いぬ-2

「……お兄ちゃん?」


 絢人はばっと目を開く。

 彼は、洒落しゃれたカフェの中にいた。静謐せいひつでいて優しげな音楽がかけられた店内は、白と薄茶色を基調とした落ち着いた色合いだった。大きな窓の外には、都会の街並みが広がっている。


「どうしたの? そんなに視線を彷徨さまよわせて」


 その言葉に、絢人はようやく目の前に座っている人物の方を見た。


 瑠花、だった。


 つややかな黒髪と、大きな黒い瞳。チェック柄のワンピースと丸っこいローファーに身を包んでいて、可愛らしい装いをしていた。カップに入ったミルクティーを持ちながら、彼女は不思議そうに微笑んでいる。


「瑠花、どうして、病院は……?」


 絢人の言葉に、瑠花はきょとんとした顔をしてから、可笑おかしそうに笑った。


「お兄ちゃん、どうしちゃったの? 私の病気なら、もう一年も前によくなったじゃない」

「……そうだったっけ」

「そうだよ。お兄ちゃん、泣きながら喜んでたよ? 急に忘れちゃうなんて、変なの」


 くすくすと笑っている瑠花に、絢人はゆっくりと頷いた。


 そうだった。

 瑠花の病気は治ったのだった。


 どうして忘れてしまっていたんだろう、と絢人は思う。近くに置かれていたブラックコーヒーに口を付けると、苦味が口の中に広がった。でもその苦味さえ甘く感じられてしまうような、温かな現実に支配されていた。


「というかお兄ちゃん、私の話、ちゃんと聞いてくれてた?」

「ああ、ごめん、何だったっけ」

「もう、しっかり聞いていてよ、大事な話なんだから。ほら、最近クラスに気になる人がいて……」


 ほおを微かに赤く染めながら、瑠花は言う。そんな妹の様子に、絢人はつい笑ってしまう。


「もう、お兄ちゃんったら、どうして笑うの!」

「いや、違うんだ……嬉しかったんだよ」

「嬉しい……? 何が嬉しかったの?」


 首を傾げた瑠花に、絢人は柔らかな微笑みをこぼしながら、言葉を紡ぐ。


「僕は瑠花から、そういうありふれた日常みたいな話を、ずっと聞きたかったんだと思う。病気だった頃の君は、毎日辛そうで、悲しそうで……見ている僕も、辛くて悲しかった。だから今、すごく嬉しいんだよ」


 言い終えたのとほとんど同時に、絢人の頬に強い痛みが走った。

 呆然としていると、また頬が痛んだ。瑠花は驚いたように、心配そうに、顔を歪めている絢人に向けて手を伸ばす。


 絢人はその手をつかもうとした。

 でも、掴めなかった。


 *


「しっかりしてくださいよ!」


 頬を張られて、痛みが走る。目を開いた絢人の視界には、一人の少女が映っていた。長い黒髪と黒い瞳に、一瞬だけ瑠花と間違えそうになった。


「……鶴木さん」

「ほら、早く立ってください!」


 彼女の言葉は焦りを帯びていて、どうしてだろうと思うと同時に、絢人はようやく気付く。彼と文香の近くには、舌舐したなめずりをしているいぬがいた。少しずつ……でも確かに、いぬは二人に歩み寄っている。


「ご、ごはん、おおお、おいしそ、そうな、ご、ご、ごはん! ど、どち、どっちに、しよう、しようかなあああ」


「う、うわああああああ!」


 絢人は叫び声を上げて、立ち上がった。


「手、貸してください!」


 言われるがままに、絢人は文香の手を取る。荒れてしまった彼女の手は、初めて会話を交わした夜に握手したときと同じで、冷え切っていた。


 文香に導かれるようにして、絢人はけた。自分たちを追ういぬから、できる限り遠ざかるように。肺に酸素が行き渡らなくて、呼吸が苦しかった。それでも走った。


「うううううう、うう、い、いぬ、の、の、ごは、ごはんが、があああ」


 恨めしげないぬの声が、段々と小さくなってゆく。絢人と文香は別の建物の陰になだれ込むと、必死に息を吸い込んだ。


「どこ、どここ、どこにに、にいい、いったの、のか、かなあ、かなあああああ」


 いぬは二人を見失ったようで、足音も次第に遠ざかっていった。絢人は呆然としながら、さっき自分がいた世界のことを思い出していた。


「……嶋倉くん」


 黒い前髪の隙間から汗の粒を覗かせながら、文香が絢人の名前を呼んだ。彼女の目には疑惑が入り混じっていた。


「さっき、どうして眠っていたんですか」

「眠っていた……?」


 繰り返した絢人に、文香は怪訝けげんそうな表情を浮かべる。


「ええ、眠っていました。移動しているときに見つけて、本当に驚きましたよ? 地面に倒れて、目を閉じて……でもその様子だと、自分の意思で眠った訳ではないみたいですね」

