1‐3《ワン・スリー》

 失神した素子を、多恵香と日呂美は保健室へ運びこんだ。ベッドに寝かせて十分もしないうちに救急車が正門に滑り込んできて、二人組の救命士が案内もなしにまっすぐこちらへ向かってくるのが窓から見えた。

 グランドでダブルスの選手を見ていた番地は、呼びに行ってくれた安登岩と共に保健室へ駆けこんできた。番地は救命士の質問に、珍しく落ち着かない声で何事か答える。

 素子に付き添って救急車に乗りこむ直前、番地が二人に訊ねた。

「お前たちどうする。一度撤収するか、それともこのままここで練習試合続けるか」

「私も一緒に――!」

 間髪を入れず、多恵香と日呂美は同時に言いかけた。番地は一瞬だけ、そんな二人を見て笑みを浮かべる。乗れなくはないですよ、と救命士の一人が教えてくれる。言葉も要らずうなずき合う多恵香と日呂美。

 担架の上でぐったりと脱力したままの素子を、もう一度だけその目で見てから、二人は素子と自分たちの荷物を取りに、再びコートへ走る。コートサイドのベンチに丁寧に畳んであった、素子のジャージとウインドブレーカーを、多恵香は自分のラケットバッグに詰める。ずしりと重い手提げのガンケースは、日呂美が片手でよいしょと持つ。

 もとちゃん、一体どうしちゃったの。言いようのない不安が、多恵香たちの胸にのしかかる。


 多恵香と日呂美は車内の壁に背中をくっつけるようにしながら、救命士が素子に何かの応急処置を繰り返しているのを見守る。たぶん心臓マッサージや気道の確保なんだろう。そのくらいしか多恵香にはわからなかった。重苦しい十数分を経て病院に着き、救急車から担架を下されたところで、素子は意識を取り戻しうっすらと目を開けた。

 もとちゃん、もとちゃん! 名を呼び続ける多恵香と日呂美に、ほんのわずか力なく微笑んだ素子は、救急受け入れ口の奥へと運ばれていった。待合室かロビーで待ってろ。廊下の途中で番地は二人にそう言いつけて、担架と共に病棟の奥へと消えていった。

 しばらくその廊下で立ち尽くしてから、多恵香たちは一度救急入口を出る。広い駐車場を歩いて正面玄関へ回り、受付前の空いていたソファーベンチにとさりと座るまで、二人は終始無言だった。

「もとちゃん、どうしたんだ、ホント」

「……ね」

「試合中、確かになんかこう、すごい息上がってたけど」

「……うん」

「結構ほら、私球抜かれちゃったせいで、走らされてたよね」

「……ヒロちゃん、悪くないよ」

「まあ確かに、第一箱崎ヒトハコのトリオ、強かったけど、もうちょっとこう、ほら、何とかできたんじゃないかなってさ」

「……うん」

「あのカット、私も覚えようかな。硬式じゃあんなん、あんまりやらないもんな。前出やすそうだし、えっと……こうか、こうだな、うん」

 わだかまるばかりの不安を紛らわすように、日呂美はひとり上ずった声で喋りながら、立ち上がって四ツ頭のカットサーブのスイングを素手で真似て見せる。だが。

「もとちゃんのこと、もっと気にしてればよかった」

 ぽつりとこぼした多恵香の言葉に、日呂美もしゅんと落ち込み、

「そだね、私も」

 また多恵香と肩を並べて座り込む。

 どうすればよかったのだろう、あの試合のことも、素子のことも。多恵香は考え込み、答えなんて出ないと諦めてため息をつき、それでもまた思い出して考えこむ。今まであまり素子がウォームアップをしているのを見たことがなかったのも、ひょっとしたら。

 受付カウンターを行き交う患者や面会人、白衣の医師や看護師をぼうっと見ながら、二人はただ時が過ぎるのを待つことしかできなかった。

 と、日呂美のおなかがくう、と鳴ったのを、多恵香の耳は何とはなしに捉えてしまった。カウンターのデジタル時計を見ると、ちょうど十二時を過ぎたところだ。

「……お昼、どうしようか」

「ここで食べてもいいのかな、これ」

 日呂美は面倒そうに自分のラケットバッグをもぞもぞと開ける。二人とも駅で集合する前に、コンビニでおにぎりを買ってきていた。外かどこかに移動してから食べようか。多恵香が言いかけて顔を上げたその時、奥の廊下の曲がり角からこちらに向かってくる番地と目が合った。

