第四幕 中
どうする、どうするべきだ、僕は。
シラノの脳髄で、思考が目まぐるしく回る。アルマンの言葉通り、ロクサーヌがシネコンに放たれることに賭けて自分も向かうべきか。それとも作戦通りアロマネージを制御している場所を捜索すべきか。館内放送と同じ扱いだろうか、あるいは空調に属する制御なのか。
「私が行く。イベントで人が集まっているならそれなりに警備員もいるはずだ。何か起きるようなら、そこから上に話を通させる」
グラニエリの大きな手がシラノの肩を叩く。メールに不意を打たれて失いかけていた冷静さを、シラノははっと取り戻す。
「お願いします。じゃあ僕はアロマネージを、アルマンを」
頼む。グラニエリはそれだけを言うと、鼻栓とマスクを取り出し車を出る。シラノも車を降りたのを見て、ドアロックをかけ、グラニエリは小走りでモールへ向かう。商業施設はまだオープンしていないが、中央の大型自動ドアはもう開き、手前ホールのシネコン直通エレベーターは既に動いている。
従業員出入口までの短い距離を、スマートフォンを手に走りながら、シラノは推測を走らせる。メールで揺さぶりをかけてくるあたり、館内のアロマネージ制御は既にアルマンの手に落ちていると見るべきか。迷う暇はない。シラノは胸の羽根ペンの存在を確かめ、従業員出入口へ駆け込む。麻酔を塗ったペンは三本。倒せる相手はまず三人。それより多い相手に使う時には、どこかで麻酔を塗布し直さなければならない。
「すみません、今日からのアルバイトなんですが」
シラノは焦る気持ちを必死に抑え、窓口にいた初老の警備員相手ににこやかな笑顔を見せる。手続きを確認するかのように、スマートフォンをちらりと見せる。
「ああそう、どこの?」
「三階のポールカフェです」
「そう。じゃあここに名前……」
ゲスト名簿を出してきた警備員の鼻先で、シラノはスマートフォンの画面をタップする。予め開いておいたベランジェの吐息を再生し、
「そんな事、
顔を寄せてささやく。こんな所で手間取っている余裕はない。
「いや……うん、ダメだ」
だが、再生した吐息が効果を為す様子がない。おかしい。シラノは画面を見ると、
しまった。思わずシラノが舌打ちしたのを、警備員は見逃さなかった。
「今きみ、何かしようとした?」
じろりと睨み付ける警備員の視線に、シラノは一瞬焦った。反射的に羽根ペンを取り出し、
「ここに書けばいいんですね、これに!」
ゲスト名簿を顔面につきつけ、視界を奪う。同時に羽根ペンをひらりと抜き放ち、横から首筋にペン先を突き立てる。
「……っお!」
狙い違わず刺した静脈を、一瞬で麻酔薬が駆け巡る。小さな悲鳴を上げて、警備員はばたりと窓口のテーブルに顔を伏せる。シラノは脇の小箱に積まれた入場証をひとつ奪い、さっと通路の奥へ消える。
「おい、どうしたんだ。ちょっと!」
奥にいた別の警備員が、窓口の同僚の異変に気付いたようだ。周囲を素早く見回す。掲示板の並んだ廊下の奥に、二階への階段を見つける。ダメだ、仕事が荒い、落ち着かないと。自分の焦りを自覚し、必死に呼吸を整えながら、シラノは早足でその場から逃げ去る。
おはようございます、おはようございます!
