら、ジュースに口を付ける。ひんやりとした甘さが、口の中いっぱいに広がった。彼女は幸福そうに、少しばかり目を細めた。

 蘭の隣に、雅雪は座った。もう一つのグラスを持って、ジュースを飲む。


「美味しいね」

「ええ、すごく」


 蘭は愛おしげに、雅雪の横顔を見つめる。その視線に気付いたように、雅雪が蘭の方を見た。思わず目を逸らした蘭に、雅雪は可笑おかしそうに笑った。


「どうしたの、蘭?」

「別に、何でもないです」

「可愛いね」

「あたし、可愛くなんかないですよ……」

「そう? 俺は可愛いと思うけど」


 蘭の耳が赤くなる。ずるい、と思った。そんなことを言われたら、嬉しくなってしまうじゃないか。ずるい、ずるいよ……


「蘭、こっち見て」


 雅雪の言葉に、蘭はゆっくりと彼の方を向いた。


 二人の唇が、重なった。


 少しして、離れる。


 蘭は恥ずかしそうな顔をしてうつむいた。自身の両手を、困ったように弄ぶ。そんな蘭の姿を、雅雪は優しい目で見ていた。


「嫌だった?」

「嫌じゃないです!」


 すぐに否定した蘭に、雅雪は瞬きを繰り返す。それからふふっと笑って、「そんな急いで言わなくてもいいのに」と言った。耳だけには留まらず、蘭の顔までもが赤くなってゆく。


「もう一度、する?」


 そう尋ねられて、蘭は少しの間逡巡しゅんじゅんしてから、ゆっくりと頷いた。

 ふと彼女は、部屋の壁を見た。


 真っ白だった。その白さに偽りはなかった。けがれのない白だった。


 その事実にどうしようもなく安心している自分がいて、でも理由はわからなくて、それが不思議だった。


「蘭。好きだよ」


 そんな彼の言葉を聞くだけで、蘭は嬉しくてしょうがなかった。

 雅雪と再び唇を合わせながら、ただその幸福に身をゆだねていた。


 *


 いぬは、大きく口を開いた。

 それから数多あまたの牙で、ゆっくりと蘭を食べ始めた。

 眠り姫のような蘭のお腹から、真っ赤な血があふれ始める。


「ああ、おい、おいし、い、おいしい、おいしい、おいしい、おいしい、おいしい」


 いぬは幸せそうに、八つの目をとろんとさせた。

 絢人は何もすることができずに、ただその光景を見つめていた。


 ――弓山でも蘭でも好きなように呼んで。よろしく。

 ――というか皆、命をけてまで叶えたい願いがあるんだ。なんか意外。

 ――あたしも二人に死んでほしくない。生きていてほしいもの。


 蘭が残した言葉の数々が、絢人の脳内をつんざくように反響している。


 頭が痛かった。

 痛くて、たまらなかった。


 見ていられなくなって、絢人は文香の方を見た。


 彼女の表情は、いつもと変わらないように見えた。でも握っている文香の手が、ほのかに震えているのがわかった。絢人は歯をみ締める。目を背けることは正しくないと思って、絢人はまた、段々と死に近付いていく蘭の姿を見つめていた。


「ふ、ふふふ、うふふふふ……ごちそ、ごちそう、ごちそうさま」


 いぬはそう言い残すと、満足したように去ってゆく。口元を蘭の血液で汚しながら、もう彼女には興味などない様子だった。

 蘭の瞳が、ゆっくりと開かれる。

 絢人は文香と手を離して、け出していた。


「弓山さん!」


 蘭はのろのろと、顔だけ絢人の方を見た。彼女の片方の脇腹はほとんどなくなっていて、今も地面に真っ赤な血を流していた。


「……嶋倉くん」


 絢人は蘭の近くで屈んだ。蘭は「何だ、夢か……」と呟きながら、悲しそうに微笑った。


「ごめん。本当に、ごめん……」


 謝罪を繰り返す絢人に、蘭は首を横に振った。


「謝らないで、いいよ。あんたは、何も、悪くないでしょ」

「でも……」

「笑ってよ」


 蘭は淡く口角を上げながら、そう言った。絢人は笑おうとした。でも、その笑顔はすぐに哀情あいじょうにかき消されてしまう。ごめん、とまた口が勝手に呟いている。


「……こんな願い、自分自身に誇れる訳、ないじゃない」


 蘭の言葉に、絢人は目を見張った。


「弓山さんが叶えたい願いは、何だったの……?」


 絢人の質問に、蘭は瞳から一筋の涙を零して、笑った。


「……内緒よ、ばか」


 その言葉を最後に、蘭は事切れる。

 絢人は彼女の左手を両手で握りしめながら、しばらくの間俯いていた。

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