第四幕 ナポレオンモール掌握戦の場  前

 コルシカ島南西に位置するコルス地方公共団体首府アジャクシオは、北のバスティアを越える島内最大規模の都市だ。

 人口は五万人を超え、アジャクシオ・ナポレオン・ボナパルト国際空港とアジャクシオ港は、フランス本土に加えイタリアとの接続も良好だ。観光、サービス業等の第三次産業に頼らざるを得ないコルシカの経済、商業にとって最も重要な都市圏として、ナポレオン・ボナパルト帝政時代以来の発展を続けていた。

「明日の昼十二時、ナポレオンモールのどこかにキミのお義姉さんをリリースする。夕方四時までに彼女を捜して無事救い出せればキミの勝ち。救い出せなければ、俺たちがお義姉さんを回収してお持ち帰りする」

 昨夜グラニエリ邸でアルマンが提示した勝負に、シラノは戦慄した。一見簡単な勝負だが、その舞台となる場所の厄介さを、シラノは知っていたのだ。

 シャルル・ボナパルト通りを挟んで南の海を臨むショッピングセンター、『ナポレオンモール』。延べ床面積約四十万平方メートルという島内最大の商業施設全域に、ネットワーク制御された香り出力サイネージ「アロマネージ」を採用した、新機軸施設だ。

 施設内の任意の箇所を一意の香りで満たす事ができるそれは、主にモール内での広告アナウンスと併せて活用される。食事時の飲食店やカフェのメニュー。新発売の香水パルファンやアロマ、園芸店の花の匂いは、施設内のゲストの嗅覚を刺激し、消費の拡大に十分に貢献している実績があった。

 加えて、催事等に合わせて交感神経に作用する香りを選択し、館内に出力するサービスも行われている。ミニライブやコンサートがある時間帯は、覚醒作用のあるペパーミントやローズマリーの香りでイベントホールを満たし、間接的にイベントの満足度を上げる。消費が停滞しがちな悪天候時は、リラックス効果のあるラベンダーやカモミールの香りを再生することで、少しでも施設内に留まる時間を長くする。

 Google‐Smellグーグル・スメルSDCスメルデータコンバータが目指す、嗅覚を活用したサービスのあらゆる可能性が、このナポレオンモールに凝縮されていた。

 だがそんな場所に、あの男の吐息が充満したら。

「そう、お気づきの通りだ。もちろん俺はアロマネージを使って、施設全域に吐息を撒き散らす。アポは取ってあるんだ、香水パルファンの広告のテストってことで」

 その想像に辿り着いたその時、アルマンはまさにそう宣言して見せたのだ。

 シラノは昨日のグラニエリの振る舞いを思い出し、ぞっと身を震わせた。グラニエリ自身も、アルマンの企みとそれがもたらすであろう事態の恐ろしさに、眉を潜め、顔を歪める。

「週末のショッピングセンターだ、何が起きるかは想像できるだろう? キミが義姉さんを助け出すのと、義姉さんが街の男達相手におっぱじめるの。どっちが早いかな」

 下卑たわらいを口端に浮かべるアルマンを、今のうちに眠らせておくべきか、殺しておくべきかとも、もちろんシラノは考えた。だがそうなれば、義姉の居所がわからなくなる。先にモールに連絡をし、あの男にアロマネージを使わせない事もできただろうが、何らかの警戒態勢を見れば勝負を捨て、義姉を連れ去り逃げてしまうこともあるだろう。ジレンマに歯噛みしながら、シラノはアルマンとの決闘を承諾したのだ。

「決着をつけるまで、絶対に義姉さんには手を出すな。アルマン・グラニエリ」

 自分がこんな月並みな台詞を吐く事になるとは、シラノは思いもしなかった。だが、アルマンの意識を自分との勝負に引きつけ、せめてもの牽制をしておかなければ。考えたそのままを言葉にした時、自然とそんな台詞になった。あの吐息の届くところから、少しでも義姉を引き離しておかねばならない。

