終幕
透明な翼をゆっくりとはためかせ、手をつないだまま二人は伽藍に降り立ちます。
「そうだね。僕はこんなにも愛されていた。心蔵にも、清応にも」
文月はしみじみとそう口にしますが、清応はぐいとその手を引きます。背中を斬られた鈴経のことを、清応はもちろん忘れてはおりませんでした。
「僕らだけじゃないよ。急がないと」
「ああ、そうだった、いけない、あっち!」
文月は窮地の清応のもとへ駆けつける前に、金堂の
「ぶじ、だったね。文月、よかった……」
うわ言か、それともわずかに目を覚ましているのか、消え入りそうな声で鈴経は言うのです。
「ほら、鈴経だって」
「そうだね。うん、そうだよね」
自分を包む数多の思いやりに、文月は涙をこらえながら、二人は鈴経を庫裏へと運びこんだのでした。
暗雲の消え去った空はうっすらと白み始め、新たな朝の訪れの色で、童たちの阿螺村をやさしく包み始めました。
§ § §
それから十と幾日かが過ぎ、本殿金堂の並び桜が、見事な花をつけておりました。
鞍馬天狗もお舎那さまもいなくなった今、この村は果たしてどうなるのかと、童たちの誰もが案じておりました。ですが、川の先は変わらず果てしない雲海が広がり、金堂の巻物を丁符として山門で時を超えることもできます。
阿螺村は変わることなく、現世と幽世の狭間をたゆたっているようでした。
文月と清応は他の童たちを講堂に集め、すべてを打ち明けました。この村の真実、いなくなったお舎那さまや永陸の正体、そして心蔵の死のことを。
神妙に、時に怒りに手を震わせながらも、童たちは黙って二人の話に耳を傾けてくれました。二人は最後に、これから自分たちがどうすべきかを問いかけ、共に考えました。
ですが、答えはすぐに出ました。このままこの村で、共に生きてゆこう。誰ともなく言い出したその言葉に、誰もがよどみなくうなずくことができました。
そもそも、この村にいる童の誰しもが
傷の癒えた鈴経は、暇さえあれば金堂にこもり切り、絵巻物と丁符の不可思議な仕組みのことを探っておりました。
「つまり、餓鬼に困った人が出ると、ここに絵巻物が現れるんだ」
山と積まれた絵巻物にはどれにも、やはりあらゆる時代のあらゆる土地で、餓鬼が人々の営みを脅かす様が描かれておりました。今もまた文月たちが見ている前で、何もなかった棚の隙間に、新たな巻物がぽん、と現れました。
鈴経が丁符を作り、文月や清応、そして童たちが餓鬼を祓いに行きます。すると、その巻物の絵はひとりでに描きかえられ、人々が平和に暮らす姿を描いたものに変わるのです。
「このまま僕ら、こうやって餓鬼祓いに勤しむべきなのかなあ」
時折鈴経は、そんなことをぼやきます。そして、
「僕らのことを新しく絵巻物にすると、いいお
だなどと、いかにも問屋の息子らしい思い付きを口にすると、
「じゃあ僕、描くよ。その代わり餓鬼祓い、行かなくていい?」
と杏点が手を上げ、それからは二人で金堂にこもるようになったのです。
力を合わせて餓鬼を祓い、托鉢で銭を集め、時に救った人々からお礼の品を頂き、そして未だ不思議と続く山と川の恵みを授かって。童たちは変わらぬ暮らしを続けました。
出向いた先で、どうしても帰るあてのない子を見つけた時にだけ、童たちはその子をこの村に連れ帰り、新たな仲間として迎えました。杏点が五つくらいの
家に帰すか受け入れるか、意見が真っ二つに割れているさ中、清応と文月が、これも自分たちの新たな道ではないかと言ったことで、最後には皆、その娘を受け入れることを決めたのです。
そう、この村はもう、鞍馬天狗が牛若丸を育てるためのものではないのです。
