第6話 長い長い夜、銃声と咆哮、そして再会。
「――良かった、まだ此所に居た・・・・・・」
夜。夕食の準備をしていた所に、息を切らせてディナはキャンプへ転がり込んできた。
嬉しかった。自分でも頬が緩むのが分かる。しかし彼女の表情は蒼白で、とても一日ぶりの再開を喜ぶ顔ではない。背負っていた筈の背嚢はなく、例の四角い箱を抱えている。所々に傷があり、のっぴきならない事態であることは明白であった。
「見付けたんだけれどね、ちょっとしくじった」
困ったような顔で彼女は笑うと、ポケットから青く小さなプラスチック片を取り出した。
「これが、カートリッジ?」
「うん、やっと見付けた。問題だったのは、見付けた場所がアイツの巣だった事かな」
「アイツ?」
問い掛けた刹那、辺りに野太い獣の声が響いた。
――ババババって響いてからグオーってなって・・・・・・
この声の事か、それは。僕は初めてこの街に来た時の事を思い出した。散乱していた屍体。とてもじゃないがアレは、銃撃戦だけで死んだようには思えなかった。
喰われたのだ、この獣に。三日三晩銃撃が鳴り止まなかったのも、人間同士で殺し合っただけではないのだろう。生存競争。屍体の状態からすると、勝ったのは獣の方だったのだ。
「多分、わたしの臭いで追跡されてる。早く逃げないと拙い」
切羽詰まったディナに僕は無言で頷くと、急いでナイフを革鞘へ仕舞う。夜道を走るための松明を作ろうと思ったが、そんな悠長な時間はなさそうだ。僕は勿体ないと思いながらもハンガーに掛かった鍋を下ろして中身をぶちまけ、そこへ赤々と燃える薪をありったけ突っ込んだ。
「行こう」
油の入った瓶を懐にしまってから短くディナに告げると、鍋を掴んでキャンプを後にする。
「・・・・・・ごめん」
僕の後を追いながら、掠れた声でディナは切り出した。
「巻き込むつもり、本当はなかったんだ。けれど、キャンプの方角に明かりが見えてね、気が付いたら足がそっちに向いちゃった。本当にごめん」
「気にするな、そんな事」
鍋を松明代わりに、僕は言う。炎が鍋の中でちらちら燃えているだけで、夜道を照らしてくれる程の光源はない。
「そんな事より、僕も会いたかった」
「へ?」
「あ――――」
言うこと、間違えた。
「そんな事より、今は獣から逃げる事が先決だ」
「何か、会いたかったって聞こえたけど」
「獣の種類、大きさを教えてくれ」
「いや、だから会いたかったって・・・・・・」
完全無視。
僕はそんな事を言った覚えはないし、思ったこともない。そういう体で取り繕う。このような緊急事態。聞き間違えなんて、よくある事なのだ。
「とにかく明かりがいるな・・・・・・こんな鍋じゃなくて」
鍋に薪を突っ込んでも、松明の代わりにはならない。何処かで松明を作らなければ暗闇の中を僕らは彷徨う事になる。獣は臭いで僕らを追えるが、僕らにそんな力はない。非力なんだ、人間は。文明を喪って、余計に弱くなった。その事実を夜はまざまざと暴き出す。
一昨日の夜、ディナは僕に教えてくれた。この街がまだ街として機能していた頃、夜も昼のように明るかったと。今では星と月しか照らしてくれないこの薄暗い道路でさえ、先の先まで見通す事が出来たというのだ。
僕は鍋を置いて、道端に転がる棒きれと布を拾う。棒きれの尖端に布を巻き付けて油を染み込ませ、鍋の中にそれを突っ込んだ。なかなか火が点かない。焦る。遠くで聞こえていた唸り声が近付いてくるのが分かる。顔が強張る。
「クソッ――――」
唸り声以外、恐ろしいまでに静かな夜だった。隣でディナが喉を鳴らす音が聞こえるぐらいに。そして彼女の心音も。その鼓動は小刻みで早く、釣られて僕の心臓も跳ね上がった。
「よし、点いた・・・・・・!」
