酒匂川の水利工事・お母さんの死
酒匂川の治水工事は非常に優れたものだったと知られています。
川崎の宿の名主であった田中丘隅さんという人が、還暦(六十歳)を過ぎてから幕府に登用され河川の改修の指揮をとったのです。
田中丘隅さんは五十歳ごろから河川の改修の研究をはじめたという人で、学者について河川の改修について学び、民衆の視点から治水などについて意見した『民間省要』という意見書を書きました。これが幕府に認められ「川除御普請御用」という役職につき、六十一歳から働きはじめることになりました。
金次郎さんよりは前の時代の人で享保九年(1724年)から荒川や多摩川の改修工事を行い、二ヶ領用水、大丸用水の工事、そして酒匂川の工事も手掛けたとされています。
田中丘隅さんの起用にあたっては有名な大岡越前守が起用をはかって責任者に任命したという説もありますが、ともかく酒匂川の工事、堤防の建築は難工事となりました。事業に失敗し切腹する担当者も出たようです。しかし田中丘隅さんは享保十一年(1726年)に堤防を完成させ、堤防を文命堤と名づけたとされています。
酒匂川の工事については金次郎さん(二宮尊徳翁)は並々ならぬ関心をもっておられたらしく『大口堤沿革史』という本をのちに書いておられるくらいですが、田中丘隅さんのことはあまり出てこないとされています。
ただこの田中丘隅さんという人が酒匂川の岩流瀬という箇所に「弁慶枠」という新しい技術を開発して強固な堤を作ったこと、その上に神社(文命社、現在の福澤神社)をつくったこと、その神社でお祭りを毎年おこない、そのお祭りにあわせて毎年河川の工事をさせたことは事実のようです。それによって酒匂川流域の復興がすすんだとされています。
これらについては高瀬和昌先生という方に「近世治水思想に関する一研究 ー酒匂川文命堤の事例を中心としてー」(『水利科学』17−4、P .73ー104、1973年10月、https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/17/4/17_73/_pdf/-char/ja)という論文があり、参考にさせていただきました。
当時(享保時代)は伊奈氏の流派、武田信玄の甲州流(信玄堤などが有名)から出た関東流から将軍・吉宗公の肝煎りで関西の水利技術を参考とした紀州流へと水利技術が変化していた時代だそうですが、酒匂川の水利もそれらの先進技術が導入され治水がすすめられていた時代だったようです。
金次郎さんもこれらの新しいやりかたを学んでいたのかもしれませんが、それは今となってはわかりません。
話が大きくそれたでしょうか。金次郎さんが、自分が幼いからと、不甲斐なさを責めていることを書いていたのかもしれません。十二歳の少年が、痛ましいといってもいいかもしれません。
しかし金次郎さんは、早く大人にしてください、そう祈るだけではありませんでした。
金次郎さんは自分を早く大人にしてくださいと祈ったあと、家に帰って思いました。
「人が私が片親(
そしてここにおいて夜半にいたるまで草鞋をつくって、翌日の未明に人がくる先にその作業の場にいたって、人々にいって告げられました。
「私は年が幼く一人分の仕事の役にもたりません。ですから、他の力を借りてこの事業に勤めたいと思います。皆さんの恩を報じるための道を求めましたけれども思いがいたりませんでした。
寸志ではございますが、草鞋をつくってもってきました。日々、私の力の不足を助けてくださった人におこたえしたいとおもいます」
当時の草鞋は一足十二文します。ただではありません。金次郎さんは、薪を取ることと、草鞋を編むことで生計をたてていましたから、これは自らの収入を削って、人々の恩にこたえることでした。
多くの人はその志の常ならないことを褒めて、この少年の心ばえを愛し、その草鞋を受けとってその力を助けたといいます。
そして金次郎さんは役夫が休んでいるあいだも休まずに、終日一生懸命に仕事に勤めました。このために幼年であるといいますが、怠らなかったがために土や石の運ぶ量はかえって多くの人の右にでた(人よりも優れていた)といいます。人はみな金次郎さんの努力に感嘆したといいます。
金次郎さんはこのように昼間は土木工事を一生懸命に働き、夜は草鞋を編んで人並みではない努力をしました。必死の努力が後の金次郎さんをつくったのかもしれません。
酒匂川の堤には金次郎さんが土手を強くするために植えたといわれる松がまだ残っており、様々な伝承が残っています。地域の復興、そして自らの家を復興させたいという強い思いが、金治郎さんを駆り立てたのでしょう。
さて時に享和二年(1802年)、金次郎さんの年が十六歳の時、お母さんが病に罹られ、日々に病状が悪化されました。
この年(享和二年、1802年)江戸ではインフルエンザの大流行が起こったことが記録に残っています。お母さんもインフルエンザにかかってしまわれたのかもしれません。
当時のインフルエンザに特効薬はありません、予防注射もないのです。さぞ苦しまれたでしょう。
金次郎さんは大いにこのことを歎かれました。天に祈り、地に祈り、心と力をつくしてその治癒を求められました。昼も夜も帯すらとかず、その側を離れないでずっと看病をされました。お母さんが病気なのです、できるだけのことをされました。そうではありましたがその効果もなく、病にかかられてから十数日でお母さんは死んでしまわれたのです。
金次郎さんの慟哭、悲痛は、ほとんどその体を壊してしまいそうな勢いでした。
お父さんはすでになく、お母さんもすでにここにおられなくなりました。
家の財産はすでにつきはてていました。田地もまたことごとく他人のものとなっていました。これらもお母さんの病気の原因だったのかもしれません。
残ったものはただただ空屋だけでした。二人の弟をなだめながら、さすがの金次郎さんも悲しみ泣いてなすすべを知りませんでした。
親族が議論して結論が出ました。
三人の男子は幼ないのに養育をするものはない、このまま家におらせればどのようにして三人の飢渴を凌げるだろう、親族に身を託してのちのちの成長を待つほかはない、と。
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