「こんな状況で寝る訳がないよ……」


 額に手をやりながら、絢人は言う。文香は考える素振そぶりを見せてから、一つの結論に至ったように目を細めた。



「もしかすると、あのいぬが貴方を眠らせたんじゃないですか?」



 絢人は目を見張る。文香は彼を見つめながら、言葉を続けた。


「嶋倉くん。意識を失う前、貴方は何をしていましたか?」

「……いぬの位置を、観察していた。それで、赤い目をしていることに気付いたんだ。ほら、始まる前はもっと、白とか銀とか、そういう感じの色だったような気がして。そうしていたら、目が合った気がして。まずい、逃げなきゃって思ったら……こうなっていた」


 絢人の説明を、文香は頷きながら聞き終えた。それからそっと、自身の目の辺りに手を添える。


「主催者のヒントと、ご丁寧に色彩まで変化していることを合わせて考えれば、ほぼ間違いないでしょう。。どうやら速く移動できないみたいですし、それを補うための能力なのかもしれませんね」

「ああ、そういうことだったのか。……それと、もしかしたら、夢を見せることができるのかもしれない」

「夢?」


 聞き返した文香に、絢人はどこか泣き出しそうな表情になる。


「妹の、夢を見たんだ。行ったこともないカフェで、飲み物を片手に二人で談笑する――そんな夢だった。命懸いのちがけのゲームをしていることなんて全て忘れて、ただ幸福に浸っていたよ……」


 呟くように言った絢人に、文香はそっと彼の頭に手を乗せた。

 絢人は驚いたように、彼女の方を見た。

 彼女は悲しそうに微笑んでいた。

 手がゆっくりと、左右に動かされる。


「大丈夫ですよ、大丈夫です……」


 でられているのだと、絢人はようやく理解した。その手付きは不器用で、でも壊れやすいものを扱うときのように繊細だった。

 文香は、はっとしたような顔になって、手を引っ込めた。自分の右手をぼんやりとした目で見つめながら、微かに肩を上下させている。



「……おねえちゃん」



 彼女はぽつりと、呟いた。もう随分ずいぶんと触れていなかった言葉を、丁寧ていねいに取り出すかのように。


「お姉ちゃん?」


 聞き返した絢人に、文香は顔を上げた。

 少しの間、彼女は絢人のことを見つめ続けていた。

 それから首を横に振って、「すみません、何でもないです」と口にする。


「それならいいけれど。鶴木さん、お姉さんがいるの?」

「……ええ、いましたよ」


 過去形を使った文香に、絢人は質問を続けようとする。でも、彼女の表情が淡い拒絶に染まっていたから、それ以上聞くことはやめた。

 文香は思い出したように、辺りを見回した。


「今、いぬはどこにいるんでしょう」

「そういえば」


 絢人はそっと耳を澄ませた。そうすると、文香と会話していたときには忘れていたいぬの声が、微かに聞こえてくる。


「お、おなか、なか、すす、すい、すいた、すいたな、すいたなああああ、あああ」


 何度聞いても、歪な音だ。


「余り近くにはいないようですね」


 文香がそう言った、次の瞬間だった。



「みつけた」



 いぬは確かに、そう言った。


「…………!」


 絢人は目を見張って、慌てて周囲を確認する。でも、いぬの姿は見当たらない。意識が鮮明だから、いぬに見つかったのは恐らく自分と文香ではないことを認識する。


 ――じゃあ、誰が?


 そう思うと同時に、背筋に冷たいものが走る。

 動かなくなった宏太郎の姿を、思い出した。


 ――また、誰かが。


 気付けば絢人は走り出していた。


「嶋倉くん!?」


 文香の焦ったような声が聞こえた。僕は何をしているんだろう、と思う。それでも救いたかった。救いたい……? 冷静なもう一人の自分に嘲笑ちょうしょうされる。お前が救いたいのは瑠花だろう、それを望むのならば他の人間を救うことなどできないだろう!


「うるさい、黙ってくれよ……」


 そう自分に言い聞かせながら、絢人はいぬの声がする方へと駆ける。


 ようやく、いぬの姿が見えた。


 眠っているのは――



「……弓山さん、」



 ――蘭。


 足を止めた絢人の手を、文香が握りしめた。

 振り向いた絢人に、文香は唇を引き結びながら、首を横に振った。

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