十幕 討魔《とうま》の心臓《しんぞう》
「わかってるよね。無駄だって」
清応が吠え猛りながら幾度も打ち込む錫杖を、鞍馬天狗は薄笑いを浮かべて、造作もなく受け流します。
「きみらやきみらの師に教えてきた京八流だって、そもそも僕が生み出したんだ。多少ましだった文月ならまだしも、さして武の技が達者でもないきみが、僕に敵うはずないじゃない」
かつて源義経が剣の教えを乞うたという京八流の祖、
「清応、そもそも僕はきみをどうこうするつもりはない。文月がここまで育ってくれたのはきみのおかげだと、感謝こそすれ、恨むいわれはないんだ。なのにどうして、きみはそうやって僕を睨むんだい。ねえ」
敵わぬと知りながら向かってくる清応のことを、鞍馬天狗は心底不思議そうに眺めて、時折その錫杖をいなし、脚を払って清応を転ばせておきながら、まるで駄々っ子に言い聞かせるように問いかけます。
と、鞍馬天狗ははたと思いついたように手をぽんと打ち、
「ああ、わかった。僕に文月を取られるのがいやなのかな。だったら」
突き出された錫杖をかわしざま、
「そんな思いをする前に、すぐに涅槃にでも送ってあげるけど」
右の手刀で
「う……ぐぅっ!」
清応はよろめき、とうとう錫杖を落とします。すでに清応の体のあちこちで、鞍馬天狗が同じように右手ひとつでつけた傷が、じくじくと血を流しております。
傷に雨が染みるたび、肉の中身を直接刺されるようでした。立ち上がろうと、手足のどこに力を入れても、いたるところの腱がきりきりと悲鳴をあげます。
ですが清応はそれでも、よろめきながら、ふらつきながら、立ち上がるのです。
「清応、もういい、もういいんだよ!」
たまらず駆け寄った文月が、ぼろぼろの清応を背中から支えます。清応の血の染みが、顔を、手を、体を汚すのもいとわず、清応の体を抱き支えるのです。そして。
「そうだよ、言うとおりだよ、僕だって」
乱れた息の合間に言葉を差し込むようにして、清応はか細い声で言うのです。
「文月が好きだった心蔵や、心を奪われたきみに、きっと僕は、嫉妬していたよ」
目の前で
「文月が誰かに触れ合ったり、あこがれたりしているのを見るたびに、胸がざわざわして、苦しかった。ひょっとして、餓鬼に憑かれるとこんな心持ちになるのかも、って」
雨に濡れて額にまとわりつく黄金色の前髪を、手のひらで拭います。髪は払えても、代わりに手に残った自らの血が、清応の頬と鼻の頭をべっとりと汚します。
「でも、その一番奥にあるって、見つけたんだ。どんなに苦しんだって、どんな業に苛まれたって変わらない、なんだろう、透明な何かなんだ」
清応はその手で、自分を支える文月の手をそっと取り、そのまま握りしめ、文月を振り返り、
「文月、僕はきみに、しあわせでいてほしい。しあわせでいてくれないのは、いやだ」
青い目を細めて、笑いかけたのです。
文月ははっと思い出します。僕の好きなきみが、しあわせでないのなら。あの夜の魔王殿で自らも、心蔵を想うありのままをその言葉にして伝えたことを。
「もしこれを愛と呼ぶのなら、文月。心蔵はきっときみを愛していた。それから、僕も」
清応の言葉を、文月はただ黙って受け止めています。一字一句も、
互いにその魂に刻み込むように、喉と心を開け放ち、叫ぶのです。
「僕も、きみを愛している。だから!」
清応は足元の錫杖を拾い上げ、今一度、己を奮い立たせるように鉄の遊環をちゃりんと鳴らします。すると錫杖は光を放ち、二振りの短い独鈷の剣に分かたれたのです。
二人は手にした剣の切っ先を、鞍馬天狗に向かってかざします。そして。
「きみの心を惑わす魔を、僕はこの手で討たなきゃいけない。僕の心臓が今、そう言っているんだ!」
胸の鼓動の赴くままに吼えた、その瞬間。
二人の身からかっと放たれた金の光が、降りしきる雨粒のすべてを、ざしゃあ、と吹き飛ばしました。
「なに……!」
思わず身をかばい、鞍馬天狗は驚愕します。
清応と文月、手と手をつないだ二人を軸に、ごうと音を立てて旋風が巻き起こります。それは阿螺村の回廊を、金堂を、伽藍全体を揺らして
暗雲は晴れ、天頂の月に照らされて、二人を包む金の光は、少しずつ翼の形を為してゆきます。ですが、顕れたそれはただの一対。文月の背には、右の翼。清応の背には、左の翼。片方ずつしかないように見えます。
やがて、刀の打ち子のような細かな光のつぶが、風にさやさやと消えてゆきます。二人で一組のその翼は、硝子か、はたまた水晶か、まるで春を迎える
鞍馬天狗は息を飲み、見惚れました。
「……うつくしい」
ただ一言そうつぶやき、心地よさそうに笑みをこぼします。
「ああそうか、お前たちが、僕の求めた牛若丸。ひとのすべてがこうであるべき、新たなひとの姿だ」
ふふ、うふふと、鞍馬天狗はひとり、笑い出します。ですが、次の瞬間。
かぁん!
