七幕 鴉天狗《からすてんぐ》
灰色の重い雲の下、金剛床の中央で、文月はお舎那さまの前にかしづきます。
「お願い致します」
清応も、そして他の童たちも、じっと息を殺してその様を見守ります。
「では」
わずかな躊躇いを見せながら、お舎那さまは清応の額に手をかざします。そして何事か唱えるとその手のひらが輝き始め、光の
何が起きても見逃すまいと、清応の目は文月に釘付けのままでした。両手は無意識に手のひら同士を合わせ、祈りの所作を見せていました。まばゆい光と巻き起こり始めた風に、童たちは顔をかばい目を背けます。ですが、清応ひとりだけは、決して文月から目を離しません。
どうか尊天さま、文月に翼を。
出来ることならば僕の翼を、文月にそのまま渡してもいい。
どうか。
やがて光は収まり、潮の引くように消えてゆきます。
清応は何度か目を凝らして、かしづいたままの文月の背中を見ます。ですが、そこには何もありませんでした。光の輪も、自分や永陸や心蔵のような、翼も。
全身からくらり、と、血の気が引くのを清応は感じました。
そんなはずは、と清応が身を乗り出して言いかけた、その時でした。
ざぁっ、と再び、地を這うような突風が、あたりの童たちを襲います。
「わあっ!」
一度は静かになって、油断したのでしょう。あまりに強い風に、体の小さな杏点は尻もちをついてしまいます。永陸が翼を開いたその時よりも、はるかに強く荒々しい風が起こったのです。
舞い上がった砂塵に一度は閉じてしまった目を、清応が再び開いたその瞬間。
ば ざんっ
文月の背中に、翼が開いたのです。
やった。と、清応は思わず喜びの声をあげそうになりました。ですが、童たちの間に流れる雰囲気が、決して喜ばしい時のそれでないことに気付き、今一度かしづいたままの文月を見ます。
「なんだ、これは」
お舎那さまは驚愕に顔を強張らせ、後じさり、腰の刀に手をかけます。まるで恐るべき餓鬼を目前にしたかのような振る舞いに、清応は
「お舎那さま、僕は……」
文月はゆっくりと立ち上がり、まだ夢見心地のようなうつろな目で、肩越しに自分の背を見ます。そして、己の背中に顕れたそれを見て、両目を丸く見開きます。
「ねえ、清応。僕、どうなってるんだ」
今にも泣き出しそうな弱々しい声の文月に、清応は応えることができませんでした。
文月の背に顕現したのは、枯れた
「きみの心にはまだ、魔が潜んでいるんだよ」
滝つぼの二人の頭の上、虚空に
「い、いきなり何なんだよ、きみは」
「魔王殿で心蔵と、何があったの?」
ふぁさり、と一度翼をはためかせた永陸は、さっきまで清応が座っていた岩場に降り立ちました。心蔵の名がその口から出た途端、涙に温まっていたはずの文月の顔が、再び凍り付くのを清応は見ました。
「何もない。僕らではあの回禄はどうにもできなかった」
文月の代わりに清応が口を開きましたが、永陸は聞く耳を持ちません。
「ねえ文月、きみは後ろめたいことを抱えたままで、人の心など救けられると思うかい。ううん、きみのことも、誰も救けられやしない。いいのかい、それで」
文月は永陸に言われ、水面に目を落としてうつむきます。清応の手が少しゆるんでしまった隙に、文月はそっとその身を離してしまいます。
「後ろめたいことなんて、あるはずがない。きみは、何が言いたいんだ」
「心蔵、きみのせいで死んだんだろ。文月」
清応は唖然として二の句も告げず、文月を振り返ります。文月はまるで、清応の目や永陸の言葉から逃れるかのように、顔を月の光から隠すかのように、両手で濡れた頭を抱えて震えています。
「ごめんね文月、こんなことを言って。でもわかってほしいんだ、きみが心の奥に秘めたものを知った上で、僕はきみを救けたいんだよ」
「きみは何なんだ、永陸……どうして、何できみがそんなことを言えるんだ。心蔵が、文月のせいで、だなんて!」
