出て行った彼女と残り続けた僕、時々、般若




 ******




「……ふぅ」


 屋上で蓮くんと別れた後、私は階段を下りてすぐの踊り場のところに座り込んだ。後ろから蓮くんが来るかもしれなかったけれども、そうした考えを捨ててまで座る事を優先した。


 そうした理由は簡潔だった。ただただ疲れたから。時間にしたら数分にしかならない会話だったけれども、私にしたら十分過ぎるほどの疲労感に襲われていたからだ。


「はぁ……」


 疲れがこもった溜め息が出る。それから私は持っていた本を胸に抱いて目を瞑った。


「……」


 屋上の空間には無かった下の階から聞こえてくる音や声を耳にしつつ、私は先程までの会話を思い返していた。


「ちゃんと言えた……かな」


 話しを切り出すまでに大分時間が掛かってしまったけれども、やっと言えた……と思う。


『今までは私、(蓮くんの事を考えずに)とても自分勝手だったから』


『だから、もう……(私が頑張るから)蓮くんは私の彼氏役はやらなくていい』


『自分の事は、自分で何とかするから。(頑張る私を見ていて欲しい)』


『……じゃあ、(これからも)よろしくね』


 上手く出来たかは分からない。けど、言いたい事は伝えたのだから、後はそれを私が実行するだけ。それが出来れば、私と蓮くんは対等の関係になれる……のかな。


「対等な、関係……」


 固い言葉にするとそうなるけど、つまるところは友達という間柄。ただそこにあるだけのクラスメイトとは少し違う関係。彼氏役ともまた違った関係。


 私に友達……というと、片手で足りてしまう数しかいない。少なくとも、蓮くんに彼氏役の関係を持ち掛けた頃には片手すら必要としない人数だったのは確かだった。


 煌真に関しては友達という関係は似つかわしくないし、未来との関係も……あれは友達、なのだろうか? 私が彼女に一方的に絡まれているだけで、本当は違うのかもしれないけど。


「友達……か」


 そう言葉を紡いだところで、ふと疑問に思ってしまう。果たして私は、彼と友達になれるのだろうか。あんな酷い事をした私に、彼の友達になる資格なんてあるのだろうか。私みたいな嫌な女を、彼は友達にしてくれるのだろうか。それに、そもそも……


「友達って、どう作るんだろう……」


 友達を作るなんて、久しぶりの事だったから。どう作るかなんて、もう忘れてしまっていて覚えていない。ただ、分かっている事が一つだけある。それは……切っ掛けが重要だと。


「……」


 私は抱えていた本の表紙をジッと見つめた。世界のサメ大全という名の本。表紙に描かれている巨大な鮫が可愛い私のお気に入りの本の一つ。


「蓮くんの、好きなサメ……」


 彼は水族館に行った時、私に向けてシュモクザメが好きだと言っていた。だけど、その前に……確か別のサメの名前を挙げていたと思った。それは……


「ファイブヘッドジョーズ……だったよね」


 私が聞いた事も無いサメの名前。この本にも詳細が一切書かれていないサメの種類。それが分かれば、蓮くんと友達になれる切っ掛けになる……かも、しれない。


 そう思った私は何としてでもそのサメについて調べてみせると決意してみせる。何より、私が知らないサメがこの世に存在しているのかと思うと、何と言うか……興味が湧いてくるのだ。


「……うん、頑張る」


 一人で小さくそう呟いた私は本を抱き締めたままゆっくりと立ち上がると、踊り場を離れてまた階段を下りていったのだった。




 ******




 如月さんが屋上から出て行ってからどれだけの時間が過ぎたのか。少なくとも、かれこれ一時間以上は経過している事だけは間違いなかった。何故なら、既に何度も授業の始まりのチャイムと終わりのチャイムを耳にしているからだ。


