六幕 月と滝

 清応の背中で、衣をとおして晴れ空高く羽ばたいたのは、それは大きく立派なわしの翼でした。

 両脇に七本、並び桜を従えてそびえ建つのは、三尊尊天を奉る本殿金堂ほんでんこんどうです。その前庭、平らな石に六つ角の星の紋が刻まれた金剛床こんごうしょうの上で、顕現の儀は執り行われます。

 かしづく清応の額に沿えたお舎那さまの手が、ぼんやりと金色に光っております。お舎那さまの身を通じて清応の魂を試した尊天さまの御心が、護法童子にふさわしいだけの徳を見出し、その背に翼を顕現させたのです。

「邪を祓う矢羽根にふさわしい、鷲の翼だ。弓矢で幾多の餓鬼を祓った功徳くどくが、像となったのであろう」

 童たちが輪になって見守る前で、清応はゆっくりとまぶたを開きます。おそるおそる自分の背中を見ると、まるで重みは感じないのに、自分の背中とその両の翼がつながっている感覚が、確かにあるのです。小さく羽ばたく姿を思い描くと、翼はその通りふぁさりと一度空気をあおいで、ゆるやかに風を起こすのです。

 清応が文月を振り返ると、文月は嬉しそうに微笑みをたたえ、清応の菩提を祝福しておりました。ですが、清応はまだ喜ぶことはできません。これから顕現の儀を受ける文月が、同じように尊天さまに認められなければ、清応はひとりでこの村から旅立たなければならないのです。

 どうかお願いします、尊天さま。自身が儀を受ける前よりもはるかに神妙な心持ちで祈りながら、清応が金剛床を降りた、その時でした。

「ねえ、僕もいいですか?」

 永陸が手を小さく挙げ、童の輪から一歩前へ出たのです。

「お前にはまだ、その……早くはなかろうか」

 永陸の突然の申し出に、お舎那さまはさすがに当惑しているようでした。ですが、清応はおや、と気にかかります。何年も餓鬼祓いを務めてようやく受けられる顕現の儀です。村に来てまだほんの数日の永陸が望んだとて、本来であれば到底叶うものではなく、普段のお舎那さまであれば「不届千万」とでも一蹴して当然のところでした。

「駄目で元々ですよ、お舎那さま。でも、これから餓鬼祓いの徳を積むのに、目途めどを立ててみてもいいのではないですか」

「目途と言うと?」

「ここに来てから僕も、少しは餓鬼祓いをお手伝いしてきたじゃあありませんか。あとどのくらい徳を積めば、その、尊天さま? がお認めになるのかなって」

 首を傾げる永陸に、お舎那さまはふむと考え込んでしまいます。ですが、

「どのくらいだなんて目安を考えて徳を積んだって、そんなもの尊天さまがお認めになるはずないじゃないか!」

 今度は鈴経が、珍しく声を荒らげます。永陸の振る舞いが、元々の生真面目さにさわったのでしょう。金剛床を囲んで、童たちもにわかにざわつき始めます。

「なら、よい機会だ。望む者がいるなら、永陸だけでなく皆に平等に儀を執り行おう。確かに何が不足しているか、儀を通じて尊天さまに教わることもあるかもしれぬ」

 それでよいか、とお舎那さまは鈴経に尋ねると、鈴経はまだ納得の行かぬ顔のままでしたが、それでもこくりとうなずきます。それを見た永陸はすぐさま金剛床の真ん中に飛び乗り、清応がしていたようにかしづいて目を伏せます。

 童たちは途端にしん、と静まり返ります。固唾をのんで見守る中で、お舎那さまが何事か唱えて祈り、永陸の額におもむろに手のひらを向けます。すると。


 ひゅごうっ


 恐ろしく強い陣風が巻き起こり、童たちの身を煽りました。

「わあっ!」

 叩きつけるような風圧に誰もが思わず顔をかばい、両膝を踏ん張って堪えます。いったい何事が起きたのか。清応はどうにか金剛床のほうを見ようと、恐々薄目を開けます。すると。


 なんと永陸の背には、湖水を羽ばたく白鷺しらさぎもかくやと、広くまぶしい白妙の翼が開かれていたのです。


「そんな……!」

 真っ先に驚愕の声をあげたのは、他ならぬ文月でした。もちろん清応も、驚きのあまりただ言葉を失っておりました。何故ならば、永陸の顔かたちと同じように、羽ばたかせた白い翼もまた、心蔵が授かったそれにそっくりの姿かたちをしていたからです。