「大丈夫だ。とりあえず、命に関わるような状態じゃないそうだ」

 真っ先にそう言ってくれた番地に、多恵香と日呂美はほっと胸をなでおろす。とにかくそれだけを聞きたかった多恵香だったが、そうとわかった後は何から聞けばいいものか、中々決めることができなかった。

「もとちゃん、今会いに行けますか」

「入れる病室が決まったら、すぐお前たちに教えてくれるそうだ。俺が帰ってくる前に行けそうなら、先に行ってていいから、ちょっとここで待っててもらっていいか」

「はい。でも、コーチは」

「俺は一度第一箱崎ヒトハコに戻って、岩浪達に指示を出してから車でまた来る。そういや、昼飯は?」

「あ、持ってます。ちょうどその、どこかで食べてこようかと思ってて」

 そうか、と短くうなずいた番地は、その後少しの間四方に目を泳がせ、言うか言わずかをためらってから、「あのな」と再び切り出す。

「三團さんからは、お前らに気を使わせたくないからって、口止めされてたことがあるんだが……こうなってはな、もうお互い知っておかなきゃならないだろう」

 そして、多恵香と日呂美の目を一度ずつ見つめて、「いいか」と前置きしてから、

「今日倒れてしまった理由ワケについて、お前たちが直接、本人と話してほしい。しっかり聞いてあげるんだ。それからどうするかは、所と岸縁、それから三團さん、お前たちトリオ次第だ」

 いつになく真剣な、それも妙に深長さを含んだ低く重い口調で、番地は二人にそう話した。

 どういうことですか、と多恵香は聞き返そうとして、言葉を飲み込んだ。隣の日呂美も同じようにしたのを見た。どういうことかも、もとちゃんに聞くべきなんだ。

 黙ってこくりとうなずいた多恵香たちに、番地は「頼むな」と言い残し、受付の看護師にぺこぺこと何事か申し伝えてから、足早に駐車場へと出ていった。


 番地が病院を出てから一時間ほどで、受付の看護師は多恵香たちを呼び、病室の場所を教えてくれた。

「えへへ、ごめんね。二人とも」

 昼下がりの窓を背に、ベッドの上で点滴を受けている素子の声は、今まで聞いたことがないほど弱く、か細かった。入れ違いに看護師が出ていき、他に患者もいない病室には、多恵香たち三人だけが残された。

「大丈夫なの?」

 そんなはずはないとわかっていても、多恵香はそれ以外にかける言葉が見つけられなかった。うん、と弱々しくうなずく素子に、多恵香も日呂美も心休まることはなかった。

「ご、ごめんなもとちゃん。私がボレー外してばっかだったから、走らされちゃってさ……」

 待っていた間気にしていたことを、やはりすまなそうに言う日呂美に、素子も多恵香と同じように、やさしく首を横に振った。

「向こうの、いちごちゃんの狙いはまさにそれだったんだよ。相手の打ちづらい球で攻めるのは普通のことだけど、いちごちゃんたちは意識して、ラケットに当てさせる・・・・・ミスを誘ってた。一打半ルールで生き延びた球を使って、ガンマンを走らせるために。つまり、その」

 一度言葉を切って、少しの間「んー」と言葉を選んでから、

「私がこうやってバテるのを狙うって、あの三人はあらかじめ決めてたみたいだね。さすがだなあ、ほんと」

 素子はまた力なく、申し訳なさそうにひとり笑った。

 相方にしっかり話してある。試合前の安登岩の言葉の真意を、多恵香たちは初めて理解した。だが、それでもまだ腑に落ちないところはある。もちろん、狙った相手を走らせる四ツ頭や安登岩たちの技術も恐るべきものだ。だが、それはおそらく、番地が言い残していった「口止めされてたこと」とつながっている。多恵香はそう直感し、

