幕間《インターリュード》 炎の回想の場

 業火に崩れ倒れたはりが、シランの右頬を焼いた。

 ――あああっ!

 火の着いたままの柱のささくれが、シランの右目を貫いた。

 ――兄さん、どこ。兄さん……!

 顔の右半分を焦がすそれをがむしゃらに払いのけ、シランは尚も奥へ進む。煙が喉を焼く。赤い熱と光が頬を炙る。夕食の後眠ってしまって、それから時間がわからない。眩しい、炎が眩しい。金属が膨張し割れる音。誰かも知らない肖像画が、ワイングラスの棚が、逆立った火の髪を振り乱す。

 四方八方で火花がわらっている。爆ぜた火の粉が降り注ぐ。

 ――兄さん、逃げなきゃ、寝てる場合じゃないよ!

 うまく声が出ない。声を出そうとすると、炎が舌を焼きに来る。

 痛みと恐怖に、熱さと苦しさに泣きじゃくりながら、それでもシランは階段を這い上がり、二階の寝室を目指す。


 生まれてこのかた、この灰色の部屋だけが世界のすべてであり、四号イーヴィという言葉が自分を指している事だけを、彼は理解していた。

 四角いベッドと洗面所と、小さなトイレと、水しか出ないシャワー。そして足首まである白い一枚布の検査衣だけが、彼の世界だった。

 開閉する壁の穴から完全自動で補給される乳白色のソイレントとコルシカ・ミントの葉だけが、食という概念そのものだった。生まれてからしばらくの間一緒にいて、いつのまにか忽然といなくなった白い服の男が、きっと自分の親というものなのだろう。そう思う事にしていた。

 天井から定時に流れてくる国営ラジオの歌謡シャンソンで、四号イーヴィは言葉を覚えた。話す相手もいないまま、ラジオを真似て、独り言を言った。八時と十三時と十八時の時報と一緒に、壁の穴が開き、皿にどばどばとソイレントが支給される。他に壁のボタンを押すと、枝ごとパックされたミントの葉が落ちてくる。他に口にするものはシャワーの水だけしかなかった。聞き覚えの無い、新しい曲が流れてくるのを待つことだけが楽しみだった。

 新年ヌヴェロンという言葉を、だいたい二十と何回かは聞いた。今自分はおそらく二十といくつかの歳なのだなと思った。そして、この先もこのまま、この灰色の部屋の中で生涯を終えるんだなと思っていた。

 彼はそれが不思議だとも思わなかった。歌謡シャンソンが語る、あらゆる恋や、人生のことなど、いったい何のことを語っているのか、想像もできなかった。想像もできないまま、ラジオの歌う通りに、自分も口の中でぼそぼそと歌い続け、食べて、寝て、歌った。

 頭の中を、ミントの緑とソイレントの乳白色が、ちゃぽん、ちゃぽんと波打っている気がした。


 兄の寝室の扉に手をかけ、開きかけた瞬間、シランは扉ごと吹き飛ばされた。流動した酸素が、既に部屋の何もかもを焼き尽くした炎に食われ、小さな爆発を起こした。

 ――兄さん、クリス兄さん!

 壁に後頭部を強かに打ち付けた。だが、シランは兄を呼び、懸命に身体を起こした。外れた扉の向こうに幾重もの炎の波がうねり、その奥に、助けを求めるように天に伸ばしたまま、真っ黒に焦げてぴくりとも動かない、兄の腕、らしきものを見た。

 眼球に焼きついたそれを、シランは認めるわけにはいかなかった。まだ助かる、助けなきゃ。顔の半分が、全身のあちこちが、脳を直接槍でこじるような激痛を伝えてくる。でも、助けなきゃ。

 ――兄さんを助けなきゃ、義姉さんが! 義姉さんが!

 炎の嵐に煽られ、とうとう天井が落ちる。無我夢中で逃れたはずみで、シランは階段を転げ落ちる。がつん、がつんと身体をぶつけながら、玄関ロビーまで落ちてしまった。はっと起き上がろうとするが、もう肩から先が動かない。腕が上がらない。崩れた天井と柱が、二階への道を塞ぐ。

 ああ、痛い。痛いよう。焼けた顔面を煤けた手で押さえ、シランは絶望に泣く。


 灰色の部屋全体が、不規則に、きしむように揺れ始めたのは、四号イーヴィが眠っている時間だった。

 生まれてこの方、開いたのを見た事がなかった扉から、黒い煙が滲み出てきた。

 臭い。吸い込んだ途端、四号イーヴィは咳き込み、むせた。これはなんだ、何が入ってきているんだ。少しずつ部屋を満たしていく煙に、四号イーヴィは初めて不安を覚えた。

 出してくれ、と初めて思った。ここから、出してくれ。だが、それを主張したい時自分がどうすればいいか、わからなかった。独り言では、きっと誰もそれを受け取ってはくれない。

 いつか聞いた歌詞の通り、扉を叩いてみた。指の節でこんこんと、手のひらでばんばんと。次に拳を作って、どんどんと。だが、誰も聞いてくれはしない。扉は開かず、煙は増えてくる一方だ。