通りすがる従業員と挨拶を交わしながら、シラノは早足で二階を歩き回る。まず探すべきは非常階段か非常ベルだ。従業員エリアの構造を知るためには、避難経路の案内板が手っ取り早い。公式サイトに公開されているフロアガイドは役に立たない。
屋外の階段へ出る非常ドアがある。白いボードには、各部屋からの避難経路やAEDの設置箇所も描かれている。警備員をやり過ごすのに歩き回っていたら、やや東寄りの部屋へ辿り着いていたようだ。
あからさまに新人アルバイトめいた仕種を作って、シラノがボードを眺めていると、
「どうかしました?」
入場証を首から下げた女性が、後ろから声をかけてくる。キャビンアテンダントの様な服装の、館内ガイドらしき若い女性。
「すみません。僕、今日からバイトで、この部屋へ来るように言われてるんですけど」
一度頭を下げてから純朴な少年らしい声色を作って、シラノはボードを適当に指差す。礼儀正しいシラノを疑う余地も無かったのだろう。「んーどれどれ」とボードに顔を寄せてきた女性の隙だらけの手を取り、後ろへ軽く捻り上げ、喉元に冷たいペン先を突きつける。
「声を出すな、そこの陰へ歩け」
紳士を気取っている余裕は無かった。腕を極める手に少しだけ力を込め、タイトスカートの尻を膝で軽く蹴る。手洗いへ繋がるらしい通路の陰へ歩かせる。出来る限り声を低くして、凄みを意識してみる。
「大声を出したら刺す。イヤなら質問に答えろ。わかったな」
「……はい」
「館内のアロマネージを制御している場所は」
「え、えっと、香りコントロールの事ですか?」
「そうだ」
「たしか、えっと、西エリアにオフィス棟があって、そこのどこだったか……」
「はっきり答えろ、どこなんだ!」
「し、知らないんです! わたし、インフォメーションにずっといるだけなので……!」
女性の震える声に、シラノの胸がちくりと痛む。仕方ない。ペン先で麻酔を打ち、眠らせる。もう一度ボードを見上げて西エリアまでの経路を目に焼き付ける。だが。
「きゃあああああああああっ!」
通路の奥から悲鳴があがった。手洗いから出てきた別の女性だった。
「警備員さん! 外、外出ました!」
悲鳴をあげた女性が教える。シラノは一足飛びで階段を上がる。踊り場を二度越えたところに三階へのドアが見える。どうする、このまま従業員エリアを行けるか。ドアノブに手をかける直前、内側からドアが開く。咄嗟に身をかわす。
「おい、なんだお前……!」
出てきた男が誰であるかなど、もう知ったことではない。何か言いかけた顎に垂直に当てる、躊躇い無い拳の
やれやれ、今日の仕事はダメだな。呆気に取られて動かない男の前で、シラノはひとつため息をついて。
「ごめんね、なんかちょっと」
ひゅおっ。
「面倒になってきた」
ローファーのつま先を跳ね上げて、狙い違わず顎を蹴る。強い縦揺れの脳震盪。エプロンの男は意識を失い、そのまま後ろへゆっくりと倒れる。
非常階段を上がってくる足音は、おそらく男二人分。ペンの麻酔を補充する暇もない。シラノは一度ドアからわざと顔を見せ、慌てて逃げるように引っ込める。飛び込んできた一人目の鼻に右の
律儀に三本のペン先を消毒し、再び麻酔を塗りなおす。ペン先を媒介に感染症などにかからないよう、シラノのせめてもの気遣いだ。自分はまだ冷静だと自身に言い聞かせるように、次の三人分を塗り終えてから、シラノは再び狭い通路を早足で進む。
ようやく西側に差し掛かった、小さくかかっていたBGMが少しずつ小さくなり、そして、代わりに流れ始めたのはショパンの軍隊ポロネーズ。長調をはつらつと叩くピアノに、さっと空気が張り詰めた気がする。もう自分を警戒する態勢に入られたのか。だが。
――四階シネマ・ローズでトラブル発生。手の空いている警備員は急行して下さい。シネマ・ロー