 そう、僕はあの後……この場から動けずにいた。ベンチから立ち上がる事も無く、昼休みが終わってもずっとこの場に留まっている。授業にも行かずに、人生で初めてサボりというものをしてしまった。動く気力が無いという訳でもなく、ただ単純にどうしたら良いのか分からず途方に暮れていたのだ。


「如月さん……」


 彼女の名前を呼んでみるが、それで何かが改善されるという訳でもない。ただただ無駄に、無常に時間が過ぎていくだけ。僕のしている行動というのは、それだけ非生産的な事だった。


「はぁ……」


 溜め息を一つ零して、僕は空を見上げた。まるで僕の心境を表すかの様に、上空は曇天模様。青空は一切見えない、灰色の空の下だった。


「はぁ……」


 二回目の溜め息が出たが、それ以上は何も出てこなかった。どれだけ時間が流れようとも僕の心が晴れる気配がないし、それどころか余計に鬱々としてしまっていた。……ダメだなぁ僕は。意気地無しのままだな本当に。


「あ……れ?」


 唐突にポケットに入れていたスマホが振動し、着信音が流れ始める。どうやら誰かから電話が来たらしかった。だけど、僕はその電話を取る気にはなれなかった。


 何度かの振動の後、諦めたのか着信が途切れる。一体誰からの電話だったのか気になってスマホを取り出して確認した。すると、着信履歴には『卯月』と表示されていた。もしかしてだけど、僕を心配してくれたのだろうか。でも、彼の心配に対して僕は応じてあげる事が出来そうにない。


 僕は卯月に電話を掛け直す事も無く、スマホを制服のポケットの中に突っ込むと、頭を抱え込んだ。何も無かったかの様に振る舞えたら、どれだけ良かっただろうか。そんな理想を描いてしまう位に今の僕は参っていたんだと自覚してしまう。


「どうすればいいんだよ……」


 自分で答えを出す事が出来そうにない問いに対して自問する。そのまましばらくの間、思考が止まった時間が流れる。すると、不意に屋上の扉が開いたのだ。重たい扉がゆっくりと、軋みを響かせながら開いていく。


 誰が来たのだろうか。ひょっとすると……なんて、淡い期待を寄せてそちらへと顔を向けてみる。そして、そこには―――


「た~ち~ば~な~ちゃ~ん~」


 そこには、鬼が立っていた。般若の形相を浮かべた筋骨隆々の恐ろしい鬼が。


「こんなところにいたのね~。先生、探しちゃったわ~」


「ひっ!?」


 目が……怖いです。視線だけで人を殺しかねない程の圧力がそこにありました。僕が恐怖に怯えた声をあげると、やってきた鬼―――釜谷先生はゆっくりとした足取りでこちらへ向かって歩いてきたのだった。


「授業に出て来ない悪~い生徒には、お仕置きが必要ねぇ~」


 語尾を伸ばすのんびりとした口調で死刑宣告を告げる先生に僕は恐怖心を抱く。何とかしてこの場をやり過ごしたいと考えたところで、それは無駄な事だと察した。貧弱とも言える僕なんかが、屈強な先生に敵う訳が無かったのだ。


「いや、あのですね……」


 無駄だとは思いながらも反論しようとする僕だったが、先生は容赦無く僕の首根っこを摑むと、まるで子猫でも持つかのように軽々と持ち上げてしまう。


「さぁ~て。どういう事なのか、先生にし~っかり説明して貰おうじゃないの」


「ヒィッ……」


 もはや先生の顔は笑っておらず、その形相はまさに鬼神の如く。僕の身体を宙ぶらりんにしておきながらも平然としているところは流石だと思いました……なんて考える余裕がある訳もなく、ただ恐怖に震えるしか出来なかった。


 そんな僕が最後に見た光景は、曇天の空を背景とした般若の顔だった事は言うまでもないだろう。ああ神様よ、どうか夢であってくださいと強く願いながら僕は心の中で思いっきり叫んでやった。


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