2‐3《ツー・スリー》

「もう大丈夫なの。あの、ガンマンの人」

 昼すぎのチャイムで教室から出た多恵香は、ちょうど通りがかった利佳子に声をかけられた。

「うん。今週頭にはもう退院したって」

 二週間後、中間テストの初日。部活動休止期間のはずだったが、利佳子の後ろの窓際に、他の三年生の部員五人が揃っていることに、多恵香は気が付いた。

 利佳子は廊下を見渡し、見える範囲に教師がいないことを確かめてから、

「実は夕方から夜まで、市立公園のコート借りてるの」

 そっと多恵香に顔を寄せて、こそこそと教えてくれた。

「あ、いいなあ。みんな行くの?」

「うん。図書館でテスト対策して時間つぶしてから。たっちゃんも、一緒に来る?」

 聞かれて多恵香は、少し目を泳がせて考えるふりをしながら、利佳子と後ろの五人の様子を見る。ダブルスの練習でテニスコートひとつに七人は、持て余す人数だ。利佳子はもちろん、五人の誰もそれを口に出すことはないが、おそらくそう気づいているだろう。

 思えば多恵香はこれまで二年間を通して、利佳子以外の同級生と、部活以外の時間にほとんど話した覚えがなかった。選手名簿でいやというほど目にして、名前と顔とダブルスの組み合わせだけは覚えてはいる。だが、彼女たちと何を話せばいいのかなど、そこには書いてあろうはずもなかった。

「ん、ありがと。でも、私はいいや」

 多恵香は首を横に振った。今まででの多恵香であれば、引け目を押し隠した遠慮の体でそうしていたかもしれない。

 でも、今の私はもう、あまりもの・・・・・じゃないんだから。

「今日はちょうどそのガンマンの、もとちゃんたちと待ち合わせしてるんだ」

「あ……そっか。じゃあ、また今度」

 と短く答えた利佳子が少しだけ、本当に少しだけほっとした顔をしたように、多恵香は見えた。多恵香はにこりと笑って、

「ごめんね、りっちゃん。気、使わせちゃって」

 嫌味も卑屈さもなく、そう言えた。

「えっ、ううん、そんなこと」

 そのまっすぐな笑みに、利佳子はむしろ答えを戸惑った。今までも選手六人で連れ合い、やむを得ず多恵香を置き去りにしていかなければならない時も多々あった。だがそんな時に見せたしょげた寂しい微笑みは、今の多恵香の顔にはもう残っていなかった。

「じゃあ、お先に。がんばってね、りっちゃん」

 利佳子が何と返せばいいか迷っているうちに、多恵香は先にひらりと手を振り背を向けた。がやがやと騒がしい生徒たちの波にもまれながら、階段の方へ消えていく多恵香を見送りながら、

「うん。たっちゃんもね」

 利佳子はぽそりとつぶやいて、待っている仲間たちを振り返り、じゃあ行こうかと促した。


「ダブル前衛フォワードに現在最も有効とされている対策は、ボレーやスマッシュを待ち受けて返す、ダブル……後衛こうえい?」

「あれ、『後衛こうえい』って英語でなんかないの?」

 自宅で遅い昼食を終えた後、多恵香は自転車で日呂美の家へ向かった。多恵香よりも一時限分早く、日呂美と一緒に帰っていた素子だけが制服のままで、傍らには食べ終えたカップラーメンの器が二つ。コンビニでの買い物など週末の部活の日くらいしかしない多恵香は、二人のジャンクなランチをちょっとうらやましく思った。

 素子の退院前日、部活休止中の放課後を使った「第一箱崎ヒトハコトリオ対策勉強会」を、日呂美は二人に提案した。日呂美の父が定期購読している『月刊ソフトテニスマガジン』が、リビングの本棚にぎっしり詰まっている。この時期にこんな参考書を読んでいていいのだろうか。多恵香の胸の、ほんのわずかの罪悪感も、ページをめくるうちにどこかに消えてしまった。