庫裏の二階の、お舎那さまの寝所だった部屋を、皆はその子にあてがいました。そして生真面目な鈴経が率先して、「ご法度」なる約束事をいくつもいくつも決めました。
直接触れてはだめ。行水も時間を分けること。何より二人きりでの密会は、丁符を渡さず山門落とし。
鼻息荒くその「ご法度」を言い渡す、どこか滑稽な鈴経の姿に、清応と文月はくすりと笑いました。
こうして阿螺村の新しい営みは、続いてゆくのでした。
§ § §
桜の葉が秋の紅色に染まった、ひやりと寒い、朝のこと。
旅支度を整えた文月と清応の二人は、開いた山門の前に立っておりました。
「丁符、なくさないでよね」
鈴経は丁符の片割れを握りしめ、何故か砂利に目を泳がせながらそう言います。
「鈴経こそ、頼むね。失くしたら、帰ってこれなくなるんだから」
もう片方の丁符を持った文月が、鈴経に微笑みかけます。
「帰ってくるつもりなんかあるの?」
鼻にかかった、ふてくされたような声で、今度は杏点が言い返します。
村が平穏を取り戻し、暮らしに差しさわりがないことを確かめてから行こう。他の童たちが村で生きることを選んだその時から、文月と清応は、そう心に決めておりました。二人だけでの、旅。かつて翼を授かる前に文月と清応が見た夢は、今ようやく、叶う時が来たのです。
「もちろん。いつか、必ず帰ってくるよ」
清応は、杏点の小さな手を取り握りしめ、微笑みます。
文月と清応は、他の童たちのお勤めを妨げないよう、朝餉の前を選んでひっそりと発つつもりでした。山門を出るのに必要な丁符も、門を開いた後はその片割れを、書き置きと一緒に樹にでも留めておこうと考えていました。
ですが、隠れて旅支度を進めている文月に気付いた鈴経と杏点は、どうしてもと言い張るので、見送りに来てもらったのです。
「それ、どんな絵巻物の丁符なの」
杏点が鈴経に尋ねます。ですが鈴経は、
「だめ。あとで」
と言い切って、さっさと手ぬぐいの中に畳み込んでしまいます。ちぇ、と杏点がすねて見せましたが、それきり誰も口を開かず、四人の間をさやさやと、静かに秋の風が流れていくのみでした。
「達者でね、文月も、清応も……喧嘩なんかしちゃ、だめだからね」
とうとう堪え切れず嗚咽を洩らす鈴経を、文月と清応は二人でそっと抱きしめた後で。
「じゃあ、行こうか」
踏ん切りをつけるように、文月がそう言うと、
「うん、行こう」
清応が微笑んで、うなずきます。
そして、手を振る杏点と鈴経に笑いかけて。
「行ってくるね、みんな」
山門の向こうの空を目指して、たん、と飛び立ってゆきました。
「ねえ、鈴経。あの二人、どこへ行ったの」
文月と清応を見送った後、鈴経は杏点を連れて金堂の地下へ降りてゆきます。
「さてね。よくわからないんだ、それが」
「どうして? あの丁符は鈴経が選んだんじゃないの?」
「選んだよ。相当前からここにあって、埃をかぶってたやつをね。でも、いつの時代のどこに二人が行ったのか、見ただけじゃまるで見当がつかないんだよ」
「どういうこと?」
鈴経は棚の傍らに、これまた手ぬぐいに大事に包んであった
灯明の明かりの下、さらりと広げられたそれを目にして、杏点は「わあ」と声を上げました。杏点の反応を見て、鈴経は何故か少し得意げに、こう言いました。
「ま、僕やきみには、もっと学ばなきゃならないことが、、まだまだたくさんあるってことだろうね」
その絵巻物の、真ん中には。
晴れの空を、透明な翼で、どこまでも。
手を取り合って
了
討魔心蔵伝《とうましんぞうでん》 トオノキョウジ @kyz
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