九幕 天狗《てんぐ》の稚児《ちご》ら

「文月、鈴経を、お願い」

 濡れて重くなった鈴懸の上衣を脱ぎ、文月の肩にかけた後、清応は二人をかばうように立ち上がります。そして錫杖と剣を合わせ、使い慣れた黄金色の大矛に変化させます。

「だ、だめだ、清応。そんな体でお舎那さまに敵うはずが……」

「かまわない。文月は鈴経を連れて、先に金堂へ行って」

「こ、金堂に?」

「皆でこの村から出るんだ。いいから、早く!」

 言い放つや否や、清応は濡れた砂利をざんと踏み切り、お舎那さまに向かってゆきます。長得物ながえものの尺をその手にしっかり覚え込ませていた清応は、横薙ぎから逆払いへ、突いてはひるがえして退きと、車太刀の間合いに踏み込まぬよう、これまでになく神経を尖らせて大矛を振るいます。ですが、

「清応、お前などに用はない」

 お舎那さまは表情ひとつ変えず、清応の攻めをその二刀でいとも容易くいなし、打ち払い、叩き落としてかわします。天と地ほどの腕の差は、清応も承知の上でした。それでも、せめて文月と鈴経が逃げ延びる隙を作らなければと、あえて自ら斬り込んだのです。そして。

「ええ、ええ。存じておりますよ、男狂いのいやらしいお舎那さま」

 言った自分が胸やけを催すようなののしりを、清応はわざと口にしてみます。すると狙い通り、お舎那さまはかっと目を見開き、これまでと比べものにならぬほどにぐんと速く踏み込んで来ます。

 紙一重。心臓を狙って突き込まれた車太刀に、胸のあたりの皮を浅く一枚削がれただけで済みました。ぞぞと全身に走った戦慄に負けず、清応は地を蹴り、痛む翼を扇ぎ、重い雨を浴びながら空へと舞い上がります。

 さしものお舎那さまの車太刀も、空の天狗に届くことはないだろう。回廊の屋根より高く昇ったあたりで、素早く錫杖を短弓に、剣を矢に変え、つがえて眼下を狙います。ですが。

 清応は己の目を疑いました。見下ろした先に、お舎那さまの姿がないのです。

「舟八艘はっそうより楽に届くわ」

 清応が耳元でお舎那さまのあざけりを聞いた、次の瞬間。


 ざむん っ


 ぼろぼろだった左の翼は、清応の背からばっさりと、斬り落とされてしまいました。

「清応っ!」

 鈴経を背負い金堂に向かっていた文月でしたが、清応が砂利に強かに墜ちるのを見て、たまらず駆け寄ります。

「だめ、文月……はやく、はやく村から……!」

 半死半生。抱き起す文月を見上げる清応の瞳は、ぼんやりと光を失いかけておりました。お舎那さまの一太刀は、翼を翼を巻き込んでなお深く、清応の背中の肉を斬り裂いていたのです。

「行けるわけ、ないだろ……おい、おいっ! どうして、どうしてきみは、きみたちはそんなに」

 降りしきる雨に混じって、文月の瞳からこぼれた涙が、清応の顔を濡らします。

 ぐったりと垂れた手をふるふると持ち上げて、清応は文月の顔に手を伸ばしながら、考えます。きみたちって、誰? ああ、ひょっとして。

「心蔵も! 清応も! どうして僕に、そんなにも……っ」

 清応はひどく久しぶりに、文月の口からその名を聞いた気がしました。ああ、そうか、やっぱり心蔵もだったんだ。

 それはね、と、清応は文月に答えようと思いました。今なら答えられると、心を確かにしておりました。ですが。


 清応の目に入ったのは、文月の後ろでお舎那さまが高々と振りかぶった、一対の車太刀の煌き。そして、

「醜い鴉に育ちおって」

 吐き捨てるようにそう言ったお舎那さまの、雨より冷たい眼差しでした。

「文月ぃっ!」

 残った力のすべてを込めて、清応は文月を押しのけます。

 二人共々斬り捨てんと、車太刀が容赦なく振り下ろされる、その刹那。


 ぴしゃぁああん!


