3‐3《スリー・オール》 ファイナルゲーム

「ゲームセット、1対4で加辺穴中学の勝ちです!」

 県立運動公園テニスコートに響いた主審のコールとともに、多恵香たちは「ありがとうございました!」と対戦相手に頭を下げる。拍手で迎える仲間たちの元へ小走りで戻りながら、多恵香は日呂美と、日呂美は素子と、素子は多恵香とハイタッチを交わす。

「たえ先輩いいじゃん、軽量化効きすぎでしょ」

「け、軽量化って言わないで!」

 耳の頭がはっきり出るほど髪を短くした多恵香を、日呂美は悪気無くからかう。

 母の知人が営む理容室に、多恵香は幼いころから通っていた。普段はなんとなく言われるまま「すいて軽く」する程度にしか髪を切ったことがなく、腰近くまで伸びた髪をただ束ねている多恵香だった。だが昨日は思い切って、名前を知っている数少ないヘアスタイル「スポーツ刈り」を、初めて自分からリクエストしたのだ。

 理容師のおじさんが「さすがにそれは」と笑いをこらえながら、女性向けファッション誌をぱらぱらとめくって見せてくれたのは、ベリーショートの外人女性モデル。じゃあそれで、とお願いしたきり多恵香はぎゅっと目をつぶり、どきどきしながら仕上がりを待った。

「いやいや、実はたえちゃんがバックとか振るたびに思ってたんだよ。尻尾からんだりしたら大変だなって」

「ね、さわやかになったよね」

 日呂美や素子だけでなく、利佳子たち同級生、後輩たちも、この日の朝の集合で多恵香の短髪を見た時、揃って「おおおっ」と声をあげた。瞬間、顔をぼっと真っ赤にした多恵香に、

「おっ、すげえ気合い入れてきたな、所!」

 番地はこの上なく嬉しそうに笑った。

 中学校総合体育大会、女子トリプルスの部トーナメント。参加校がまだ少ない今年度は地区予選を行わず、この日の県予選トーナメントの結果で、神奈川県代表二校が決まる。神奈川県中学校テニス連盟加盟校約百五十のうち、トリプルス参加校は二十四。この中で決勝まで勝ち抜いたトリオ二組のみが、この後の関東大会へ出場できるのだ。

 多恵香たち加辺穴中学は、トーナメントの中シードの位置に登録されていた。勝ち上がってきた二校を下し、ここまで順調に二戦を勝ち抜いてきた。勝つたびに多恵香は日呂美に「軽量化大成功だね!」とからかわれたが、嬉しそうな日呂美や素子とハイタッチを交わすたび、思い切ってみてよかったと多恵香は感じていた。

 そして、午後からの準決勝。多恵香たちを待ち受ける相手は第一箱崎ヒトハコ、四ツ頭・春地・安登岩トリオだ。ここまで来たね。いよいよだね。多恵香も素子も口には出さなかったが、緊張と興奮に胸の高鳴りが収まらなかった。そんな二人にとって、

「そんじゃ、向こうの芝生でお弁当食べようぜ、お弁当」

 普段と変わらない日呂美のふるまいは心強かった。専用弾薬の散るトリプルスは、ひと試合ごとにコートの整備が必要な為、第一箱崎ヒトハコとの準決勝までにはまだ余裕がある。三人各々がバッグから取り出したのは、母親が用意してくれた弁当と水筒。自分たちの家族までが皆、今日の試合にいつになく気合いを入れていることに、多恵香たちはくすりとする。

 初夏の陽に心地よく乾いた芝生に腰を下ろし、多恵香たち三人三様のお弁当を広げるランチタイム。他の三年生や後輩たちは、今も進行している別の学校の試合を観戦しに行っている。ボールを打ち合う音と、時折そこに混じる銃声。そして学校ごとに異なる個性あふれる応援コールが、近く遠くから高く響いてくる。

 三人ともがきれいに弁当箱を空にして、多恵香が魔法瓶の冷たい麦茶をふたに注いだところで、

「あ、たえ先輩ちょっとストップ」

 傍らに座っていた日呂美が、手をついて、ぐいと顔を寄せて来る。

「えっ」

 急に縮んだ距離感に、多恵香は一瞬だけどきりとした。日呂美の手は顔の横を通り抜けて、後ろのツツジの植え込みに伸びた。何だろうと多恵香が振り返ると、

「わっ」

 その目の前で、ふわりと黒い影がはためいた。

 多恵香は思わず顔を背けたが、すぐに日呂美と素子の視線を追って、空を見る。彼女たちが見たのは、ひらひらと右に左に傾きながら頼りなげに飛んでいく、夏のアゲハ蝶。

「クモの巣に、ひっかかったのが見えたから」

 日呂美は芝生でこしこしと指先を拭いながら、植え込みの向こうへ遠ざかっていく蝶を、満足げに見送っている。今まで見たことがなかった日呂美の一面に、多恵香は少し驚いて、

「おお、意外にやさしいんだねえ。ヒロちゃんは」

「うーるーさいなあ、意外にってなに、意外にって」

 多恵香と同じ感想をそのまま言ってしまった素子と、照れてはにかむ日呂美と笑う。

「やさしいのは元からだよね、ヒロちゃんは」

「ええそうですよ、こんくらいのやさしさは持ってますよ」

「ねー。ぶちキレぶっちーなんて嘘だもんね」

「ちょ、ああもう、たえ先輩……ッ!」

「こらこらたえちゃん、かわいそうだよ。若気の至りってヤツだったんだよ、ねえ」

 フォローしたと見せかけて落とす多恵香と素子に、日呂美は頬を膨らませる。テニス部の仲間とこんな冗談が言い合える日が来るだなんて、考えたことがあっただろうか。多恵香はたった数か月前と今とを比べて、自分が抱いているその思いの差に、改めて気づく。

