デュース・アゲイン

「たえ先輩これ、ここ。どうやって書けばいい?」

 多恵香と日呂美は肩を寄せ合い、一枚の便せんに立ち向かう。

「えっと、彼女の……impressedインプレスド herハー……努力って何ていうの」

「……パワー」

「ヒロちゃん力技すぎでしょ、それ。ほら、辞書辞書」

 丸めて捨てた書き損じが、百円均一の小さなくずかごの中で、少しずつ山になってきた。教科書以外の英文を書く機会なんて、二人にはそうそうなかった。英語の授業、もうちょっと普段から真面目に受けておけばよかった。二人のそんな小さな後悔は、何とか力を合わせて埋め合わせることにする。

「で、彼女は十分、貢献しました……と」

「ガンマン志望二人増えたんだから、十分だよね」

 日呂美の部屋で二人が書いているのは、素子のスポンサーであったコルト社への手紙だ。素子が特待生を続けられるよう、二人でお願いしてみよう。多恵香が提案した時、日呂美も全く同じことを考えてくれていた。

 ただ、じゃあ英語で書かなきゃと多恵香が言うと、日呂美は途端に渋い顔をして見せた。

「日本のテニスに広めようってんだから、日本人の担当者くらいいるんじゃないの」

「そ、そうかもしれないけど! 向こうはアメリカの会社なんだし、こう、誠意っていうか!」

 日呂美の指摘に多恵香は一瞬だけ同意しかけたが、それでも多恵香は英語で書くことをやめなかった。きっと外人さんのほうが、おおらかに受け止めてくれる気がする。根拠にするには相当物足りない理由だったが、

「へいへい、たえ先輩が言うならそうしましょ」

 最後には日呂美は笑って、うなずいてくれた。

 駅近くに新しくできたブックオフで、ビジネスマナーの本や英会話テキストを探し、百円の本は何冊か手に入れて、高い本の中で参考になりそうなページをこっそりメモ帳に書き写した。ある程度手紙の形になったら、英語の先生に見てもらおうと決めている。番地に頼もうとすると「あ、俺数学の教師なんで」と逃げ腰だった。残念ながら今回ばかりは、頼りになりそうもない。

「そ、そうだよ。どうせなら、ほら、エースをねらわないと!」

「どっちかってゆーと、大穴狙いに近い気もするけど」

 まず日本語で書いた下書きを、わかる場所から英語にしていく。想像以上の苦戦に、便せんのストックが少なくなってきた。日呂美は慌てて、学習机からスケッチブックを引っ張り出す。ぱらりとめくると、三人の作戦会議でわいわいと書き込んだ、ごちゃごちゃのテニスコートが何枚も出てきて、二人の手はひと時、どうしても止まってしまう。

「すっごい書き込んだね、私たちね」

 ぽつりと多恵香が口にすると、

「うん、がんばった。私たち、めっちゃ頑張った」

 日呂美も目を細めて、手描きのコートを見つめている。少しの間だけ、二人は思い出をたどるようにしんと押し黙っていたが、

「いやいやヒロちゃん、なに過去形にしようとしてんの。来月もう秋の二年生大会でしょ」

 多恵香が日呂美の肩を手でぱしんと叩く。

「あ、そう、そうなんだよ。新人ガンマン、大丈夫かなあれ……」

 不安要素を思い出したように、日呂美は天井を見上げてため息をつく。

「さすがにもとちゃんレベルをいきなり求めたらかわいそうだって。一年なんだから」

「そりゃそうだけどさ。前出るのにも、後ろにもとちゃんがいるってだけで、何つーか、安定感がさ」

 ぶつぶつと愚痴る日呂美の横で、多恵香は「あ、そうだ」と手を打つ。

「手紙、もとちゃんがどれだけ凄かったか、もっと書いた方がいいかもしれない」

「え、まだ増やすの? こっから?」

「いいの! 書いた方がいい事は書くべきなの!」

 少し油断すると、すぐ思い出に浸りそうな自分を、多恵香は胸にぐっと押し込める。そして、「あーもうしょうがないな」と頬をかく日呂美を押しのけて、多恵香は無理やりスケッチブックに手を伸ばし、真っ白な新しいページを開いた。


