提案-1

 絢人に割り当てられた家には、白い壁と木造の床が印象的な広い部屋があった。部屋の中央部にはローテーブルとクッションが置かれており、大きな窓の近くにはベッドが配置されている。

 壁際に置かれた箪笥たんすには、様々な衣類が用意されていた。多くの食材が入った冷蔵庫の近くにはキッチンが設けられており、料理をすることも可能のようだった。部屋に隣接するように、洗面所、風呂、トイレのあるスペースがあった。


 絢人はベッドの上に寝転びながら、ぼんやりと過ごしていた。カーテンで閉ざされた窓の向こうには、深い夜空が広がっていた。この家には時計がないから、現在の時間はよくわからなかったけれど、体感としてそろそろ眠った方がいい気がした。電気を消すと色々考えてしまいそうだから、明るいままにしておこうと思う。


 そもそも今日は何月何日なのだろう、と考えた。十一月までの出来事で記憶は終わっていたから、十二月一日だろうか。わからないことだらけだった。明日から始まるゲームを生き抜けば妹が助かる、ということさえまだ信じ切れずにいた。


 絢人の意識は、少しずつ霞んでいく。

 あと少し経てば、意識を手放すことができそうな、そんな頃だった。


 ――トン、トン


 そんな音を、絢人は確かに耳にした。彼はびくりと身体を震わせ、それからゆっくりと起き上がる。視界の先にある扉を、絢人は凝視ぎょうしした。


 ――トン、トン


 また、同じ音が響いた。絢人はゆっくりと、浅い呼吸を繰り返す。カーテンに手を伸ばしてちらりと見上げた空は、真っ黒だった。こんな時間に誰が訪れたのだろうか? 何の用で? 何の目的で?


 誰かが自分のことを殺しに来たのではないかという恐ろしい考えが、絢人の頭をよぎる。その思考と同時に、戦慄せんりつに似た感情が絢人の背中をつうと伝った。

 いや、そんなはずはない、と彼は思う。ロゼが言っていたじゃないか。「誰かを殺してもいいのは、ゲームの最中だけ。ゲーム以外の場所で殺した場合は、ルール違反で死ぬことになる」――だからこんな夜に、殺害が行われるはずはない。


 でも。ロゼが「ゲームは明日から」だと言っていたが、実はもう日付は「明日」になっており、既にゲームが開始されている可能性はないだろうか? 自分はその通達を見落としており、他の五人はとっくに動き出しているのではないだろうか?


 ――トン、トン


 暗い思考の海に落ちていこうとする絢人をかすかのように、また扉が叩かれた。考えすぎだ、と絢人は首を横に振る。取り敢えず、誰がやって来たのかを確かめようと思った。扉にはのぞき窓があるはずだから、それを使えば容易に把握はあくすることができるはずだ。絢人は立ち上がって、扉に向かってそっと歩いていく。


 絢人は扉の前に立って、息を吐く。覗き窓は確かに存在していた。自分の心臓のうるさい音を聞きながら、絢人は覗き窓にゆっくりと左目を合わせた。


 暗くぼんやりとした世界の中に映る、黒の長髪。

 身に付けているセーラー服までもが、夜に溶けてしまいそうなほどの黒さ。


 一瞬名前が思い出せなかった。何故なら彼女は、自己紹介においてもほとんど話さず、そのあとも誰かと関わろうとする素振りを見せなかったから。


 ――鶴木文香。


 絢人は彼女の名前を、記憶の中から丁寧ていねいに取り出すかのように思い出した。それと同時に、どうして文香がこんな夜中に自分の元を訪れたのかがわからず、微かに混乱する。扉を開ける気になれなくて、覗き窓から左目を離しながら、絢人は口を開いた。


「……鶴木さん、だよね? 僕に何の用?」


 扉の向こうにも聞こえるような大きな声で、絢人は問い掛ける。返事を聞くために、耳をそばだてた。


「……開けてください」


 氷を想わせる温度の低い声が、扉越しに聞こえた。絢人は少しの間逡巡しゅんじゅんしてから、ゆっくりと首を横に振った。


「何の用かを教えてほしい。正直に言うと、ここで扉を開けるのが怖いんだ」

「何故ですか?」

「本当に悪いんだけれど、こんな状況だからかな、人を上手く信用できていないんだ。ごめんね、それは決して鶴木さんだからという訳ではない。皆に対して、疑心暗鬼になってしまっている自分がいるんだ」

「そうなんですね。……でも私の用件は、ここでは伝えられません。他の誰かに聞かれたくないので」


 他の誰かに聞かれたくない用件? 絢人は困ったように眉を顰める。どうしたものかと考えていると、扉の向こうから再び声がした。


「つまり嶋倉くんは、私が貴方に危害を加えるのではないかと心配しているんですね?」

「……そう。申し訳ないんだけれど」

「まだゲームは始まっていないのに?」


 彼女の声音は嘘をついているようには聞こえなかった。絢人は目を伏せながら、それでも扉を開くことができずにいる。


「それじゃあ、こうしましょう。一分経ってから、覗き窓をまた覗いてください」

「……一分?」

「ええ。少し待っていてくださいね」


 その言葉を最後に、静寂が訪れた。彼女の言葉の真意はわからなかったけれど、取り敢えず数字を六十まで数えてみることにする。普段は意識せずに過ごしている短い時間も、緊張しながら数えることによって、随分ずいぶんと長く感じられた。


 ――五十八、五十九、六十。


 その数字を心の中で言い終えて、絢人は彼女に言われた通り、覗き窓へと再び左目を近付けた。

 そこには文香の姿がある。何かが異なっている気がして、目を凝らした。


 下着姿、だった。


 地面に着ていたはずの黒いセーラー服を落として、白色のブラジャーとショーツに身を包みながら、文香はじっと絢人の方を見つめている。絢人はばっと扉から目を離して、それから叫ぶように言う。


「何で……何で、脱いでるの!」

「……? こうすれば、凶器を持っていないことがわかるでしょう?」


 さも当然だというように、文香は口にする。そういう意図かと絢人は理解し、それから頭を抱えた。

 でも、こうまでして話したいこととは、一体何だろう?


 絢人は疑問に思う。それと同時に、夜という冷え込む時間に一人の少女を下着姿で待たせていることへの罪悪感が沸々ふつふつと沸き上がり、気付けば鍵を開けていた。


 開いた扉の先には、文香がいた。

 冷えた空気が絢人の指先に伝わる。寒いはずなのに文香は全く顔色を変えず、ただ絢人のことを見つめ続けていた。真っ黒な瞳には、どこか空洞のような深淵しんえんさがあった。


「……取り敢えず入って、それとすぐに服を着て」

「わかりました」


 文香は脱いだ制服を片手で拾い上げながら、絢人の家へと足を踏み入れる。

 彼女の病的なまでに白い肌を踏み荒らすように、桃色の傷跡や青色のあざが存在していることに、絢人はすぐに気付いた。

 絢人は心配そうな表情を浮かべて、文香の顔に視線を移した。物憂ものうげな顔には少しの傷もないから、それが何だかアンバランスに感じられた。

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