 トリプルスを辞退しなくてよかった。そして、ヒロちゃんが組んでくれて、もとちゃんが諦めないでいてくれて、本当によかった。

「よっし、ぼちぼちウォーミングアップしとこう」

「――うん!」

 日呂美の声に、三人は同時にすっくと立ち上がる。さあ、いよいよだ。十分に休めた体と心を、決戦に向けて再び暖め始める。

 髪のかからない肩は、今までで一番軽いはずだ。

 三人で同じものを目指す足は、今までで一番速いはずだ。

 力と意志に満ち溢れている自分の手に、多恵香はぎゅっとラケットを握る。

 大丈夫だ。このトリオだったら行ける、絶対に。


「サービスサイド第一箱崎高校附属中学、レシーブサイド加辺穴中学。ファイブゲームマッチ・トリプルス、プレイボール!」

「さあ、来ぉーいッ!」

 多恵香たちの声が、今までのどの時よりも高く響き揃う。立ちふさがる静かな圧迫感に負けまいと、体の中の熱を高める。両足の親指のつけ根に体重を乗せる。いつでも、どこへでも走れる。

 四ツ頭が腰溜めにラケットを構える。アンダーカットが来る。多恵香はサービスラインとの距離を詰める。四ツ頭のラケットから放たれたのは、楕円形に歪んで見えるほどの横回転を伴うボール。これを返す練習は、何度もやってきた!

「はいっ!」

 遠ざかるように真横に跳ねたボールを、バックハンドの裏面でさらにこすり上げて返す。ネット前に落とすストレート。反応した春地が走ってくるのは、もう多恵香には見えている。来い! 地面すれすれからひねり上げるような春地のトップスピン。多恵香は迷わず、前に踏み込み、真正面で叩き落とす!

0‐1ゼロ・ワン!」


 ――ナイショーナイスショットカベチュー!(ナイショったえちゃん!)次もー取れるよ、もう一本!


 加辺中カベチュー女子ソフトテニス部に代々伝わる応援コール。学校名に後ろからプレイヤーの名前を重ねる合唱方式だ。多恵香がちらりと振り返ると、コールを切り出してくれているのは利佳子たち三年生。追っかけで声を重ねるのは牧場と桶、そして後輩たちだ。


 ――どんまい第一箱崎だいいちはこざき中学! 四ツ頭よっちーナイッサーナイスサーブ次一本!

 ―――どんまい第一箱崎だいいちはこざき中学! 四ツ頭よっちーナイッサーナイスサーブ次一本!


 対する第一箱崎ヒトハコは、筆頭の一人のコールを後から全員で復唱するスタイル。加辺穴中学女子ソフトテニス部の倍近い人数が、一斉に声を重ねる圧巻のコール。1ポイントのやりとりごとに行われるコート外の応援合戦が、公園全体に響くほどに盛んに行われる。

 大丈夫、十分通じる。アンダーカット対策はもちろん、苦手意識のあったボレーも、多恵香は日呂美に頼んで練習させてもらった。自分から攻められるほどではないが、来たボールを跳ね返すくらいの心構えはできている。多恵香はベースラインに戻り、日呂美のレシーブを待つ。

 四ツ頭、再びのアンダーカットサーブ。コート外へ向けて逃げていくボールに大きく回り込み、膝を落として低く溜め、

「そらァ!」

 こすり上げるて放つトップスピンでミドルを狙う。すでにコート中央まで走って来ていた四ツ頭が、ノーバウンドで返した球を、さらに日呂美が顔の高さのラケットで鋭角に跳ね返す。狙いは春地の足元。春地はラケットの先でひっかけるように球を浮かす。スマッシュのチャンス。日呂美は素早く肩を引き、狙い、振りぬく、その直前。


 ズギャゥゥ――ン!


 ラケットが捉える直前、ボールは空中で小さくバウンドした。安登岩の銃弾がわずかにボール下をかすめ、ミートのタイミングをずらしたのだ。

「うおっ!」

 ひるんだ日呂美の眼前にボールが落ちて来る。慌てて顔を背けるも、避けきれず背中にぽとりと当たる。

「ボディタッチ、1‐1ワン・オール!」


 ――どんまいカベチュー!(どんまいぶっちー!)次はー取れるよ、次一本!


「あいつら、またぶっちーって……!」

 日呂美は苦笑するも、多恵香の目にはそれがさして嫌ではなさそうに見えた。だが仲間の方に気が向いたその僅かな間に、四ツ頭は春地に何か目配せする。

 再び四ツ頭のサーブを待つ多恵香。緊張しながら、次の返球を頭の中で組み立てる。春地の方へ、もっと短く返してみよう。だが。四ツ頭が突然、高くトスを上げたのだ。

「――ッ!」

 上から打ち下ろす、ノーマルサーブだ。多恵香は素早く三歩後ろに下がるが、サーブの方が一瞬速い。サービスラインぎりぎりに刺さった直球を、重心を整え切れなかった多恵香は打ち切れず、ボールはネットにかかる。

2‐1ツー・ワン!」


 ――ナイッサーナイスサーブ第一箱崎だいいちはこざき中学! 四ツ頭よっちーナイッサーナイスサーブもう一本!

 ―――ナイッサーナイスサーブ第一箱崎だいいちはこざき中学! 四ツ頭よっちーナイッサーナイスサーブもう一本!


