第四幕 後
「ベル……!」
「おおっと、お邪魔したか?」
冗談めかしてウインクした後、ソファの二人にベランジェはふっと吐息を吹きかける。
知っているよりも強くなったコルシカ・ミントの香りが、シラノの鈍った嗅覚にもつん、と届く。視界と意識から、蜃気楼のようなもやが消える。ぐっとロクサーヌの身体を押し返す。
「てっめ……臭ェの……」
ベランジェに毒づきながら、アルマンは顔面を押さえてよろよろと立ち上がる。指の隙間から鼻血がこぼれている。やってやったぜ、俺が。ベランジェは立てた親指を、アルマンにも、シラノにも見せ付ける。
「ベルは、大丈夫なの」
「お前さんよりはな。お義姉さんの格好はだいーぶ刺激的で、ちょっと困っちゃうけど」
いつもと変わらぬベランジェの様子に、シラノはふと思い出す。確かに昨日の診療所で、グラニエリが開いたメールの香りをベランジェも嗅いでいたはずだ。
まだ少しふらつく足を叱咤し、シラノはソファを飛び越える。海を臨む大きなガラス窓を端から全部開けていく。太陽と海が香る風。よし、大丈夫。シラノは全身をバランスよく巡る、自分の正気を確認する。
「シラノ。あいつの狙いは、自分以外の
ぼうっとしているロクサーヌと、彼女と自分の衣服を手早く正すシラノ。そして彼ら二人を背にかばい、ベランジェはアルマンの前に立ち塞がる。
「どういうこと」
「サン=フロランの診療所の隣、サンタマリア大聖堂。あそこの地下にも
シラノは記憶の中から、診療所と並ぶ閉鎖された教会の風景を取り出す。普段は門扉を閉ざしているが、コルス地方公共団体から鍵を預けられた診療所の人間が、時折ボランティアで中の掃除を任されている。マルグリットからそう聞いたことがあった。
「あいつの
ああ、と思い出し、シラノはくくと笑う。
「こ、焦がしてないよ。ちょっと吹きこぼしただけさ」
「よく言うよ。人にはすぐ『またやった』とか言うくせに」
他愛ない会話をひと時交わすだけで、理性も気力もすぐ取り戻せた。取り戻してくれた。シラノは思った。ああ、やっぱりベルは、僕を救ってくれる神様だ。
クリスチャン・ノラン邸の焼け跡でミントを食べ終えた後、ベランジェはその足で診療所に向かった。途中でシラノからのメールで、ロクサーヌがさらわれたことを知った。
シラノたちには申し訳なかったが、アルマンが差し向けた連中と行き違いになったことを、ベランジェは幸運に思った。そんな剣呑な奴らと鉢合わせした時、自分ひとりで一人でどうにかなるとは思えなかったのだ。
「もっとも、中に残されてた
ベランジェは自分のスマートフォンをつまみ出し、見せつけるようにひらひらとはためかせる。写真にもしっかり収めてきた、そう言いたいのだろうとシラノは察する。そして。
「アルマンさん、おおよそわかったよ。あなたがこの勝負に賭けた、真意とやらが」
シラノは言い放った。シラノの中で今ひとつ確信を持てなかったアルマンの狙いが、ベランジェの持って来た事実を媒介にしてつながり始めたのだ。
「まず伯父さんは、あなたが十五の頃、放蕩が過ぎたから追い出したと言っていた。それはおそらくその頃、既にあなたは
シラノとベランジェは、診療所でアルマンの存在を初めて知らされた時の会話を思い返す。正気を取り戻したグラニエリの苦々しい表情と共に、放蕩という言葉とアルマンの吐息の持つ力が合わさり意味するところを、ベランジェは想像する。
「だけど、伯父さんは
車内で聞いたグラニエリの言葉を、シラノは信じていた。もし彼が本当に知っていたなら、正直もう少しうまく
彼が知らなかったという確たる証拠こそないものの、シラノはばらばらの状況証拠から伯父を信用し、そこから推理を進めることにしたのだ。
「兄さんの屋敷ではベルが、そして診療所にあんなに近い大聖堂の地下にも、
グラニエリの妻、アルマンの母がかつてベルローズの診療所にいたという話も、シラノは思い出していた。幼い頃のアルマンは、母を見舞いに通って頃、研究所と接触したのではないか。シラノはそう睨んでいた。まさかこの“