胸の早鐘を右手で必死に抑え込むようにしながら、清応は永陸に問います。何故永陸は、さも心蔵の死の真実を知っているかのような口ぶりで、文月を責めるのだろう。永陸が現れたのは、心蔵が死んだ数日の後のことなのです。文月も自分も、あの回禄の夜のことをまともに口にはしておらず、その真実を知っているのは文月ひとりのはずでした。
心蔵の生まれ変わりか、あるいは亡霊の類か。恐怖に狂いそうな頭を必死に回して、清応は考えます。僕は今、文月のために、どうするべきか。しかし、そのさ中。
「そうだ、僕のせいなんだ」
文月がとうとう、耐えきれなかったものを吐き出すように、言ったのです。
「文月、違う。きみのせいじゃない。きっと文月のせいじゃ……!」
夜の水面に今にも沈んでゆきそうな文月を、清応は両肩を掴んで、必死に持ち上げ、言い聞かせます。ですが。
「僕が、心蔵のことを、
文月の言葉を耳にした時、清応の胸の内側のどこかから、ぴしり、と何かが凍りつくような音が、聞こえたのです。
文月の黒い翼は、清応や永陸がそうであったように、光の輪に形を変えて、その背に吸い込まれ消えました。
「こんな……今までこんなものは、見たことがない……!」
呆然としたままの文月の姿を見ても、お舎那さまはまだ、刀の柄から手を離そうとはしませんでした。
心蔵や永陸がそうであったように、
ですが、童たちはもちろん、村の始まりからこの儀を執り行ってきたお舎那さまですら、今の文月のような
「僕は、どうなるのですか。お舎那さま」
文月は努めて平静に、ですが不安に満ち満ちた震える声で、お舎那さまに尋ねました。心にはまだ、魔が潜んでいる。永陸にそう言われた矢先、まるでそれを
「尊天さまはまだお認めじゃないんだよ、きっと」
お舎那さまの代わりに答えたのは、やはり永陸でした。憐れむような眼差しで、文月をじっと見つめておりました。清応はたまらず飛び出し、その目から文月をかばうように立ちます。
「いいや、これはお認めになられた証だ! 翼の色なんて関係ない。文月は、文月が積んできた徳は、絶対に……!」
清応は必死に言い張りますが、他の童たちは文月から目を背けるように、各々うつむき、押し黙っています。
「清応、もういいよ。ありがとう」
文月は力なく笑みをこぼします。そして、清応をそっと押しのけて、肩を落として金剛床を降ります。
どうなるのだろう、どうにもできないのだろうか。遠く離れていく文月の背に、清応がうなだれ、その手で彼を引き留めるのを諦めようとした、その時。
「まだひとつ、試すべきことが残っている」
お舎那さまの言葉に、二人ははっと顔を上げました。
§ § §
その晩、文月とお舎那さまは、山門の前に立っておりました。
「これからお前が向かう先には、この世の餓鬼の類のすべてがいると思え」
山門を通る丁符の片割れを手渡しながら、お舎那さまは言いました。
「戦火をいたずらに広げ、命のありようを
「そんな……!」
あまりの難題に、清応は耳を疑いました。これまで餓鬼祓いは必ず二人以上の童で、あるいはお舎那さまについて、助け合いながら行うものでした。それならば、万が一餓鬼を祓えずとも、いつか鈴経や杏点がそうしたように、空いた誰かが丁符に門を開くように頼み、村へ逃げ延びることもできるのです。
「お舎那さま。やはり、自分も一緒に!」
清応はこらえ切れず申し出ますが、お舎那さまは首を縦には振りません。
「ならぬ。文月ひとりで、その翼の真価を
「ですが!」
収まりのつかない清応の手を、傍らの文月がすっと取りました。そして、懐から取り出した小さな何かを、清応の手の中にそっと託します。
「これ、きみが預かっていて」
それは、かの魔王殿の焼け跡に心蔵が遺していった、独鈷の剣のかけらでした。文月が丁寧に拭って磨いたのでしょう。黒いすすの汚れは微塵も残っておらず、回廊の灯を映して慎ましく輝いておりました。