 一度気を散らしただけで、こうもあっさりと。多恵香は素早く反省する。だが。

「……ヒロちゃん、前!」

 四ツ頭のノーマルサーブを警戒して、日呂美はサービスラインから二歩下がって待ち構えていた。だがそれが裏目に出た。再び四ツ頭は、サーブをアンダーカットに戻したのだ。コンパクトなモーションから繰り出される短い球に、再び前へ出る日呂美。スタートの遅いレシーブは甘い浮き球になったが、

 

 がぁァん――!


 日呂美の背後から、今度は素子の銃が火を吹いた。ボール側面をかすめた球は空中で不自然に曲がり、四ツ頭の目の前で鋭角にバウンドする。ネット前に出た日呂美に、四ツ頭は体勢を崩しつつも大きくラケットを振るう。

「あっ!」

 日呂美が捉えたと思ったボールは、ラケットフレームにわずかにチップしたのみだった。ほぼ真横に弾けたボールが、審判台の足元に直接ヒットする。

「アウト、3‐1スリー・ワン!」

 過熱する第一箱崎ヒトハコのコール。負けじと盛り返そうとする加辺中カベチューのどんまいコール。四ツ頭はアンダーカットサーブを対策してきた多恵香たちを見て、ノーマルサーブを織り交ぜることでペースを崩しにかかってきたのだ。多恵香はその技術の幅広さに戦慄するが、同時にひとり、首をぶんぶんと横に振る。このままじゃだめだ。アンダーカットを返す時のように、サービスラインすれすれで待ち構える多恵香。さ、来ぉーい!

 四ツ頭がトスを上げた。速いサーブが来る。多恵香は一歩だけ下がる。腰を落とす。ほんの半秒もない間に、四ツ頭のフォームを目を見開いて観察する。クロスの射線が、見えた。小さくテイクバックして、跳ねた直後の球をドライブをかけて春地の正面へ返す。身体の中央で受け止めるような春地のボレーは、わずかに低く、ネットを揺らす。

「たえ先輩ナイスレシーブ!」

 次のレシーブの為に前へ出てきた日呂美と、多恵香は軽くタッチ。もう一本。もう一本取り返せば、デュースへ持ち込める。

3‐2スリー・ツー!」

「っしゃ、来い!」

 再びサービスライン際で待つ日呂美。四ツ頭のトスは高い、ノーマルサーブだ。多恵香がして見せたように負けずラケットを振り上げて、バウンド直後のボールを送り返す。


 ズギャゥガァゥ――ン!


 銃声が二つ響いた。レシーブを撃ち落とさんと待ち構えていた安登岩と、さらにそれを防がんと反応した素子が、ほぼ同時に引き金を引いたのだ。空中でボールが大きくブレて止まる。そしてネットよりわずか数センチこちら、日呂美の目の前に落ちる。

「げ、ゲーム! チェンジサイズ」

 第一箱崎ヒトハコの応援席がわっと沸く。安登岩が四ツ頭と春地と、小さくぐっと握手をする。ゲームを奪ったら握手を交わすのが、第一箱崎ヒトハコの習わしらしい。

「ごめんねヒロちゃん、競り負けちった」

 コート後ろで弾丸を再装填リロードしながら、ぺろりと舌を出す素子。

「どんまい、あれはこっちのレシーブが甘かった。ていうかホント無敵砲台だなあ、いちごちゃん」

「……ドラえもんのやつ?」

「あ、たえ先輩も知ってる?」

 くすりと笑いあいながら、反対側のコートへ回り込む三人。背後にずらり並んだ第一箱崎ヒトハコテニス部員の圧迫感に、多恵香たちは軽く身震いする。だがそれは、向こうも同じ条件だ。

「ゲームカウント、0‐1ゼロ・ワン!」

 ファーストー! 向こう側の応援席から牧場たちの声が届く。そして腕組みをしてじっと見守る番地と目が合う。多恵香は息を飲む。そうだ、エースをねらうんだ。

 多恵香は高く、高くトスを上げる。反らした背筋を意識して、ラケットの先まで神経を通わせて。日呂美と素子に何度も教えてもらったフォームを、空に上がった白球の中に意識して。

「はいっ!」

 銃声にも劣らないハイトーンのミート音と共に、放たれたのはひたすらにまっすぐなサーブ。ラケットの中心で、振るった力のすべてをボールに伝える、これ以上ないほどの手応え。

 センターライン真上に刺さった速球を、バックハンドに小さくテイクバックしながら、四ツ頭が迎える。だが。

「……っッ!」

 四ツ頭はラケットを振らなかった。一瞬の出遅れとフォルトの見極めの誤りが、彼女にラケットを振らせなかったのだ。見逃されたボールは安登岩の足元を抜けて、そのまま勢いよく転がっていった。

 一瞬、しんと静まり返るコート。春地が、審判が、誰もが当然鳴ると予測したはずのミート音が、鳴らなかったのだ。あの四ツ頭が、多恵香のファーストサーブを、見逃したのだ。


 ――ナイッサーナイスサーブカベチュー!(ナイッサーたえちゃん!)次もー取れるよ、もう一本!