「もとちゃんひょっとして、元々体弱かったりするの? それで安登岩さんたちに狙われて……」

 おぼろげながらに予想したそのままを訊ねると、素子は目を伏せ、こくりとうなずいた。

 これはきっと、真剣に聞かなければならない話だ。病院特有の、白い壁があらゆる雑音を吸い込んでいるかのような、静かな沈黙。多恵香と日呂美は、素子の言葉を静かに待つ。

 そして。

「実は今年で十七才になるんだよね、私」

 ぽつりとこぼした素子の言葉を、

「えっ」

 多恵香も日呂美も、うまく拾い上げることができなかった。十七才? 確か自己紹介の時にも、彼女は二年生だと自分で言っていたはずだ。

 あっけに取られたままの二人の前で、素子は指折り数えながら、

「えっと、小学校三年と五年で一年遅れて、中学入るのも一年遅かったから……うん、そう、あってる。たえちゃんたちと部活やってる時もそうだけど、普段から中学生に囲まれてるとたまーに忘れちゃうよね、自分がいくつだったか」

 えへへ、とベッドではにかむ素子の前で、多恵香と日呂美は言葉を失い顔を見合わせるばかりだった。

 年齢だけの話であれば、ああどうりで、と多恵香は思わなくはなかった。見知らぬ転校先でも物おじしない様子や、自分と日呂美が向き合うきっかけを作ってくれた器量。多恵香が彼女に見ていた大人びた雰囲気は、決して気のせいではなかったのだ。

 それでも、その十七才の彼女がどうして加辺中カベチューに。何故中学生の特待生に。次々と浮かんでくる多恵香たちの疑問に、素子は訊ねられるのを待たず、

「心臓が、ちょっとね。死んじゃったお父さんの遺伝で」

 素子は短い、だがあまりに重い二つの言葉を、口にした。

「心筋症を伴う先天性の……なんだっけな、なんか難しいの。お父さんもこうやって、ちょこちょこ倒れてたみたいだし、なんかこう、そういうものなんだなーってずっと思ってるけど」

 まるで他人事のように素子は話す。だが、

「え、じゃあ」

「どうして……」

 ほとんど同時に口を開いた日呂美と目が合い、多恵香は先に言うよううなずいて促す。問いかけたいことは、きっと自分と同じだと思った。

「どうしてそんなんで、テニスなんかやってるんだよ! ぶっ倒れるに……決まってんじゃん」

 思わず強くなってしまった語調に、日呂美は自分で気づき、自分でいさめる。

「いやいや、ごめんって。でも、実はその、ホントはテニスをメインでやるつもりじゃなかったんだけどね。えっと……ワールド・スピード・シューティング・チャンピオンシップとかビアンキカップ、って知ってる?」

 多恵香と日呂美はちらり横目で互いを見合ってから、同時に首を縦に振る。拳銃を使った大会なのだろうと何となく予想はできるが、スーパーファミコンか何かのゲームの名前に聞こえなくもない。

「知らないよねえ。アメリカでやってる、実際の拳銃で早撃ちや正確さを競うスポーツの大会。日本人のシューターも結構出てるんだけど、うちのお父さんはコルトがスポンサーのプロシューターとして、それにずっと出てたんだ」

 プロシューター、という言葉に多恵香たちは首を傾げる。コルトというのが拳銃のブランドかメーカーだということは何となくわかったが、そこで日本人がする仕事というのが何なのか、二人には想像もつかない。まして、銃を撃つプロだなんて。

「な、なんか実際の鉄砲の音なんて、それこそ心臓によくなさそうだけど……」

 眉をひそめる日呂美に、素子はあははと笑う。

「私んち昔から、お父さんの大会のビデオとか、撃ち合いばっかの映画とか見てたから、それは割と慣れちゃってたかも」

「……ダーティーハリー、とか?」

 多恵香がふと口にしたタイトルに、

「そーそー! テレビの下にね、1から5まで全部ビデオ並んでんの。なになに、たえちゃんとこのお父さんも好きなんだ、こういうの」

 素子も嬉しそうに食いついた。

「ああ、あの、ルパンの声の人が、走ってくる車に正面からばーんって撃つやつ? なんか見た見た」

「おお、ヒロちゃんも詳しいねえ……って、なんだこれ、ぜんぜん女子中学生の会話じゃないね!」

 ほんのひと時にぎやかに盛り上がった空気も、言葉が途切れてすぐにまた、静かに沈んでいってしまった。

 コーチはまだだろうか、素子の母親は来ないのだろうか。ぱっと見様子はあまり変わらなくても、長居しないほうがいいんじゃないだろうか。多恵香が少しそわそわと、落ち着かなさを覚えた頃、素子はまたぽつりと、話し始めた。