松明を掲げ、僕は安堵した。獣は炎を怖がる。赤々と燃える松明を振れば、追い払う事が出来る筈だ。
「無理だよ」
がむしゃらに松明を振り回す僕の背中で、彼女の声がした。
「アイツ、火なんて怖がらない。学習しているんだ、きっと。炎は怖いけれど、それを持った人間を殺してしまえば怖くなくなる事を」
「学習? 犬や猫か、獣は」
野生と化した犬猫は、かなりヤバい。狡猾で陰惨。自分よりも脆弱だと感じた存在に、連中は容赦なく牙を立てる。弱肉強食。弱いモノは喰われ、強いモノは生きるという自然の摂理。何十年にも渡り、適者生存を繰り返した犬や猫達は、現代に於いて僕ら人間の脅威となっていた。
「犬や猫ならまだマシ。一匹だったら、余裕だから」
「じゃあ、一体――――」
獣の唸り声が、響く。
反射的に松明を
「げ――――――――」
最悪だ、コレは。
犬や猫よりも狡猾で、知能もずっと高い。体も大きく、身体能力は人間以上。張り巡らせた罠は容易く回避し、拳銃程度の弾なら致命傷を与える事も出来ない。
昔、住んでいた集落がコイツに襲われた事がある。結果は最悪。討伐に向かった大人の半数が、大怪我をしたり最悪死亡した。
「アイツが、獣」
眼前の野豚はあの時より一廻り小さかったが、現状脅威には変わりない。
「逃げなきゃ・・・・・・突進されたら、牙で腹を突かれて死ぬぞ」
「それは大丈夫」
言うと、ディナは様子を伺う野豚を指差した。
松明に照らされた野豚の体からは、じくじくと鮮血が滴っている。
「多分、この間の戦闘で向こうも重傷を負ったんだ。傷も完全に塞がっていないようだし、突進できるだけの体力はもうないよ」
でも、と続けるディナの視線を追う。上下に生えた不揃いな牙が、嫌な音を立てて不気味に研がれていた。
「近付かれたら、アレで一突き。さっきは危なかった。
そう笑うディナの服が少し血で滲んでいた。
痛いんだろうな、きっと。でもそんな事を気にする余裕なんかない。
「アイツ、こっちをじっと見ている。多分、武器が何か確認しているんだ」
「銃・・・・・・じゃ、無理だろうな。ライフルとかスラッグじゃないと、殺しきれずに怒りを買う」
野豚は瀕死だ。ディナを追い回して血も沢山失っている。朝まで逃げ回れば、向こうが勝手に力尽きてくれるだろう。だが、僕はともかく彼女にその体力はない。彼女が何処に居たかは知らないが、あの野豚からずっと逃げ回っていたのは事実だ。傷だって手当てしなければ、破傷風の毒が体中に回ってしまうかもしれない。
「あの傷から考えて至近距離で命中させれば、多分口径が小さな9パラでも何とか殺せる。問題は、どうやってあっちに近付くかなんだけれど――」
「それなら、方法がある」
野豚に視線を向けたまま、ディナは指を差す。そこでは乗り捨てられたまま朽ちた長細い車があった。
確かバスっていったか。電車みたいだけれど、レールがなくても走れる。あれで体当たりすれば、野豚だって一溜まりもないだろう。けれどもう、動かない。
そんなバスで一体何をする気なんだ、彼女は。
「あのバス、見える? まずは、あそこに逃げ込む」
「あんな所に? ジリ貧だ。逃げ込んだ先で、袋小路になる」
「違うよ、アレを盾にするんだ」
ごくり、とディナは喉を鳴らした。
「わたし達が逃げ込んだら、アイツは必ずバスまで追ってくる。あの大きさじゃ中には入れないから、バスを壊す為に体を車体に叩き付ける。ね? その時に銃を撃てば、至近距離で撃てるでしょ?」
「とんでもない事、思い付いたな・・・・・・」
「うん、わたしもそう思う。だから、ごめん。でもそうしないと、アイツにわたし達は絶対殺される」
そうだ、迷っている暇はない。
僕達は、生き残らなければいけないのだ。
――何の為に?