 遠くでさらに湧き上がる、利佳子達の歓声。後ろからの煽りも、今の多恵香には聞こえない。あの第一箱崎ヒトハコの一番手から、エースを奪ったのだ。

「いいじゃん先輩、すっごいじゃん!」

 嬉しそうに笑う日呂美と、ハイタッチしながら場所を入れ替わる。今までやってきた練習は無駄じゃない。嬉しさと興奮に高鳴る胸を、ボールを持つ手で抑え込みながら、多恵香は呼吸を整える。

1‐0ワン・ゼロ!」

 再びすうと上がるトス。力みも迷いもなく、多恵香は腕をぐんと伸ばしてラケットを振る。ミートした瞬間に、自分のサーブの軌道がもうイメージできている。再びセンターライン近くへ吸い込まれていったサーブを、春地が高く浮かせる。

「っしゃ!」

 獲物を見つけた野犬のように、落ちて来るボールを見据えて日呂美が猛然と走る。決めに行った。多恵香が思った直後、


 ガァギュゥ――ン!


 さらに重なる二発の銃声。ボールは空中でまた弾けるが、今度は日呂美がにやりと笑う。先にボールを持ち上げたのは素子の弾丸だ。ネット近くに落下地点を微調整されたチャンスボールを、

「そりゃあ!」

 正面の春地に叩きつけるようにスマッシュ。身をかわしながら春地はラケットを伸ばすが、ボールはかすりもせず大きく後ろへ跳ねる。小さく拳を握る、日呂美のガッツポーズ。

2‐0ツー・ゼロ!」

 多恵香はまた大きく息を吐き、ネット向こうの四ツ頭をきっと見据え、トスを上げる。私のファーストサーブは通じるんだ、第一箱崎ヒトハコ相手にだって! 放ったサーブを四ツ頭は正面、日呂美の前へ深く打ち返す。

 ふっ! 歯の間から強く息を吐き、日呂美はまるで喧嘩を買うようにストレートへ打ち返す。浅いバウンドからトップスピンで大きく跳ねる日呂美の球を、さらに真横に薙ぎ払うストロークでさらに正面へ。ストレートでの一対一、熱くなる日呂美と冷静に圧し戻すような四ツ頭のラリーが続く。だが少しずつ四ツ頭は前へ、日呂美は後ろへ押し込まれていく。そして。

「ハイ――っ!」

 日呂美の球威がわずかに負けたところに、横からびゅんと躍り出る春地のボレー。足元に刺さったそれを日呂美はたまらず浮かす。だが、わずかに距離が足りない。

「オーライ!」

 素子が日呂美の前に飛び出る。ホルスターからすぱんと銃を抜き、


 ダァア――ン!


 浮いた球を弾丸で押し返す。だがそれすらも、

「もっかいィ!」

 春地がねじり込むように、ツイストコースへのスマッシュで打ち返す。コート横へ大きく跳ねていくボールに、多恵香の足はびくりと動いて止まる。

 どんまい、もとちゃん。ホルスターに銃を収めながらポジションに戻る素子の肩を、多恵香はぽんと叩く。気にしない、攻めるんだ。再び大きく息を吸って吐く。だが。

2‐1ツー・ワン!」

 サーブを打った瞬間、肘に力が入ったのが多恵香にはわかった。ネット上を高めに通り過ぎたサーブは、

「フォルト!」

 ベースライン近くまで飛んで外れる。もう一度、熱い酸素を胸に取り込んで、くっと息を止める。と、そこで多恵香は、日呂美を横目でちらりと見る。気づいた日呂美に合図を送る。ラケットのグリップとボールを小さくこすらせるような、一度きりの合図。

 多恵香のトスと同時に、日呂美は駆け出す。だが、今度の多恵香のトスは低い。ラケットを素早く短く握り直し、肘の高さでボールをこすらせるように打つ。高め打点のアンダーカットサーブだ。四ツ頭たちの打つそれよりも回転は緩やかだが、打球の軌道が直線に近い分、早く相手コートに届く。

 春地がわずかに慌てた反応が見えた。前に駆け出し拾って浮かせるも、既にそこには日呂美がいる。

「っしゃ!」

 助走のままボールに飛びついた日呂美のハイボレーを、春地もひるまずローボレーで受け流す。多恵香の前遠くに落ちかけたボールを、安登岩の銃弾が上をかすめて地面に叩きつける。

2‐2ツー・オール!」

 続く多恵香のファーストサーブも、四ツ頭がさらに速く深いフォアハンドでレシーブする。大きく後ろへ退かされながら打った球に、素子が追い弾を当てて加速するも、わずかにネットに届かない。

2‐3ツー・スリー!」

 ここで崩れちゃだめだ、サーブで取るんだ。だが多恵香の動揺はトスを乱した。わずかに低めの姿勢で打ってしまったファーストサーブを、春地がラケットを振りかぶり叩きに来る。身構える多恵香と日呂美。コースは、ストレート。ベースラインで待ち構えていた日呂美がクロスへ返すも、


 ズガァ――ゥ! 


 安登岩の弾丸に捉えられ、鏡面反射のように真逆の斜めへ跳ね返る。

「ゲーム、チェンジサービス!」


 ――ナイッシューナイスシュート第一箱崎中学! 安登岩いっちーナイッシューナイスシュートもう一本!

 ―――ナイッシューナイスシュート第一箱崎中学! 安登岩いっちーナイッシューナイスシュートもう一本!


