水無月さんは書きたがらない。



「じゃ、頑張るのよ2人とも。ただ、あまり遅くならない様にね」


 釜谷先生がそう言ってから美術室の扉を閉める。僕はそれを見送ってから、準備室から持ってきた画材に視線を向けた。


 まぁ、画材と言っても絵の具や筆記用具、それと描き掛けというか、描いては何度も消したりしていた未完成の自画像といったところかな。


 まるで僕の未来を暗示しているかの様に、真っ白で見通しがつかない。そんな自画像と呼んでいいのか怪しいものを見つつ、僕は思わずため息を吐いてしまう。


 これを完成させるまでの期限は数日しかない。その間に完成させないといけないんだけど……本当に出来るのだろうか。


 とりあえずは完成させる努力から始めてみよう。僕はそう決心して、自分の顔を見る為の小さな鏡を出した後、中途半端に真っ白な紙に向き直った。


「……うん。やっぱり、こう……描く気が湧いてこない……」


 しかし、向き直った直後に僕は手を止めて、視線を落としてしまう。描こうという意思を持っているにも関わらず、僕の手は何も動いてくれないのだ。


「はぁ……嫌だなぁ」


 僕はもう一度ため息を吐く。そして鏡に映る自分の顔を見れば、もっと描く気が失せてくる。これが僕が課題を終わらせられなかった原因でもあった。


 言ってしまえば、自分の顔に自信が持てないのだ。なんの変哲も無い平凡な顔。普通オブ普通な特徴が見当たらない顔。そんな自分の顔を描こうとすると、嫌気が勝ってしまう。


 描く対象が別の誰かなら問題がないのは、ただ単に人の顔だから嫌気というものを感じないから。しかし、それが自分自身となると話は別だ。本当に嫌になってくる。


「でも、描かない事には終われないしなぁ……」


 自分の顔を描くのは嫌だけど、このままずっと課題に悩まされ続けるのはもっと嫌だ。そんな気持ちでとにかく輪郭だけでも手を付けようと、鉛筆を持って紙に当てる。


 その時にふと、視線を感じて僕はそちらの方に顔を向けてみた。すると、そこには水無月さんが僕の事をジッと見ていた。足を組んで、頬杖なんかを付いて、僕が描く様子を眺めていたのだ。


「な、なんです……じゃなくて、なにかな……?」


 僕は思わずそう尋ねてしまう。しかし、彼女は僕を見たまま、何も答えてくれない。


「あ、あの……」


「……別に」


 僕が再び声を掛けようとすると、彼女はそう言って僕から視線を逸らした。そしてそのままそっぽを向く。な、なんなんだ……一体。


 良く分からないけど、とりあえず僕は手を動かし始める。そして鉛筆が紙と擦れる音を聞きながら、ゆっくりと線を描き始めた。


 それからは描いては消し、描いて消しの作業の繰り返しだ。納得がいくものが出来上がらないから、そうした事を何度もしてしまう。


 どれだけ時間を掛けようが、良いと思う瞬間は訪れない。何度目か分からない消しゴムで消す作業をした後、僕は大きく伸びをしてから、僕は持っていた消しゴムを机の上に置いた。


「えっと……水無月さん?」


「んだよ。何か用でもあるのか?」


「いや、用というか、なんていうか……」


「……うだうだ言ってないで、はっきり言えや」


「じゃあ、あの……水無月さんは、描かないでいいの?」


 僕はイライラしていそうな彼女に向けて、そんな言葉を投げ掛けた。曲がりなりにも描こうとしている僕と違って、水無月さんは全く描こうとする気がみられなかった。


 具体的に言うと、足を組んだままでペン回しばかりしているのが、現状の水無月さんの行動だ。しかも、紙なんか見ないで僕ばかり見ているのだ。これでは気にならない方がおかしいぐらいだ。


