第二幕  後

 バスティア市街地からジャン・ジュッカレリ通りを辿り、山へ向かうペトラビュノ道路を半分昇ったところに、グラニエリ邸の正門がある。山肌の民家や公営集合住宅を従えるようそびえ立つ屋敷の前に、シラノたちは車を停め、ひなびた石塀に似つかわしくない真新しいインターホンを鳴らす。

「はい」

 と出たのは、聞き覚えのない若い男の声。シラノは自分より上、ベランジェは自分より下、という印象を抱き、おそらくは、と無言で同じ見当をつけた。

シラノ・・・です」

 シラノにとっては実家にも等しいグラニエリ邸だった。普段であれば本名のシランを名乗るところだが、この時に限って緊張と警戒がそうさせなかった。

「シラノ……? ああ、ああ!」

 インターホンの声の主はわざとらしく声を上げる。がちゃん、と正門のロックが外れ、自動でぎいと開く。車好きのグラニエリの屋敷には、セダンがゆうに三台は入りそうなガレージが二つ、来客用の屋外駐車場が八台分ある。そろりそろりと、ベランジェはルノーを進ませる。

 シラノの見覚えのない車は停まっていない。所有する車から持ち主を想像する事は叶わないようだ。緊張感を保ったまま、ベランジェとシラノは車を降りて屋敷のドアまで歩き、普段はしないノックを鳴らす。


 シラノとベランジェを出迎えたのはやはり、二十代らしき見知らぬ男だった。

「ようこそ、シラノさん」

 シャドーストライプが入ったブルーブラックのスリムフィットスーツ。ネクタイこそしていないが、シャツのボタンは一番上まで律儀に留めている。無駄な肉のない細面を彩るのは、ジャッカルを思わせるチョコレートブラウンの長髪と瞳。ベランジェよりも拳ひとつ高い長身。

 彼が、おそらくは。

「アルマン・グラニエリさん」

 シラノは確信したそのままの名を呼び、笑顔を取り繕って右手を差し出す。

 薄く化粧をしているのだろうか。男は肌艶の良い頬を緩ませて、呼ばれたその名を肯定する代わりに、

「はじめまして。光栄だね、裏社会ミリューのシラノ・ド・ベルジュラックとご対面できるとは」

 シラノの手を取り、ぐっと握る。

 ここは自分もそうするべきか。ベランジェは軽く汗ばんだ手のひらを一度スラックスの尻で拭ってから、同じように手を差し出す。だが。

「キミ、臭いな」

 アルマンは表情を途端に強張らせ、あからさまに嫌そうに口と鼻を大きな手の平で隠す。臭い、だと?

「失礼な奴だな……って、お、お前もお互い様じゃねえか」

 ベランジェも一歩仰け反って、手の甲で鼻の穴を押さえる。出会うなり険悪な雰囲気になった二人を見比べて、シラノはきょとんとしている。

「ひどい臭いだ。その包帯の下でチーズでも作ってるんじゃあないか」

「お前こそ香水パルファンの吹きすぎじゃねえか? やれやれ、何の匂いをごまかしたのかね」

「そもそも香水パルファンとはそういうものだよ。むしろキミこそ、もう少しごまかす努力を見せたらどうだい」

「ナチュラルが信条でね。自然を愛するコルシカ人らしいだろ、ん?」

 唐突に火蓋を切った罵りあいに、緊張を削がれてしまったシラノは、

「クレールさんは」

 ふと思い当たって、家政婦の所在を訊ねる。シラノがこの家にいた頃からもう十年も勤めている、おっとりした女性。普段であれば、来客をまず出迎えるのは彼女の勤めのはずだ。

「ああ、メイドさん……ちょうどディナーの仕度の最中じゃないかな」

 屋敷の奥に肩越しに視線をやりながら、アルマンは曖昧に答える。何をとぼけているんだ。シラノが眉を顰めて訝しんだところで、アルマンが二階から降りてくる。

「ああ来たのか、シラン」

 昼間の出来事などまるで無かったかのように上機嫌を装うグラニエリの意図を、シラノは素早く読み取った。そうだ、今の敵は伯父ではなく、このアルマンという男だ。シラノも、