「とにかくネットぎりぎりのシュートボールで攻めて、相手に高い位置で打たせない。えっと……」

 日呂美は学習机の本棚に立ててあった、美術の授業で使うスケッチブックを引っ張り出す。シャープペンシルでささっと二重の長方形を描き、中央で二等分してテニスコートの形に変える。

「ダブル前衛フォワードはどうしても、このへん、二人ともネットと距離をそこそこ取らなきゃいけないから、浮き球さえ渡さなければ向こうは強いボレーで攻め返せないってことだな」

 赤の蛍光ペンで、コートの上側に丸を三つ、三角形になるように置く。あの練習試合で第一箱崎ヒトハコの三人が取っていたフォーメーションだ。

 素子は指で、三角の頂点の丸、後衛で狙うガンマンの安登岩を指差す。

「向こうのガンマンが後ろから狙いづらいのは、たえちゃんからのストレートコースだね。いちごちゃんからは前衛の背中が邪魔になるし、前衛にとってもバックハンドを攻めることになるから」

 普段の部活では誰からも聞くことのできない、ガンマンから見たテニス。多恵香と日呂美はそろってふんふんとうなずきながら聞き入る。

「あとはやっぱり、前に出てる二人の中央だね。どっちが取るかを迷わせるのもそうだし、いちごちゃんからは狙いやすいけど、ガンマンには弾数制限がある。シュートボールは直接マグナムで撃ち返されても大した威力にはならないから、こっちも十分攻め続けられる、と」

「じゃあそうすると……ダブル後衛で、もとちゃんが私たちの真ん中のちょっと後ろ、って感じ?」

 多恵香も自分のボールペンで、コートの下側に自分たちを三角マークで描く。ベースラインに並んだ二つと、その少し下に一つ。しっかり「た」と「ひ」と「も」を中に書く。多恵香は楽しくて仕方がなかった。今私たち、なんだかとても作戦会議っぽいことをしている!

「基本は私も前出るの我慢して、しっかりワンバウンド待ってストロークで返すようにする。で、向こうがアンダーボレーでゆるいのとか短いの返してくるようだったら、私かもとちゃんが――!」

「ばーん、と行っちゃうわけだ」

 日呂美はラケットで、素子はマグナムで、それぞれ決めダマのモーションを取る。第一箱崎ヒトハコ相手にそううまく決まるだろうか。そんな不安もなくなりはしないが、それでも多恵香にとっては、日呂美たちの頼もしさの方が勝っている。

 そして、ストロークでの打撃戦に持ち込むということは、後衛である自分の重要度がより高まるのだ。多恵香は手描きのコートを見ながら、先日の練習試合を思い出す。第一箱崎ヒトハコの後衛四ツ頭のストロークを、たった数球ではあったが十分に打ち返せた手応えがあった。まともな打ち合いに持ち込むには、あのアンダーカットサーブの返し方も練習しなければならない。

 今以上に引き離されないよう頑張ろう。改めて決意した多恵香の横で、

「……合宿したくない?」

 何事か考え込んでいた日呂美が、ぽろっとこぼした。合宿? 多恵香と素子が目を丸くする。どこで、どんな?