「あ、もらえたよ、ほら」

 文月や清応が受けた衝撃の大きさに比べ、永陸の振る舞いはあまりに軽く、まるで大したことのようにそう言いました。ぴょんぴょんと跳ねるのにあわせて、ふぁさふぁさと背中の翼もはためきます。

 そして、永陸がふわふわの羽毛を背中に合わせて小さくたたむと、翼は金色の光の煙となり、一度その骨組みを平たい光の円の形に変えた後、その背中にすっと吸い込まれて消えたのです。

 それを見て清応は、自分の翼がどうなっているか、背中を振り返りました。知らないうちに、鷲の翼は消えていました。どうやら自分で気付かぬうちに、永陸と同じように背中に収めてしまったようです。

「やっぱり、心蔵の……」

 杏点が口走った言葉のとおりを、この場の誰もが思ったことでしょう。永陸は満足したのか、得意げな顔で金剛床から降り、元のとおり鈴経の隣に戻ります。

「お舎那さま」

 文月は童たちの輪の外側を早足で歩いて、お舎那さまの元へ行きました。

 後ろを通った時、清応はうつむいた文月の、血の気の引いた真っ青な顔を見ました。清応が声をかける猶予もないまま、文月はお舎那さまに、

「日を改めてもよいでしょうか。具合が悪いのです」

 と尋ねます。ただならぬ文月の様子を案じたお舎那さまは「そうしなさい」とうなずき、言われた文月は踵を返し、逃げるように庫裏へと消えてゆきました。

「では誰か、他に試してみたい者は」

 お舎那さまの呼びかけに、杏点や幾人かの童が手を挙げたようでした。庫裏のほうを気にしてそわそわとする清応に、

「行ってあげたら?」

 永陸は当然とばかりに言いました。

「きみは、きみは一体何なんだ」

 今の清応には、永陸が恐ろしくてなりませんでした。顕れるはずのない翼が、こうもあっさりと顕れて。その上それは、心蔵のものと見紛うほどにそっくりで。

「僕は何でもいいじゃない。でも、あの子のことはたすけてあげないと。このままじゃいつまでたっても、この村から出られないよ。だって」

 永陸はまた「んー」と、指先でほおを掻いております。そして。

「一緒に旅に出るんでしょう、きみたち」

 永陸は心配そうな顔で、そう言ったのです。

 自分の顔がかっと赤くなるのを、清応は感じました。気恥ずかしさに声を上げそうになりましたが、奥歯を噛んでどうにか堪えました。いつかの晩に話していたのを、聞かれていたのでしょう。

 大切にしていた内緒ごとを踏みにじられたような、そんな息苦しい心持ちになりました。清応は何も言わず一度だけ永陸を睨みつけ、文月の後を追いかけました。

 この永陸という童は、どこから、何をしにここに現れたのだろう。

 星から降りてきたとは、いったいどういう冗談なのだろう。

 そしてお舎那さまと、果たしてどういう関係にあるのだろう。

 清応の胸の中で、いくつもの不安と疑問が、ざわざわとうずを巻き始めるのでした。


 § § §


 それから三日の間は、おだやかな日々が続きました。

 鈴経たち同い年の童と思い出話の花を咲かせたり、尊天さまにも認められた弓の技を披露するよう年下の童たちにせがまれたり。清応は共に暮らしてきた童たちと、いずれ来る別れを惜しみあいました。

「ねえ、もう飛べるの?」

「そうみたい。見る?」

 白い翼を得た永陸もまた、童たちの間にあっという間になじみました。元々誰とも屈託なく接する性分のようで、言葉も多く交わすようになり、お舎那さまにも引けを取らない剣の技で童たちの稽古の相手をしたりと、村で共に暮らす仲間として、しっかりと信頼を得てゆきました。

 永陸は時に、童たちの両手を引いて翼で空を舞い、戯れたりもしておりました。歳は心蔵と同じ、清応の二つ下と聞きました。他の童たちと無邪気にじゃれあうその笑顔を見るたび、清応は同じようにして遊んでいた心蔵の姿を思い返し、やはり永陸は心蔵と深く関わる何者かであろうと、疑わずにはいられないのでした。

 文月はと言えばこの三日の間、毎晩皆が寝静まったころを見計らい、ひとり滝に打たれに出ておりました。日のあるうちのお勤めや餓鬼祓いは、普段と同じくそつなく行い、皆と他愛ない言葉も今までどおりに交わします。

 ですが、永陸の翼に再び心蔵を思い出したであろう文月が、秘めたままの苦悩にますます苛まれていることは、清応の目には火を見るよりも明らかだったのです。


 実は清応は、文月のことが心配だからと、出立を遅らせたい旨をお舎那さまに願い出ておりました。庫裏の二階の端にあるお舎那さまの寝所へゆき、正面切って相談に行ったのです。