 アルマンの“情欲の悪魔アスモデ”の吐息は、添付した香りだけで、グラニエリの理性を取り去ってしまったのだ。その効果の強さは、ベランジェのそれを明らかに上回っている事を、シラノは認めざるを得なかった。

 今のベランジェの“怠惰の悪魔ベルフェゴール”の吐息は、メールのテキストや直接の声かけで暗示を刷り込んだ上で、特定の事柄に対してのみその効果を発揮する。考える事が面倒、食べる事が面倒、動く事が面倒。そんな風に、何についての気力を削ぐかをこちらから指定してやらなければ、ただ少し眠くなるだけがせいぜいの効果だ。

 いつだったか、その力の弱さを心配していたベランジェのことを、シラノは思い出す。仕事に使う上では十分な使い勝手だったし、そのことでベランジェを責めたり後悔するつもりなど微塵もない。だが今はアルマンの吐息が持つ、単純が故の圧倒的な強さを、シラノは認めざるを得なかった。

 火傷のせいで劣っている自分の嗅覚はともかく、グラニエリたちが吐息にやられないよう、対策をする必要があった。薬局に寄って鼻栓と大き目のマスクを買ってはみたが、これで完全に防げるかどうかの確証はなかった。

 アジャクシオの駅に降り立つまでに、思いついた作戦は結局ただひとつ。吐息をばら撒かれる前に、何とかしてアロマネージの制御を奪うしかない。ナポレオンモール掌握戦。そんな作戦名を、シラノはひとりつぶやいた。


 モール手前のピッツェリアで、車で移動してきたグラニエリと合流した。グラニエリはいつも通り、ダークブラウンのテーラードジャケットを着ているが、今日はグロスレッドのネクタイをきっちり締めている。

 そして五人ほど、スーツ姿の部下たちを連れていた。全員お揃いの屈強なガタイに、スキンヘッドとサングラスが眩しい。シラノは彼らと、グラニエリの屋敷で何度も顔を合わせた。ディナーの時には庭でジャズセッションを披露してくれることもあった。彼らの方も、仕事仲間であるシラノのことや、その家族の事情をよく知っている。

「これ、使って下さい。多少マシになるだけかもしれないけど」

 エスプレッソを並べたテーブルでシラノは言いながら、買っておいた鼻栓とマスクをすべてグラニエリと部下たちに分けた。少なからず不恰好になる事は誰にも分かりきったことだったが、グラニエリは率先してそれを受け取った。あからさまに剣呑な空気のテーブルに、他の客は近寄ろうとしない。

「もう一つ。昨日書いておいた手紙です。義姉さんが言うことを聞いてくれない時に、見せてあげて下さい」

 シラノは丁寧に蝋付けした封筒を五枚、テーブルに並べる。グラニエリは部下たちにそれを一枚ずつ取るよう、目で促す。

「義姉さんがモール内に解放されてから動くしかありません。彼はゲームのつもりですから、おそらくスタートの合図代わりに何らかの連絡があるでしょう。吐息をばらまくのも、きっとそれからだ。人の少ないうちにコトを起こす気はないと思います」

 タブレットに表示したナポレオンモールのウェブサイトを囲み、シラノはグラニエリたちの配置を素早く決める。自分とグラニエリは中央ゲート近く、従業員通用口からモール内部へ。アロマネージを制御している場所を、シラノが突き止め占拠、あるいは奪還する。グラニエリは騒ぎを起こさず警備員たちを動かせるよう、責任者との接触を目指す。

 スキンヘッドの部下のうち四人は、それぞれ東西両端の一階と三階から。残る一人は四階のシネマコンプレックスへ、直通エレベーターで。広さに対してあまりに心もとない人数ではあったが、それでもシラノひとりで挑むよりはずっと心強かった。

