第三幕 後
グラニエリの車で自宅まで送り届けてもらったシラノは、明日のアジャクシオへの仕度を整える。夜八時を回っていた。まずはコレクションしているすべての羽根ペンをテーブルに広げ、持って行くものを選ぶところから始める。
兄さんと義姉さんと一緒に行って以来、十年振りかな。シラノはふと思い出した。
羽根ペンのコレクションは、元々はロクサーヌの趣味だった。結婚を機に手放すからという義姉に、シラノは思わず手を上げ、貰い受けた。無論、義姉が持っていたものはごく普通の羽根ペンで、麻酔薬を塗布する針状のペン先も、喉を掻き切れるような長大な羽根ペンもありはしなかった。唯一あったのは、6.35ミリ弾一発だけを込められる、真っ青な羽根のペン型仕込み銃だ。
アジャクシオの蚤の市で見かけた胡散臭い古文具屋で、興味を惹かれたクリスがつい買ってしまったとのだと、義姉は笑っておしえてくれた。本当に撃てるのかどうか試そうとも思わなかったが、シラノは何とはなしにそれを取り出し、しばらく眺める。そして胴軸をかぱりと開き、一発だけの弾丸を込めてから、持って行くほうのケースに納めて蓋を閉じる。
シラノが使う羽根ペンの業は、サバットの数ある流派のひとつだ。ブルボン朝時代に体系化され、紳士の護身術としてフランスに広まったサバットは、その過程であらゆる道具を護身術に取り入れた。ブーツでの足技を主としたボックス・フランセーズと、ステッキを用いて戦うラ・カンが、現代も国内に連盟があり活発に大会も行われている主な流派である。
シラノの流派はパピテリといい、全世界はもちろん、フランス国内にも競技人口はほとんどいない。書斎や寝室で暗殺者に襲われた時、あるいは逆に暗殺を行うことを想定し、羽根ペンやハサミなどの文房具はもちろん、分厚い書物などで効果的に戦うことを主眼に置いた、少数流派であった。
羽根ペンのコレクションを広げていくうちに、シラノはパピテリの存在を知った。インターネット上にはもちろん、参考になる書籍もほとんど残されてはいなかったが、グラニエリに教わったボックス・フランセーズを応用しながら、シラノは自己流のパピテリを体得した。ベルにも羽根ペンの正しい使い方を教えようか。そんなことを考えながら、シラノはペン先に砥石を当てる。
車で飛び出していったきり、ベランジェはまだ帰って来てはいない。彼がどこへ行ったか、シラノはなんとなく見当をつけていたが、今はまだ、迎えに行かないほうがいいだろうと思っていた。
もっとちゃんと、二人で話すべきだったのだろうか。アルマンの言っていた通り、兄が火の不始末などするだろうかと、疑わなかったわけではない。だが、他に当てもなく調べるにはシラノはまだ少し幼く、そして少し忙しすぎた。自分自身はもちろん、心を病んだ診療所の義姉の為、加えてベランジェの為の食い扶持を、自分で稼ぎ出さなければならなかったからだ。
そして何より、もし自分の望まない真実が明らかになったらと思うと、シラノは恐かったのだ。もしあの時誰かが火付けをしたのだとしたら、それが可能なのは屋敷で突然現れた正体不明のベランジェだけではない。出産の仕度で実家に帰っていて、運良く生き延びたロクサーヌも、疑わなければならないかもしれなかったからだ。
疑わなければならない相手は他にもいる。伯父のグラニエリだ。彼は本当に、
明日伯父さんに、直接訊けば済むことだ。シラノはそう心に決めた。
兄の死に関わるあらゆる謎について深く追求しなかったことを、今のシラノは少し後悔していた。ベランジェと共に暮らし始めてしばらくは自宅で眼帯を外さなかったのも、ひょっとしたら火傷を見て彼が気にするのではないかと、シラノなりに気を遣ってのことだった。
覆い隠していたのは火傷だけではなかった。そして、彼の前で外すのは眼帯だけでは足りなかった。ベルのせいじゃないよ、あるいは、ベルだったとしても恨んではいないよ。そう言ってこなかったことが、きっと今彼を苛んでいるのだから。シラノはペン先をぼんやり見つめながら、言葉の足りなかった自分を少し羞じた。
「……おなかへったな」
そういえば、と、グラニエリ邸で取るはずだったディナーを食べ損ねている事を思い出し、シラノはひとり呟く。砥石で磨いていた羽根ペンの刃を、途中でことりと置く。
キッチンには誰もいない。流しもコンロの回りも、ベランジェがしっかり片付けている。明日の仕度をひと区切りして、シラノは久し振りにキッチンに立った。
包丁を握るのも、ベルに教えた時以来かな。初めての刃物にびくついていたベランジェの顔を思い出し、シラノはくくとひとり笑う。結局グラニエリに渡せず持ち帰ったロンツを刻み、オリーブオイルとガーリックチップで炒める。戸棚で見つけたトマト缶を、軽く絡めて焼くだけにしようかと思ったが、ふと思い立ってセロリとパスタを一緒に煮込むことにする。
そして、鍋がことことと騒ぎ始めた頃を見計らって、シラノは自分のスマートフォンを取り出した。
常緑樹の森に囲まれたクリスチャン・ノラン邸の焼け跡は、私有地立ち入り禁止の札とぼろぼろのチェーンの先、獣道にも等しい木々の隙間を抜けた場所にある。
コルシカ島内には、島外の資産家による投機売買の果てに、買い手のつかないまま放置されている土地や別荘用途向け戸建てが数多くあった。ロクサーヌとの結婚を決めたクリスが買ったのも、グラニエリがただ同然で手に入れておいた、そうした物件のひとつだった。
