五幕  後

「なんだよ、また義姉さんに手紙か?」

 夕日の窓辺に便箋を広げるシラノを見て、ベランジェは呆れてため息をつく。

「ごめんね。でも、恐い思いさせちゃったんだから」

 シラノも、今日は少しだけ申し訳なさそうにはにかんで、また窓の外へと視線を流す。

 救急車に担ぎこまれたアジャクシオ総合病院で、シラノはそろそろ一週間を過ごすことになる。グラニエリの計らいで最寄りのホテルの部屋を借り、ベランジェは毎日、この病室に見舞いに来ていた。

 吐息での自己暗示が切れた途端、シラノはその場にどうと倒れた。眠っていたアルマンや敵の死体は、駆けつけたグラニエリと部下たちが手際よく回収した。幸い、シラノの傷は深くはなかった。太腿の銃弾は骨の手前で止まり、脇腹の傷は肉を少しかすめ取られただけで済んでいた。


「本当に、すまなかった」

 シラノが昏睡から目覚めた時、グラニエリは床に手と額を着き、謝罪の言葉を繰り返した。不出来の息子のせいで、本当に申し訳なかった。ロクサーヌやシラノを危険に晒したことを、彼は心底悔やんでいると、ベランジェの目にも、シラノの目にも確かに映った。

 人身売買組織とつながっていたアルマンを、グラニエリはフランス国家警察総局付け組織のひとつ、国内情報中央局に引き渡した。アルマンがコルシカで企んでいたすべてのこと。ナポレオンモールでの戦いに至るまでの経緯。そして部下達と共に改めて調べ上げた、フレンチ・コネクション残党による麻薬人種ユマンドゥドラッグ研究の実態。テロリズムや組織犯罪対策を主とする中央局の取調べに対し、グラニエリは包み隠さず話したと言う。

 ただひとつ、ベランジェの正体だけはきっちりと伏せて。

 シラノの読み通りフレンチ・コネクションに関与していたベルローズ医師の逮捕に伴い、サン=フロランの診療所も、五十年近いその歴史の幕を閉じることになった。ベルローズ医師の自供では、誘拐した児童や新生児を麻薬人種ユマンドゥドラッグの実験台にした他、自身の少年愛嗜好を満たすために“情欲の悪魔アスモデ”の吐息の力を悪用し、患者の親族に猥褻な行為を働いていた事も明らかになった。

 アルマン自身もベルローズの性愛の被害者であったのか、またアザレアの花を摂取し続けたのは本当に自らの意思であったのか、警察もグラニエリも彼を問い質したが、アルマンが口を開くことはなかった。

 二十年は堅いな。憲兵警察ジャンダルムリの警察病院に搬送されるアルマンを見送りながら、グラニエリはぽつりと呟く。組織的人身売買の刑は重い。シラノもベランジェも、グラニエリにかける言葉を見つけることはできなかった。


 ロクサーヌは他の診療所には移らず、グラニエリの持ち家のひとつに住む事になった。グラニエリ邸のあるペトラビュノ道路をさらに山奥へ登った、森の中の小さな戸建てだ。勤め先を失った老看護婦マルグリットも、引き続きその家のメイドとして、ロクサーヌを見守ってくれるという。

 シラノとベランジェが引越しを手伝いに行った折り、

「今度は地下に変なものはないでしょうね」

 マルグリットに軽く嫌味を言われ、必死に首を振るばかりのグラニエリと、おかしそうに笑うロクサーヌを見た。良くなってきているんじゃございませんかね。マルグリットはロクサーヌの、ほんの少しだけ本来の年齢を取り戻したかのような、少し大人びた笑い方を見て、嬉しそうにそう言った。


