第三幕 悪魔たちの夜の場  前

「クリスの寝タバコが原因ということで片付けられたそうだね、屋敷の火事は」

 アルマンは銃口を恐れることなく、グラニエリの隣に悠々と座って見せる。

「兄さんを知っているんだね」

「結婚詐欺師、歌手シャントゥーズ殺しのクリス。たまたまお客が重なってね。お互いの素性を知った上で、譲ってもらったことがある。詐欺師らしいのかそうでないのか、几帳面で律儀なやつだったな」

 アルマンが兄の名を口にするたび、シラノの眉がわずかに動く。アルマンは流暢に語りながらも、その目は常に、シラノたち三人の様子を油断無く観察している。

「あのぼろ屋敷、結婚を期に父さんが安く譲ってやったそうだけど、あんな几帳面なクリスが火の不始末なんて間抜け、やらかすと思うかい」

 グラニエリの銃は狙いをつけたままだ。シラノも、羽根ペンの握りを変え、いつでもその喉を狙えるよう身構えている。自分も銃を持ってくるべきだったか、とベランジェは自分の油断を少し悔やむ。だが、ほとんど手にした事は無い。

 アルマンは再び視線をベランジェに移す。びくり、とベランジェが身を強張らせたのを見てから、さらに言葉を続ける。

「屋敷の地下には、かつてのフレンチ・コネクションが遺したドラッグ研究所ラボがあったんだ。そこの臭いの。そう、キミは研究所ラボで造り出された麻薬人種ユマンドゥドラッグ、フレンチ・コネクションが遺した忌むべき残滓というわけだ」

 言われてベランジェは、あの灰色の部屋の事を思い出した。包帯の胸元に思わず手をやる。シラノも目を丸くして、グラニエリを見る。彼もまた驚いた表情で、シラノに向かって首を横に振る。自分は知らない、と。

「なんだ、本当に知らなかったのか。自分の体質が不思議だとも思わなかったのかい、キミは」

 言葉を失ったままのベランジェを鼻で笑い、愚かしいものを見る愉悦に満ちた目で見下す。そしてアルマンはそのまま、止め処なくフレンチ・コネクションの遺産の真実を語る。


「トルコ~アメリカ間をつなぐヘロインの密輸ルートをアメリカ警察に壊滅させられて以来、連中の残党は細々と、旧来のドラッグに代わる新たな形態のドラッグを研究し続けていた。あそこを根城にして、ほんの十数年前までね。コルシカ島を含めて、国内外のヘロイン精製研究所は粗方警察やマフィアに潰されたが、それでもいくらかはその手を逃れることができた。

 残党どもは新たな組織構成の資金稼ぎの為に、自由に移動可能な身軽な精製所の実現を目指していた。そんなプランのうちのひとつが、麻薬を生み出す人間、麻薬人種ユマンドゥドラッグだ。

 ある特定の毒素を持つ植物は、幼少期から人体に摂取し続ける事で体質や内臓に変質をもたらす。毒素は血中で変化を起こし、呼気を主とする排出物に麻薬成分として入り混じるようになる。中国シナ桃娘タオニャンを知っているか? 生まれた時から桃だけを食わせ続ける事で、その尿も肉も甘い味がしたそうだぜ。

 あの燃えた研究所では、主にコルシカ・ミントの亜種を食わせて生まれる麻薬人種ユマンドゥドラッグの研究をしていた。生きたダウナー系ドラッグ精製所、“怠惰の悪魔ベルフェゴール”の出来上がりというわけだ。麻薬人種ユマンドゥドラッグを造っていた隠し研究所はこの島に七箇所あるなんてまことしやかに言われちゃいたが、実際の所はどうだかね。

 もっとも、麻薬人種ユマンドゥドラッグは失敗作だ。その肉体から得られるドラッグの量は少ないし、効果も薄い。そいつ自体をどこかの金持ちに売り払って、せいぜい一時的な享楽に使う程度だ。シラノくん、きみのような使い方は実に巧い。デジタルとアナログを駆使して、とても良い仕事をしているようじゃないか。

 だがまあ、結局麻薬人種ユマンドゥドラッグでドラッグ密売の代替となるような利益を生み出す算段はつかず、後始末もそこそこに残党どもは引き上げたというわけさ」


 ふう、とひと息挟んで立ち上がり、アルマンは戸棚を物色して白ワインのボトルとグラスを取り出す。テーブルに戻って手酌の一杯を飲み終えるまで、シラノは黙ってその様を見ていた。