「だ、出してくれ」

 喉を絞るようして声を出した。歌う以外の声の出し方を、もうどれだけしていなかっただろう。

「出してくれ、出してくれ」

 自分の想いが誰にも聞こえない時には、もっと大きな声で! どの歌だったかの歌詞を思い出して、四号イーヴィは喉に力を入れた。顎を開いた。

「だ、出して、出してくれ!」

 声は強くなった。喉から言葉が出ている感触があった。だが、それを聞き届ける者は誰もおらず、四号イーヴィの不安は恐怖に変わった。

 どんどん、ばんばん、と、手をあらゆる形に変えて扉を叩いた。出してくれ、と声を上げた。その内に、熱い、と思った。しばらくシャワーを浴びていない肌から、水がにじみ出てきた。恐い、恐ろしい。うろたえた拍子に、体重が扉にかかった。

 ずず、と、扉が僅かに動いた。

 四号イーヴィはそれを見逃さなかった。どうやって身体を当てて、どう力を入れれば動くのか、必死に試した。通電が止まりロックのはずれた扉が、床の凸凹に沿って横にずれることを四号イーヴィは発見した。じとじととした手のひらを、腕全体を、顔をべったりと扉につけて、足を踏ん張った。

 ずず、ずずと扉は動いた。その向こうは暗闇だった。足元が段々になっていて、それが上の方へ続いているのを見た時、四号イーヴィはこれが外の世界への道だと思った。

 食事の出て来る壁の穴からも、黒い煙が出てきた。行かなければ、と四号イーヴィは決意した。恐ろしかった。旅に出ようジュヴォヤージ旅に出ようジュヴォヤージ。一番好きだった歌謡シャンソンを口ずさみ、無意識に自分を励ましながら、四号イーヴィは初めて灰色の部屋を出た。

 ごほごほと咳き込みながら四号イーヴィは足を動かした。段々になっている地面など初めて見た。つまずきながら、時折手をつきながら、四号イーヴィは登った。途中から天井が低くなっている。身を屈めて進んでいく。細い横長の赤い光が幾筋か走っている。出口を塞ぐように打ち付けられた木板が、傾いて今にも剥がれそうだ。

 蹴飛ばせクドゥピ蹴飛ばせクドゥピ! 記憶の中の歌詞から、また言葉をひとつ拾い上げる。板の近くで後ろに両手をついて、裸足のままの右足を思い切りぶつける。ミントとソイレントだけの頭に赤い閃光が走る。痛い! これは違う、熱い!

 板の外れた先は、赤と熱の光の海。燃え盛る、見た事もない世界。あれは恋人を待つ窓というものか。あれは家族が笑う食卓というものか。ラジオを聞き続けて頭に刻み込まれた歌詞と照らし合わせる事しか、四号イーヴィにはできない。だが、その全てが燃えている。頭に焼きついたままの赤い閃光が警告する。この光に囚われたら、死ぬ!

 赤い光の少しでも少ないほうへ、少ないほうへと、四号イーヴィは走った。熱い空気に喉を焼かれそうになったが、それでも唇をあまり動かさないよう、つぶやくように歌った。少し広い部屋に出た。大きな扉がある。あそこから出られる。あらゆる方向から炎の爆ぜる音が轟く。両手をかざして顔をかばいながら進む。ばちん、と何かが弾けるたびに、意図せず身体がびくりと脅える。

 もうすぐだ、あと少し。痛む足に込める力をぐっと強くし、走ろうとしたその時。

 四号イーヴィは、絨毯の床に伏せて動かないもの、いや、人間を見つけた。

 一瞬だけ、炎がその人間を焼き尽くすビジョンが、四号イーヴィには見えた。駄目だ、そんなのは、恐ろしい。

 何故だろう。四号イーヴィは、その人間をそのままにして走り去ることが、どうしてもできなかった。あの人間もきっと自分と一緒だ。なんとか、しなきゃ。


 裾の長い、白い一枚布のような服。

 骨ばった腕と、ぼさぼさの髪。

 神様が現れたのだと、朦朧とした意識の中で、シランは思った。

 旅に出ようジュヴォヤージ旅に出ようジュヴォヤージ

 ひょろひょろのその人は、こんな時だと言うのに、涙を流しながら歌い続け、その細い腕で自分をずるずると引っ張ってくれている。

 ああ、何故この神様は、僕を助けてくれるのだろう。

 僕は兄さんを死なせ、義姉さんを悲しませてしまうというのに。

 義姉さんの事を思い出した時、ほんの少し、ほんの少しだったけれど、兄さんさえいなければ僕が、と思ってしまったのに。

 神様は、僕を許してくれるのだろうか。

 屋敷のどこを見ても炎の色だった。あちこちから鳴り響く崩壊の音が、このまま行かせてなるものかと吼える、悪魔の声のようにシランには聞こえた。

 いったいどこから現れたのか。どうしてこんなにも必死に、僕のことを助けようとしてくれるのか。

 シランにはわからなかったが、それでも、今差し伸べられている神様の手を取らないのは、きっと罰が当たると思った。

 外れた肩が痛い。顔も眼も、脳みその中までも熱い。だがシランは歯を食い縛り、立ち上がる。

 神様がきょとんとしている。髭も、腋毛も鼻毛も伸ばしっぱなしの、なんだか汚らしい神様だ。

 ――ありがとう、いきましょう、旅立ちましょう、神様。

 二人は手を固く握って、業火に陥落したクリスチャン・ノラン邸から逃げ延びた。

 シラン・ノラン十四歳の、秋の日のことだった。

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