「学校に行けない間、家でも病院でも、お父さんからもらったリボルバーのおもちゃとかエアガンで遊んでた。お父さんが銃を選んだのはもちろん、体に大きな負担をかけないスポーツだから、っていうのもあったんだろうけど。でもさ、こうやって」

 そろそろ多恵香たちの目にもおなじみになってきた、素子の抜き撃ちの構え。腰のホルスターの上に緊張させた左手を浮かせ、動いたと思ったらもう空中でボールが跳ねている、あの。それから。

「抜いて、構えて、引く。この三動作をいかに速く、正確にこなすか。自分の心に普段立ってるいろんな波を、すうっと平らにして、ホルスターに手をかける」

 教本の一節でもさらうように、素子はゆっくり左手を持ち上げる。見えない撃鉄を右手のひらでかすめながら、顔を照準の高さまで落として狙って、人差し指でトリガーを引く。

「自分の心臓がどんな風に動いてるかはよく知らないけどさ。いざ勝負って緊張してる時と、狙い通り撃ち抜いて、やったーっていう気持ちいい時って、きっとどんな人の心臓でも同じ動きをしてるんだ。どこの国の人でも、病気のあるなしも関係なくって、平等に」

 すっと手を下した素子は窓の外、晴れた青空を遠く見上げた。見上げながら、

「ってお父さん、言ってた」

 少し恥ずかしそうに、懐かしそうに、素子は照れて笑った。

「飛行機で移動中に倒れて死んじゃう前に、お父さん、コルトの人に私のことを話してたみたい。それで、今度日本のソフトテニス連盟と一緒にトリプルス特待生を募集するから、やってみないかって、お誘いの手紙が届いたんだ。もちろん英語で。全然わかんないから、その時いた病院のお医者さんに訳してもらってさ。で、連盟からの補助金もあったけど、何よりコルトから支援してもらえるのに……ふふ、目がくらんでしまいましてねえ。その、ほら、やっぱり病気ってお金かかるじゃないですか、奥さん」

 わざとらしくおどけて言った素子に、多恵香は不器用な照れ隠しを見た。日呂美もくすりと笑ったが、苦笑いに近かった。生まれて以来の病気の治療費の負担や、義務教育の入学遅延。仕方ないこととはいえ、素子は母親に対して彼女なりに重く、引け目を感じていたのだろう。

「高校を回って普及させる計画もあったんだけど、ソフトテニス部のある高校自体が少なかったり。それに日本のプレイヤーがソフトテニス始めるのって、やっぱり中学校の部活動からっていうのが圧倒的に多くて。それで、そこから普及させたいコルトやソフトテニス連盟の要望もあって、公立中学を回るガンマン特待生に私が選ばれた、ってわけ。ま、高校に入れるような勉強も全然してなかったしね」

 また小さく笑う素子。どうにかして暗い話にすまいとしている彼女の気持ちは、多恵香たち二人にも十分に伝わっている。だが、二人は彼女にどんな言葉を返していいかわからなかった。

 素子と出会って、トリオを組んで、実際にはまだ一か月にしかならない。だが、もう一か月が経った。平日はもちろん、週末の部活動もさぼりはしなかった。声をかけあって練習を重ねるうちに、多恵香と日呂美は少しずつお互いを、そして素子のことを知ってきたつもりだった。自分たちのトリプルスは、第一箱崎ヒトハコの三人にこそ歯が立たなかったが、他の相手には十分に通じた。私たちってかなり相性いいのかも、なんて多恵香は思っていた。

 だがそれはまだ、お互いの得意なコースや苦手な球、足の速さや手の早さを、ほんの少しだけ知っているに過ぎなかったのだ。それだけでそれなりに打ち合えて、それでもう、お互いのことすべてを理解しているつもりになっていた。

 公式試合にようやく出られると、浮かれていた自分のことも多恵香は知っている。だがそんな自分と共にプレイする素子や日呂美が、どんな思いをラケットとマグナムに乗せて、コートに立っているのだろう。それを知ろうとしなかった後悔が、多恵香の胸に少しずつわだかまる。