アルマンの大げさに両肩をふいと上げる仕種を、シラノは見た。話を聞き飽きたのか、それとも虚勢か。シラノはくくと笑う。来た、またこの感覚だ。今自分の脳細胞は、相手の秘匿する真実を確かに手繰り寄せ、近づけている。サバットで敵を薙ぎ倒すよりも心地良いチェックメイトまで、あと少し。
「あなたには何か、自分以外の
饒舌に語るシラノは、アルマンの手が不穏に動いたのを見逃した。そして。
「あの屋敷を焼いて」
結論に辿り着く、その直前に。
「兄さんを殺したのは」
パァ ん
「正解だ、俺だよ」
短い銃声と冷たい正解が、あまりに軽く、シラノを貫いた。
「……っ!」
シラノは反応して飛び
ベランジェは見た。シラノのジャケットの下で、彼のお気に入りの薄いセーターが、内側から染み出る赤く重い液体に、べっとりと染め上げられていくのを。
アルマンが手にしていたのは、握り拳大の小さな拳銃。意識してかそうでないのか、グラニエリと同じ型のベレッタ。シラノが右脇腹の不自然な熱を痛みだと認識するのには、少しタイムラグがあった。それが激痛だとわかる頃には、全身が震え、立っている事ができなかった。絨毯の床へがくりと膝を着く。
「シラノっ!」
「動くんじゃねえ、臭ぇの」
ベランジェはシラノの盾になる。アルマンの警告も聞かず、銃口に背を向ける形になるのも構わずに。時折痛みに引きつるシラノの背をその腕で抱き止め、膝の上に頭を乗せてやる。
「ご高説はありがたく頂戴したぜ、シラノさんよ」
意趣返しのつもり? シラノは言い返そうとするが、呼吸がままならない。銃口はまっすぐこちらを向いている。今度はシラノの顔面をぴたりと狙っている。
「リニエールから聞いた時は笑ったよ。まさか親父が、こいつみたいな
アルマンの顔からは既に笑顔が消えていた。
「伯父さんは……
「ああそうだ、のん気な親父だよ。実の息子をただのイカレチ〇ポだと罵って叩き出しやがった。見てない所でどんな悪魔に育てられてたかも知らずにな!」
アルマンは自分のシャツの胸元をぶちりと開き、紅色の
「なんだ、やっぱり、お父上が、恋しかったんじゃないか」
アルマンを見上げて睨みつけ、くくと笑う。
「おいシラノ、動くな、挑発するな!」
「自分で望んで
ぎり、とアルマンが犬歯を噛む。図星か。まずった。自分の深入りし過ぎをシラノが自覚した時には、もう遅かった。
パァ ん。
再び鳴る銃声。今度は右の太腿の真ん中。
シラノは喉から、無音の絶叫を搾り出す。
「おい、もういいぞ。来い」
銃でシラノを、視線でベランジェを牽制しながら、アルマンはスマートフォンでどこかに指示を飛ばす。廊下を歩き接近してくる、いくつもの無遠慮な足音をシラノは聞く。おそらく男二人、いや、三人は現れるであろうアルマンの仲間。ロクサーヌを賭けたゲームが始まるまで、このフロアのどこかに待機させていたのだろう。
激痛に焼かれそうな脳を、シラノは必死に動かす。
どうする、このままでは。
「くそっ! どうすりゃ、おいシラノ、どうすりゃいいんだ!」
迫る絶望を前に焦るベランジェが、シラノは見上げながら考える。ごめんね、ベル。あの葉っぱを食べて、吐息の力を強くしてくれたのかな。でも、今のきみだけじゃさすがにハードかな。
カタをつける為にわざわざ加勢させるような連中を、ベランジェだけで何とかできるとはシラノには思えなかった。何よりアルマンにそれを阻止されるだろう。
撃たれた場所はずくずくと痛みを増す。腹と
ああ、ちくしょう。面倒だな、痛いのなんて。
「ベル……?」
シラノは血に染まった手を、ゆっくりと上げる。
「……し、シラノ?」
ベランジェは、自分の首に添えられたシラノの手に、びくりと振り返る。
「ベル、いい? 思い切り吐息を、吐くんだ、僕に」
「え、ちょ、ほんとか、おい」
「ホントさ、本気だよ」
一瞬だけ、ベランジェはシラノの微笑みを見た。
それはあの日、あの炎の中と同じ。
まるで神々しいものでも見たかのような、少年の頃の
そしてシラノは、掴んだベランジェの首をぐいと引いて。
その唇に食いつくように、自分の唇を押し当てた。
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