幕間《インターリュード》 炎の回想の場
業火に崩れ倒れた
――あああっ!
火の着いたままの柱のささくれが、シランの右目を貫いた。
――兄さん、どこ。兄さん……!
顔の右半分を焦がすそれをがむしゃらに払いのけ、シランは尚も奥へ進む。煙が喉を焼く。赤い熱と光が頬を炙る。夕食の後眠ってしまって、それから時間がわからない。眩しい、炎が眩しい。金属が膨張し割れる音。誰かも知らない肖像画が、ワイングラスの棚が、逆立った火の髪を振り乱す。
四方八方で火花が
――兄さん、逃げなきゃ、寝てる場合じゃないよ!
うまく声が出ない。声を出そうとすると、炎が舌を焼きに来る。
痛みと恐怖に、熱さと苦しさに泣きじゃくりながら、それでもシランは階段を這い上がり、二階の寝室を目指す。
生まれてこのかた、この灰色の部屋だけが世界のすべてであり、
四角いベッドと洗面所と、小さなトイレと、水しか出ないシャワー。そして足首まである白い一枚布の検査衣だけが、彼の世界だった。
開閉する壁の穴から完全自動で補給される乳白色のソイレントとコルシカ・ミントの葉だけが、食という概念そのものだった。生まれてからしばらくの間一緒にいて、いつのまにか忽然といなくなった白い服の男が、きっと自分の親というものなのだろう。そう思う事にしていた。
天井から定時に流れてくる国営ラジオの
彼はそれが不思議だとも思わなかった。
頭の中を、ミントの緑とソイレントの乳白色が、ちゃぽん、ちゃぽんと波打っている気がした。
兄の寝室の扉に手をかけ、開きかけた瞬間、シランは扉ごと吹き飛ばされた。流動した酸素が、既に部屋の何もかもを焼き尽くした炎に食われ、小さな爆発を起こした。
――兄さん、クリス兄さん!
壁に後頭部を強かに打ち付けた。だが、シランは兄を呼び、懸命に身体を起こした。外れた扉の向こうに幾重もの炎の波がうねり、その奥に、助けを求めるように天に伸ばしたまま、真っ黒に焦げてぴくりとも動かない、兄の腕、らしきものを見た。
眼球に焼きついたそれを、シランは認めるわけにはいかなかった。まだ助かる、助けなきゃ。顔の半分が、全身のあちこちが、脳を直接槍でこじるような激痛を伝えてくる。でも、助けなきゃ。
――兄さんを助けなきゃ、義姉さんが! 義姉さんが!
炎の嵐に煽られ、とうとう天井が落ちる。無我夢中で逃れたはずみで、シランは階段を転げ落ちる。がつん、がつんと身体をぶつけながら、玄関ロビーまで落ちてしまった。はっと起き上がろうとするが、もう肩から先が動かない。腕が上がらない。崩れた天井と柱が、二階への道を塞ぐ。
ああ、痛い。痛いよう。焼けた顔面を煤けた手で押さえ、シランは絶望に泣く。
灰色の部屋全体が、不規則に、
生まれてこの方、開いたのを見た事がなかった扉から、黒い煙が滲み出てきた。
臭い。吸い込んだ途端、
出してくれ、と初めて思った。ここから、出してくれ。だが、それを主張したい時自分がどうすればいいか、わからなかった。独り言では、きっと誰もそれを受け取ってはくれない。
いつか聞いた歌詞の通り、扉を叩いてみた。指の節でこんこんと、手のひらでばんばんと。次に拳を作って、どんどんと。だが、誰も聞いてくれはしない。扉は開かず、煙は増えてくる一方だ。
「だ、出してくれ」
喉を絞るようして声を出した。歌う以外の声の出し方を、もうどれだけしていなかっただろう。
「出してくれ、出してくれ」
自分の想いが誰にも聞こえない時には、もっと大きな声で! どの歌だったかの歌詞を思い出して、
「だ、出して、出してくれ!」
声は強くなった。喉から言葉が出ている感触があった。だが、それを聞き届ける者は誰もおらず、
どんどん、ばんばん、と、手をあらゆる形に変えて扉を叩いた。出してくれ、と声を上げた。その内に、熱い、と思った。しばらくシャワーを浴びていない肌から、水がにじみ出てきた。恐い、恐ろしい。うろたえた拍子に、体重が扉にかかった。
ずず、と、扉が僅かに動いた。
ずず、ずずと扉は動いた。その向こうは暗闇だった。足元が段々になっていて、それが上の方へ続いているのを見た時、
食事の出て来る壁の穴からも、黒い煙が出てきた。行かなければ、と
ごほごほと咳き込みながら
板の外れた先は、赤と熱の光の海。燃え盛る、見た事もない世界。あれは恋人を待つ窓というものか。あれは家族が笑う食卓というものか。ラジオを聞き続けて頭に刻み込まれた歌詞と照らし合わせる事しか、
赤い光の少しでも少ないほうへ、少ないほうへと、
もうすぐだ、あと少し。痛む足に込める力をぐっと強くし、走ろうとしたその時。
一瞬だけ、炎がその人間を焼き尽くすビジョンが、
何故だろう。
裾の長い、白い一枚布のような服。
骨ばった腕と、ぼさぼさの髪。
神様が現れたのだと、朦朧とした意識の中で、シランは思った。
ひょろひょろのその人は、こんな時だと言うのに、涙を流しながら歌い続け、その細い腕で自分をずるずると引っ張ってくれている。
ああ、何故この神様は、僕を助けてくれるのだろう。
僕は兄さんを死なせ、義姉さんを悲しませてしまうというのに。
義姉さんの事を思い出した時、ほんの少し、ほんの少しだったけれど、兄さんさえいなければ僕が、と思ってしまったのに。
神様は、僕を許してくれるのだろうか。
屋敷のどこを見ても炎の色だった。あちこちから鳴り響く崩壊の音が、このまま行かせてなるものかと吼える、悪魔の声のようにシランには聞こえた。
いったいどこから現れたのか。どうしてこんなにも必死に、僕のことを助けようとしてくれるのか。
シランにはわからなかったが、それでも、今差し伸べられている神様の手を取らないのは、きっと罰が当たると思った。
外れた肩が痛い。顔も眼も、脳みその中までも熱い。だがシランは歯を食い縛り、立ち上がる。
神様がきょとんとしている。髭も、腋毛も鼻毛も伸ばしっぱなしの、なんだか汚らしい神様だ。
――ありがとう、いきましょう、旅立ちましょう、神様。
二人は手を固く握って、業火に陥落したクリスチャン・ノラン邸から逃げ延びた。
シラン・ノラン十四歳の、秋の日のことだった。
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