半端にぶつ切りにされた男のアナウンス。はっきりトラブルと言い切っているということは、おそらくこれは従業員エリアにのみ聞こえる放送だ。
アルマンが、動き出した。シラノは小さく舌打ちし、西へと向かう足を早める。
「ホーガン、連中は放っておけ! マダム・ノランを探せ!」
切符切りの女性をその背にかばい、寄って来る男どもを手加減無しで殴り飛ばしながら、グラニエリは分厚いマスク越しに叫ぶ。
仕切り帯をポールごと押し倒し殺到する男たち、およそ百余人。手の届く範囲に、薄暗い劇場入り口に、ポップコーンカウンターに女を見つけるや否や、よだれを垂らして襲い掛かる。堪えきれず、自動発券機の陰で下半身を剥き出しにしてまぐわい始めるカップルもいれば、そこへ一斉に飛びかかり殴り合いを始める男達もいた。
「ダメです、これではわかりません!」
服を裂かれて半裸の女性に圧し掛かる男を、ボールのように蹴り飛ばすホーガン。発情期の野猿の群れ。それ以外の喩えがグラニエリには浮かんで来ない。同時に自分もあの時こうなっていたのかと、羞恥と後悔に歯噛みする。
「
切符切りの小柄な女性は、頬を上気させてグラニエリを見上げる。
「いいか、これは毒ガステロだ。大至急、上の人間に知らせるんだ」
「で、でも……」
潤んだ女性の瞳を真っ直ぐに見ながら、グラニエリは言う。こうなってしまっては仕方がない。そもそも、館内の全員を無事に守り切ることなど考えていない。ではロクサーヌを見つける為だけに、襲われている女性を片っ端から救い出すか。そんなことをしていて間に合うのか。
中にはこの場の異常さに、あるいは自分自身の異変に気付き、ふらふらと場を離れていく者もいるようだ。警備員を動かし、多少でもこの場が人の理性を留めることに賭けるか。それとも。
「映画館の香りはここで制御しているのか、どうなんだ!」
「えっと……ごめんなさい、わたし、ちょっと……」
悩ましい吐息をこぼしながら、女性はくねくねとしなを作る。飛びかかって来た男二人を、振るった裏拳で吹っ飛ばす。ダメだ、会話にならない。が、グラニエリはシラノの言葉を思い出し、スマートフォンを取り出す。
「もう一度言うぞ。よく聞くんだ、
「て、テロ……本当ですか」
「ご覧の有り様だ。だがテロリストはまだ館内に潜んでいる。気付かれないように館内の従業員や警備員に知らせる方法、何か、
真剣なグラニエリの表情に、女性はごくりと唾を飲み、わかったと頷く。この騒ぎがアルマンに気付かれていないとは思えないが、モール全体を一度に騒ぎに巻き込むよりは、自分達が動く時間が稼げるだろう。グラニエリはそう判断した。
「出来るだけ館内の匂いを吸わないほうが良い。
脅える女性を狙い襲い来る男たちを、
「こんなサルになりたくなければな!」
「さあ、早く! ホーガン、お前は他へ行け!」
グラニエリの声に再びはっと正気を取り戻し、女性は腰の通信機に手をかけ、ヘッドセットをオンにする。
館内の曲が、軍隊ポロネーズから英雄ポロネーズへクロスフェードする。店内暗号で伝えているトラブルの内容が変わった。伯父さんが動いた。シラノはそう直感した。
クリーニング帰りの制服が並ぶハンガーラックに、シラノはさっともぐりこみ、スマートフォンを見る。
――東一階、異常なし。
――西一階異常なし、見つからない。
――東三階、まだいらっしゃいません。
シラノは服のカーテンに隠れたまま、ビニールのかかった一着を取る。青とブラックの警備員用。ぶかぶかの上着を羽織りボタンを留める短い時間、可能な限り早く思考を巡らせる。まだ開店して十分。アルマンは予告通り、十二時になるまでロクサーヌを解放しないだろうか。すでにどこかに置き去りにしているのだろうか。それとも。
シラノのスマートフォンが小さくチャイムを鳴らす。