 瞬く間に取り返された4ポイント。さらに勢いを増し背中に浴びせられる第一箱崎ヒトハコのコール。

 日呂美の表情から余裕が消えかけているのが、多恵香にもわかる。きっと自分も同じ顔をしている。いや、それじゃダメだ、取り返すんだ。と、そこへ。

「二人とも、ちょいちょい」

 コートの真ん中で、素子が小さく声をかける。指先で招く素子に、多恵香たちは耳を寄せる。すると。

 ぎゅむ。

「おわっ!」

 徐に素子の手が、日呂美の右の二の腕をつかむ。

「ヒロちゃん、また腕太くなったねえ。ここだけシュワちゃんみたい」

「う、うるさいなあ! テニスやってると誰でもなるよ!」

 さらに素子は、多恵香の視界から突然消える。

 ぐみっ。

「や、ちょ――ッ!」

 素早くしゃがんだ素子が、多恵香のふくらはぎを指の腹でにぎにぎともてあそぶ。

「たえちゃんは足固くなったね、足。いやもう立派なアスリートの脚だよこれ、カモシカ」

 一歩距離を取った日呂美と多恵香。素子は悪びれず微笑んでいる。そして。

「いやいや。私たちこの二か月だかで、こんだけやってるんだよ。練習試合で1ゲーム1ポイントも取れてない相手に、今日は4ポイントも取ってるじゃん」

 そうだ。多恵香と日呂美は顔を見合わせる。先月のあの練習試合では、確かに1ポイントも取れていない。ネットの向こうに返すどころか、ラケットに当てるのもやっとだった相手だ。だから素子に、あれだけの無理をさせてしまったのだ。

 だが、今日の自分たちは違う。多恵香と日呂美は改めて気づいた。サービスエースも取れた。前衛戦にも十分ついていける。その顔から不安と険しさがすっと消えた二人を見て、素子はうんうんとうなずく。

「そうだね。次から向こうより先に4ポイント、取ればいいんだ」

「たえ先輩、テニスは基本そうなんだってば」

 そうだね。くすりと笑う多恵香。マグナムのトリガーガードに指をかけ、くるくると回してにかっと微笑む素子。今またこうして、自分たちの沈んだ空気を変えてくれた素子。出会った時も、トリオを組むと決めた時も、優勝すると決めたあの日も、そうだった。

 湧き上がる尊敬と感謝の気持ちが、再び多恵香と日呂美の胸に火を灯す。負けられないんだ、もとちゃんの為に、私たちは!

「ゲームカウント、0‐2ゼロ・ツー

 さ、来ぉーい! 三人の声が再び揃う。取り戻した覇気がコートを揺るがす。そうだ、先に4ポイント取ればいい。

 ラケットを短く持った春地が、アンダーカットサーブを放つ。四ツ頭のそれより球速はあるが、回転はそれほど強くはない。軌道を見極めた多恵香は地を蹴る。コート中央寄りに素早く回り込む。

「はいっ!」

 ラケットをねじり上げるようなフォアのトップスピン。狙うは安登岩の足元。わずかに安登岩が場所を譲るのが遅れる。そして、春地と四ツ頭が一瞬打つのを戸惑う間に、ボールはぎゅると伸びてセンターマークを刺して遠くへ跳ねた。

「よォしゃ!」

 向こうの応援席で番地が思わず声を張る。レシーブエースに沸く加辺中カベチューの応援コール。ベースラインへ戻る前に、多恵香は二人にぱんぱんとハイタッチを残していく。

0‐1ゼロ・ワン!」

 っしゃ、来い! 日呂美の声はなお高く上がる。左手でシャフトを支えて、右手でグリップをひねってラケットを回転させる。両膝のクッションを確かめるよう左右に揺れながら、春地のサーブを待ち構える。

 放たれた再びのアンダーカットサーブ。日呂美も大きく回り込み、ボールの下をこすらせてスライスで返すツイストコース。

 ズギュウゥ――ン!


 安登岩の銃弾がレシーブを止めるが、今度は多恵香が先に動いていた。すでに大きく溜めたテイクバックから、軸足の芝がねじれる程に、全身で振りぬくバックハンド。正面の春地にかけたアタックは、ネットの白帯をわずかにチップする。急激に軌道の変わったボールは、避け切れなかった春地のラケットにヒットし、彼女の足元へ落ちる。

0‐2ゼロ・ツー!」

 安登岩が春地に何事か耳打ちするのを多恵香は見る。春地はさらにラケットを短く持ち直し、回転重視のカットサーブに切り替えてきた。ボールがゆっくりと飛来する間に多恵香がしっかりと間合いを測り、下をこするバックハンドで丁寧に浮かせた所に、


 ガァゥ――ン!


 素子が追い弾で加速を、さらにわずかに芯をずらして回転をつけて返す。空中でくんと曲がったレシーブは、四ツ頭の目の前でサイドラインぎりぎりをかすめ、コートの外へ這うように転がっていく。


 ――ナイシューナイスシュートカベチュー!(ナイシューもっちー!)次もー取れるよ、もう一本!


「おっ、もっちーだって。初めて私のコール来たよ。いいね、これ!」

 嬉しそうに笑いながら、いつもより高い位置で拳銃を回してからホルスターに収める素子。前は1ポイントも取れなかった私たちが、今日は2ポイントを取れて、さらに今は3ポイントを先に奪っている。ラケットの先まで響くような強い鼓動を、多恵香は自分の胸に確かめる。

0‐3ゼロ・スリー!」

「さあ、来ぉーい!」

 日呂美は額の汗を手の甲で拭う。視線は相手からそらさず離さない。再び空に奇妙な弧を描くアンダーカットサーブに、日呂美がバックハンドのテイクバック。安登岩の手が、素子の手が、同時にホルスターにかかる。レシーブ直前、

「もとちゃん!」

 日呂美が叫び、

「おーけい!」

 素子が応える。二人のガンマンが銃を抜き放つ。この一球を、入れさせるものか! 日呂美が浮かせたボールを狙って、二人のガンマンの瞳が光り!


