金次郎さんと江戸時代の学問

 これより金次郎さんは前よりも以上に働きはじめました。鶏が朝に鳴くころにおきて遠い山にいたっては、あるいは柴を刈り、あるいは薪を伐り、これらを売りました。


 夜は縄をなって、また草鞋を作り、寸陰(わずかな時間)を惜しんで身を粉のようにし、心をつくして母の心を安んじ、二人の弟を養うことにのみ努力されました。


 一家の稼ぎの中心として必死にはたらかれたのです。


 柴や薪は当時貴重な燃料でした。当時の足柄上郡はほとんどが農地になっており、燃料になるものはなかなかありません。流木をひろってきたり、わら籾殻もみがらを燃料にしてき物などをしていたようです。


 江戸時代には燃料として石油やガスは当然ありません。暖をとったり食べ物を煮炊きするには、当然火力の強い薪や持続性がある炭などをつかう必要があったのです。金次郎さんは遠くの山まででかけて薪をとってきて、それを売って生計をたてていたようです。


 当時の薪の値段や炭の値段をしらべたのですが、時期や地域による質によって値段にバラけがあったようです。様々な資料などからバラけた値段をしらべてみたのですが、武家では一ヶ月で八百文程度の薪を消費していた、であるとか、中級の農民の家では一年で一両の薪を使用していたなどとあるだけで、少し全体像がつかめないようです。


 しかし当時、薪や柴が商品として機能していたことはだいたいわかります。金次郎さんのお家が山の権利をもっておられたのか親類などの権利をかりられたのかはわかりませんが、ともかく金次郎さんは柴や薪などを売る商売をこのお父さんの死をきっかけにはじめられたのではないかとおもわれます。


 そして夜は夜で十二文の草鞋をせっせとつくっては家計を助けられたのです。


 当時の金一両は銀にすると六十匁にあたったといわれます。金一両、銀六十匁が銭四千文にあたるそうですが、小さなもうけを積みあげてなんとか家計をやりくりしようという金次郎さんの意図がみてとれます。


 薪などもシーズンがあり、農閑期におこなうのと農繁期におこなうのとでは手間や他の作業とのかねあいから値段がちがったでしょう、金次郎さんが苦労されただろうことはみてとれます。


 金次郎さんはそれでもへこたれませんでした。


 そして薪をとるための行き来に『大學』という書をふところにいれ、途中あるきながらこれを大声で読んで少しも怠けませんでした。古典を勉強されたのです。これが金次郎さんが聖賢の学をまなんだはじめであるとあります。


 道路で大きな声でこれを誦読じゅどくするがために人々が驚きあやしんで、狂児として金次郎さんをみるものすらあったといいます。


 江戸時代は教育熱心な時代だったといわれます。そしてそれは農村でも同じでした。


 江戸時代には「御家流」とよばれる統一した文字の書きかたがおこなわれ、各地の文書が同じようなかたちにされたといいます。そして商人の家だけでなく農民の家でも商売の取引や土地の売り買い、金銭の貸し借り、家の財産の相続などにおける文書の作成のしかたがおなじような書きかたにととのえられることになったといいます。そのため文字の読み書きと算盤そろばんが教育として熱心におこなわれるようになったのです。


 文字が読めればおれ書きなどが読めます。農家でもものの売り買いなどができる。そのため農村でも教育が熱心におこなわれたのです。そこでできたのが寺子屋という学校でした。


 寺子屋については、その入学に関する規則はかなり自由でした。そして教育の内容も自由でした。


 寺子屋のお師匠さんは個々の教え子のために実情にあわせて手作りの教本をあたえて指導をしました。たとえば姓や名前が書かれた手本をつくったり、近くの村の名前が書かれた手本をつくったり、全国の国や郡の名前を書いた手本ものこされているといわれています。


 また寺子屋以外でも友達や仲間のあいだでの儀礼や習慣、しつけの教えあいや生きていくうえでの規則を教えあうことがあったといい、「若者組」というような組織もあったとも伝えられています。


 どのように生きていくか助けあう時代だったのかもしれません。


 寺子屋の手本は大人にちかづくにつれ、上級になると1年の行事のことを書いた『年中行事』、お上の法令のテキストである『五人組条目』などになり、やがて『商売往来』『世話千字文』などの一般常識のテキストになったとされます。「借用証文」「田畑売買証文」「関所手形」などを実際につかった授業をしていたところもあったといいますから、江戸時代の学問は実学志向だったといえるかもしれませんね。


 だから金次郎さんが『大學』のような本を読んでいたのは不思議なのです。農民が武士の教養であった儒学をなぜ学んでいたのかと。


 江戸時代の庶民の教科書は「往来物」と呼ばれる実学(実際に生きていくうえで役にたつ学問)のものが多かったのは先にも書きました。


 手紙の文章、商売の仕方を書いた『商売往来』、農業の仕方を書いた『百姓往来』、他に『番匠往来』などなど、各種商売の方法を書いたものが多かったのです。


 教訓的なものもあり『実語教』、『童子教』などもあり、女性むけにも『女大學』、『女論語』、『女実語教』というような教訓的なものを書いたものもあったようですが、金次郎さんははっきりと『大學』というものを読んでいたと書かれています。これはいわば他の人とは違う教育を受けていたということになります。普通の人には意味などわかりませんから、小さな子がこのような文句を唱えていたら狂人扱いされるのも無理はなかったかもしれません。


 実学を商人や農民が教えられていたのに対し、武士たちは儒学者から儒学を学んでいました。藩には藩校とよばれる学校がもうけられ、朱子学などの儒学を学んでいました。儒学は支配者階級の学問とされ、武士の教養として一部のものとされていました。


 それに対し「武士の儒学」・「朱子学」から離れて、江戸時代後期になると学者たちが庶民に学問を教えるようになります。これらは郷学として藩が設けためずらしいもの(岡山の閑谷しずたに学校が有名)もありますが、中江藤樹の「藤樹書院」、伊藤仁斎の「古義堂」(堀川学校)などとして花ひらきました。


 このような儒者による授業を、金次郎さんは受けていたのでしょうか。のちにはでてくるのですが、どのタイミングで、誰から教わったかははっきりしていません。


 当時の医学は儒教の経典を基礎としていましたからひょっとしたらお医者さんから教わった可能性もあります、ただこれは確証のない空想です。


 ただ十四歳で薪を売り、『大學』をその途中で学んだという金次郎さんが賢明な人だった、というのはいえると思います。

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