「来月頭の土曜日、春の団体強化リーグあるじゃん」

「うん、今年はまだ、トリプルスはないみたいだけど……」

 番地に配られた部活動カレンダーを思い出しながら、多恵香はうなずく。

「そう。で、私らたぶん応援だけじゃん。だから、それ終わったあと直接うち集まってさ! 対策会議とか、あと、クラブのコート借りてナイターで特訓するとか!」

 我ながら名案、とばかりに顔を輝かせ、日呂美は思いつくまままくし立てる。

「え、で、でもヒロちゃんちにご迷惑じゃ……」

 あまりに突然の提案に、多恵香はさすがに少し気が引けた。だが、日呂美は止まらない。

「あ、全然平気。お父さんもお母さんも、たえ先輩ともとちゃん呼んで来いって、いつも言ってるから」

「で、でも……」

 ご迷惑、と言葉を取り繕ってはみたが、もちろん多恵香にとって本当に気がかりなのはそこではなかった。素子を横目でちらりと見る。が、

「いいね、それやろ! 一回すごいやってみたかったの、おとまり!」

「ちょ、お泊り違う! 合宿!」

 そんな多恵香の心配をよそに、素子の瞳も日呂美以上に輝いていた。あ、大丈夫なんだ。ひとり胸をなでおろす多恵香に気付いて、

「大丈夫だよ。もしどうしてもつらくなったら、今度はちゃんと言うからさ」

 素子は多恵香に笑いかける。その、少しだけ申し訳なさそうな笑顔に、多恵香も笑って「うん」と答える。一晩では到底消化しきれない合宿プランを、スケッチブックの新しいページに次々と書き込んでいく日呂美と素子。

 はしゃぐ二人を、仕方ないなあと思いながら見守る多恵香。今までの部活で感じたことのない気持ちが、自分の胸を暖かくしていくのを感じる。充実感とも、期待感とも少し違う、きっと今自分は、かけがえのないものを手に入れつつあるんだという、おぼろげだけれども確かなうれしさ。

 でも、まだまだこれから私たちは、トリオを作り上げていく途中なんだ。こうやって、少しずつ。


 神奈川県中学生ソフトテニス春季研修会、団体強化リーグ戦。県立運動公園に集まった四十の中学の中でも、第一箱崎ヒトハコの力は圧倒的だった。トリプルスに転向した四ツ頭・春地ペアこそいなかったものの、二番手以降のペアも終始徹底してダブル前衛フォワードの戦法を取っていた。相手の打球をことごとく叩き返し、結果リーグ内の他校に1ゲームたりとも取らせはしなかった。

 リーグそれぞれの上位一校は、午後からの決勝トーナメントに参加する。利佳子たち加辺中カベチューレギュラーもリーグ戦を勝ち抜き、その後のトーナメントも一回戦を勝利。だが続く二回戦、シードの位置にいた第一箱崎ヒトハコを相手に、加辺中カベチュー団体戦レギュラーは敗北した。

 三ペア中一戦目に出た利佳子たち一番手、刈谷・岩浪ペアは、相手の三番手相手に3‐3スリー・オール、ファイナルゲームまでもつれ込んだ上での惜敗。そして二戦目に出た加辺中の三番手は一番手に、三戦目に出た二番手は同等の二番手を相手に、1ゲームも奪えない完敗だった。第一箱崎ヒトハコ側は四ツ頭と春地がいない、事実上の一番手落ちオーダーだ。加辺中カベチューの一番手でも第一箱崎ヒトハコの四番手にやっと互角かどうかという、地力の差を見せつけられた試合だった。

 多恵香たちは仲間を応援しながら、対面の応援席に四ツ頭と春地、そして安登岩を見つけていた。ちらちらと彼女らトリオを気にしながらも、第一箱崎ヒトハコのダブル前衛フォワード戦法を十分に目に焼き付けた。

 自分たちがコートに立っていたら、どう攻め、守るだろう。多恵香は三人で考えた対策をイメージしながら、食い入るように試合に見入った。今までこんなに真剣に、人の試合を見たことがあっただろうか。どうして今まで、こうやって見てこなかったのだろうか。二年分の後悔を少しでも取り返すように、多恵香は声を張り上げながら、仲間たちの試合を見守った。


「たえちゃん、上手くなったねえ」

 夜七時、日呂美のクラブのテニスコート。ベンチでひと息入れている素子が嬉しそうにつぶやいたのを、隣の多恵香は耳にした。

「そうかな、本当になってるのかな」

 首を傾げる多恵香は、謙遜したのではなく、そんな実感が今ひとつないことを正直に言ったまでだ。結局今日、第一箱崎ヒトハコがそのまま決勝トーナメントを勝ち抜くのを最後まで観戦し、改めて自分たちの及ばなさを突きつけられたということもあったが。