 かつての心蔵の件、そして今の文月に気がかりを残していたお舎那さまは、快くそれをお認めになりました。そして、お舎那さまが文月のことを案じていた理由は他にもありました。実は文月はすでに二度顕現の儀を受けており、次が最後の機会になると言うのです。

「あの、もし、三度目の顕現の儀で尊天さまのお試しに適わなかった時は」

「その童は魂の時を巻き戻され、村に来る前の幼い姿に立ち戻り、元いた時間と場所に返されてしまうのだ」

 驚きを隠しきれない清応に、お舎那さまは続けてそう伝えたのです。

 清応はぞっとしました。もしこの間の顕現の儀で翼を得られなかったとしたら、あの楼蘭から漢へ続く道、陰謀うごめく旅路のさ中へ放り出されていたということでしょうか。

 そして、文月もまた次の儀が、最後の三度目になるというのです。

「心に迷いをいだいたまま儀を受けたとて、きっと尊天さまが文月をお認めになるはずがなかろう。清応、お前どうにかしてやれんか」

 眉間にしわを寄せ、お舎那さまはうんうんと唸り悩んだ果てに、そう言いました。

「僕も文月を、どうにか……してあげたいです。できるなら」

 文月のことを僕に託してくれようとしている。お舎那さまの意図を清応は感じ取り、その重圧にごくりと唾をのみます。

「そうだろう。お前が村に来て以来、お前たちは互いを高めあう良き友であった。出立の仕度で慌ただしい頃とは思うが、どうか文月を見てやってくれ」

 清応はこれを機と思い、文月が見事に翼を授かった折にはともに村を発ちたいと、願いをそのままお舎那さまに申し出ました。

 すると、お舎那さまは優しく微笑み、これにもうなずいてくれたのです。

「そうした習いもなくはない。護法童子の旅は、人々の心をたすくための道だ。この村で互いに心を救けあってきた童どうしが、その先も共にあることを誰が咎めなどしよう」

 迷いの中に目指すべき光明を見た気持ちで、清応はお舎那さまに深く深く頭を下げたのでした。

 そんな清応に、お舎那さまは「それと」と挟んで、こうも言うのです。

「永陸を、出来うる限り文月に近づけるな」

「……何ですって」

 その言葉の意外さに、清応は思わず聞き返します。

 普段は童どうしの仲たがいを誘うようなことなど、一切口にした試しのないお舎那さまでした。誰にも等しく厳しく、等しく優しい、頼もしい先達せんだつであると思っておりました。そんなお舎那さまが何故、わざわざ名指しで童の行いを阻むようなことを言いつけるのか、清応は気にかかったのです。

「どうしてでしょう」

「わからぬか」

 清応は少し考えてから、

「心蔵の、一件でしょうか」

 と言い、お舎那さまは苦い顔でうなずきます。

「もはや今更なのだろうが、心蔵に似過ぎたあの顔は、おそらく文月の心に悪い。お前たちはもうあの回禄かいろくのことを、むやみに思い返さなくともよい。次の顕現の儀まで、出来るだけそうはかってやったほうがよいのではないかとな」

 回禄で心蔵をうしなった文月のことを、おもんばかってのことなのでしょう。言いづらそうにしながらも、お舎那さまはそんな考えを清応に話して聞かせました。

「では、そのように」

 清応は頭を下げ、丁寧にふすまを閉じて寝所から下がります。

 ただ、清応はまだ今ひとつ納得がいきません。

 確かに永陸は永陸で、素直に文月のことを案じているようですが、それが文月の迷いとなるならば、遠ざけることもやむなしか。わずかながら清応の内にもそう思う節はあり、お舎那さまもまた、そうした気遣いを見せてくれたのです。

 ですが、考えをめぐらせる清応の内に、どうしても拭い去れない疑問がひとつ、浮かび上がってくるのです。

 ならば何故、今この時に、あの永陸なるものを連れてきたのか、と。


 § § §


「ひとりで来るのよくないよ、溺れたりしたらどうするんだ」

 滝つぼの真ん中より少し外れた、幾分か波のおだやかな水面に、白衣びゃくえ姿の文月を見つけ、清応は優しく声をかけました。

 顕現の儀から四日目の、月の明るい晩。滝に打たれに出た文月を追って、清応は寺を出ました。寝たふりで文月をやり過ごし、沢までの木の根道を行く文月の後をこっそり追いかけたのです。