「一緒に住む話も、断ってよかったのか」

 ベランジェの問いかけに、シラノは窓の外を見たまま、こくりとただ頷く。薄く唇に浮かべた微笑みに、どうやら後悔の色はないようだった。

「押し付けるわけじゃないけど、きっと義姉さんにはあなたが相応しいよ。伯父さん」

 ひと通り新居の片付けを終えた去り際に、シラノはグラニエリの胸に、いつもの封筒をぽんと押し当てた。

「伯父さんがそばにいて、僕がもう少し離れたところから手紙を書き続ける。この先もそうやって二人で、義姉さんを支えていければいいんじゃないかな」

 微笑んだシラノに、グラニエリは言葉無く頷いた。そして、その大きな手でシラノの手を取り、固く握り締め、自分の額を押し当てて、涙を押し隠すように、泣いていた。


「義姉さん、その、大丈夫だったのか」

 どういう言葉で聞けばいいかわからず、ベランジェはただシラノにそう訊ねた。さらわれて何かされなかったのか。アルマンの吐息は何か影響が残っていないのか。お前にあんなことをして、何か思っていないのか。浮かんで来る疑問はどれも野暮ったく不粋に思えて、ベランジェは上手く言葉を選べなかった。

「大丈夫だったよ、うん」

 短くそれだけ答えたシラノに、

「そうか」

 ベランジェもそれ以上、何を問う事もしなかった。

 あの商談室のソファで、肌を露わにしたロクサーヌがシラノにしなだれかかっていた時、ベランジェは既に部屋のすぐ外に辿り着いていた。すぐにでもアルマンの背中を蹴飛ばしてやりたかったが、出来るだけアルマンの不意を突けるよう、飛び込むタイミングを伺っていた。そこへシラノが泣き出し、ベランジェはそれ以上自分を抑えることができなかったのだ。

 もう言っちまえよ、義姉さんに。ベランジェは今まで何度も、シラノにそう言ってやりたかった。ナポレオンモールでロクサーヌが意識を取り戻した時も。別の診療所に移ったロクサーヌを見送る時も。ベランジェはシラノの背中を何とか押してやろうと、そう思っては、思い止まった。

 シラノが胸の内に秘めてきた、義姉への想い。それをどんな形ででも救ってやれないものかと、ベランジェはいつでも、心の底から思っていた。結局はいつも、シラノの選ぶ道を少し後ろから見守る事しか、できないのだけれど。

 ベランジェはシラノに薦められて、シラノ・ド・ベルジュラックの映画を何度か見たことがあった。ホセ・フェラー主演の一九五〇年の白黒版も、一九九〇年のジェラール・ドパルデュー主演の映像もだ。どのシラノも死に際に、秘め続けた自分の想いを打ち明けてから、ロクサーヌの腕に抱かれて逝った。

 だが、目の前のシラノはきっと違う。ずっと亡き兄クリスになりすまして恋文をしたためながら、自分の想いは最期まで明かしはしないだろう。秘めた想いに封したまま、彼女のあずかり知らぬ所まで持って行くだろう。そのくらいシラノは頑固で、純粋だ。

 やれやれ、それがお前さんの羽根飾りなんだな。

 窓辺で踊るシラノの羽根ペンを見守りながら、ベランジェは声に出さずにそう呟いた。

 あの商談室で見せたような泣き顔なんて、シラノはきっとこれからも、そうそう見せはしないだろう。だけど、万が一またそんな時が来るのなら、俺がまた助けてやれればいいさ。あの飛び込み様のパンチは本当に良い角度で入った。拳にかすかに残った手応えに、ベランジェはふふんと鼻を鳴らす。

「ねえ、ベル。おなかすかない?」

「お前さんの作ったおこげトマトならあるぜ。香りだけな」

「やめてよ、入院患者にそんな飯テロ」

 スマートフォンをちらつかせるベランジェを見て、シラノは鼻を隠してくくと笑う。退院する頃には秋も頃合いだ。寒くなる前に旨いもん食ってぶらついて、ソーセージとハムとトマト缶を買い込もう。

 コルシカの海風を苔色の胸に大きく吸い込んでから、シラノの身体が冷えないよう、ベランジェはガラス窓をぱたりと閉じた。


 ペンは剣より尚強い。二人で握れば、きっと、もっと。

 シラノとベルフェゴールの羽根飾り心意気だ。誰にも負けるはずがない。


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シラノとベルフェゴール トオノキョウジ @kyz

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