第二十八話
いっぱい泣いて、泣いて。私は家に帰った。良き人のいない、がらんとした部屋。
「本当に、いないんですね」
なんど呟いたかわからない言葉を、またつぶやく。
どれだけ時間が経っても、忘れることなんてできなかった。
時間が解決してくれると思っていた。時間が過ぎれば、次第に薄れていって、前みたいな生活に戻れると思っていた。
でも、全然薄くなんてならない。濃くはなっていない。それだけが、救いのような、苦しみのような。そんな揺蕩う波の中を私は漂っている。
「良き人よ。私はこれから、生きていけるんでしょうか」
「大丈夫。思春様だもん」
どこかから声がきこえた、気がした。
「良き人はそればかり。私だって人の子です。淋しいって気持ちくらい、持ち合わせていますよ。それはもう、胸が張り裂けそうなほどに」
けれど、生きていくしかない。生きていくしかないんだ。
良き人のいない世界を、良き人のいない世界で。良き人の分も。
「来週末、村山先生に診察してもらおう。わかってる、自分でもだいぶ参ってるって」
ああ、きっと村山先生に会ったら、昔話に花が咲いて、また泣いてしまうんだろうな。
「でも、それでよいのでしょう?良き人よ」
「うん。私のことで泣いてくれるのは、実は嬉しかったりする。でも、それで思春様の人生が不幸になるなら、それはちょっと、いやだなぁ」
「わかっています。良き人のことなら、なんでも、ね」
すっと立ち上がって、伸びをする。グーンと伸ばした背骨が少し痛んだ。気づかないうちに、ずっと猫背だったようだ。
「天国から見ていてください、良き人よ。あなたの分も幸せに生きます」
「そんな気負わなくても。思春様の分幸せになってくれたら、私は万々歳」
「いいえ、私がそう決めたんです。良き人の分も幸せになる、と」
「頑固だなぁ。そういうとこ、好きだよ」
「ありがとうございます」
さあ、生きねば。生きていかねば。土産話をたくさん作って、良き人のいる天国に行こう。急ぐことはない。また、良き人と必ず会えるんだから。
「急ぐことなんて、ないんだ」
手首の傷をとっさに隠す。これ以来、村山先生にお世話になりっぱなしだ。
夫婦そろってお世話になるのは、なんとも恥ずかしい。
「ま、おあいこだよ。天国でこってりしぼるから、そのつもりでいて」
そんな声に、くすっと笑う。久しぶりに笑った気がする。大丈夫。私はまだ、生きていける。
「見ていてください。良き人よ」
「うん、見てるから、思春様」
二階から降りると、次元が待っていた。最近は次元と夕飯を取ることが多い。もっとも、危なっかしくて見てられなかった次元が、世話をしてくれているだけなのだが。
「いっぱい食え。今は、それが一番だ」
次元がそういう。
「ありがとう」
「なんだ、今日はやけに素直じゃねぇか。いつもは無言なのによ」
「今まで迷惑かけて、すまなかった」
頭を下げる。
「なんだぁ?今日が人類最期の日か?思春に頭下げられるなんて、天地がひっくり返ってもないと思ってたぜ」
そんな言葉をよそに、私はがつがつと白飯を食べ始める。
「……、ああ、それでいいんだ」
ぽつりと次元がいう。
「こんど宗近と滝女郎と麻美も呼んで、飯を食いに行こう。いいか?」
「ああ、大丈夫だ。なにからなにまで、すまない」
また私は泣いている。
「っけ、泣く元気があるなら、こんなに心配するんじゃなかったぜ」
「すまない。すまない……」
次元がタバコに火をつける。
「生きろよ、思春。それがなによりだ。死のうなんて、思っちゃぁいけない」
「ああ、その通り。その通りだよ、次元」
「よし。それがわかってるならとりあえず飯だ。いっぱい食え。いっぱい、な」
「ああ、ああ……」
泣きながら、私はご飯を食べる。これから先、たぶんいっぱい苦労が待ってる。主に、良き人がいない故に起こる苦労が。それも少しずつ乗り越えていこう。乗り越えていかなければ。ああ、こんな義務的なのはよくない気もする。けれど、乗り越えていかなければならないんだ。良き人をどれくらい愛しているかを証明するには。良き人をどれくらい愛しているか証明したいから。
今日を精いっぱい生きる。それができなくて、愛の証明もなにもない。
「良き人よ。もう少しお待ちください。いい土産話が持っていけるよう、精一杯生きてゆきますから」
いっぱい食べたせいだろうか、急に眠くなってきた。
今日は寝よう。また、良き人を夢の中で探そう。最近は、よく会いに来てくれている。心配だったのだろうか。心配だったのだろう。
「この前はいたく叱られました。今後はこういうことのないようにしなくては」
「ホントだよ。でも、キスしてくれたらなんでも許します」
「良き人のそういうところ、本当に大好きです」
明かりを消す。布団に入る。
「良き人よ、愛しています。本当に、心の底から」
甘い睡魔が私を襲う。きっとこれは良き人のくちづけだ。私は毎日、良き人のくちづけを受けて、眠りについているのかもしれない。
生きる勇気を授けるように。
もしそうだとしたら、明日も明後日もその先も、私の人生が輝きを失うことはない。
「ああ、人生は、美しい」
私の頭の中の家族2 櫻春亭梅朝 @yumi23
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