ベランジェがここに立ち入るのは数週間ぶりだった。普段つまみ食いしているコルシカ・ミントは、この焼け跡の周りにだけ生えていて、時折根ごと掘って持ち帰るのだ。コルシカ・ミントの葉は、まるで焼け跡を少しずつ大地に還そうとしているかのように、黒焦げの瓦礫や柱をびっしりと覆っている。
吐息の効果が弱くなっているのは、かつてこの地下で生きていた頃とは食生活が異なっているからだと、ベランジェは気付いていた。シラノに言われても食べるのをやめなかったのは、自分の“
「ま、そんな気はしてたんだよな」
アルマンの言葉を思い出し、ベランジェはひとり、ぽつりとそう言った。
グラニエリの屋敷を飛び出し、日の沈んだ山道で車を走らせる間、ベランジェはシラノと過ごした四年間を思い出していた。シラノとベランジェはあの火災から脱出した後、今まさにロクサーヌがいるあのベルローズ診療所に担ぎ込まれた。看護婦やグラニエリを相手にまともな会話すらできなかった自分を、シラノはあらゆるものからかばってくれた。不審に思うグラニエリを、命の恩人なのだからとシラノが説き伏せてくれた。警察からの追求は診療所のベルローズ医師が、けが人だから絶対安静だからなどと、のらりくらりかわしてくれたと後から聞いた。
死んだ兄に代わって二人で仕事をするからと、素性も問う事無く自分の付き人にさせ、あらゆる事を教えてくれた。二十と七、八回
日常会話と字の書き方は直接シラノが教えてくれたが、手っ取り早く勉強になるからと、ジャン・レノやクリスチャン・クラヴィエの出るやくざ物映画のDVDをやたら見せられた。あとは、服の着方と、いくつかのコルシカ料理。任されていた料理だけは、今はもうシラノより上手に作れて、レパートリーも勝っている自信があった。
ベランジェという名前も、シラノがつけた。出会った時に歌っていた
火災とクリスの死、自分のいた場所。今改めて前後関係を整理してみると、アルマンの言葉を否定する気にはならなかった。自分の正体もわからなかったが、クリスの死と全くの無関係でない事だけは覚悟していた。
「
ベランジェは口ずさみながら、手近の黒ずんだ柱からミントの葉をぶちぶちとむしり取る。両手いっぱいにむしり取ったそれを、おもむろに口の中に押し込み、噛み締め、飲み込んだ。
好きでも嫌いでも無い、口の中が妙に涼しくなるだけの味のはずだった。常備薬だと思って摂取してきたが、今この時ほど苦く感じた事はなかった。こぼれ出て来る涙と嗚咽にむせ返りながら、飲み下せなかった葉を時折吐き戻しながら食べた。
シラノの言う通り、本当はこのまま摂取をやめてしまえば、自分は少しずつ普通の人間に戻るのかもしれない。おぞましい“
だがそれでもベランジェは、ひたすらにミントをむしり取り、自分の腹の奥に叩き込むように
「……まっじぃ」
充実感のない満腹に、妙に冷たいげっぷを喉から吹き出す。さすがに苦しさを感じ、暗闇の草むらに腰を下ろす。結局メシ食い損ねたんだよな。思い出したそのタイミングで、ベランジェのスマートフォンが鳴った。
――明日のランチはアジャクシオ、ナポレオンモールで。
シラノからの、一言だけのメール。だが、添付された香りが鼻をくすぐる。少し焦げたトマトの香り。ほら見ろ、やっぱり俺の方が上手い。
涙が止まった途端、ベランジェの腹がくうと鳴った。あんなにミントを詰め込んだはずのに、本当に食べたいものがチラつくと、こんなにも正直なのか。自分の体の、あまりに単純な構造に、笑いがこみ上げてくる。ベランジェはそのまま星空を見上げて、腹から出て来るまま声を上げて笑う。
ひとしきり笑った後、口を潤し始めた唾をぐっと飲み込む。すぐにでも帰りたかったが、今はまだやるべき事がある。決戦の地で待つ明日のシラノを思い、ベランジェは立ち上がった。
あの男の
バスティアを朝六時に出るコルシカ鉄道で、アジャクシオまで三時間半。
朝日にきらめく町並みを楽しめるのは最初のひと駅ふた駅だけで、あとは山間を黙々と抜けて行く、古く寂れた路線だった。ツアー会社のあおりの通り、風光明媚と言えば聞こえは良いが、岩の灰色と木々の緑が繰り返す潅木地帯ばかりの車窓は、シラノひとりでは退屈なものだった。
二十四時間オープンのバー・ラグノオで、サラミのサンドイッチを包んでもらった。よく揺れる列車の中では、透明なカップのアイスコーヒーをサイドボードに置けず、結局片手でずっと持っている羽目になって少し後悔する。あくび混じりで朝食を済ませ、アラームをセットしようとスマートフォンを取り出す。
今朝方五時頃に、ベランジェからのメールが届いていた。
――了解、昨日の分まで乾杯しようぜ。
シラノはひとり、鼻を隠してくくと笑う。きっと大丈夫だ、きっと伝わった。
戦いの前の緊張感が、これでほっとほぐれた気がした。足りていない睡眠を取り戻しておこうか。胸ポケットにスマートフォンを戻し、薄くサビ垢のついたカーテンを引き下げる。硬い背中を預けるのに多少マシな角度を見つけて、シラノは動くほうのまぶたを閉じた。
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