「ああ、うん。私も最近、たえ先輩と打ち合っててなかなか前に出られなくてさ。こう、球の伸びとかすごい良くなって来てて」

「それは、ほら。ヒロちゃんにもいっぱい教えてもらったから」

 離れのコートでトリプルスの練習をするようになって以来、多恵香は意識して素直に、日呂美に教えを乞うようにしていた。パワーのある球を打つ為の、サーブやストロークのフォーム。前衛と戦う時の、やらないほうがいいことや有効なコース。三人のために上手くなろう、強くなろうと思ううち、日呂美に対して抱いていた自分より強い後輩だなどというコンプレックスは、多恵香の中からとうに消え去っていた。

「そういう、打ち合いで前出られない時ってどうする、っていうかどうしたいの?」

「んー、そうだなあ……無理やりロブ上げて、前に出る時間稼ぐかなあ。でもあんまり上げると、後衛にシュートボール打たせちゃうから」

「ガンマンもいるから、返球も予測しづらいしね」

 三人の練習は大抵の場合、ハーフコートを使った打ち合いをひたすら繰り返すだけのものだった。サーブからライトコート同士で十五分、レフトコート同士で十五分。その後どちらかが、ラケットを持った素子と代わり、ストレートコースで十五分を打ち合う。素子の相手をする時は、素子が場所を動かずに打てるコースを狙う、制球に集中する練習に切り替えた。多恵香と日呂美はダブル後衛で戦う為、ストロークを磨くことに徹する練習を組み立てたのだ。

 多恵香と日呂美は打ち合いながら、お互い時折声をかけ、相手にコースや球種をリクエストして打ってもらう。相手の求めるコースを打つ時は、とりわけ多恵香のほうが正確に、日呂美のリクエストに応じた。バック深め、正面に低めのシュートボール。苦手を克服しようとする日呂美のために、自分もしっかりと打ち込むこと。

「ねえ、どこか打ってほしいところある?」

 少しだけ先輩らしい響きが気に入って、多恵香のほうからすすんでリクエストを聞いてやった。

 対する日呂美も、試合経験の浅い多恵香に、アンダーカットで低く跳ねるスライスや短いツイスト、大きく深く跳ねて迫るトップスピンなど、あらゆる球種の打ち分けで応えた。テニスではほんの少しだけ、自分の方が先輩なんだ。

「たえ先輩これちょっとレシーブしてみて、バックアンダーカットサーブ!」

 自宅のソフトテニスマガジンを片っ端から読み込み、役に立ちそうな技術や戦法を見つけては、二人の前で実践して見せる。でもそれは以前のように、周りに自分の強さを見せつけるためではなくて、ただ純粋に三人で勝ちたいから。それが今の日呂美をよりテニスに打ち込ませる、何よりの原動力だった。

「二人ともすごいなあ。なんか後ろから狙ってて、どんどん頼もしくなってく感じ」

「ちょ、もとちゃん私らのこと狙ってんの」

「えー、うふふ。背中がガラ空きだぜベイベー、みたいな」

 素子は口には出さなかったが、打ち合うごとに少しずつ高めあい、理解しあっていく多恵香と日呂美を、ずっとまぶしい気持ちで見守っていた。自分のために二人はこんなにも、などと独りよがりなことは、素子は決して思わない。だがあの日病室で、三人揃って泣いて以来、素子の胸には二人への感謝の気持ちばかりが募っていた。

 仲間だという意識ももちろんある。だがそれ以上に、三人での勝利を目指して懸命にテニスに打ち込む二人がまぶしいのは、自分の中の別れの予感がどうしても消えてくれないからだと、素子は気づいていた。

 もし万が一ガンマン特待生を続けられるにしろ、秋には二人のいる加辺中カベチューを去らなければならないのだ。今まで一年、素子が特待生として回ってきた中学校は、加辺中カベチューで三校目。これほどまでに去りがたい場所は今までになかった。