 耳をつんざく轟音と共に、強く鋭い白光びゃっこうが、清応の視界を焦がしました。

「うわあっ!」

 清応は咄嗟に文月をかばい、砂利の上へ倒れ込みます。何が起きたのかなど、理解が追いつくはずがありません。どうにかすぐに離れなければと本能で感じはしても、体がうまく動きません。文月はぎゅっと背を丸め、どんなものからも守り通さんと、ただただ文月を抱き締めることしかできませんでした。

 やがて轟音の残響は、境内から森のかなたへと消えてゆき、再びざあざあと遠慮のない雨音だけが、阿螺村の伽藍に残りました。


 生肉を焼くような臭いが鼻をつき、清応ははたと目を覚まします。

 目を何度もしばたかせ、抱きしめた文月の感触をその手に確かめ、清応は己の命がまだ残っていることを感じ取ります。

 文月もまた、遅れて目を覚まします。清応と同じように瞬きを繰り返して、雨に濡れた顔をこすり、自分たちがどのような有り様なのかを思い出します。

 そして二人揃って、お舎那さまのほうをはっと見上げます。すると。


 まるで、掲げた車太刀ごと、通りすがりの龍神にでも食いちぎられたかのように。

 両腕の消えたお舎那さまが、静かに仁王立ちしておりました。

 さかやき頭の毛の端々を、いぶした松のようにちりぢりに跳ねさせ。

 かっと白目を見開いたまま、息絶えておりました。


 二人がひっと息を飲み、砂利を這いずって後ろに下がると、お舎那さまの体はやがて、ゆっくりと後ろに傾き、どしゃり、と水しぶきを上げて倒れました。

 あたりを見ると、黒焦げの車太刀を握ったまま、これまた黒焦げになって引きちぎれた、お舎那さまの腕が落ちていました。お舎那さまは稲妻に打たれたのだと、二人は察することができました。

 ですが。

「危ないところだったね、文月」

 空のどこかから、忘れもしないあの声が聞こえます。

 声のありかを清応と文月が探し当てるまでもなく、二人の前にひらり、と舞い降りる影がひとつ、ありました。

 それは、さながら観音菩薩の鉄の像の如く、美しくも冷たい微笑みを湛えた、黒い結袈裟に鈴懸姿の、永陸その人だったのです。

「永陸……?」

 呼ばれて永陸は、何故だかふうと肩をすくめます。

「その名前、なじまないから飽きちゃった。そうだね……」

 普段するように「んー」とほおを掻いて、何事か考えた後で、

護法魔王尊ごほうまおうそん、いや、鞍馬天狗くらまてんぐとでも名乗れば、きみは思い出してくれるかな」

 呆然と見上げる二人をさもおかしそうに見下ろしながら、永陸はそう言ったのです。

 文月はほんのわずか、記憶をたどるように目を泳がせます。そして、

「……まさか、そんな、嘘だ」

 と、信じ難いようにつぶやき、かたかたと身震いします。

「よくぞこんなに、清く正しく育ってくれたね。文月、いいや、牛若丸」

 未だ立ち上がれない清応と文月の前に、永陸はそっと膝をつき、その手を文月の髪に愛おしげに伸ばします。呆気にとられたままの文月でしたが、清応は何故か永陸のその振る舞いに不穏さを感じ、ぐいと文月の体を引き寄せます。

 おや、と一度永陸は目を丸くしましたが、

「きみにも痛み入るよ、清応。きみのおかげで、ぼくの牛若丸は出来上がった」

 と、嬉しそうに目を細めました。

「何を、何を言っているんだ。永陸……?」

「ああ、この顔だとまだそう呼んじゃうんだね。あるいは、心蔵とでも」

 永陸はすっと立ち上がると、すべすべの額に右の手のひらを当て、何事か念じます。

 すると、永陸の顔は手のふれた部分から、見る見るうちに朱染めのように赤みを帯び始めます。そして首や胸元も、肩から四肢の指先までも、その肌の色は曼殊沙華まんじゅしゃげの花のごとく、あざやかな赤い色に変わったのです。