「ゲームセット! 2対4、第一箱崎高校附属中学の勝ちです!」

 静まり返ったコートに響いた審判のコールは、いつでもはっきり思い出せるほどに、多恵香の耳にまだ生々しく残っている。

 加辺穴中学、所・岸縁・三團トリオは準決勝敗退。代表選手が決まり、形ばかりになった三位決定戦は、相手校の棄権で勝利となったが、多恵香たちが壇上に上がることはなかった。

 多恵香の見逃しで最後のポイントが決まった瞬間、誰もが言葉を失った。聞こえるべき打球音が鳴らず、ボールは力なくぽとりと地面に落ちた。何が起きたのかを把握できた者は、コートの外にも中にも、誰ひとりとしていなかった。

「なんで打たなかったんだよ、たえ先輩! なんで!」

 呆然と立ち尽くす多恵香に、日呂美は詰め寄った。理解不能だった。アタックをかけて、打ち返されるならまだいい。今の自分ならどんな球でも拾える。なのに。行き場を失った自分の戦意を、日呂美はどうしていいかわからなかった。

 素子はじっと、そんな二人を見ていた。多恵香が打たなかったのは、打てなかったのは、きっと何か理由がある。そして、日呂美もきっとそう思っている。素子はそう信じて、二人をじっと見守った。

 多恵香は力なく空を見上げながら、ひとり、

「……アゲハ蝶」

 それだけをつぶやくと、へなへなとコートに座り込んだ。

「……なに?」

 日呂美は最初、多恵香が何を言っているのかわからなかった。だが、アゲハ蝶、その言葉が何を意味しているかを察した瞬間、ぞわりと背中が冷たくなる。ひょっとして、まさか。

 近寄った日呂美を見上げる、多恵香のうつろな瞳。そこに。

「さっき、さっきヒロちゃんが助けた蝶がね、ボールに……」

 震える声でやっとそう言った次の瞬間、涙の塊が生まれて、あふれて、こぼれた。

「ごめん……ごめんね、二人とも」

 泣き出して、ごめんねを繰り返す多恵香を見て、日呂美の視界もじわりと熱く茹だった。ラケットをからりと落とし、声を上げて泣く多恵香を、日呂美は抱きしめた。多恵香の肩に自分の顔をぎゅっと押し当てても、日呂美の涙は止まってはくれなかった。先輩のせいかもしれない。自分のせいかもしれない。でも、こんな終わり方って。胸と喉を痛いほどに焼く悔しさを、どうしていいかわからずに、二人はただコートの真ん中で泣き続けた。

 素子はくいと顔を背け、二人に背中を向けた。マグナムをすぱんとホルスターに戻し、サンバイザーに瞳を隠した彼女の肩は、小さく震えていた。

「ラスト、運がなかったわね」

 去り際に安登岩が、素子の肩に手を置いてそう言った。多恵香がラケットを止めたのが何かのアクシデントだと、遠目に見て勘づいていた。安登岩が素子に向けたその言葉は、普段のように挑発するでも、馬鹿にするでもなく、ただその結末を悼むためだけに言った言葉だった。

 素子は「そんなことないよ」とかすれた声で言い、ぐすりと一度鼻をすする。そして。

「最高に運がよかったよ、私は」

 仲間たちを誇る気持ちそのままに、素子はぐしゃぐしゃの顔で胸を張り、笑ってそう言い切った。


 その後九月になるのを待たず、素子は加辺中カベチューから去っていった。

 多恵香たちの試合を見て、一年生が一人、二年生も一人、ガンマン志望の部員が手を挙げた。彼女たちにトリプルスを教える夏休み最後の練習を、三人でつつがなくこなして、それきり二度と顔を見せはしなかった。

 番地に素子の行方を聞いても、「特待扱いが保留になった」としか教えてくれなかった。素子自身が番地に、その事と、新学期の前に黙って去ることを伝えていた。

 素子が母親と二人で暮らしていたというウイークリーマンションも、多恵香たちが訪れた時にはもう誰もいなかった。名簿の電話番号にかけても応える者はなかった。こんな時、誰もが必ずひとつ電話を持っていればいいのに。公衆電話の受話器を置き、戻ってきた十円玉をつまみ出しながら、多恵香はそんなことを思った。