 スキンヘッド達はグラニエリ・カンパーニュのナイトクラブの経営者であり、同時にガードマンでもあった。屈強な肉体と、懐に忍ばせているであろう銃。何より彼らとグラニエリとの、家族のそれにも近い忠誠を越えた絆は、この上なく頼もしいものだった。

「全員、スマートフォンは」

「私だけiPhoneアイフォーンで、あとはみんなAndroidアンドロイドですね」

 五人のうち一人が手を挙げる。

「OK、WhatsAppワッツアップは使ってるね? ここにいる間の連絡はアプリで取ることにしよう。メールは誰から来たものでも、絶対に開いちゃいけない」

 シラノが指定したのは、欧州で主流のメッセンジャーアプリケーションだ。全員がそれを立ち上げ、共有のトークルームを開く。こうした時に必ず居がちなデジタルアレルギーの人間がいなかったのは、シラノが率先して取り扱い方をグラニエリに教え、仲間内にも実用レベルで広めていた成果だった。

「もしアルマンの吐息にやられていそうな症状が出たら、今送った香りを開いて嗅ぐんだ。日本ジャポネのミントなんだけど、多少落ち着くと思う。iPhoneアイフォーンのホーガンさんは……悪いけど、ガムでも買って噛んでて」

 ほんの少しの間ではあったが、緊張していた全員の顔に笑顔が戻った。香りよりも笑いの方がリラックス効果があると、シラノはよく知っていて、仕事でも十分に活かしているつもりだった。

「万が一、中がすでに吐息にやられているようなら」

 スキンヘッドの一人が、誰もが考えうる想定を冷静に提示すると、

「変更なしだ。最優先でマダム・ノランを保護しろ。いかれた下半身ゾンビどもが邪魔になるなら、死なない程度に叩きのめしていい。話は私が後からつける」

 グラニエリが真っ先にそう言い切る。シンプルな作戦目標に、部下たちが一斉に頷く。

 本当は自分の手で、義姉を探し出し、危険からその身を守りたい。シラノは自分の本心はそうであると、確かに自覚していた。だが、アルマンの手から館内のアロマネージ制御を奪還し、万が一吐息が放たれているようなら、それを沈静化できるのはきっと自分とベルしかいない。理性ではそう理解していた。

 もっとも、シラノが義姉の救出をグラニエリの部下たちに任せたのには理由がある。自分の内に秘めているものが、シラノは恐ろしかったからだ。もし自分が義姉を目の前にして、アルマンの吐息にやられてしまったら。それを想像すると、昨日正気に戻ったグラニエリが見せた、あの後悔の表情が浮かぶ。そして、あのアルマンの下卑た笑みがチラつく。

 おそらくそれが最悪の敗北の形だと、シラノは自らの胸に刻んだ。この負けパターンの可能性を少しでも排除する為にも、自分は義姉にこだわらず、アルマンの企みを根本から阻止する動きをしなければならない。

「オープン十五分前です、各自配置に向かいましょう」

 シラノの言葉に、グラニエリたちは一斉にぬるいエスプレッソを飲み干し、カタンとカップをソーサーに置く。そして。

「伯父さん、皆さん。くれぐれも義姉さんを宜しくお願いします」

 深く頭を下げるシラノに、全員が力強く頷いて見せ、グラニエリを先頭に店をぞろぞろと出る。小切手でまとめて会計を済ませたホーガンが最後に出ると、スキンヘッドたちは二台の車に分かれて乗り込む。

 シラノがプジョーの助手席に乗り込むと、

「ル・ブレ君は昨日、あの後は」

 と、グラニエリが思い出したように訊ねる。

「大丈夫、来るって言ってるよ。詳しいことは僕からメッセージ飛ばしておく」

 シラノが言うとグラニエリは、そうか、と短く答えて、プジョーのイグニッションを回す。だが、中々車を駐車場から出そうとしない。おや、とシラノが思った所で、

「最悪、撃ってしまってかまわんよ。シラン」

 グラニエリは短く低く、そう言った。

 シラノとは目を合わせようとせず、車を動かす様子も無く、答えを待っているようだった。だが、シラノはしばらくそれに答えなかった。少しの間考えてから、

「ごめん、伯父さん。それは自分でやってくれないかな」

 シラノもすっぱりと、そう言い切った。

 実の息子を撃っても構わない。そんな言葉を口にしたグラニエリの胸の内には、決意や覚悟よりも強く、彼自身の憎しみや羞恥が見えたような気がしたからだ。あの吐息でいいように操られてしまった彼自身への、憎しみと羞恥が。