「ま、まさか、餓鬼憑がきづき……?」

 清応が力の入らぬ手足で体を支え、よろよろと立ち上がります。

「くく、失敬だね。知らないのかい? ああ、きみは異国の子だったっけ」

 永陸の背後に集まった光の煙が、一度奇怪な文様の光輪の形を為した後、続いて白く大きな翼をあらわします。永陸の足先はゆっくりと地上から離れ、その身は風も起こさず山門の屋根の高さまですうっと浮き上がります。

 顔かたちは永陸そのまま、銀色の髪は腰まで長く垂れています。鼻こそ伸びはしませんが、肌の色と背の翼、そして鈴懸姿の出で立ちは、まさに自ら名乗った鞍馬天狗のそれに相応しく変わったのです。

「出会った時とはちょっと違うけど、これで大体思い出せるよね。牛若丸」

 文月も清応の肩にすがりながら、どうにか立ち上がります。牛若丸? 文月のことを指すであろうその名に、清応は聞き覚えがありませんでした。

「ううん、まだ文月って呼んだほうがいいのかな。そうしたら……」

 怪訝な顔をしている二人に、永陸は小さく肩をすくめます。

「きっと知りようもなかっただろうから、教えてあげる。文月、きみは桜の樹で僕とした待ち合わせのことを覚えているね」

 文月は首を縦にも横にも振りません。ですが、清応は覚えていました。いつかの夜に文月が、この村に来たいきさつを、冗談めかして話してくれたことを。

「僕はそれを、これまで七度繰り返したんだ。あそこの並び桜、あるだろ、七本。あれに乗せて、鞍馬山からきみを運んできたんだ」

 永陸が指差す先を、清応はちらりと見やります。七本のうち一本に、つい先刻雷が落ち、雨の中でも未だぶすぶすと燻りを上げておりました。

「現世から切り離したこの村から、僕はどんな時のどんな場所へもゆける。鞍馬山の花見の席で稚児だった牛若丸を、桜の樹で待たせてここへ連れてきて、僕の求める護法童子になれるよう、何度も育てなおしてきたんだよ」

 あまりに突飛な永陸の語りを、清応はひとつも聞き逃すまいと、真剣に耳を傾けます。現世から七度、稚児の牛若丸とやらを連れてきた。ならば、ここにいるはずの文月以外の六人の牛若丸は、まさか。

 清応の頭に浮かんだ見当は、あまりに恐ろしいものでした。その背に悪寒が走り、鳥肌が立ち、文月を支える手に思わず力がこもります。

「まさか、さっきの奇妙な兵隊の集落にいた天狗が」

 その通り、とばかりに、永陸はうんうんと頷きました。

「察しがいいね、清応は。今ひとつちゃんと育ってくれなかった、六人の駄目な牛若丸だよ。あそこの頭目が奇怪きっかいな戦餓鬼でね。人間の体をいじって空飛ぶ兵隊にしたいなんて言うから、おあつらえむきかと思って。それで、育ち損ないの牛若丸は九郎……ああ、お舎那さまのことね。頃合いを見て、彼に捨てさせていたんだ」

 地下室から文月を連れて飛び出す時、清応がそれを目にしたのはごくごく一瞬のことでした。ですが、その光景を忘れようはずがありません。六人の天狗は、ただ文月とむやみに似ていただけではありません。阿螺村で時をまたいで育てられ、そして棄てられた、まさしく文月本人だったということなのです。

「九郎もまた、平泉で死ぬ前に僕が拾った牛若丸、源義経みなもとのよしつね本人。と言ったって、きみらにはわかるはずもないよね。清応ははるか昔の生まれだし、文月なんか、その名前になる前の本人なんだから」