――アジャクシオについたぜ。暑い。
思わずくく、と笑いが洩れる。すぐにトークルームにベランジェを招待し、各端末の位置情報を表示させる。ベランジェ以外はおよそ、ナポレオンモール内の配置された通りの位置。ベランジェはまだモールの駐車場に辿り着いていない。
――西オフィス棟三階へ向かいます。
シラノが短くメッセージを入れると、四人分のリードマークがすぐに付く。映画館の伯父さんたち以外は、まだトークルームをチェックする余裕があるということだ。
黒いスーツのスカートの尻が、足早にシラノの目の前を通り過ぎる。おそらくオフィス棟へ向かう女性。シラノはボタンを留めて帽子を深めにかぶり、ハンガーラックから飛び出す。最初の三歩は歩き、そして足音を殺して駆け寄りすっと背後を取る。所在無さげに振れていた片手を絡め取り、唇を手のひらで直接押さえる。
「……んっ!」
「静かに。落ち着いて話を聞いて、お姉さん」
今度は脅迫のトーンではなく、言い聞かせるように耳元でささやく。彼女の肩に顎を寄せ、間近で瞳を見つめる。シラノの左半分の顔を見た女性の手から、少しだけ力が抜ける。ここに入った直後よりも、シラノの心にはほんの少し余裕があった。ベルがもうすぐ来ると知ったからだろうか。
「僕は
女性の目が、脅えた人質から、使命感あるオフィスレディのそれに変わった。こくこくと頷く。
店内従業員とは明らかに異なる、スーツ姿の男女何人かとすれ違う。壁や天井も乳白色に変わった。オフィス棟か。シラノは帽子のつばの陰から、片目をくるくると走らせ周囲をくまなく観察する。
「ここです」
重そうな扉に、『
「開けずにノックを」
スーツの女性に促し、自分は壁側にぴたりと貼りつき身を隠す。震えた小さな手で鳴らすノックに応え、中からは別の女性が、ごく自然な行動として扉を開く。アルマンは、ここにはいない?
「すみません、
女性の表情が怪訝なそれに変わる。服装は警備員、名乗りは
「今シネコンで発生しているトラブル、アロマネージが排出した何らかの毒物が原因と思われます」
「そんな、私は、全然……」
顔を見合わせる女性二人を、「とりあえず中へ」と押し込めるように放送制御室へ入れる。どすん、と重い音を鳴らして扉が閉まる。
ひと目で音響制御用と予想がつくボリュームやスイッチの並んだコンソールから、マイクのフレキシブルアームが二本生えている。その隣には大型液晶タッチパネルと、サッカーボール大の半透明カプセルのようなものがある。アロマネージへ転送する香りをアナログで取得する、フレグランススキャナーだ。
「四階のシネコンエリアに、ここから何か香りを出力しましたか?」
「いえ、この時間は全館統一で、えっと……弱めのグレープフルーツです」
液晶パネルに表示された、アロマネージ制御のスケジュールらしきリストを見て、女性は答える。
「騒ぎの件は把握していますか」
「映画館で暴れたファンがいるとかって、事務所からの緊急放送で」
「あなたご自身では、シネコンエリアのアロマネージは操作していないと」
「ええ、私は……あ、でも、リモートで操作できます」
一瞬、全身からさっと血の気が引くのをシラノは感じた。つまり、この制御室はおろか、モール内にいなくともアロマネージは操作できる、ということか。
「確かに四階のアロマネージの出力が、社長のアカウントから操作されてます」
タッチパネル画面を操作する女性の言葉が、耳に上手く入ってこない。いや、だめだ。まだ追いかけるのをやめるわけにはいかない。シラノは必死で理性を保ち、辛うじて捉えた言葉を脳で並べて噛み砕く。
「その社長さんは、今はどちらに」
「今日は社内にいるみたいですが、詳しい場所までは……お呼びしましょうか」