「もちろん、屋敷の地下の研究所で造っていたのも、そこの臭いの一人なわけがない。誘拐した赤ん坊アンファンを使い、実験や輸出に向けて何人もの麻薬人種ユマンドゥドラッグをあそこで飼育、いや、製造していたはずだ。そんな地下の研究所からにじみ出ていた“怠惰の悪魔ベルフェゴール”たちの吐息に、クリスはいかれてたんじゃないかな。いかにも怠惰な死に方じゃないか、寝タバコの不始末なんて。つまり」

 ばたん、と扉が閉じた。

 アルマンの言葉から耳を塞ぎ逃れるように、ベランジェは押し黙ったまま、部屋から出て行ったのだ。

「ベル、待って……!」

 追いかけようと一瞬動きかけた足を、シラノはぐっと抑え込んだ。ここでグラニエリをアルマンと一対一にさせるわけには行かない。何を用意しているかわからない。シラノは黙って扉の前に立ち、去ったベランジェの代わりに扉を塞ぐ。

 窓の向こうで、ルノーが駐車場から飛び出していく。そのさまを愉しむように眺めた後、アルマンは乾杯を促すように、ワイングラスをシラノの方に傾ける。

「酷い奴だ。シラノくん、キミはあんな男と一緒にいていいのかな?」

「え、いいけど」

 あっけらかんイノッサモン。間髪を入れず返ってきたシラノのまっすぐな答に、アルマンは面食らい、固まった。

「ご高説はありがたく頂戴したよ、アルマンさん。僕だってもちろん、ひょっとしたらあの火事はって考えなくはなかったさ。でもね、わざわざ調べずにいたってことは、ベルの正体なんてどうでもよかった……ううん、ちょっと違うかな」

 シラノは眼帯を外し、マロンブラウンの前髪を上げる。顔の右半分、鼻の先から額の少し上まで広がっている醜い黒い火傷の痕を、アルマンに見せ付けて、言い放つ。

「あの炎の中で、僕を救ってくれたのはベルだ。だからベルが何者で何をしたのであろうと、僕は構わない。唯一絶対変わらない、それだけで十分だ」

 シラノの片目の揺るがぬ光を見て、グラニエリがほんの少し頬を緩めた。その意志を強く認めるように頷いた。アルマンはふん、とまた鼻先で笑う。だが、勝ち誇っていた表情が僅かばかり崩れたのを、シラノは見逃してはいない。

「それにしてもアルマンさん、あなたの狙いが今ひとつ見えない。もうひとりのフレンチ・コネクションの忌み子、とやらのあなたが、僕たちの仲をかき乱して何が楽しいんだい。あなたを追い出した伯父さんに復讐でも?」

「さっきも言ったが、メインは仕事だよ。金持ちには好き者が多くてね。プレイのお供に、俺の吐息の力を買ってくれるお客様が結構多いわけさ。香水パルファンよりもね」

 シラノとの視線のぶつかり合いを避けるように、アルマンは懐から取り出したスマートフォンに目を落とす。あれで伯父さんにメールしたのか。シラノは確信する。メールでも確認しただけなのか、二つ三つ親指を滑らせただけで、それをテーブルに伏せて置く。

「それもおかしいよね。吐息だけなら、さっきみたいにメールで送れば済む話だよ。直接あなたが狙っているものがこの島にあるはずだと思うんだけど」

「ご名答。プレイのお供だけでなく、お相手の調達も俺の仕事さ。実は下見に何度か戻って来ててね。アジャクシオやサン=フロランを回ってみたが、この島は実にうってつけだ。リゾートで一夜限りのアバンチュールを楽しんだ女性がそのまま帰らず姿を消す。よくあることだと思わないか」

