星野へ

鷹羽 玖洋

星野へ

 もはや死ぬしかない。融合炉機関スターエンジンは停止した。通信は緊急チャンネルすら範囲外。生命維持装置はやがて沈黙し、周囲を取り巻く真空同様、艇内はすみやかに絶対零度まで冷えきるだろう。

 まだ充分に残存するはずの酸素にも苦しみをおぼえて彼は喘ぐ。心臓は破裂しそうに暴れていたが止まりはせず、思考は激しい火花を散らしたが何の回答も弾きださない。

 最後の正常作動する機械、記録用のホロ映像カメラを彼は強く抱きしめた。たった独りで絞首台に立つように、まだ温みのある鋼鉄の床に突っ立ったままぶざまに震え、脂汗を流し、ただ視線だけが神の奇跡を求めて無意味にさまよいながら、手も足も、青ざめた唇も、1ミリとて動かなかった。

 ありとあらゆる後悔と失った未来が、幻視のなかを駆け抜けていく。そして後世、彼に送られるであろう罵倒と嘲弄、哀れみのこもったもっともらしい説諭の数々も。

 なぜたった一人で、無謀な探索に挑戦したか。知識不足、経験不足。準備も装備も計画が甘く、資金は貧弱、仲間もなければ支援もない。賢明な先達の制止にも聞く耳を持たなかったとは。呆れるほかないではないか。死はあらかじめ決められていたようなもの!

 愚かな若者。未熟な青年にありがちな破滅願望、自己の過大評価の末の現実逃避。いずれにしろとるに足らぬ夢想家、理想家……。

 ――僕の人生は無意味だった。この宇宙に浮かぶ塵ひとつほどの価値もない!

 おののく唇から獣じみた嗚咽が漏れ、絶望が全身を打ち砕いた――けれど、彼が膝から崩れ落ちたその瞬間。目頭の涙の盛り上がりのなかに、鮮やかな七色のプリズムの爆発を見た。

 小型航宙機の展望窓。周囲を真っ黒な星塵の雲に巻かれ、宇宙でもっとも冷えた闇の奥だ。その中心に、幼児の小指の先ほどのまばゆい光球がぽつんと点っていた。

 艇から三光日先に生まれた、原始の恒星の卵だ。彼は思わず呼吸を忘れる。今の今まで低温のつまらぬノイズばかりを放っていた昏い点が突然、命を吹き込まれて激しい鼓動をはじめる。破裂を思わせる拍動があり、黒い血脈じみた周囲の塵雲を巻き込みながら、まるく膨らみ、衝撃波を放ち、間欠的なフラッシュを焚く。

 これこそ待ち望んでいたものだ! 息苦しさも忘れ、青年は無心にカメラを展望窓へ。命を危険にさらしてまで得ようとしてきた瞬間が――いや、今となっては命と引き換えにしてまで焦がれた瞬間が、目の前にある。

 多くの先人たちが夢見た光景――青年は昂揚する。人類が星のなんたるかを知る以前から、詩人や宗教家や哲学者が神話と物語に想像したもの。そして占い師や科学者が緻密な計算を重ねに重ねて盤面にシミュレートしてきたもの。

 そのいっさいは、すでに色あせた過去の想像画にすぎない。これまで人が目にした画像など、すべてちゃちな戯画にすぎなくなった。いざ本物を前にすれば、人間の想像/創造力のいかに矮小で無力なものだったか!

 何十億年も昔に核を散らした老星の残骸、塵やガスや石くずが、奇妙に有機的な曲線を描くオーロラの綾をなす。黒や茶色や濃い紫に薄汚く混濁した塵雲が、内部に銀緑のプラズマをほとばしらせて次第に全体を白熱させる。散漫な光の綾は見る間に生まれたばかりの輝点へ収束し、背後の闇に、発光する雲堤が幾重にも立体的に浮き上がった。

 人が表現しうるどんな空想よりも理論よりも、荘厳な現実だった。すべては無音だが、万色の明滅と光熱の爆散、ときおり視界を鋭利に断ち斬る原始星の光のパルスに青年は貫かれる。圧倒され、言葉にできない無垢な感動に打ち震える。それから、思った。

 いつか――百年先か、千年先か、あるいは想像もつかないほどはるか未来かもしれないが、いつか誰かがこの小さな航宙機を見つけるだろう。そしてカメラに残った映像を見て、僕を理解するだろう。

 なぜ愚かにも、たったひとりで星野の果てへと旅立ったか。

 考えなしの馬鹿者、若者特有の熱病に酔いしれたはての愚挙、傲慢、無知――それらはたしかに僕の身体を骨まで凍らせ、粉砕して命を奪ったが、追い求める情熱だけは本物だったのだと。

 新しい何かを見つけたくてここまで来た。誰も見たことのないもの、まだ誰も知らないもの。誰もが新世界に目を見開くほどの驚異と感動を己自身の手で掴むために。

 もし、もう一度チャンスが与えられるのなら、今度はもっとうまくやろう。だが僕にはこれきりだった。これが僕にできる最大の努力だった……。

 もはや酸素は薄く、呼吸は浅い。けれど身を震わすほどの心臓の悲鳴も彼の意識からは遠く、いまや青年は人類のすべての歴史の、あらゆる華々しい成功と発見の影に斃れた無数の命を理解する。彼らに属することになる、一人の挑戦者として。

 そして伝えられなかった彼らの遺言、彼らの抱いた純粋すぎる星光の燦めきを、彼らの代弁者として粛々とカメラに封じ込める。

 急速に光を失いゆく視界。だが、もうできることは何もない。

 魂の熱だけを感じながら、彼は最期の息を吐く。

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