[#挿絵7(07.jpg)入る]


 連なる銃声。ネットの上の空を、ぎざぎざに駆け上がっていく白いボール。そう、二人のガンマンは一発たりとも譲ることなく、空中のボールを撃ち合っているのだ。

 使った弾丸は両者四発。ゆっくりと落ちて来るボールはネット直上。最後に球に触れたのは、どちらの弾丸かわからない。

「取らせねえ!」

 ラケットを振りかぶり、日呂美と春地は同時に前へ出て、跳ぶ。息を飲み見守るすべての人の眼前で、わずかに高さに勝ったのは、

「……げ、ゲーム! チェンジサイズ!」

 思い切り伸ばした日呂美のラケットだった。競り合いながらもより上へ跳んだ日呂美は、手首を返して捉えたボールを、春地の足元へ落としたのだ。

「っしゃああああッ!」

 多恵香と素子のもとへ、勝どきを上げながら全力で走る日呂美。今までで一番強いハイタッチが、コートに二つぱしんぱしんと鳴る。1ゲームだ、ようやくの、1ゲーム。喜びと興奮に加速し続ける心臓に、多恵香は気づく。少しだけ素子を心配するが、苦しそうな様子は微塵も無い。

 さあ、ここからだ。三人はうなずき合いながら、盛り上がる加辺中カベチューの仲間が待つコートへと駆ける。素子の再装填リロードを待つ間、コールを重ね合う利佳子や牧場たちに小さく手を振ってから、多恵香たちは息を合わせてラケットを構える。

「ゲームカウント、1‐2ワン・ツー!」

 サーブは日呂美の番だ。仲間たちの声を背中いっぱいに浴びて、多恵香たちはネットの向こうの宿敵を追いかける。三人で取った1ゲームをつなぐために、日呂美は高くトスを上げる。


0‐1ゼロ・ワン!」

 日呂美のファーストサーブと同じ速さで四ツ頭がレシーブを返し、

1‐1ワン・オール!」

 多恵香のストロークを素子の銃弾が曲げる。

1‐2ワン・ツー!」

 お返しとばかりに四ツ頭のレシーブを安登岩が急加速させ、

2‐2ツー・オール!」

 日呂美のアタックを春地がしたり顔で叩き落とす。

「ファーストぉーッ!」

 自らを鼓舞するように日呂美は声を上げ、さらに高くトスを上げる。たえ先輩は、年下の自分をお手本だと言って、一緒に頑張ってくれたんだ。小さい頃からやってきたことが、ようやく誰かの力になれたんだ。ゆっくりと落ちて来るボールを叩く、そのただ一瞬に体のすべてを注ぎ込む。

 サービスラインを刺してなお大きく跳ねた日呂美のサーブに、四ツ頭のスイングがわずかに遅れる。ミートの瞬間に面がぶれる。ストレートへの返球は大きく上ずり、

「アウト!」

 多恵香の頬をかすめて後ろの壁へぶつかる。多恵香と日呂美は、二人揃って小さく拳を上げる。

 硬式から軟式へ握り方を変える時、日呂美が一番多く繰り返したのはサーブだ。自分のゲームはサーブで決まる。ネットの向こうへ力任せに叩き込むサーブで、ゲームの主導権を握るのが日呂美はたまらなく好きだった。そんなサーブを教えてほしいと言ってくれた多恵香に、そして多恵香と向き合うチャンスを作ってくれた素子に、日呂美はずっとありがとうと言いたかった。ぶっちーだの何だのと言われて、あまりもの・・・・・だった自分に、そんな言葉は似合わないかもしれなくて、口には出しづらかったけれど。

3‐2スリー・ツー!」

 審判のコールから間髪を入れず、日呂美は再びトスを上げる。一発で決めるこのサーブを、何発だって打ってやる。だから、勝ったら二人に言うんだ。このトリオを組んでくれて、ありがとうって!

「ゲーム、チェンジサービス!」

 サーブから前へ出て、春地とノーバウンドの叩き合いを交わす間、日呂美はもはや無意識に近かった。審判のコールで初めて、ネット際の攻防に自分が競り勝ったことを知った。


 ――ナイショーナイスショットカベチュー!(ナイショーぶっちー!)次もー取れるよ、もう一本!


 少し前まで、あんなにいづらかったはずの応援席。日呂美は仲間たちに向って、高く拳を振り上げる。


「ゲームカウント、2‐2ツー・オール

 四ツ頭の、ポジションについてからサーブを放つまでの間が、ほんのわずか長くなっている。春地が足首をほぐす回数が多くなった。安登岩がスカートで手のひらの汗をしきりに拭っている。

 素子はいつでも銃を抜き放てるよう左手の神経を研ぎ澄ませながらも、相手三人の観察を欠かさなかった。大丈夫、追い上げていることそれ自体が十分な攻撃だ。

0‐1ゼロ・ワン!」

 アンダーカットサーブの角度がわずかに緩くなっている。ほら、今のたえちゃんなら、あんなファーストサーブはむしろチャンスボールだ。

1‐1ワン・オール!」

 前に出る日呂美に、春地はまっすぐぶつけてくる。このポイントこそ競り負けたものの、間違いなく春地は日呂美との前衛戦に執着している。

2‐1ツー・ワン!」

 いちごちゃんには相変わらず、真正面の球は撃ち返されるな。でも引き金を引くタイミングは少しずつ遅くなっている。シビアなタイミングで追い弾を重ねる変化球は狙ってこなくなった。

2‐2ツー・オール!」

 自分はどうだ。大丈夫、まだまだ狙える。ヒロちゃんに名前を呼ばれるだけで、彼女の狙いがもうわかる。レシーブにタイミングを合わせて、撃つ。さあ、見たか。ボールの真横を絶妙にチップして曲げる、何度も練習したブーメランショット。

