第五幕 男たちの羽根飾り《心意気》の場 前
「おいおい、なんだ。野郎同士でお別れのキスか?」
固まったままのベランジェの唇を吸うシラノに、アルマンは心底呆れ返った声を出す。
ベランジェはベランジェで、一瞬何が起きたのかを理解できず、その後は目を閉じていいものかどうか、空いたままの両手をどこにやるべきか、そんなどうでもいい事ばかりが巡る自分の頭を、なんとかまともに戻そうと必死だった。
シラノはベランジェの
そして。つやめく唇に、薄く糸を光らせながら。
――ほら、
普段の仕事の決まり文句を、自分自身に聞かせるように、唱えた。
――ここでわざわざ負けるのも、
――後先の事考えるのも、
ぶつぶつとつぶやきながら、シラノは床に手をつき、身を起こす。
「な、なんだ、おい!」
焦るアルマンの引き金。銃声。硝煙。だがその弾丸は、シラノが蹴り上げたテーブルに、新たな木目を小さく刻むだけだ。
垂直に立ったテーブルの陰には、もうシラノはいない。ベランジェもいない。アルマンは目を疑った。どこだ、どこに消えた! 視界を左右に振って見失った二人を追いかける。
「おう、っ……ごほ!」
ベランジェは商談室の隅にいた。ソファごと壁までふっ飛ばされ、何事かと目を白黒させている。
扉が大きく開いた。どかどかと踏み込んできたのは、髪を短く刈り込んだ浅黒い肌の男達。アルマンのそれとは比較にならない大きさの銃を手に、各々が部屋の現状の把握に努める。
「おい、ムッシュ。こいつはい
立ったテーブルをダンスポールのように軸にして、シラノの足が空を舞った。
何か言いかけた男と、その隣の男の首は、揃って不自然に回って曲がる。容赦皆無の
「このや
銃を構えた男の脾臓は、もうシラノの
予想だにせぬ恐怖に、引きつった顔で銃を向けるアルマンも、
「ぎぁあアっ!」
雷光の如き瞬速の
右足のみだ。それも、未だ弾丸が肉に食い込んだままの、右足一本のみだ。ベランジェの目の前でシラノは、銃創痛々しい右足がまるで普段通り、いや、普段のそれを遥かに超える力と速さで、あまりにあっさりと敵を打ち倒したのだ。
「お、おいおい、マジかよ……」
かつて目にしたことのないシラノの力に、ベランジェは呆然とするのみだった。少し遅れて薄笑いが浮かんで来た。忍び寄って麻酔で眠らせたり、吐息をメールで飛ばして注意を弱めておくようなスマートな
ベランジェの吐息を使った自己暗示。シラノが奥の手として隠していた手段だった。
試したことはなかったが、シラノの中でこの吐息の使い方は、ぼんやりとイメージだけは持ち続けていた。行動を支配する意識と無意識の中の、特定の事柄を“怠惰”させるベランジェの“
事実、それは成功していた。シラノは自分の身体と行動が、あらゆる制約から解き放たれているのを実感していた。感染症に気を使ってわざわざペンを消毒しなおす必要もない。出来る限り傷を残さないよう、相手を昏倒させる為の部位を選んで攻撃する必要もない。敵はただ、踏んで砕けばいい。その心のままに、シラノは自分の力を行使した。
だが。
――もう
シラノは自身の想定以上に、自制の意識すら“怠惰”させていた。
ベランジェはシラノがポケットからダーツボックスを取り出し、普段とは違う青色の羽根ペンをつまみ上げるのを見る。昔見せてもらった覚えがあった。あれは、確か、仕込み銃。
「シラノ、おい、それは!」
ベランジェの言葉など届かぬかのように、シラノは指先でペンを持ち直し、青い羽根の根元をかちりと回し、取り外す。そこに隠されていたのは、ただ一発だけの6.35ミリ弾を秘めた、冷たい銃口。
「ちっ……」
折れた手首を押さえ
虚ろな片目でアルマンを見下ろしながら、シラノは銃口を額に向ける。引き金になっているクリップ部分に、親指をかける。ぐっと押す、その寸前。
ふ わっ
シラノの黒い焦土の様な嗅覚を、ベランジェの吐息がくすぐった。
「そいつは後々
シラノの肩に、ベランジェの優しい手が乗った。
アルマンがグラニエリの息子であるなら、シラノとアルマンは
ベランジェはシラノの為だけを思い、彼を止めたかった。
どうだ、間に合ったか。様子をじっと伺うベランジェに、
「くすぐったいよ、ベル」
シラノはそう言って、肩越しにちらりと振り返る。困ったような、嬉しいような微笑みを、シラノはベランジェに見せてくれた。よかった、止められた。シラノは仕込み銃を持つ手を引き、再び羽根のキャップで銃口を隠す。
「そうだ、ベル。サバット習いたいって、この前言ってなかったっけ」
シラノの唐突な問いに、ベランジェは
「え、俺、言ったっけ、そんなこと」
「言ったよ、ほら、見て。僕と伯父さんのサバットは、ブーツを履いて足技で戦う格闘技だ。よく見てなよ」
シラノはくくと鼻で笑うと、アルマンの折れていない方の片腕を捻り上げ、無理やりに立ち上がらせる。
そして、両拳を顔の高さで軽く構えて。十字のステップをとんとん踏んで。
「基本の
膝を上げて腹に引き寄せた右足を、
「こう!」
一気に前に突き出す!
「おうっ……おぉ」
シラノのローファーの硬いカカトは、アルマンの股間に真っ直ぐに突き刺さった。
想像に難くないあまりの痛みに、見ていたベランジェも思わずきゅっと内股になる。
「申し訳ないけど、あなたみたいなイカレチ〇ポはこうしてやろうって決めてたんだよね、僕」
再びうずくまり、床に転がり悶えるアルマンを前に、シラノは悠々と赤い羽根ペンを取り出す。いつも通りに消毒してから、麻酔を塗布してぷすり、と刺す。
「くそ……臭ぇよ……お前ら……っ」
最後の毒を吐き捨てて、アルマンは意識を失った。
ある意味ひと息に殺すよりも容赦のないシラノに、ベランジェは小さく首をすくめる。
「ほ、ホントにお前に効いたのかな、俺の吐息」
「大丈夫、ちゃんと聞いてるよ、ベル」
すべての羽根ペンをダーツボックスに納め、シラノはふうとひと息ついた。
ようやく勝ち取ったゲームの勝利に、二人は手と手をぱん、と交わした。
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