絶望と希望が交互にシラノの脳を襲う。アロマネージを操作した人物は、モール内には存在する。だが、アルマンではないのか。放送で呼びつけて、勘付かれはしないだろうか。そうしないなら、この広いモール内をどうやって探せばいいのか。
煮立ち、脳から吹きこぼれそうな思考を、シラノは必死で制御し頭蓋骨内に留める。メール着信のバイブレーションにびくりと身体を強張らせる。添付ファイルがない事を確かめる程度の理性は、まだぎりぎり残っている。
――だいぶ人が増えてきたね。そちらも準備できているようだし、始めようか。
アルマンの宣告を見て、シラノはぎゅっと目を閉じる。どうする。フル回転させ続けた思考が、まぶたの裏に火花を散らす。おそらくアルマンは、グラニエリと部下たちが館内のどこを探し回っているかも把握した上で、いつでも、どこからでも吐息を撒き散らせる。情欲に狂った一般客の中にロクサーヌを解き放ち、モラルの消し飛んだ館内を眺めて楽しむに違いない。
最悪の想定の中で、シラノは気付いた。そうだ。それが出来る場所にいるに違いない。
「どこか、全館の様子をカメラか何かで見られるところはありませんか」
「えっと、一階中央の警備員室と……あ、そうだ、ここの四階の商談室です」
アロマネージを操る社長のアカウント。
ナポレオンモールのすべてを監視できる商談室。
ばらばらに蠢いていた脳細胞が結びつくような実感。アルマンは社長のアカウントを使って、商談室から
希望の強い光が見えた、その瞬間。
「おい貴様、そこから動くな!」
重い扉が大きく開く。押し入って来たのは警備員二人。警棒とポリカーボネイトの盾の向こうに、シラノをここまで案内したスーツの女性が見える。なるほど、上出来。自分を誘い込んだ彼女に、心の内で素直に敬意を表する。
胸の羽根ペンを引き抜き様、手首のスナップだけでシラノは投げ放つ。警備員の頬をかすめたペン先は、壁の照明スイッチを乾いた音で叩く。部屋の明度が変わる。床を蹴る。這う程低い
「伯父さんなら今の一発で」
振り下ろされる警棒を
「まとめていけた気がするよ」
一人ずつ膝と脛を崩す
「まだまだだね、僕も」
どうと倒れる警備員二人と、唖然と立ち尽くす女性二人。シラノは片目でウインクを残し、上への階段を目指して駆ける。
四階に着いた頃にはもう、追っ手は上がっては来なかった。
ひと回り広くなったフロアは、窓から入る昼前の光で、下の階よりも明るく見えた。ゲストを迎える為の設計なのか、モノトーンで質素な造りの下の階に比べて、少し色の数が多い。ダークレッドの絨毯。木目の手すりや葉の大きな観葉樹。
シラノがエレベーターホールから伸びている通路を辿ると、三つ並んだ商談室の扉が見えた。一番奥の扉だけが閉まっている。薄く開いた手前の二つも注意深く覗きながら、とうとう奥の商談室へ辿り着く。
ここだ。ここにアルマンはいるはずだ。
シラノは扉に耳を寄せる。聞こえる。何か口にくわえたまま喘ぐような、くぐもった、すすり泣くような、だが明らかに快楽をその身に甘受する女性の、吐息と、声。
シラノが気付いた瞬間。逆流した血流が、聴覚ごと、視覚ごと、脳みそをぐらんと揺らした。
ブロンズの手すりを乱暴に弾き、中へと踏み込む。片側の壁一面を埋め尽くす液晶モニター。革張りの重厚なソファ。そしてそこに、寝巻きのまま縛られて、もぞもぞとその身をもだえれのらうアぬらぬルねでれりマあるれンにゅら
「油断だね、シラノくん」
飛び込んだすぐ横、眼帯で死角になっていた右手側に待ち受けていたアルマンに、シラノは気付くことができなかった。鼻先に直接吹きかけられた“
「いくら鼻が利かないからって、キミだけマスクなしは油断のしすぎじゃないかな」
ドア際の壁に背を預け、唇の端を吊り上げ見下すアルマン。シラノは
鼓動が速くなる。乱れる。仇敵を目の前にして、シラノは息を荒げ、よろよろと身構えるのが精一杯だった。下腹部から下半身へ、どうしようもなく血と熱が流れて篭もる。何か言おうと口を開けば、卑猥な吐息が洩れそうだ。