「いいんだよ、これで」


「そ、そうなの?」


「そうだよ。てか、あたしの進捗具合はお前には関係ないんだから、さっさと終わらせやがれ」


「いや、そうしたいのは山々なんだけど……」


「あ?」


「実は、その……こんな感じでして」


 僕は消し跡の目立つ紙を水無月さんに見せる。進捗率で言えば1%か2%程度、四捨五入すれば0%な具合の仕上がりだ。


 そんな僕の酷い有様を見てか、彼女は怪訝な表情を浮かべてみせた。それと同時にペン回ししていた手が止まる。


「なにお前、ふざけてんの? ほとんど白紙じゃねえか」


「まぁ、そうなんだけど……でも、それを言ったら、水無月さんも一緒でしょ?」


「だから、あたしの事はいいんだって言ってるだろ。あたしはこんな課題、すぐに終わらせられるから、大丈夫なんだっての」


「……? じゃあ、なんで終わらせてないの?」


「げっ! そ、それは……」


 僕がそう口にすると、水無月さんは少し気まずそうに顔を歪めて、視線を逸らしてしまった。


「べ、別に……いいじゃねえかよ」


「え?」


「あたしがいつ描こうが、それはあたしの勝手だ! お前が指図すんな!」


「で、でも……」


「あぁ! もう! そんな目で見るんじゃねえ!」


 僕が何か言いたげな視線を向けると、水無月さんは苛立った様子で立ち上がり、僕の方を見てから右手で僕を指差してきた。


「とにかく! お前は自分の作品に集中しろ! あたしの事は構うんじゃねえ! 分かったな!?」


「は、はい!」


 水無月さんの勢いに負けて、僕は思わず頷いてしまった。


「ふん!」


 すると、彼女はドカッと椅子に座って足を組み始めた。それから大きくため息を吐いたかと思ったら、またペン回しを再開し出したのだった。な、なんなんだ、この人は……。


 正直なところ、如月さん以上に水無月さんの事は良く分からない。彼女は一体、何を考えているのだろう?


 僕はそんな疑問を抱きながら、彼女から視線を逸らす。それからほぼ白紙の紙に視線を向け、再び手を動かし始めるのだった。


 そして再開してから数十分が経過したところで、僕はようやく納得のいく様な輪郭を描き上げる事が出来た。僕らしい普通のラインが描けたと思う。


 いや、ここまで来るのに長かった……でも、進捗具合でいったら、まだまだなんだ、うん。序の口もいいところだよ。


 後はここから目と鼻と口、それから耳と髪の毛やら眉毛やら描かないと自画像にならない。ここからが本当の闘いってやつだ。


 ……でも、なんかここまできたら、もうゴールしてもいいよねって感じがしてしまうのは、僕だけだろうか。いや、白紙の状態からここまで描き上げたんだから、十分に偉いでしょ。


 そんな満足感を胸に、僕はこれからどう描いていくのかを考えていく。もういっその事、福笑いみたいな感じでもいいから、そんな風に描き上げてしまうのも手かもしれない。


 そう思って取り掛かろうとした……けれど、直前になって僕は手を止めた。ふざけた方が描きやすいとは思ったけど、採点するのは釜谷先生なのだから、きっと雷が落ちるだろう。


 危ない、危ないと僕は首を横に振って、それから休憩を挟もうと鉛筆を置いた。そして腕をぐっと伸ばして、固まった体を解す。


 その間にチラッと水無月さんに視線を向けてみる。すると、彼女は今度は欠伸をしながらスマホをいじっていた。本当に何をしにきたんだろうか。


「……なんだ、書けたのか?」


 と、僕が見過ぎていたからなのか、僕の視線に反応をして水無月さんの方から声を掛けてきた。


 なので、僕は輪郭だけ描いた絵を彼女に見せると、水無月さんはそれをまじまじと見始めた。そして、少しして彼女は大きく溜め息を吐いたのだった。


「はっ、まだまだじゃねえか」


「まぁ、そうだけど……」


「……ったく」


 彼女はそう呟いた後、スマホをしまってから空いた手で鉛筆を手に取った。またペン回しでも始めるのか……と思ったけど、水無月さんはその鉛筆の先を紙に当てると、ゆっくりと線を描き始めた。


 僕みたいにたどたどしい感じの筆跡じゃなくて、すらすらと迷いなく線を描いていく。その様を僕はただ黙って見つめていた。


「まぁ、こんなもんか」


 そしてそう言ってから水無月さんは描き終えた絵を僕に見せた。そこには彼女の顔の輪郭を正確に捉えた線が描かれていた。


「え? 凄い……」


 僕の絵とは比べ物にならないほど綺麗な線が描かれているのを見て、その出来栄えに僕は思わず感嘆の声を上げてしまった。


 そんな僕を見て、彼女は少し得意げな表情を浮かべていた。


「これぐらい、普通だ普通」


「いや、僕と比べたら凄いよ。輪郭だけでも、大違いだし……」


「そ、そうかよ」


 僕がそう言うと、水無月さんはぶっきらぼうにそう言いながら、少し照れ臭そうに顔を背けた。


「つうか、早く描き上げちまえ。これじゃあいつまで経っても終わらねえぞ」


 彼女はそれだけ言うと、またペンを置いてスマホをいじり出してしまった。こんなに早く描き上げたというのに、どうして完成させようとしないのだろうか。


 水無月さんがなにを考えているのか、それが本当に分からないけども……考えたところで僕が分かる訳がないので、とりあえず考えるのは止めておこう。


 そんな事よりも、僕は僕の絵を完成させる方が先決だ。なので、僕は輪郭の次のステップに踏み出す為、また鉛筆を手に取ったのだった。



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