太神楽をやりすごす

 さてこの頃の金次郎さんにはいくつかのお話が残されています。


 ある年の正月、お父さんはもうお亡くなりになられていたのでしょう、土地の風習で太神樂ととなえるものが近隣をめぐり、一曲にあわせて舞い千歳を祝うことがありました。それぞれの家々はお正月です、おめでたいので百錢を投じあたえて太神楽を舞わさせました。舞わさせない場合は十二錢をあたえて去らさせました。


 この時に近隣、つまり栢山村に太神樂がやってきました。


 金次郎さんのお母さんは驚いておっしゃいました。


「太神樂がやってきたわ、なにを太神樂の人たちにお渡ししましょう」


 そもそも太神樂というものは伊勢と尾張の二つの流派があったそうですが、諸国をまわって舞をまう獅子舞の踊りのことだったといいます。獅子のもつ霊力によって悪魔を祓い、火事をふせいだり息災を祈る芸能だそうです。


 太神樂というのは「太」というのは「代」のことで、お伊勢さんなどにお参りする「代わり」、代参の意味から「代神樂」とよばれたものが太神樂になったという説もあるようです。


 元々は伊勢や尾張でおこなわれていたようですが各地に分布するようになり、諸国を巡礼をして祭礼で奉納したり、かまどなどを祓ったようです。


 その太神樂が金次郎さんの村にもやってきたわけです。


 金次郎さんはおっしゃいました。「わずかに十二錢があればそれでいいんですよ」と。そこで家の中の家さがしがはじまりました。しかしことごとく捜索するのですが一錢をもえることができません。お母さんはおっしゃいました。


 「神棚にならないかしら」


 金次郎さんはそこで神棚をさがします。しかしありません。お母さんは大変にこの太神樂のことを心配されました。


 そこで金次郎さんはおっしゃいました。


「家が貧しいといっても村中の一戸です、太神樂さんたちがやってこられてわずかに十二錢がありませんと申してもどうしてそのことを信じてもらえるでしょうか。家をあげて田にいっていて一人もいないまねをして、去ってもらうより他に方法はありません」


 お母さんはおっしゃいました。


「おまえのいうやり方にしたがうしかないわ」


 そこでにわかに戸をとじて息をしていないようにして伏せました。


 まもなく太神樂はやってきて、壽を「おめでとうございます」と家に呼ぶのですが、戸はとじられており寂寥せきりょうとしてしていて声もありません。


 ここにあきらめたのでしょう、去って隣家に行きました。お母さんと金次郎さんたちは、はじめて心を安んずる思いがしました。


 当時お金の支払いは「掛け」といい、大晦日とお盆の2回のいずれかに支払うことになっていました。大晦日の支払いが済んで初めてお正月が迎えられます。金次郎さんのお家では大晦日の支払いを済ませたあとにもうお金がなかったのかもしれません。


 お正月はお雑煮を食べお詣りをしたりもしますが、物売りが回ったりしてにぎやかだったといいます。たこ、羽子板、子供達も遊びたかったでしょう。そんな中で家をしめ切って太神樂をやりすごす。気丈な金次郎さんにとっても印象深かったのかもしれません。


 この一つの事をみても金次郎さんのお家の艱苦かんく辛勞しんろうをはかって知ることができるでしょう。


 さて金次郎さんの逸話はまだ続きます。


 小田原の酒匂川はその源を富士山のもとより流れ出だし、数十里を経て小田原に至って海に達します。富士山の噴火によって川底が浅くなり、氾濫を繰り返していたのはもう何回か述べたところです。その酒匂川は急流、激波で洪水があるたびに砂石をながし、堤防をやぶり、ややもすれば田面をおしながして民屋まで破壊してしまいました。


 年々川をさらえたり堤をつくったりする土木作業がやみませんでした。


 この頃には天明三年(1783年)に浅間山も噴火し、関東全域の川に大きな影響を与えていました。


 金次郎さんの村の人たちの懸命の努力にもかかわらず、寛政三年(1791年)の八月、酒匂川は栢山村上流にて決壊し、金次郎さんのお家の田畑も石河原とかわってしまいました。お父さんも心労から亡くなられ、金次郎さんが辛酸をめられていたのがこれまでのお話です。


 だから土木工事は依然続けられていました。村人が戸ごとに一人ずつをだしてこの役にあたらせることにし、復興作業を藩はすすめていたのです。


 江戸時代は土木工事、道の普請ふしんであったり川の整備がよくおこなわれた時代です。戦国時代に発達した築城技術は土木工事の技術となって応用され、多くの川が治水され、農地が増え、それにともなって人口は増えて人が豊かになるという循環を生みだしました。


 関東で水利工事の一例をあげるのならば、伊奈忠次さんのような人物を挙げることができます。


 伊奈忠次さんは徳川家康公から関東の代官に任命され、治水工事に取りくみました。文禄三年(1594年)から承応三年(1654年)まで、六十年にわたっておこなわれた「利根川の東遷」とよばれる工事は、江戸湾に流れていた利根川の流れを千葉県の銚子市近郊に付けかえたもので、現在の利根川と江戸の姿をつくった大工事でした。


 伊奈一族はこののち水利工事のスペシャリストとして技術を伝承し、その技術は「伊奈流」、「関東流」と呼ばれ、多くの人を救ったといわれています。


 また江戸の上水を確保するために工事を行なった玉川兄弟や、淀川を治めた河村瑞賢さんや角倉了以さんなども有名ですね。


 こうした江戸時代の治水工事には藩だけではなく、幕府であったり他藩が協力したりしておこなわれ、費用も幕府・藩・村それぞれが負担したり、担当についても公儀こうぎ(幕府による工事)であったり、国役(流域の藩、村などが費用を負担する工事)であったり、領主普請ぶしん(藩による工事)であったり、自普請(村による工事)であったり、様々な工事があったのです。


 そのような工事にお父さんが病気をされていたからでしょう、金次郎さんは十二歳の頃からもう参加して働いていたとされます。


 まだ体もできていない遊びたいさかりに家を支えて土木工事で働く、金次郎さんはどんな思いで働いていたのでしょうか。十二歳といえば現在だと中学入学前後です。遊びもしたかったでしょう。しかし金次郎さんは別のことを考えます。


 金次郎さんは年が十二のころからこの酒匂川の仕事に出てそして仕事を勤めていました。それではありますが年が幼なくして力が足りません、一人分の役にもあたることができませんでした。金次郎さんは天を仰いでなげいておっしゃいます。


「私の力が足らないので一家の割りあてにあたることができない、願わくはすみやかに成人にならせてください」


 金次郎さんはそう天に、神さまや仏さまに祈ったのでした。家計を助けたい、家族を助けたい、その一心だったのです。


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