目にも止まらぬ速さで踏み込んだ鞍馬天狗の手刀を、文月の剣が受け止めておりました。
「ならば貫いて見せてくれ、きみたちの、愛とやらを! ふふ、うふふ!」
かん、かぁん、ぎゃあん!
狂人もかくやというほどに、悦ばしげに笑いながら、鞍馬天狗は二人に向かって交互にその両手の
「文月!」
「清応!」
文月は左に、清応は右に、同時に砂利を蹴って跳び退り、それぞれの得物を握りなおします。文月の剣はさらに細身の二振りの刀に分かれ、清応の剣はぐんと伸びて大矛に変化します。
透明な片翼の童たちは、鞍馬天狗を左右に挟み立ちます。そして、共にばさりと翼を広げ、鞍馬天狗に斬り込みます。わずかに速い文月を狙い、鞍馬天狗が手刀を振り下ろすと、
ざすん、っ。
鈍い音と共に、鞍馬天狗の赤い腕が、高々と空に舞ったのです。
「んな……に!」
予想だにせぬ打ち合いの結末に、鞍馬天狗の顔が強張ります。ですが、この機を二人は逃しはしません。
「しぃっ!」
清応の大矛が、ぐらりと傾いた鞍馬天狗の両脚を断ち斬り、
「やぁっ!」
文月が投げ放った二刀は、鞍馬天狗の両肩を貫きます。
「おお、おおう……」
支える物もなく、鞍馬天狗は背中からどさりと落ちます。信じられぬと言った驚きのほか、思い描いた以上の二人の技に、歓びすら感じている、そんな顔のまま、雲の晴れた星空を見上げます。
そして、そこには。
月を背に手を取りあい、一対の透明な翼で、天を
金色に光り輝く巨大な長弓を引き絞り、自らに矢を向ける、文月と清応の姿がありました。
二人で弓を支え、二人で矢を引きます。ぎゅっと引き絞った光の矢には、普段の平たい神頭でなく、切っ先鋭い金の
「さよなら、天狗さま」
文月が口にした短い別れの言葉を合図に、二人は矢を引いていた右手を、ひと時に、解き放ちました。
しゅう すたぁああん!
光の矢は吸い込まれるように、地上の鞍馬天狗の胸を貫きました。
その感覚に、何故か鞍馬天狗は覚えがありました。体中から抜けていく力を最後に振り絞り、残った左手でその長い長い矢を引き抜いてみます。するとその矢はまさしく、あの魔王殿で自らを貫いた、心蔵の剣のかけらだったのです。
文月から預かっていたそれを、清応はずっと腰帯に差しておりました。いつ文月が帰ってきても、すぐに返してあげられるよう、肌身離さず持っていたのです。
鞍馬天狗が倒れた場所は、奇しくも金堂の前庭、童たちが翼を授かる、あの金剛床の真ん中でした。
鞍馬天狗の体は、断たれた脚や腕の先から、少しずつ光の煙に変わり消えてゆきます。
「うつくしかったぞ、僕の、牛若丸よ」
鞍馬天狗は剣のかけらを、自らの胸の上に置きます。それから、月を背負って眩しくきらめく、透明の翼の童たちを見上げ、手を伸ばします。
「この愛のありようを見られたのだ、悔いはない」
ぴしり、と石の割れる音が小さく響きました。鞍馬天狗を貫いてなお届いた光の矢の衝撃が、金剛床にひびを入れたのです。
悔いはない、と言いつつも、鞍馬天狗は「ああ、あった」と、思い出したように独り
ぴし、ぴしりと、金剛床の亀裂がひときわ大きく、四方に走りました。そして。
「すまなかったね、九郎」
そう言い遺し、鞍馬天狗が事切れたのと同時に。
金剛床は粉々に砕け、がらん、がらんと音を立て、大地の奥の闇の中へと、鞍馬天狗の亡骸を飲み込んでいったのです。
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