文月の指が離れるまでの少しの間、清応はそれをどうすべきか、迷いました。文月に返して持たせて行けば、心蔵が守ってくれるかもしれません。ですが同時に、そのまま心蔵が文月を連れ去ってしまうのではないか、そんな考えも浮かんでしまい、清応は何も言えずただうなずき、受け取ったそれを握りしめました。
ありがとう、とでも言うように、清応に向かって微笑みかけます。そして。
「開門を、お願い致します」
覚悟の定まった静かな顔で、文月は門の前へと踏み出しました。
お舎那さまが何事か唱えながら丁符を掲げると、山門はひとりでにぎぎぃと開き、その向こうには闇夜の空が広がっております。
文月が目を閉じ、すぅと息を吸うと、背中に光の輪が浮き上がり、再びあの黒い翼が顕れます。門の向こうの闇夜に溶けて沈んでゆきそうなその黒は、清応の胸を不安で満たしてなりません。
「では、行って参ります」
文月は一礼した後、しゃん、と砂利を蹴って跳ね、門の向こうへ飛び込みます。
村を覆う暗雲が、飢えた獣のように、ぐるぐると低い唸りを上げておりました。
§ § §
山門を出た文月が降り立ったのは、夏のさ中の、雑木林のただ中でした。
茂みにかがんで、文月は息をひそめます。虫の声と草いきれが肌にまとわりつくような蒸し暑さに、たまらず顔をしかめながら、闇にじっと眼を凝らします。
木々の合間からぽつぽつと、
ばきゃん!
ばきゃん、ばきゃん!
怪音とともに突如として白い光が差し込み、文月は思わず目を背けます。
「わあっ!」
だがわずかに間に合わず、閉じたまぶたの裏に光の残影が焼き付き、体の平衡感覚をくらくらと見失います。なんだ、何が起きたんだ。薄く細く目を開けると、自分の周囲数尺だけが、昼間のように明るく照らされているようでした。
「捕獲!」
誰かが鋭く叫びました。これはまずい、ここにいてはいけない! 文月は背中の翼を羽ばたかせ、強く地を蹴ります。ですが、
「うわあっ!」
頭の上に急激に、重く硬いものが圧し掛かります。何
「網引け! おい、飛んで逃げるぞ!」
「この天狗め、暴れるんじゃない!」
逃げなきゃ、逃げなきゃ、誰か! 文月は必死に手足を、翼をばたつかせ、重い網を引っ張りながら空へと逃れようとします。腰の剣には手が届かず、錫杖は落ちた拍子に手放してしまいました。
そうだ、お舎那さま。文月は上空に向かって羽ばたきながら、懐にしまっておいた丁符を取り出します。そして。
「お舎那さま、助けて下さい。お舎那さま……!」
丁符に向かって必死に声を張り上げ、助けを求めました。ですが。
文月が一縷の望みを託したその丁符は、ひとりでに小さな火に包まれ、見る間に燃え尽きてしまったのです。
「そんな……!」
絶望に目を見開く文月に、さらなる追い打ちを仕掛けたのは、
たぁあん、と森にひとつ響いた、乾いた銃声でした。
ふと熱のようなものを感じて、文月は自分の鈴懸の、右肩あたりを見ました。
そこにはべっとりとした血の染みが、内側から、自分の肌から、じくじくと広がっておりました。
くらり、と意識が揺れ、文月は羽ばたく力を失いました。そして引力と網に容赦なく引かれるまま、釣瓶のようにすとんと地面に落ちてゆきました。
「もう慣れたものだ、七羽も狩っていればな」
七羽? 狩り? まさか、これは。
文月は歯を食いしばり、誰かが言ったその言葉の意味を懸命に考えようとします。ですが、体中の痛みと失血で、視界と意識が少しずつ、暗く、色あせてゆきます。
清応、逃げて。あの村から、どうか。
時は昭和、太平洋戦争も末のころ。
第九陸軍技術研究所、またの名を登戸研究所。広い敷地のその片隅で、清応の無事を願う自分の意識が暗く遠く消えてゆくのを、文月は感じておりました。
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