分からない。けれど、僕はともかく彼女だけは、何としてでも助けたかった。それも、何故か分からないけれど。
「合図、くれ。松明持ってるし、僕が囮になる」
野豚は鼻息を荒くし、蹄で地面を蹴る。牙は一層鋭くなり、狂気に満ちた双眼が僕らを睨み付けていた。
「分かった・・・・・・行くよッ!!」
ディナの言葉の途端、松明を野豚へ向けて放り投げる。僕らがバスへ駆け出すと同時、野豚は僕らへ向けて突っ込んできた。間一髪バスに乗り込むと、車体が大きく揺れた。
「今ッ!!」
「分かった!!」
ホルスターを引き抜き、僕は野豚へ向けて引き金を引く。吹き出る血潮で命中が分かる。全弾命中。しかし、野豚は弱るだけで息絶えることはなかった。
「ちょっと・・・・・・拙い、バスが――」
揺れる車体から、嫌な音が響く。このバスだって、放置されてから数十年が経っている。雨ざらしの車体は思った以上に脆く、度重なる野豚の攻撃に耐えきれなくなっていたのだ。
「っ――――――――」
このままだと野豚に襲われる前に、壊れた車体の下敷きになる。僕は弾を切らせてホールドオープンした拳銃を放り投げ、意を決して革鞘からナイフを抜き放った。
「シタル、何を・・・・・・」
「何って、決まっているだろう?」
ナイフを握ったまま、ガラスが割れた窓に足を掛けて僕は笑う。
「狩りだよ。やっぱり僕、野蛮な方が性に合っているみたいだ」
僕は逆手にナイフを構え、狂ったように己の体を叩き付ける野豚へ飛び掛かる。首筋にナイフを深く深く突き刺し、野豚の体を蹴って地面へ着地した。
野豚は剣呑な瞳で、僕を見る。動脈を狙った筈なのに、まだ生きている。きっとコイツも必死で生きているのだろう。僕みたいにふらふら彷徨っている奴に襲われるなんて、何て運の悪い野豚だろうか。
野豚はボタボタと血を吐き出し、最後の力を振り絞る。狙いを僕に定め、牙の切っ先をこちらへ向けた。
「そんな目で、僕を見るな。こんな僕だって、必死なんだよ」
もう手元に武器はない。それに至近距離だ。間違いなく僕は死ぬだろう。けれども彼女は守れた。最高とは言わないまでも、まあ悔いのない死に方だろう。誰かを守って死ぬなんて、彼女が教えてくれた昔の物語みたいで格好いいじゃないか。
「やれよ、豚」
刹那、野豚の叫び声と重なるように銃声が響いた。思わず、振り返る。そこには僕の銃を握ったディナの姿。
「何で・・・・・・弾、全部使った筈――」
「焚き付けに使えるかと思って、屍体から貰っておいたのが役に立ったみたい」
ディナの言葉が終わると同時、野豚の体がぐらりと揺らぎ地面に倒れ伏した。そのまま微動だにしない。死んだふりかと思って、何個も小石を投げてみるが、反応はない。僕は恐る恐る近付き、野豚の首筋に刺さったナイフを引き抜くと、どっぷりと鮮血が噴き出した。
死んでいる。
どうやら僕らは、生き残る事が出来たらしい。
「ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして」
窓から身を乗り出し、銃を僕に返しながらディナは笑う。
「それと、わたしもシタルに会いたかったよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
月下に照らされた彼女のその笑顔が眩しくて、僕は思わず目を逸らした。
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