いぬ-2
「……お兄ちゃん?」
絢人はばっと目を開く。
彼は、
「どうしたの? そんなに視線を
その言葉に、絢人はようやく目の前に座っている人物の方を見た。
瑠花、だった。
「瑠花、どうして、病院は……?」
絢人の言葉に、瑠花はきょとんとした顔をしてから、
「お兄ちゃん、どうしちゃったの? 私の病気なら、もう一年も前によくなったじゃない」
「……そうだったっけ」
「そうだよ。お兄ちゃん、泣きながら喜んでたよ? 急に忘れちゃうなんて、変なの」
くすくすと笑っている瑠花に、絢人はゆっくりと頷いた。
そうだった。
瑠花の病気は治ったのだった。
どうして忘れてしまっていたんだろう、と絢人は思う。近くに置かれていたブラックコーヒーに口を付けると、苦味が口の中に広がった。でもその苦味さえ甘く感じられてしまうような、温かな現実に支配されていた。
「というかお兄ちゃん、私の話、ちゃんと聞いてくれてた?」
「ああ、ごめん、何だったっけ」
「もう、しっかり聞いていてよ、大事な話なんだから。ほら、最近クラスに気になる人がいて……」
「もう、お兄ちゃんったら、どうして笑うの!」
「いや、違うんだ……嬉しかったんだよ」
「嬉しい……? 何が嬉しかったの?」
首を傾げた瑠花に、絢人は柔らかな微笑みを
「僕は瑠花から、そういうありふれた日常みたいな話を、ずっと聞きたかったんだと思う。病気だった頃の君は、毎日辛そうで、悲しそうで……見ている僕も、辛くて悲しかった。だから今、すごく嬉しいんだよ」
言い終えたのと
呆然としていると、また頬が痛んだ。瑠花は驚いたように、心配そうに、顔を歪めている絢人に向けて手を伸ばす。
絢人はその手を
でも、掴めなかった。
*
「しっかりしてくださいよ!」
頬を張られて、痛みが走る。目を開いた絢人の視界には、一人の少女が映っていた。長い黒髪と黒い瞳に、一瞬だけ瑠花と間違えそうになった。
「……鶴木さん」
「ほら、早く立ってください!」
彼女の言葉は焦りを帯びていて、どうしてだろうと思うと同時に、絢人はようやく気付く。彼と文香の近くには、
「ご、ごはん、おおお、おいしそ、そうな、ご、ご、ごはん! ど、どち、どっちに、しよう、しようかなあああ」
「う、うわああああああ!」
絢人は叫び声を上げて、立ち上がった。
「手、貸してください!」
言われるがままに、絢人は文香の手を取る。荒れてしまった彼女の手は、初めて会話を交わした夜に握手したときと同じで、冷え切っていた。
文香に導かれるようにして、絢人は
「うううううう、うう、い、いぬ、の、の、ごは、ごはんが、があああ」
恨めしげないぬの声が、段々と小さくなってゆく。絢人と文香は別の建物の陰になだれ込むと、必死に息を吸い込んだ。
「どこ、どここ、どこにに、にいい、いったの、のか、かなあ、かなあああああ」
いぬは二人を見失ったようで、足音も次第に遠ざかっていった。絢人は呆然としながら、さっき自分がいた世界のことを思い出していた。
「……嶋倉くん」
黒い前髪の隙間から汗の粒を覗かせながら、文香が絢人の名前を呼んだ。彼女の目には疑惑が入り混じっていた。
「さっき、どうして眠っていたんですか」
「眠っていた……?」
繰り返した絢人に、文香は
「ええ、眠っていました。移動しているときに見つけて、本当に驚きましたよ? 地面に倒れて、目を閉じて……でもその様子だと、自分の意思で眠った訳ではないみたいですね」
「こんな状況で寝る訳がないよ……」
額に手をやりながら、絢人は言う。文香は考える
「もしかすると、あのいぬが貴方を眠らせたんじゃないですか?」
絢人は目を見張る。文香は彼を見つめながら、言葉を続けた。
「嶋倉くん。意識を失う前、貴方は何をしていましたか?」
「……いぬの位置を、観察していた。それで、赤い目をしていることに気付いたんだ。ほら、始まる前はもっと、白とか銀とか、そういう感じの色だったような気がして。そうしていたら、目が合った気がして。まずい、逃げなきゃって思ったら……こうなっていた」
絢人の説明を、文香は頷きながら聞き終えた。それからそっと、自身の目の辺りに手を添える。
「主催者のヒントと、ご丁寧に色彩まで変化していることを合わせて考えれば、ほぼ間違いないでしょう。いぬは、目が合った人間のことを眠らせることができる。どうやら速く移動できないみたいですし、それを補うための能力なのかもしれませんね」
「ああ、そういうことだったのか。……それと、もしかしたら、夢を見せることができるのかもしれない」
「夢?」
聞き返した文香に、絢人はどこか泣き出しそうな表情になる。
「妹の、夢を見たんだ。行ったこともないカフェで、飲み物を片手に二人で談笑する――そんな夢だった。
呟くように言った絢人に、文香はそっと彼の頭に手を乗せた。
絢人は驚いたように、彼女の方を見た。
彼女は悲しそうに微笑んでいた。
手がゆっくりと、左右に動かされる。
「大丈夫ですよ、大丈夫です……」
文香は、はっとしたような顔になって、手を引っ込めた。自分の右手をぼんやりとした目で見つめながら、微かに肩を上下させている。
「……おねえちゃん」
彼女はぽつりと、呟いた。もう
「お姉ちゃん?」
聞き返した絢人に、文香は顔を上げた。
少しの間、彼女は絢人のことを見つめ続けていた。
それから首を横に振って、「すみません、何でもないです」と口にする。
「それならいいけれど。鶴木さん、お姉さんがいるの?」
「……ええ、いましたよ」
過去形を使った文香に、絢人は質問を続けようとする。でも、彼女の表情が淡い拒絶に染まっていたから、それ以上聞くことはやめた。
文香は思い出したように、辺りを見回した。
「今、いぬはどこにいるんでしょう」
「そういえば」
絢人はそっと耳を澄ませた。そうすると、文香と会話していたときには忘れていたいぬの声が、微かに聞こえてくる。
「お、おなか、なか、すす、すい、すいた、すいたな、すいたなああああ、あああ」
何度聞いても、歪な音だ。
「余り近くにはいないようですね」
文香がそう言った、次の瞬間だった。
「みつけた」
いぬは確かに、そう言った。
「…………!」
絢人は目を見張って、慌てて周囲を確認する。でも、いぬの姿は見当たらない。意識が鮮明だから、いぬに見つかったのは恐らく自分と文香ではないことを認識する。
――じゃあ、誰が?
そう思うと同時に、背筋に冷たいものが走る。
動かなくなった宏太郎の姿を、思い出した。
――また、誰かが。
気付けば絢人は走り出していた。
「嶋倉くん!?」
文香の焦ったような声が聞こえた。僕は何をしているんだろう、と思う。それでも救いたかった。救いたい……? 冷静なもう一人の自分に
「うるさい、黙ってくれよ……」
そう自分に言い聞かせながら、絢人はいぬの声がする方へと駆ける。
ようやく、いぬの姿が見えた。
眠っているのは――
「……弓山さん、」
――蘭。
足を止めた絢人の手を、文香が握りしめた。
振り向いた絢人に、文香は唇を引き結びながら、首を横に振った。
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