 引き金を引くたび、飛び交うボールに目を凝らすたび、素子は胸の鼓動がどんどん加速していく。ダメだ、まだ倒れちゃいけない。ポイントとポイントの合間に、収まってくれと祈りながら、胸を押さえて深くゆっくり呼吸を整える。

2‐3ツー・スリー!」

 日呂美がボレーをチップする。コート遠くへ弧を描いたボールを追って走ろうとした自分を、多恵香が手をぐっと引いて止めてしまう。彼女は首を横に振る。気にしない、次取ろう。走れない私をそう言って励ましてくれる。

 自分の体さえまともなら、もっと二人と一緒に戦えるのに。思うたび、素子は涙があふれそうになる。このマグナムがある限り、どんな球だって撃ち返せるのに。どんなコースにだって曲げられるのに。この勝負ただひとつにすべてを賭けてきてくれた、多恵香と日呂美。彼女たちへの感謝と同じだけ、悔しさが素子の心臓を焼いた。

「ゲーム、チェンジサイズ!」

 息を切らしながら再装填リロードする素子のノースリーブの肩に、多恵香と日呂美が同時に手を置く。じっとりと汗が熱い。

「もとちゃん、大丈夫? いける?」

「次取ってファイナル持っていこう。長くなるから、ちょっとうだうだ弾詰めて時間稼ごうぜ」

 二人の気遣いが嬉しい。そして悔しい。だが素子の中に、ここで退いたり倒れる選択肢など無い。

 これまで何百何千と詰め込んできた、トリプルス専用の特殊ゴム弾。だがこの六発は、絶対に勝ち取る為の六発だ。

 ボールが割れるくらい、叩き込んでやる。

「よっしゃ、行こう!」

 素子はシリンダーを手のひらでじゃらると回し、マグナムをホルスターに収める。


 この一球は、絶対無二の一球なり。

 コーチがいつだったか、自分たち三年生に向って言ったことを、多恵香はふと思い出した。

 あの時は利佳子と一緒に「職員室のマンガのあれじゃない?」と冷やかすだけだったが、今この時初めて、その重さがわかる。

 今はもとちゃんがいるから、「この一発は」のほうがしっくりくるのかな。でも、あんまり響き良くないな。多恵香はひとりくすりと笑い、砂と弾痕で薄汚れたボールをぎゅっと握る。

「ゲームカウント、2‐3ツー・スリー

 額の汗を手で拭って、多恵香はすうと息を整える。高く、高く。今まで自分が上げたどのサーブよりも、ヒロちゃんのサーブよりも、高くトスを上げる。

 この一発は、絶対無二の一発なり。このゲームは絶対に、落とさない!

 多恵香のファーストサーブがサービスエリアのサイドぎりぎりを刺す。低いバウンドのボールを四ツ頭がスライスで拾うが、力なく浮いた球はネットの高さにも届かない。

 そうだ、向こうだって疲れているんだ。格下だった私たちが、エースまで何本も奪って、ここまで食いついているんだ。少しも焦らないわけがない。だって、ただみんなや後輩の方がテニスが上手いってだけで、あんなに嫌な気持ちだったんだから。

1‐0ワン・ゼロ!」

 多恵香のトスと同時に、日呂美が前へ走る。すごいな、ヒロちゃん。向こうの前衛に、あんなに集中して叩かれてるのに、絶対に球を避けようとしないんだ。会った頃はコーチに、「声をかけあえ」なんて怒られてたけど、今はそんなもの無くたって、

「おっけー!」

 彼女がいつボールに手を出すか、私に任せるか、私の方がわかるようになってきた。きっとヒロちゃんも同じだ。もとちゃんも同じだ。ヒロちゃんの肩越しに引き金を引く、空中で曲がるスマッシュ。あんなの、声かけあってるヒマないよね。

1‐1ワン・オール!」

 向こうも同じなんだ。安登岩さんが、どんな思いを込めて銃を握っているのかわからないけれど、

1‐2ワン・ツー!」

 四ツ頭さんのストロークを曲げて、ロブを撃ち落として春地さんのチャンスボールにして。きっとこの二か月私たちがしてきた努力より、もっと時間も心も積み重ねてきたんだ。勝つために。

1‐3ワン・スリー、ま、マッチポイント!」

 震える声で審判のコールが響く。この1ポイントを取られたら、負けてしまう。ごくりと唾を飲む日呂美。ホルスターにかける左手の震えを、右手で押さえこむ素子。三人で何事か言葉を交わしてから、決意を固めるようにうなずく第一箱崎ヒトハコの三人。高まる緊張の中で、多恵香の心はどこか静かだった。

 ヒロちゃんやもとちゃん、りっちゃんや後輩たち。第一箱崎ヒトハコのトリオ。彼女たちに比べて私なんてあまりに普通で、普通にかまけて何もしてこなかった。ヒロちゃんともとちゃんに出会って、このトリオを組むまでは。

 私なんて、何かすごいものを持ってるわけでもないし、この二か月必死にやってきた練習なんて、きっと彼女たちがしてきたのに比べれば、きっと普通のことなんだ。

 それでも私は、ここで戦わなきゃならないんだ。

 二人と一緒に手に入れた、このごくごく普通の私を、ラケットに賭けて。

「この一発は、絶対無二の、一発なり」

 握ったボールに刻み込むように、多恵香はその言葉を口にする。日呂美と素子の耳にも、しっかりとそれは届く。トスを上げる。今までのどんなサーブより、どんなエースよりも強く打つんだ。

 エースにむかって、撃て!