「あのね、私」

 多恵香は、天井の大きな白熱灯を見上げながら、

「打っても打っても足りない気がするんだ」

 抱いていた不安そのままを、ぽつりとこぼした。

 素子も日呂美も、そんな多恵香の視線を追って、まぶしい灯りに目を細めながらつぶやく。

「そうだねえ、撃っても撃っても足りないねえ」

つの字違うけどな、先輩ともとちゃんで」

 そうして、それぞれに同じ不安を抱いていることを、三人は知った。

 何球打っても、何時間練習しても、大丈夫だなんて思えない。

 自分たちが今までしてきたことは、間違っていないだろうか。

 戦えるのだろうか、勝てるのだろうか。

 今日は他のコートも空いたままで、多恵香たちを包む空気はしんとしてしまった。

 と、そこへ。

「あー、やっぱり来てるみたいですよ」

 多恵香の耳に届いたのは、自転車のスタンドを立てる音が、かちゃかちゃと、いくつか。

「ほんと、こんなとこにレンタルコートあったのね」

 そして、聞き覚えのある声もいくつか。

 三人は同時に顔を見合わせて、受付からコートへ通じるドアの方を見る。すると。

「りっちゃん――!」

 今日公園で解散した、加辺中カベチュージャージ姿の利佳子がいた。さらに。

「あっれ、お前ら……」

 いつだったか、トリオ組み合わせで日呂美ともめた、牧場と桶のペア。

 目を丸くしたままの多恵香と日呂美の前に、三人は軽く肩を回してほぐしながら、歩いてくる。

「その、牧場さんたちが、たっちゃんの練習手伝いたいって」

 少しそわそわしながら利佳子は言うが、

「えー、たえちゃん先輩たちが特訓してるとこ教えてって、岩浪先輩が言ってきたんじゃないですか!」

「たぶんぶっちーの行ってるクラブですよーって言ったら、じゃあわかんないから一緒に行ってって」

「え、違うって、そうじゃなくって……ほら、今日ちょっと、打ち足りなかったから」

 牧場と桶がにやにやしながら、その理由をあっさりとばらしてしまう。

 水臭いなあ、りっちゃんも。珍しく口ごもる利佳子をおかしく思いながらも、多恵香は幼馴染の心遣いにうれしくなった。

「じゃあほら、ぶっちーどいて」

「うん、ぶっちーどいて」

 牧場と桶が揃って、日呂美に向ってラケットをしっしっと振る。

「はぁ? なんでだよ、私たちの練習だろ」

「違いますーたえちゃん先輩の手伝いに来たんですー」

「いやいや、もうお前らじゃたえ先輩の相手になんないって」

「何言ってんのぶっちー。二年リーグで私たちのこと見てないくせに」

「ちょっとたえちゃん先輩独占してたからって、ぶっちーのくせに」

 ほおを膨らませる牧場と桶を見ても、前のような苛立ちが沸いてこない自分に日呂美は気づいた。そういえば、ぶっちーと呼ばれるのも久しぶりだった。

「はいはいはい、ほらもう時間ないから。じゃあ最後、スリーゲームマッチでトリプルスやろうよ」

 わいわいと騒ぐ五人の真ん中に、素子が割って入り提案する。

「牧場・桶ペアが前に出て、後ろに岩浪先輩。第一箱崎ヒトハコのダブル前衛フォワードに近い形でお願いしていいですか」

「あ、岩浪先輩が前出たほうがいいかも。私その、ボレーあんまりできないから」

「あー牧場、お前ガンマンこわいんだろ」

「ち、違うってば、ぶっちーうるさい!」

 はしゃぎながら各々のポジションへ散っていく仲間たちを見て、多恵香は再びラケットを強く握りしめた。ついこの間まで引け目負い目しか感じられなかった、自分にとっての利佳子。慕ってくれても応えてあげられているかわからなかった、後輩たち。彼女たちも今、自分たちを支えようとしてくれている。言葉にできない熱さが、汗で馴染んだグリップと手のひらにたぎる。