「やめてくれ……もうわけが、わけがわからないよ、僕は」

 わなわなと頭を抱えて、文月は砂利に再び膝を落とします。ですが、永陸はかまわず、懐かし気に目を遠くやり、なおも語り続けます。

「花見の席でただひとり、異形の僕にわけ隔てなく話しかけてくれた牛若丸。きみは本当に美しかった。でも、源平のいざこざや兄弟争いの中で育って、優しい心を薄汚く汚されてしまった三十路みそじの九郎を見た時、本当にもったいないと思ったよ。幼い頃のお前は清く正しく、人の救済の手本となれるほど美しく、尊い魂を持っていた!」

 永陸の語りはだんだんと熱を帯び、いつの間にか文月や自身の呼び方が変わっておりました。目の前にいる永陸、もとい鞍馬天狗が自らに陶酔し興奮する様に、清応はうすら寒さすら覚えます。

「そう! だから僕は牛若丸、きみを源義経なんぞにしないために、護法の心を学びながら清き童とだけ触れ合い、愛を育みあうために、この阿螺村を作ったんだ!」

 呆然としている二人を見て、永陸は一度こほん、と咳ばらいをします。そして、普段の仕草と同じように、指先で赤い頬を掻きながら、

「心蔵というのはね、きみの息子だよ」

 さして肝要なことでもないかのように、そう言ってのけたのです。

「正しくは、並び立ち異なる時の中で源義経になったきみが、静御前しずかごぜんに産ませた子、と言えばいいかな。血筋の近い者どうしは、不思議なことに自然と愛情を育みやすいからね。きみや他の牛若丸がとおになった頃を見て、愛を学ばすためにいつも連れてくるんだ。三人目かな、ただひとり除いて牛若丸はみんな、見事にその子を好いてくれたね」

 腰に手を当て胸を張り、まるでいたずらをやり通して偉ぶる子供のように、永陸はひとり満足げにうなずきます。

「滅茶苦茶だよ……そんなこと、あるわけ……許されていいはず、ない」

 文月は耳を塞ぎ、胸の震えにしゃくりあげながら、ぼそぼそと呟いています。理解の範疇をはるかに超えた永陸の、鞍馬天狗の目論見に、心が追いつかないのです。

「それでもまあ、今回の心蔵の振る舞いにはさすがに驚いたよ。だがそれも文月、きっときみがうまく育ってくれた証左だろうね。そう思うだろう?」

「大丈夫、文月、でたらめだ。もう耳を貸さなくていいから、文月!」

 清応は砂利に伏せった文月の肩を強く抱き、心が砕けてしまわぬよう、何度も何度もその名を呼びかけます。

「清応、清応っ……!」

 文月もまた、それが唯一心を保つ術であるかのように、自分を支える清応の手をぎゅっと握り、何度もその名を呼び続けます。

 ですが永陸は、二人の苦しむそんな様をも、待ち侘びていたものであったかのように、目尻を細く垂らしてより強く、陶酔の微笑みを浮かべます。そして。

「そうだ文月、大丈夫だよ。きみだけは、僕のよこした心蔵に心を乱されても、最後まで耐え切った。七人目にしてようやくできた、僕の理想の牛若丸、それがきみ、文月だったんだよ」

 その目論見の、人を人とも思わぬあまりに傍若無人さ。清応はあらん限りの怒りを込めた眼差しで、永陸をきっと睨みつけます。

 文月を惑わす真の魔の存在が、今まさに、清応の目の前にあるのです。


 § § §


 魔王殿の狭い板間で、心蔵と誰かが唇を絡ませあっているのを、文月は柱の陰から覗き見ておりました。

 心蔵の白い素肌は、同じくらいの背丈の見知らぬの子にちゅうと吸われるたび、灯明皿の炎よりも紅く火照るようでした。ですがその相手の肌はさらに赤く、まるで柱の漆のように真っ赤に染まり、餓鬼の類を思わせる異様な姿をしておりました。

 ですが心蔵は、その赤い肌の男の子に何かをされる度、時折切なげに、また心地よさげに吐息を洩らすのです。その度に文月は、自分の胸がひどく激しく、痛むほどに鳴り響くのを感じておりました。

