信仰-1

「いいか、宏太郎? シラトワさまは、偉大いだいな存在なんだ」


 ――しらとわさまって、なあに?


「よく聞いてくれたわね! シラトワさまは、全知全能の神なのよ。この世界をいかなるときも見守ってくれているの。とても優しく、賢く、尊い方なのよ」


 ――へえ、すごい! すごいひとなんだね、しらとわさまって!


「ああ、すごいなんてものじゃない。とてつもなく美しい存在なんだ。だが悲しいことに、世の中の連中はシラトワさまの存在に気付いていない。なげかわしいことだろう?」


 ――うーん、たしかに、かなしいかも……?


「そうよ。でもよかったわね宏太郎あなたはシラトワさまの存在を知ることができるのよ、だって私たちの間に生まれた子どもなんだからよかったわねよかったわねシラトワさまの僥倖ぎょうこうに預かることができてよかったわね、ほら言いなさいシラトワさまありがとうございますって言いなさい、シラトワさまありがとうございます、シラトワさまありがとうございます、シラトワさまありがとうございます!」


 ――しらとわさま、ありがとうございます……?


「そうだ宏太郎もっともっとだもっとシラトワさまに感謝を伝えるんだ、そうしない人間は愚かだから救われないからシラトワさまに愛される価値がないからさあもう一度言いなさい、シラトワさまありがとうございます、シラトワさまありがとうございます、シラトワさまありがとうございます!」


 ――しらとわさま、ありがとうございます……


「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」「シラトワさま、ありがとうございます!」


 小さな狭い部屋で、幼い頃の宏太郎はうつろな目をしながら、両親の言葉を聞き続けていた。


 *


「兄ちゃん。おれたちの親って、変じゃない?」


 暑い夏の日だった。宏太郎はコンビニの側で、ソーダ味のバーアイスをかじっていた。四歳下の弟である静樹しずきは、ぶどう味のバーアイスを右手に持ちながら、困ったような表情を浮かべていた。


「……まあ、そうだろうね」

「やっぱそうだよな。だって父さんも母さんも、口を開けばシラトワさま、シラトワさま。誰だよって感じじゃん? なんか怖いよなあ」


 呆れたように笑う静樹に、宏太郎も微笑みを返した。


 春から中学一年生になった静樹は、良くも悪くも「普通」の少年だった。普通に笑い、普通に泣き、普通に怒り、普通に喜ぶ。あの親に育てられて、どうして静樹がこうまでも正しく育ってしまったのか、宏太郎にはわからなかった。


 静樹はまだ子どもなのかもしれない、と宏太郎は思う。。そう遠くないうちに、彼には多感な時期が訪れるだろう。それを経たあとで静樹がどうなっているかを想像して、宏太郎の背筋を冷たいものが伝った。


 宏太郎は、自分が壊れかけていることに気付いていた。シラトワさまなど存在しないと思っているのに、いつからかふとしたときに真っ白な糸状の何かを見掛けるようになっていた。

 眠りから覚めた朝に、高校に行く道の途中で、お風呂に入っているときに、夕ご飯を食べているときに。

 恐ろしいほどに白いそれは、ぐにゃりとした形状で、小さな無数の黒い目があって、宏太郎のことを監視するように見つめていた。


 幻覚だと自分に言い聞かせた。その度に、幻覚ではありませんよ、と声がする。シラトワさまが語り掛けてくる。うるさいうるさいうるさい。宏太郎はシラトワさまを拒否する。うるさくありませんよ、うるさくありませんよ、うるさくありませんよ。宏太郎が近くにあったものを投げ付けると、そこにはもうシラトワさまはいなくなっている。まるで最初からいなかったかのように。


 静樹の元にもいつか、シラトワさまが訪れてしまうのだろうか? 宏太郎はそう思ってしまい泣き出しそうになる。今も視界の端にシラトワさまがいる、真っ黒な目で宏太郎を見ている、宏太郎は叫び出したくなる。


「……兄ちゃん? 大丈夫?」


 心配そうな声がして、宏太郎は我に返る。いささ呆然ぼうぜんとしながら、静樹の方を見た。そばかすだらけの宏太郎とは異なる、しみのない柔らかな肌が存在していた。シラトワさまはもういなかった。


「ごめん、平気。ちょっとぼうっとしてただけ」

「そうなの? まあ兄ちゃんって確かにそういうとこあるよな。夏期講習、集中して受けろよ」


 静樹は快活に笑って、バーアイスをしゃりっと齧った。そんな弟の姿に、大丈夫だ、大丈夫だよと自分に言い聞かせながら、宏太郎はバーアイスをえぐるように噛んだ。

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