 そこへ、素子は。

「でも、それももうおしまいかな」

 寂しそうにそうつぶやいて、うつむいた。

「どういうこと……やっぱり、病気が」

 不安げに聞き返す日呂美に、素子は首を横に振る。

「この間、またコルトから手紙が来ててさ。ざっくり言うと、ちゃんとトリプルスで実績あげないなら支援打ち切りますよ、的な」

 小さく両手のひらを持ち上げて、素子は肩をすくめる。

「たぶんコルトとしては私に、やまいと戦う美少女ガンマン、みたいな感じの広告塔になってほしかったんだろうけどさ。ちょくちょくこうやって倒れちゃうから、大会の成績も芳しくないし、トリプルスの普及にもマイナスイメージだろうし」

 あ、美少女はよけいか。素子は自分でそう付け足して笑うも、もう多恵香も日呂美も、彼女に合わせて笑うことはできなかった。そして。

「お父さんみたいには、なれなかったのかな」

 白く薄い布団をかけた膝に、素子の声は小さく落ちて、沈んでいった。

 三人とも口を開くことのないまま、静かな空調の音だけが、多恵香の耳をふさいでいた。

 多恵香は考えていた。唇を噛んで、加辺中カベチューのジャージのポケットを握って。

 学年遅れのコンプレックスなど、多恵香には想像もできなかった。自分が味わって来た、たかだか試合に出られなかっただけの疎外感、それも自分の努力が足りない故の結果でも、自分はあんなにも嫌な思いをしてきたのだ。だが、素子が味わってきたのはきっと、自分が抱いていた劣等感など比ではない、いづらさだ。生きづらさだ。

 自分の医療費のことで、きっと母親にも申し訳なさを感じ続けていたはずだ。それゆえ、自分の追う夢をお金に変えられる特待生ガンマンの道に、素子はまさに自分の命を賭して挑んできたのだ。

 素子もまた、あまりもの・・・・・だった。だがそれでも、彼女はそれを覆すために、戦ってきたのだ。サーブが嫌いだなんてふてくされていた小さな自分に、多恵香は今、泣き出しそうなほどに恥ずかしかった。

 日呂美も同じだった。少し前までの自分を振り返り、羞じていた。

 ほんのわずかの経験や技術の差をかさにきて、多恵香に当たり散らしていた自分は、どれほどみっともなかったことだろう。そんな自分に、テニスで彼女と向き合うきっかけを作ってくれたのが素子だ。

 だが、自分がもしあのままわがままを続けて、万が一のトラブルを起こして、加辺中カベチューのトリプルス出場が停止させられるようなことがあったら。彼女がこれほど真剣に挑んでいるトリプルスの道を、自分が断ってしまっていたかもしれないのだ。

 素子にしてあげられることは、素子とともにできることはなんだろう。

 考える間に、自分たちにはいくらも選択肢などないことに気が付いた。

 多恵香と日呂美のたどり着いた答えは、ひとつだ。

「……優勝しよう」

 ほんのわずか先に口を開いたのは、多恵香だ。

「うん、優勝しよう、もとちゃん!」

 日呂美も迷わず、うなずいた。

「え、いや、こりゃまた大きく出たね。たえちゃんもヒロちゃんも」

 戸惑う素子を見ても、二人の気持ちは変わらなかった。

「成績よければ、またガンマン特待生続けられるんでしょ。じゃあもうそれしかないじゃない!」

「そうだよ、たえちゃんの言うとおりだって! 結局他に私たちなんか、頑張りようないんだし」

「で、でも私また……倒れちゃうかもしれないよ」

 おどおどと身を縮める素子に、二人はさらにぐいと詰め寄る。

「もとちゃんを走らせなきゃいいんでしょ。じゃあ、そのぶん私走る。ていうか、もともと走るの後衛の役目なんだし!」

「私も打ち漏らさなきゃいいってだけだろ。むしろもとちゃん、第一箱崎ヒトハコ相手の時以外は座って見てたっていいぜ」

「あれ、それ結局私いらないってことじゃ……」

「だ、わあ、違うって、そういうことじゃなくてさ!」

 慌てて弁解する日呂美を、ベッドの上から「わかってるよ」と見上げる素子。

 そして。

「わかってるよ、ふたりとも――」

 慌ててそらしたその大きな目を、じわりと涙が濡らしたのを、多恵香たちはしっかりと見た。

 見た途端、多恵香たちも、お互いの顔がなんだか熱くにじんで見えた気がした。

 空のほうを見て肩を震わせる素子の背に、多恵香と日呂美は同じ決意を、その胸に刻み込んだ。

 夏の総合体育大会、地区予選は六月の末。自分たちにはもう、あと二か月も残されてはいないのだ。

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