 どうしたの、心蔵。

 心蔵はその人を好いているの。

 どうして苦しそうなの。

 誰なの、それは。

 の子同士のものはもちろん、男女の情交ですら、それまで文月は目にしたことがありませんでした。目にしてはならぬものだと思っておりました。ですが、こうして目の当たりにしてしまうと、何故か自分の足はそこから離れたがらず、自分の目はそれをじっと見ていたがるのです。

 熱気に水気が乾いたのか、文月は手の甲で目をこすります。ですが、そのわずかな合間に、どうしたことか、心蔵の体を弄んでいた相手の姿がふっと消え、

「きみもおいでよ、文月」

 代わりに誰かが間近でささやく声が、文月の耳を凍らせました。

 文月はびくりと体を強張らせます。その男の子の声には、まるで聞き覚えがありませんでした。村の童ではないようでした。そして、心蔵の元から姿を消した途端、たちまち自分の背後に現れるような、得体の知れない相手です。そんな相手に無暗に逆らうことなど、文月には思いつきません。

「ね、ほら」

 文月の背中にぴたりと身を寄せたその男の子は、手のひらを文月の腹に、尻に、内ももにゆっくりと這わせ、そして股座またぐらでどくどくと熱を溜めている陰茎を、布越しにくすぐります。

「いっしょにしよ?」

 正体の知れぬその感覚から、文月は逃げることができませんでした。のぞき見をしていた後ろめたさも、文月にそうさせておりましたが、何よりその者の手のひらから伝わる奇妙に甘美な心地よさが、文月の身から逃げる気力を消し去ってしまったのです。


 その見知らぬ男の子の正体もまた、鞍馬天狗の化けたものでした。ですが、当の文月がそれを知るはずもありません。

 魔王殿の奥、畳何畳分もない狭い板間に、素裸の心蔵がおりました。心蔵は、男の子の姿の鞍馬天狗に手を引かれ現れた文月を見て、先ほどまでの火照った表情はどこへやら、愕然と目を見開いたのです。

「待たせたね、心蔵。さあ、続きをしようか」

 鞍馬天狗は文月をそこに立たせ、再び心蔵の手を取り、背を抱き、ゆっくりと押し倒します。ですが、心蔵はその小さな手で鞍馬天狗の胸を押して、ほんのわずかだけ、嫌がるようなそぶりを見せたのです。

 文月の目は、それを見逃しはしませんでした。そして。

「だ、だめだよ。やめてくれ」

 文月の震える唇から、そんな言葉を洩らしました。聞きつけた鞍馬天狗の手が、そこでぴたり、と止まり、

「へえ、やめてほしいんだ」

 さも可笑しそうに言いながら、ゆっくりと文月のほうを振り返ります。心蔵も目を丸くして、棒立ちでかたかたと手を震わせている文月のほうを見るのです。

「どうしてやめてほしいの?」

 立膝で板間をよちよち歩いて文月に近づき、鞍馬天狗はうつむいた文月の顔を覗き込みます。そして。

「ねえねえ、聞かせてよ文月、どうしてやめてほしいのか。きみは心蔵を好いているの?」

「そんな……そうじゃなくて」

「そうじゃないの? じゃあどうして? 心蔵が誰と睦まじくしようと、きみには関係ないんじゃあないの?」

「か、関係なくなんてな……」

「それとも? 好いていた子が知らない抱かれるのは嫌かい? どうして嫌なの? 心蔵はきみのものじゃあないよ? 心蔵は僕をあんなにも受け入れていたの、見たよね?」

 鞍馬天狗はひどく執拗に、そしてひどく愉快そうに、文月を問い詰めます。目をそらそうと文月が顔を背けるたび、そちらに首を曲げて覗き込みます。そして、鞍馬天狗が畳みかけるようにぶつけてくる無遠慮な問いかけの中で、文月は知らず自ら悟ることになったのです。ぼくが心蔵に抱いていたのが、きっと恋というものなのだ、と。

 ならばどうして、心蔵にこの者を近づけたくないのか。

 格子を挟んで覗き見た心蔵は、それは心地よさそうにうっとりとし、鞍馬天狗の愛撫を受け入れているようでした。その時覚えた自分の感情が何であったか、文月はしっかりと見つめました。