 多恵香のサーブを四ツ頭がスライスで浮かす。横回転で低く跳ねたボールを、猛然と駆けた日呂美が拾う。


 ズギャゥ――ン!


 銃声が跳ね返したボールを、反射だけで飛びついた日呂美のラケットがかすめて浮かすが、


 ガァオ――ン!


 背中に控えていた素子の銃弾が押し返す。

「っしゃあ!」

 マグナムでの返球を読んで飛び出した春地が、さらに日呂美を狙い叩き返すスマッシュ。身体の中央に来たそれを辛うじてラケットに当てるも、

「ああっ!」

 ボールは真横へ高く跳ねる。あと半打。ガンマンが向こうへ撃ち返さないと、負けてしまう。

「もとちゃん!」

 多恵香はコートを強く蹴る。走り出す。素子の横を駆け抜けざまに、

「あいよ!」

 その手からマグナムをぱしんと受け取った。隣のコートに人はいない。高く浮いたボールを全力疾走で追う間に、マグナムを右手に持ち替える。銃身の方を握りしめて、フォアでアタックをかける時と同じ、思い切り腕を後ろに伸ばすテイクバック。


 ――もとちゃん、いつも銃の持つところで玉突きしてるけど、何か意味あるの?

 ――うん、銃で直接打っても半打だから。ほとんど飛ばないけど、いざって時の為にね。


 合宿の夜に素子に聞いておいたこと。まさにいざという時、自分が素子の代わりに走る為。

 ガットの弾力でボールを飛ばすラケットと違い、銃の台尻は当然硬い。だがそれでも、振るしかない。ロブを上げる姿勢を思い出す。低く溜めた重心を持ち上げるように、体全体で下から上へ振るう。

「はい――ッ!」

 あまりに軽い音を立てて、だがボールは確かに空へ浮いた。天空の白球にすべての人の目があつまるその一瞬で、誰もがわかる。相手コートに返った! ボールはまだ、生きている!

「っさああ、来ぉい!」

 ラケットを振り上げて溜める春地を前に、日呂美は後ずさり、両手を広げて挑発する。これを落としたらたえ先輩の夏が終わってしまう。絶対に、通さない!

 乾いた打球音が二度鳴り響く。ライトサイドライン狙いの春地のスマッシュを、腕を伸ばした日呂美が直接遮って浮かす。驚愕し騒然となる応援席を黙らせるかのように、


 ドギュゥゥ――ン!


 安登岩のマグナムが火を吹き、空中でボールを止める。追い打ちをかけるように四ツ頭が叩き込んだアタックを、


 ダァォ――ン!


 多恵香から投げ返されたマグナムで、素子が勢いを殺し切り、

「っりゃああッ!」

 飛び込んだ日呂美が、体勢を崩した四ツ頭のシューズに反撃のスマッシュをぶち当てた!

「よっしゃあっ!」

 応援席で番地が、利佳子たちが叫ぶ。手を叩き合って喜ぶ。

「すごいよ、すごいよたえちゃん! ヒロちゃん!」

 飛び込んだ勢いでコートに倒れ込み砂だらけの日呂美と、全力疾走に息を切らせた多恵香を、素子は薄く涙をにじませながら迎える。

「ばか、まだあと1ポイント取るんだろ!」

「うん、そうだね。絶対取るよ、もとちゃん、ヒロちゃん」

 同じ思いにうなずき合い、各々のポジションへ散る三人。この1ポイントを取って3‐3スリー・オール、ファイナルゲームへ持ち込むんだ。取り返す、取り返せる!

2‐3ツー・スリー!」

 コール直後にトスを上げる。高く、攻めるサーブの為のトス。絶対に向こうは焦っているはずだ。多恵香は全身の意識と熱をグリップに注ぎ込むように、ラケットを振るう。春地がスライスで拾って浮かせるレシーブを打ったのがはっきり見える。ほら、私のファーストサーブは十分に通じている。


 ズギャォ――ン!


 安登岩の銃声が鳴るも、ボールは空中でわずかに浮き上がるだけだ。春地はレシーブの間に前に出てきている。ダブル前衛フォワードのチャンスのはずなのに、四ツ頭は後ろで待ち構えている。相手は弱気だ、攻めるんだ。攻めて、取るんだ!

 日呂美を相手に、前衛へのアタックボールも何度も練習した。力任せに打つだけではなく、出来る限りネットの高さすれすれで、そして相手の苦手な手の方を狙って。

 息を短く吸い、多恵香は後ろにラケットを溜める。狙いは春地。多恵香は右腕に全力を込める。ストロークを打ち込む絶好の距離で、絶好の高さにボールが跳ねて、放物線の頂点で止まった、その時。


 白球と多恵香の間を、黒い影がひとひら、舞い踊った。

 多恵香は見覚えがあった。それはさっき日呂美が助けていた、弱々しく飛ぶ、夏のアゲハ蝶。


 時が止まったようだった。

 妙にはっきりと、蝶の羽の縞模様が、多恵香の目に映っていた。


 どうしよう。

 多恵香は迷った。

 ヒロちゃんが見せてくれたやさしさを、私はラケットで叩き潰せるのか。

 でも、もとちゃんの未来がかかった試合を、私のラケットでめてしまえるのか。

 これを打たないと、打ってしまうと、私たちは。


 トスよりもはるかに短い、スマッシュよりもはるかに速い、ほんの一瞬の葛藤。


 そして多恵香は、ラケットを――。

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