「オフィス棟の中でこのフロアにだけはあるんだ、アロマネージが。ナポレオンモール内に出店を検討するための商談室だ、無い訳がない。鼻腔が火傷で多少死んでいたって、香りは口からだって入る。この階に入ってずっと俺の吐息を吸い続けて、この部屋でも吸って、今も直接吸ってしまったはずだ」
アルマンが何を言っているのか、シラノは必死に理解しようとした。理解に努めることで、少しでも理性を保とうとした。
「大したもんだよ、キミ。それでもまだ理性で何とかしようと頑張れるんだから。さすがは愛に生きたシラノ・ド・ベルジュラックだ。でも」
だが熱で歪んだ鼓膜が、上手く音声を言葉としてキャッチしてくれない。聞こえるのは、ソファの上の、ロクサーヌの吐息ばかり。いや、むずむずと内股をこすりつけるような、薄い寝巻きの衣擦れの音も。
「愛しい愛しいお義姉さん相手に、どこまで我慢していられるかな? ん?」
アルマンは下卑た笑いを浮かべたまま、ソファのロクサーヌの元へ歩み寄る。そして、寝巻きのボタンをぷつぷつと、わざとゆっくり外していく。アルマンの指先が胸元に触れる度、ロクサーヌはぴくりと全身を跳ねさせる。見ては駄目だ、見たくなんてない。シラノは必死に義姉の胸元から目を外そうとする。だが、どうしても外れない。外れてくれない。
「なるほどね、よくわかったわ。ムッシュ・アルマン」
ドア際の聞きなれぬ声に、シラノは振り返る。見知らぬ女性。胸元を大きく開いたローズピンクのパンツスーツ。細い腰から長く細い脚へのラインが、シラノの目にやけに艶かしく映る。目元や頬の自然な皺を見ると、およそ四十も過ぎた頃だろうか。薄いノートパソコンを小脇に抱えている。あれでアロマネージを制御したのだと、シラノはすぐに察した。
「こらこら、まだ入ってきちゃいけませんよ。マダム・モンフルリー」
彼女に気付いたアルマンはロクサーヌに触れる手を止め、小さく肩をすくめる。
「約束通り、今後はモールを好きに使っていいわよ。これなら狩りも捗るでしょうね」
「ええ、効果はご覧の通りです。泥臭いお話はまた、お楽しみの後にでも」
モンフルリーと呼ばれた女性の腰に手を回し、太腿を内から外までひとしきり撫で回した後、アルマンは彼女の頬に一度口付けて、ドアの外へ送り返した。
激しく鳴る心臓を握りつぶすように胸を抑えながら、シラノは必死に考える。狩り。効果。泥臭い話。熱に浮かされ固まりかけている脳のたんぱく質を、思考を回して懸命に振って、つなげる。
「ナポレオンモールを……売春の……人身売買に……使うのか」
「へえ、まだ頭が回るんだ」
シラノの導き出した推測に、アルマンは否定ひとつする様子を見せなかった。
吐息とアロマネージの力で正気を失った女性客を誘拐し、売る。加えておそらくは、ナポレオンモール運営母体企業の社長と、警備を手薄にするなどの密約をしようというのだろう。アルマンの“本業”を思い出し、シラノはそう考えた。
「お前に……義姉さんは……」
「ああ、はいはい。じゃあ好きにすればいいじゃない、ほら」
シラノの背後を、妙に楽しげな顔のアルマンが顎で指す。沸いた血が頭に回らないように、シラノはゆっくりと振り返る。
すぐそこに、ロクサーヌの白い乳房があった。
いつのまにか縄も衣服もほどけ、露わになったそれが、シラノの顔にぴたりと圧しつけられた。ボタンと共に、アルマンがわざと束縛を解いていたのだ。
驚きにもつれた足元が、背の低い低いテーブルにつまづいた。ロクサーヌに押し倒される形で、二人は柔らかなソファに埋もれる。
「義姉さん、だめだ、義姉さん!」
「
裸の肩を押し退けようとしたシラノの手が、止まった。今、義姉さんが僕の名前を、呼んだ?