 だが、そんなものを代わりに背負う気には、今のシラノにはなれなかったのだ。

「確かに、そうだな。すまん」

 重い空気を引きずったまま、グラニエリは車を出す。渋滞は無い。駐車場の入り口は目と鼻の先だ。

「伯父さんは本当に、麻薬人種ユマンドゥドラッグ研究所ラボのことを知らなかったの?」

 シラノはグラニエリに訊ねた。昨日からずっと聞きたかった、聞かなければならないと思っていた問いだ。

「誓って言うが、本当に知らなかった。そんなものの存在も知らないまま、私はクリスにあの家を譲ってしまった。ベルローズの診療所にも、アルマンが小さい頃から妻がせっていたが、まさか、そんな……」

「ベルの吐息の力とか、怪しいと思わなかったの?」

「もちろん、ル・ブレ君の力や素性のことも、怪しいとは思っていたさ。だが追求するなと言ったのはシラン、お前だったじゃないか」

「そっか、そうだね。そうだけどさ」

「ああそうだ。だが私が愚かだったせいで、あんな、まさに悪魔のようなバカ息子を生み出してしまった。だからシラン、お前があれを許せないと言うなら……」

 殺してしまってかまわない、そう言いかけたがグラニエリは口をつぐんだ。違う、自分の責だ。シランのせいにするのではなく、自分が責任を持ってこの事態を終息させなければならないのだと、グラニエリは気付いたからだ。

 早口な詰問と弁明が作った気まずい空気は、備え付けの空調では中々浄化されない。駐車場の発券機を過ぎて、そろそろと順路を回る二人の車。そして。

「もちろん、本当にそれが必要ならそうするよ。だけど、そうだね」

 しばらくしてから口を開いたシラノの方を、グラニエリはちらりと見る。まっすぐにこちらを見ていたシラノの目に、自分への憎しみや疑念が無い事を察して、グラニエリは少しだけほっとした。

 だが。

「ベルのこともバカにされた分、撃つよりもっとキツいことするけどね、僕なら」

 何か酷いいたずらを思いついたのだろう。再び窓の外に視線を投げたシラノの、含み笑いの混じった愉快そうな声に、グラニエリの背筋が少し冷える。広大な駐車場を従えそびえ立つナポレオンモールを見据え、シラノはひとり楽しそうに、鼻を隠してくくと笑った。


 従業員出入口近くの小間を選んで、グラニエリは車を停める。

 モール開店の十時まで、あと五分。アルマンの予告していた昼までまだ時間はあるが、いつでも動けるよう、シラノは羽根ペンと小道具を詰めたダーツボックスが、ポケットに待機しているのを確かめる。

 そこへ。先着していたホーガンが、WhatsAppワッツアップのトークルームへメッセージをが飛ばしてきた。

「四階映画館、オープン前からすごい人数の男性が行列を作っています」

 何の報告だろう。同じメッセージを見たグラニエリとシラノは顔を見合わせたが、同時にシラノの元にメールが届く。昨日メールアドレスを渡しておいた、アルマン・グラニエリ自身からだ。添付ファイルが無い事を確認して、本文をプレビューする。


――やあ。今日は美少女アイドル目当てのオタク連中が、シネコンに集まっているようだね。ここがいいかな?


 アルマンの意図を察し、シラノの背に震えが走る。

 ナポレオンモール掌握戦はアルマンの先攻で、既に火蓋を切られていたのだ。

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