 そして。

「そうかもしれない」

 ひとり言のようなその一言が、文月の口からこぼれ落ちます。

 鞍馬天狗の口の端が一度、嘲り笑うように斜めにきゅうとつり上がります。

「心蔵が僕を見てくれなくなったらいやだし、心蔵が誰かに奪われて僕の前からいなくなるものいやだ。心蔵がひょっとしたら、僕のことを嫌っているのかと思うと、本当につらくて、苦しいよ」

 いつか気づくかもしれなかった負の心に、無理やりに気づかされた。文月はそう感じました。ですが、文月は逃げず、胸の内の己と見つめあいます。あばらの内側に溜まった、何かどろどろと黒いものを吐き出すような気持ちで、文月は抱いていた思いを、抱いていても自ら見つめることのなかったその気持ちひとつひとつを、言葉の型を為して打ち明けてしまいたかったのです。

「心蔵に誰かが触れるのも、心蔵が誰かに触れるのもいやで、僕は胸が苦しくなる。僕だって触りたいし、抱き合ってみたい。でも」

 心臓をえぐり出そうとでもするかのように、文月は自分の胸に爪を立てて、ぎゅっと握ります。そして。

「そんな僕の気持ちなんて、どうでもいいんだ。だって」

 文月はゆっくりと顔を上げ、ひとつ小さく息を吸ってから、大好きな心蔵に向かって、やわらかく微笑みかけたのです。

「僕の好きなきみが、しあわせでないのなら、それだけが絶対にいやなんだ。それだけなんだよ」

 今はただひとり心蔵だけが、文月の目に映っておりました。

 文月はどうしてか、自分の胸に溜まった汚泥のようなくらい感情の奥底に、最も大切なその真実があると、悟っておりました。嫉妬や欲。餓鬼どもが背負う業のようなどんなに醜い感情に飲み込まれても、決してけがされることのない、小さな小さな透明なものがあることを。

 文月が自らの感情を吐露する間、心蔵はただ文月の心を案じ、じっと見守っておりました。目と目が合い、文月が一歩踏み出し、心蔵のほうへその手を差し出そうとした、その時。

「あああっ、素晴らしいよ文月!」

 その手を引いたのは、恍惚の笑みを満面に浮かべた鞍馬天狗でした。

「それだ、僕が求めたのはその御心なんだよ、文月!」

 不意に手を引かれてよろめいた文月は、板間にどたりと倒れ込み、あえなく鞍馬天狗に組み敷かれます。

「今まで何度もこうして膳立てをしてやってきた。だがずっとだめだった! だめだったのにどうしてお前だけが、その御心みこころを手に入れたのだろうね。まあいいさ、後からじっくり考えるとするよ。さあ、今はほら、僕に抱かれてその歓びを共にしよう、さあ!」

 ひときわ声を高くしてまくしたてる鞍馬天狗の顔は、今にもむせび泣きそうなほどに喜びにうち崩れておりました。組み敷いた文月の両手を、いともたやすく片手で抑え込み、空いた片手で器用に衣を脱がせてゆきます。露わになった胸元に、じゅううと音を立てて何度も吸い付きます。

「あっ……やめろ、何を、何をするんだ!」

 身をよじって文月は逃れようとしますが、手首を押さえ込む鞍馬天狗の手は硬く、びくりとも動きません。

「ああうれしい、美しいよ文月! お前のためにこの村を作った甲斐があった。何度も何度もお前をさらって、何人も有象無象うぞうむぞうの童どもをあてがった甲斐があった」

 鞍馬天狗は興奮に任せ、その見た目から推し量れないほどの膂力りょりょくで、文月をあっさりとうつぶせにひっくり返し、衣をめくって尻をむき出しにさせます。そして。

「さあさあ! その身で僕を受け入れておくれ、文月」

 自らの股座に生えた、びくびくと反り返り天井を仰ぐ陰茎を剥き出しにした鞍馬天狗は、

「ほら、歓びたまえよ、さ――!」


 その左胸からも、ひと振りの短い刃を生やして、ぴたり、とその手を止めました。


「……これは、なんだ?」

 鞍馬天狗は、自分の赤い肌の胸に突然生えた刃に、ゆっくりと目を落とし、うわ言めいてつぶやきます。文月を捕らえていた手を外し、刃の感触とそれを濡らす血の温かさを確かめるように、何度か握り、撫ぜ回します。

