信仰-2

 夏期講習を終えて家に帰った宏太郎は、すぐに違和感に気付く。


 ――家が暗すぎる。


 夜なのだから、父親も母親も弟もいるはずなのに、リビングにも各々おのおのの部屋にも明かりがついていなかった。嫌な予感がして、宏太郎はゆっくりと階段を下る。一つの段を降りるごとに、きし、きしと音を立てている。落ちないように気を付けてくださいね、シラトワさまは一段飛ばしで存在しながら、宏太郎を優しく見守っている。


 地下室には苦い思い出しか残っていない。昔は一週間に一度、ほこりだらけの狭く小さな部屋で、シラトワさまの尊さについて何時間も聞かされた。多分それは洗脳だった。宏太郎は成長していく中で、シラトワさまを信仰しているふりをするようになった。そうしていれば、両親は宏太郎を人間のように扱ってくれた。


 友人の家族の話を聞くたびに、宏太郎は打ちひしがれた。誕生日にホールケーキでお祝いをして貰ったこと。家族で一緒にバラエティ番組を見たこと。休日に動物園に連れて行って貰ったこと。聞いてしまいそうになった、(そこに信仰はないの? そこに信仰は存在しなくてもいいの? そこに信仰が存在せずとも家族であることができるの?)、でもそれを聞いてしまえば何かが壊れてしまうような気がした。だから聞くことはしなかった。


 階段を下り終えた宏太郎は、廊下を歩く。しっかりと階段を降りることができて偉いです、シラトワさまはそうささやいている。宏太郎はそれを無視する。地下室にはすぐに辿り着いた。扉の下から、明かりがほのかにこぼれていた。中からすすり泣くような声が聞こえた。宏太郎は目を見張って、勢いよく扉を開けた。


 ……血の匂いがした。


 出どころは弟の静樹だった。下着姿で椅子にしばり付けられて、身体の色々な箇所にできた浅い切り傷から鮮血をあふれさせている。静樹を囲むように父親と母親が立っていて、彼らの手にはカッターナイフが握られている。


「なっ……何してるの!?」


 宏太郎は静樹に駆け寄った。それから、父親と母親を交互に見た。二人は恐ろしいほどに冷たい表情を浮かべていて、宏太郎はぞくりとした。


「いいか、宏太郎? これは静樹への『教育』だよ」

「きょう、いく……?」


 絶望したような顔で繰り返す宏太郎に、母親が「そうよ」と困ったように微笑む。


「静樹ったら、急に怒りだしたのよ。シラトワさまなんか存在しないよ、目を覚ましてくれ、って。びっくりしちゃった。この子には何も伝わっていなかったのね? すごく悲しくなったわ。だから『教育』していたのよ。うふふふふ」

「全く馬鹿な子どもを持つと困っちゃうよな、あはははは」

「うふふふふふふふふふふふふふふ」

「あはははははははははははははは」


 両親の笑い声を聞きながら、宏太郎は表情を歪めた。ああ、こんな状況なのに、数え切れないほどのシラトワさまが地下室にいる、宏太郎のことを心配している、大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 大丈夫ですか? そうやって心配している……宏太郎にはもはやそれが幻覚なのか現実なのか、わからなかった。


「……静樹」


 宏太郎はただ、弟のおびえ切った眼差しを見つめた。


「少し間違えただけだよね? 大丈夫だよね、シラトワさまは『いる』よね?」


 できるだけ優しい目をしようと思った。オレは父さんや母さんとは違う、そう信じていたかった。静樹は傷だらけの身体で、泣きながら微笑んだ。


「……うん、いる」

「そうだよね。ほら、父さん、母さん、もうこんなことしないでも、大丈夫だから。大丈夫だから。オレたちはきっと、大丈夫だから……」


 自分に言い聞かせるように、宏太郎は口にする。


 ――ああ、神様、もしも貴方が本当に存在しているというのならば。

 ――こんなオレたちを、どうか救ってくれませんか。


 ――ああ、でも貴方は、「シラトワさま」なんですか?

 ――だとしたら本当に……救いようのない、話っすね。


 宏太郎はそんなことを考えながら、汗ばんだ弟の身体をゆっくりと抱きしめた。


 *


 宏太郎は花畑の中に座り込みながら、泣いていた。


 ――結局オレは、オレたち家族を救えなかったね。


 赤色と青色の中で、宏太郎だけが異なる色をしていた。


 ――ごめんなさい、静樹。オレは、キミに……キミだけでいいから、幸せであってほしかった。


 シラトワさまが見えないことだけが、彼を安堵あんどさせた。


 ――ごめんなさい、静樹……



「謝らないで、兄ちゃん」



 宏太郎は、ばっと顔を上げる。

 静樹が、立っていた。


「……何で、静樹が、」


 言い終わらないうちに、静樹は宏太郎のことを抱きしめる。そうされるだけで、宏太郎の目からは大粒の涙が溢れて、止まらない。


「ありがとう、兄ちゃん。おれを、助けてくれようとして」

「……うう、」

「本当に、ありがとう」


 感謝されたことが、嬉しかった。


 これも幻なのかもしれない、と宏太郎は思った。だって自分はあれだけ、シラトワさまの幻影げんえいに悩まされ続けてきたのだから。でも、たとえ静樹が幻だったとしても、今だけは温かな弟の温度に浸っていたいと、薄れてゆく意識の中で考えていた。

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