「ごめんね、シラン、さびしかったのよね、ほら」
シラノの膝に下腹部を、股間をもぞもぞとこすりつけるようにしなだれかかる、ロクサーヌの唇。そこからこぼれた唾液が、シラノの鼻先にぽとりと落ちる。冷たい、だが、熱い。
「いいのよ、シラン。だってクリス、まだ帰ってこないもの」
理性を取り戻したのだろうか。いや、違う。そんなはずはない。
「ほら、さわってよ、シラン。おじ様が帰ってくる前に」
焦点の合わないロクサーヌの瞳を、取り込まれぬようちらりとだけ見る。少し強気な口調や、呼び方。おそらく義姉の意識は今、兄の健在だった若い頃にあるのだと、シラノは気付いた。
かつてシラノたち兄弟がグラニエリの家に住むようになり、兄が彼の元で働くようになった頃、幼いシラノは一人になりがちだった。クリスと親しかったロクサーヌは、そんなシラノの面倒をよく見てくれた。夕飯が遅くならないようにと、料理も彼女から教わった。
シラノにとって、彼女こそが女性だった。
叶えられない想いを抱きながら、兄と彼女をずっと遠くから見ていた。兄と結婚すると聞いた時も、嫉妬と祝福は半々、いや、それぞれが胸の内で百を占めるほどに膨らんだ想いだった。
そんな義姉を、今なら抱いてしまっていいのだろうか。必死に否定する。できない。だがどうしようもなく張り詰めた想いは、誰かに触れてもらえば少しは楽になるのだろうか。いいや、絶対にできない。
ごくわずか残った理性をたぐりよせ、シラノは思い出す。もしロクサーヌが拒絶するような時の為にとグラニエリたちに持たせた、クリスを装い自分が書いた手紙だ。
「そ、そうだ。義姉さん。兄さんが、ほら、クリス兄さんの手紙があるよ、手紙!」
ジャケット裏のポケットからシラノが取り出した封筒は、
「もういいわよ、あの人の手紙なんて」
ロクサーヌの細い指が、白い手のひらが、あまりに軽く、跳ねのけた。
「……違うんだ」
首筋を這うロクサーヌの唇を感じながら、シラノはつぶやいた。
「違うんだよ、義姉さん。僕が、僕があなたに望んでいたのは」
床に落ちた封筒を見るシラノの瞳から、つつと涙がこぼれた。
「こんなことじゃない! こんな、こんなことじゃないだ! ずっと僕は、ただ、あなたのことを……!」
「何だ、何だお前! もしかして童貞か?」
ソファでもつれ合う二人を見下し眺めていたアルマンが、シラノの涙を見て口を差し挟む。
そして。
「おいおい、あのヤリ手のクリスの弟が、こんな女殺しみたいなツラして童貞だとよ! ひゃはあっ!」
下劣で、下賎な笑い声を、わざと二人の耳に口を寄せて聞かせる。さも可笑しげに笑い立てる。
「あなたの為に愛を貫いて来ましたってか? ああ違う違う、童貞だ、童貞を貫いてきましたって?」
シラノは言い返せない。言葉はあまりに下劣で猥雑だったが、事実その通りだったからだ。名を偽った手紙に込めたせめてもの想い。それを踏みにじられた悔しさに、喉から声をあげてシラノは泣く。
なおも腹を抱えて笑い転げ、ふらふらとドア際の壁に寄りかかったアルマンの、
「おいおいおいおい、みっともねえな! ほら、シラノちゃん! さっさとお義姉ちゃんのおっぱいに慰めてもらえよ! これ以上笑わせな」
ひくひくと
「じゃあ笑ってんじゃねえ! ゲスが!」
飛び込んで来たベランジェの拳が、まっすぐに叩き潰した。
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