「ごめん」

 そう言って、文月はひとつため息をつきます。そして、ゆっくりと水をかき分けながら、清応のいる水際の岩場まで寄ってきてくれます。

 清応は岩に腰かけて、文月は肩まで水に浸かって、二人は押し黙ったまま、揃って水面に映った月をじっと見ていました。

「お舎那さまが、二人で村を出ていいってさ」

 しばらくして清応がぽつりとそう言うと、

「ほんと?」

 文月は顔を輝かせて、清応を見上げます。

「うん、そう。だからさ」

「そうだね。僕、顕現の儀、認めてもらわないとね」

 二人はまた、しんと押し黙ってしまいます。ですが、文月の声には幾分か、気力が戻ってきているように聞こえました。それは今、二人が水面の月を見つめていたように、言葉なくとも二人が同じ希望を分かち合っていた、とても心地のよい沈黙でした。

 だからこそ今しかない、今だけにしよう。清応はそう思い、

「あのね、文月。心蔵のこと」

 今までどうしても口にできなかったそのことを、とうとう切り出します。

 文月はまた、水面に視線をふいと落としてしまいます。ですが、清応は言葉を続けます。

「訊いてほしくはないだろうから、僕は訊かないよ。でも、もしつらいのを胸に押し込んで無理に我慢しているのなら、いっそ吐き出してしまってほしいと僕は思ってる」

 清応の座る場所からは、ちょうど文月のつむじが見えました。しっとり濡れて月につやめく黒髪に、目がすうっと引き込まれてゆきそうになりました。

「ありがとう、清応」

 文月は押し殺すような小さな声で、そうつぶやきました。ですが、まだ清応のほうを振り向いてはくれません。文月は今度は水に映った影ではなく、空にたたずむ月を見上げ、「でもね」と言うのです。

「それを聞いてしまったら、きっときみは絶対に、僕を許しはしない。何より、僕自身が、僕を許せないんだよ」

 言葉の強さと裏腹に、文月の声はふるふるとか弱く震えておりました。水の中で握った拳と、髪の先の水のしずくが、文月が涙を堪えているのを、清応に教えてくれました。

 どうしてなんだ、と訊きたい心を、清応は自分の胸に手を当て、ぐっと抑え込みます。それでも、清応を案じるその言葉は、喉から飛び出ようと暴れるのです。そして、とうとう堪え切れなくなる、その寸前で。


 ばしゃあん!


 清応は岩から大きく飛んで、湖に飛び込みました。

「わあっ!」

 突然上がった水しぶきに、さすがに文月も驚きます。大きく波打った水面と森が、やがて再び静けさを取り戻したころ、


 ざしゃあん!


 今度は文月の目の前に、清応が飛び出してきたのです。

「ぷっほぁっ! つめったいもう、ごほっ、うえっ!」

 ぽかん、と口を開けたままの文月の前で、清応が激しく頭を振りながら咳き込みます。文月は清応の横に添い、背中を強く撫でてやります。

「もう、慣れないことするから」

 清応に向かって困ったように微笑む文月の目尻は、薄く濡れておりました。鼻に入った水を吹き出し、どうにかこうにか呼吸を整えた清応は。


 文月の背に手を回し、自分のほうへと力強く、抱き寄せました。


「いつでもいい。きみがきみのことを、少しでも許していいと思えた時に、話してくれればそれでいい。そうだよ、僕らは一緒に旅に出るんだから。僕がきみを、許さないはずがないんだから」

 ね、と清応が言うと、すん、と一度、小さく鼻をすする音が胸元から聞こえます。そして、それは二度、三度と数を増し、ひっく、と肩を震わせ声を漏らしたかと思うと、今度は喉の奥をぐっと鳴らすようなうめき声に変わるのです。

 泣くまい、泣くまいと懸命に耐え忍んでいるような、文月の不器用な、小さな小さな嗚咽でした。水に浸って重い清応の襟を、文月の手がぎゅっと握りしめます。

「どうしてもだめなら、お互いこのまま墓の中まで持っていこうか」

 清応は文月を抱きしめたまま、手のひらで文月の背を、肩を、ゆっくり叩いてやりました。自分の鼓動の半分の速さで、いつか文月が、清応が泣き止むまでずっと、そうしてくれていたように。


 ですが、清応と文月が身を寄せ合っていた、その頭上から。

「そうはいかないよ」

 今最も耳にしたくなかった声で、誰かがそう言いました。

 清応と文月は同時に、声のしたほうを見上げます。すると。

 月とはおよそ反対側、闇と白金しろがねのひとつ星を背に。

 白い翼を開いて中空に胡坐こざした永陸が、慈愛とも不敵とも取れぬ不可思議な微笑みを、その唇にたたえておりました。

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