 多恵香と共に素子の行方を捜す間、

「こういうの、水臭いって言うんだっけ」

 日呂美は少しいら立った声で、そんなことを呟いた。そうだね、と多恵香は答えたが、自分が素子の立場だったら、ひょっとしたら同じことをしたかもしれないとも思う。

 引っ越し先も転校先もわからない。自分たちの無力さを感じながらも、多恵香たちはまだ諦めてはいなかった。まだガンマンの特待扱いが「保留」らしいということ。それが唯一の希望だった。

 トリプルス優勝はできなかったけれど、素子がガンマンを続けられるよう、自分たちにできることはないだろうか。かつて三人で対第一箱崎ヒトハコの作戦会議をした時のように、二人は考えに考えた。そして、素子が残していった唯一の希望に賭けて、多恵香たちは手紙を書くことにしたのだ。


「よし、出した!」

 加辺中カベチュー近くの郵便局を出て、多恵香と日呂美は小さな達成感にうなずきあう。宛先はアメリカ、コネチカット州。コルト・ファイヤーアームズの本社だ。送り主は多恵香と日呂美の二人。多恵香の自宅の電話番号を、+81とつけて書いておいた。

「あとはまあ、祈るだけだね」

「うん、無事届くのと、英語が通じるのと、何か返事が来るのをね」

「……たえ先輩、ひょっとしてこれ、結構ハードル高い?」

 そうかもね、と二人は笑う。それでも、今やっておかないと絶対に後悔する。多恵香と日呂美はもう、それを知っていた。

 土曜の昼下がり。少し前まで、三人で必死に練習していた時間。加辺中カベチュージャージにラケットバッグを背負った日呂美と対照的に、多恵香は私服のスカートと分厚い学校かばん。

「たえ先輩は、塾?」

「うん。受験勉強、全然してなかったし」

 そっか、と少し寂しそうに言って、日呂美は鼻をこする。

「高校、テニスやるの?」

 聞かれるかな、と多恵香が思っていたそのままを、日呂美は短く訊ねる。多恵香は「んー」と考える。肩までまた伸びてきた髪を、ラケットだこの薄くなった右手でいじりながら、

「……ガンマンになってたりして」

 多恵香はそんなことをうそぶく。

「え、うそ、マジで」

 目を丸くした日呂美に、多恵香は「わかんないけど」とはにかむ。まんざらでたらめでもない今の気持ちも、実は父が隠し持っていたリボルバーのガスガンを見つけたことも、まだ内緒にしておく。

 じゃあまたね、と多恵香は手を振り、テニスコートへ自転車を走らせる日呂美と別れた。通い始めた塾は一駅先だ。多恵香は淵野辺駅のホームでひとり、電線だらけの空を見上げる。

 青空に描かれたひと筋の雲は、あの頼もしかったマグナムの硝煙に。まだ強い昼の太陽は、すべてを賭けて追いかけた白いボールに見えてくる。

 この先きっと、みんなの道は分かれてしまうだろう。もう素子とも会えないかもしれないし、日呂美とコートに立つこともないかもしれない。

 あれだけ三人で頑張っても、第一箱崎ヒトハコには負けてしまった。そしてテニスに限らなくとも、何かの勝ち負けが誰かとの道を分かつことなんて、きっとこれからもある。もっと高く分厚い壁に、道をふさがれたり、分かたれたりすることだってあるんだろう。


 それでも私はもう、立ち向かうことを覚えた。

 ヒロちゃんが、もとちゃんが、自分自身のすべてを賭して戦うことを、私に教えてくれた。

 どんなに小さな自分でも、燃やし尽くして戦うことなら出来るんだって。

 火をつけるのをためらって残してしまったものが、きっと後悔になるんだって。


 その時手にしているものが、ラケットでなくても、マグナムでなくても。

 それでも私は、ヒロちゃんは、もとちゃんは。自分を燃やして戦うことを、きっともう、諦めない。


 エースをねらうんだ。

 三人で立ち向かった、あの日のように。


 エースにむかってつんだ、みんな!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エースに向《むか》って撃《う》て! トオノキョウジ @kyz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