 それは、心蔵が愛用していた、黄金色の独鈷の剣でした。心蔵は、鞍馬天狗が文月を蹂躙しようとする様を見かね、普段どおり携えていたその剣で、鞍馬天狗の背中を刺し貫いたのです。

「くく、お前の相手は後だと、言っておいたはずなのにな」

 鞍馬天狗の口から、つつうと赤い血がひと筋こぼれます。ですが、まるで刺さっている刃など意に介さぬかのように、後ろの心蔵を振り返ります。

「思い上がるな、白拍子しらびょうしの捨て子風情が。お前など、僕の牛若丸を育てるためのに過ぎんというのに!」

 つい先ほどまで恍惚としていたその赤ら顔は、見る見るうちに鬼神のごとき憤怒の形相に変わります。そして、その両手を心蔵の首を掴み、ぎゅうぎゅうと締め上げます。

「や、やめろ! 心蔵を離せ、離してくれ!」

 文月は鞍馬天狗の背中に掴みかかります。ですが、その腕を何度引っ張ってもびくとも動かず、心蔵の体を軽々と持ち上げてしまいます。

 心臓は苦しみながら、手足をばたつかせます。その時、偶然引っかけた燭台の灯明皿が、かたんと音を立てて落ちました。板間にまき散らされたなたね油が、ぼう、ぼうとそこかしこで火を上げます。鞍馬天狗がそちらに目をやったわずかな隙に、心蔵は鞍馬天狗の胸に刺さった刃を、足で思い切り押し下げたのです。

「う、ぐ、ぎゃあああ!」

 まっすぐに降りた刃は股座まで、鞍馬天狗の陰嚢まで届き、縦に切り裂きました。さしもの鞍馬天狗も痛がって吠え猛り、のたうち回るたびに油が跳ねて、炎はとうとう柱に燃え移ります。

「心蔵、心蔵……っ!」

 鞍馬天狗に放り出された心蔵は、すでにこと切れておりました。紅色でやわらかそうだった唇は紫色に青ざめ、それでも薄く微笑みを湛えておりました。

 炎はやがて、板間でびくびくと痙攣している鞍馬天狗の体を飲み込み、魔王殿の内側を隙間なく覆い尽くしました。ごうごうと唸る炎は、さらに文月のほうにもその手を伸ばします。

 文月はまだ温かい心蔵の亡骸に抱いてすがり、わあわあと泣きました。このまま心蔵とともに、ここで果てるつもりでおりました。ですが、その時。


 生きて、文月。


 その耳に、心蔵の声が届いた気がしたのです。

 文月ははっと泣き止み、目の前の心蔵を見ます。ですが、それは確かに物言わぬ亡骸で、ぴくりと動く様子もありません。

「心蔵?」

 文月がもう一度だけその名を呼ぶと、心蔵の背にふわりと光が集まり、白い翼の姿を為して、


 びゅごうっ


 文月を思い切りひと扇ぎしたのです。

「わあっ!」

 突然巻き起こった突風に、文月はたまらず吹き飛ばされます。開け放しだった木戸きどから外に放り出され、浅く雪の積もった地面にどさりと落ちました。

「そんな、心蔵、心蔵!」

 魔王殿に向かって、文月はなおも叫びます。そんな文月の耳を再び、どこからか届いた心蔵の声がくすぐってゆき、そして遠く彼方へと消えてゆきます。


 大丈夫だよ、文月、きみは大丈夫。

 だって、ほら。


「大丈夫なもんか! ぼくは……」

 そうして炎に向かって叫ぼうとした文月を、背中からしっかりと抱き止めたのが、文月を案じ駆け付けた、清応だったのです。

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