 誘拐と人身売買。己の悪事を平然と口にするアルマンへの嫌悪感に、シラノはぎりと奥歯を噛む。意図せず、一層強く睨み付ける。

「悪趣味だね。“情欲の悪魔アスモデ”のあなたには天職かもしれないけど」

 シラノの名付けが気に入ったのか、アルマンはひゅうと口笛を鳴らす。

「お褒めに預かり光栄だよ。で、少し頭がイっているブロンドの娘をご所望のお馴染みさんがひとりいてね。そう言えばちょうどいい女性がい


 パぁ ン


 銃声は軽く、乾いていた。思わず首を引っ込めたが、プラスチックでも弾けたのかとシラノは思った。

 グラニエリはアルマンの口を閉ざすように、小さなベレッタの引き金を引いていた。

「……親父」

 銃口から硝煙が。足元の絨毯から、かすかに白い煙が。グラニエリは引き金を弾き切る最後の最後で、狙いをアルマンから外したのだ。

 残響が消えるまでの数秒を、シラノはいやに長く感じた。

「警告を先にしておくべきだったね。サン=フロランの診療所へは、もう仲間が先に着いている。いや、既に一緒においで頂いているそうだよ」

 さっきのメールがそうか。テーブルのスマートフォンにちらりと目をやるアルマンを見て、シラノは察する。

「アルマン、貴様……!」

「撃つんだったら、早いうちに撃っておいた方がよかったんじゃないか、なあ親父!」

 なお挑発するアルマンを前に、再び銃口を持ち上げたグラニエリの手が震えている。

 伯父が銃口を外したことは、シラノには少し意外だった。敵対する者はもちろん、時には部下を相手にも、引き金を躊躇わなかったグラニエリを、シラノは何度か見てきた。そう殺傷力の強い銃ではない。命を奪うというより、相手を黙らせる為に当てる。グラニエリはそんな使い方をしてきたし、狙い通りにそうするだけの十分な腕を持っていた。

 どんなに腐っても、実の息子か。憎しみに染まりきれない伯父に、シラノは何故か少しだけ、安堵に似た感情を覚える。だが、それはそれだ。再び羽根ペンを握る手に意識を走らせ、小さく呼吸を整える。

「アジャクシオで合流したキミのお義姉さんを、俺がちょっと気持ちよくしてあげてから本土へご案内する、そんなエアバスツアーだ。だが万が一俺と合流できなければ、仲間には先に彼女を本土へ運んでもらう手筈になってる。ちょっと強引に大人しくさせてでもね」

 下衆め、と声に出さずシラノはつぶやく。昼間見た、脅える義姉の顔がフラッシュバックする。だが、シラノは下唇を噛み、懸命に堪える。今ここで、伯父さんと僕が二人とも、冷静さを欠くわけにはいかない。

 シラノは意識していつもどおり、鼻を隠してくく、と笑ってみせる。

「やっぱりおかしいな、おかしいよ」

 一度大きく酸素を取り込む。アルマンの開けたワインの香りが、かすかに喉に侵入するのを感じる。

「人さらいがしたいだけなら、僕らに手を出さない方がスマートにコトは済んだはずだよ。こうなったらもう伯父さんだって黙ってはいないし、アジャクシオの憲兵警察ジャンダルムリや本土の情報局に僕が通報したらおしまいだ。本当に嫌がらせ以外の理由が無いなら、あなたの行動は無駄ばかりだ。とてもプロの仕事じゃない」

 じわじわと、自分の唇に薄く笑みが浮かんでくるのを、シラノは感じていた。あらゆる嘘や虚飾に隠された真意が見えてくる時の、この感覚。暴き立て、追い詰める時の、この手応え。オフラインでも、オンラインでも、相手の顔や文面から余裕が少しずつ消えていく時の、充実感。覚えてしまった愉悦も優越感も、どうしても否定できない。

 義姉さん、ごめんね。やっぱり僕は、あなたを騙し続ける詐欺師なのかもしれないよ。

「正直に言いなよ、あなたの狙いは最初から僕だって。リニエール氏の報復も、義姉さんを狙ってるっていうのも、都合の良い口実にしかもう聞こえないよ。ああ、まさか」

 今度は自然に、くくと笑いが洩れた。憎らしさと怒りはまだ残っているが、緊張は消えた。シラノは自分の本調子を取り戻したのを実感した。羽根ペンを持つ手首が、いつもより柔らかくしなる感じだ。

「伯父さんの、お父上のそばに僕がずっといるのが羨ましいのかな。いい歳して」

 シラノは見た。ごく一瞬、アルマンの顔から笑みが完全に消え去ったのを。

 沈黙した空気が、いつ動き出すか。シラノは油断無く構える。痛い所を突いたか、外れているか。逆上するか、仲間とやらに何かさせるのか。それとも。

 シラノとグラニエリに挟まれたまま、アルマンは深く息を吐き、天井を仰ぐ。そして。

「なら、そうだな。キミのお義姉さんと、俺の真意を賭けて」

 ゆっくりと立ち上がり、羽根ペンの刃に脅える事無くシラノに詰め寄る。

 じり、じり、と下がるシラノを壁際まで追い詰めてから、アルマンは今までで最も忌まわしい形に顔を歪め、にざり、と破顔した。

「ひと勝負と行こうじゃないか、坊っちゃん。いや、シラノ・ド・ベルジュラック」

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