 頑張らなきゃ、と小さく声に出して、多恵香はファーストサーブのトスのために、呼吸をすうと整える。

 と。そういえば、と多恵香は思い出して、ベースラインから下がろうとした素子を呼び止める。

「ひとつだけ、聞いておきたかったことがあるの」


 降り続く梅雨の雨にもめげず、多恵香たちは時間の許す限り、三人での練習を重ねた。

 学校のコートが濡れて使えない時は、バスケ部やバレー部が使っている体育館の隅を借りて、筋力トレーニングに集中した。ラケットの感覚を少しでも手に残しておけるよう、昼休みのわずかな時間を使って、廊下でこっそりとショートラリーをした。

 クラブのコートが使えない日は、日呂美の家でトリプルス大会や過去の第一箱崎ヒトハコの試合のビデオを見て、研究とイメージトレーニングに励んだ。多恵香たちは皆、持ちうる時間を少しでも多くテニスに、そして、三人でいることに費やそうとした。

 打ち足りない、まだ撃ち足りない。

 貪欲にラケットを振り、マグナムを撃ち続けた六月は、あまりに早く過ぎていった。


 そして、決戦を明日に控えた、六月最後の土曜。

 六月の最後の週は、期末試験前でまたも部活動休止期間に入っていたが、ソフトテニス部員たちは利佳子を筆頭に、大会に向けて練習を続けさせてもらえるよう、番地や各々の担任に頼み込み、コートを使う許可を得ていた。

 毎日帰りが遅いことを両親に心配されたが、多恵香は大会がもうすぐだからと言い続けて、お説教をかわしてきた。幸い多恵香には大きく苦手な科目は無く、成績でひどく心配させるようなことはなかった。四月の進路指導で何となく決めていた、県内Bクラスの県立高校のどれかの普通科、そのくらいのところに入れれば、それでいいと思っていた。

 この日多恵香はひとり、朝から自宅で勉強机に向かっていた。

 素子は通院の日で、日呂美は三者面談で午前中は学校へ行っているという。三時にはクラブのコートで落ち合い、最後の練習をする約束だった。

 最低限の試験対策勉強を終え、ひと息ついたところで、多恵香はふと、利佳子が話していたスポーツ推薦のことを思い出す。

 高校に行って、自分はテニスを続けるのだろうか。ソフトテニス部がもしなければ、硬式に転向するのだろうか。続けないのだとしたら、何をするのだろうか。日呂美はどうするのだろう。素子は、どうなるのだろう。

 ノートの上にちらつき始めた不安は、いくらため息をついても散ってはくれなかった。諦めてシャープペンシルを置き、問題集を閉じる。

 今はまだ、そのことで悩んだり、悲しんだりはしたくはなかった。多恵香は椅子から立って、いつもの加辺中カベチュージャージを引っ張り出す。明日の日曜がもう決戦の日であること、それをまだ少しだけ信じられないような気持ちになる。

 日呂美と素子とトリオを組んでから、できる限りのことをしてきたはずだ。今さら何を悩んでも、もう何が変わるわけでもない。今日寝て明日起きたらとびきりテニスが上手くなっているわけでもなければ、明日を終えたらもう二度と二人と会えなくなる、そんなこともないのだ。だが。

 机の棚の時計を見る。十二時前。最後の練習の前に、やっておけることはもう、本当にないだろうか。

 四月にはそこそこきれいだったラケットバッグも、二人との日々でだいぶ汚れて傷んできた。ほとんど着ることのなかったテニスウェアも、もうハンガーに通して壁にかけてある。グリップも今の太さでちょうどいいし、先週切れたガットはクラブのオーナーがその場で張り直してくれた。やんちゃな日呂美を小さい頃から見てきたが、こんなに友達と楽しそうにやっているのを見るのは初めてだ。そんなことを言われて、日呂美は真っ赤になっていた。

 と、普段は登校前しか目を向けない姿見に、まだ寝間着姿のだらしない自分が映っているのを、多恵香は見つけた。髪もまだといていない、本当に寝起きのままの頭だ。

 雨の日こそ少なくなってきたが、じわりじわりと蒸し暑くなってきた。思い立った多恵香は部屋を出て階段を下り、キッチンで昼食を作る母の背中に声をかける。

「ねえお母さん、髪の毛切りに行きたいんだけど」

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