「伯父さん! 昼間はどうも」

 と、さらににこやかな笑顔を造る。

「入りたまえ、まだ夕食まで少し時間がかかるようだ」

「そう。じゃあ先に一杯やっていようよ。ベルがロンツ(※豚切り肉の燻製)を持って来たから」

 一度素早くベランジェの肘のあたりを小突き、アルマンの脇をくぐって屋敷へ入る。

 ベランジェとアルマンも最後にひと睨みし合ってから、シラノに付き従い、屋内へ足を踏み入れる。


 白いクロスのテーブルには、ワインもサラミも、バケットすらも乗っていなかった。

「かけなさい、アルマン」

 早々にテーブルの角に腰掛けたグラニエリは、隣の席を顎で指し、低く重い声で促す。

「いやいや、俺は……」

 アルマンは言いかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。自分を睨みつけているのは父だけではなかった。彼の手の黒鉄くろがねの銃口が、ぴたりとアルマンに狙いを定めていたのだ。

「ちょっと親父、冗談だろ」

 ベレッタM950ジェットファイア。手のひらに収まるサイズの護身用の自動拳銃。グラニエリが常に携帯している生産終了モデルだ。荒事に進んで手を出すようなグラニエリではなかったが、それでも彼が、必要とあらばためらわず引き金を引く男であることを、この場にいる誰もが知っている。

「冗談でこんなことをするお父上じゃあないでしょう、アルマンさん」

 アルマンの背中にも添えられる、冷たく鋭い金属の感触。シラノのコレクションの中で最も大きく太い、殺傷の為に作られたとしか思えないサイズのペン先が、シャツ越しにアルマンの腰椎に狙いを定めている。

「大人しくパパの言う事を聞いておきな、色男さんよ。今日の二人は相当お冠だ。よっぽど上手い言い訳でもしなきゃ、逃げられんぜ」

 扉をどすんと背中で塞いで、ベランジェが入り口でのお返しだとばかりに勝ち誇る。打ち合わせのひとつも無しに、包囲網は出来上がった。アルマンには大人しく弁明の座に着く他選択肢は無い。シラノたち三人の誰もが思った。

 だが、アルマンには脅える様子も、焦る様子もなかった。上げた両手を広げて、

「やれやれ、久し振りに帰省してきた息子をホールドアップするなんてね。相変わらずだよ、親父は」

 整った顎をくいと上げ、アルマンはまるで父を見下みくだすように視線を送る。

「長い話なら食べながら話そうよ。新しいワイン、預けてあるだろう」

「メシなんぞあるわけがない。クレールを使い物にならなくしたのはお前だろう」

「なんだい、バレてたのか。もっときちんと直しとくべきだったね、父さんのベッド」

 やりとりを聞いたシラノとベランジェは、彼が何をしたのかを察し、思わず息を飲んだ。馴染みの家政婦が今日に限って顔を出さないことに、ベランジェもシラノも違和感を覚えていたところだ。

「少し目を離すとこうだ、やはりお前は何も変わっちゃいない! 追い出して正解だった、いや、表に出さずに殺しておくべきだった!」

「ふふ、そうかもしれないね。だけどそんなこと、親父にできたっけ」

「できんと思うか、アルマン! 人を小馬鹿にするような真似ばかりしおって! お前は今日も……」

 抑え切れず、少しずつ溢れ出てきた怒りに、グラニエリの声が震える。銃口が小刻みに揺れている。だが。

「今日も、なに、どうしたの。ひょっとして父さん、引っかかっちゃったの?」

 まるで銃など意に介さず、アルマンは尚も父を挑発する。

 目を見開いたグラニエリの指が、ぐっと動く、その寸前。

「はい、ストップだよ。伯父さん」

 普段通りの口調で、シラノがグラニエリを制した。

「シラン! だが、こいつは……」

「あのメールはやはり嫌がらせだったんですね、アルマンさん」

 グラニエリを遮り尋ねたシラノに向かって、アルマンは口端を吊り上げ、無言でわらった。

 その風貌よりも尚、狡猾な獣を思わせるアルマンの眼光。本性をあらわした。誰もがそう思った。

「伯父さんの今日の行動を知っていて、タイミングを計ってあのメールを送った。義姉さん――ロクサーヌの病室にいる時間に、あの吐息アレンヌを開封するように」

 違いますか、とシラノは問うが、回答を待つ必要もなかった。微塵も悪びれる様子のないアルマンの態度が、そのまま肯定ウイの答えだ。

「伯父さんにロクサーヌを襲わせて、あなたに何の得があるんです」

「別に何も。いい歳こいた紳士が三人、雁首揃えて深窓の令嬢の見舞いだ。茶化してやりたくもなるさ」

 肩をすくめるアルマンの姿に、グラニエリが身を乗り出し、口を開きかける。だがシラノが言葉を続けて、そうはさせない。

「聞き方を変えるよ。ただの嫌がらせならいつでもできた筈なのに、何故今日、今になってそんな事を」

「何かこっちに手を出してくるきっかけがあったのかな。たとえば、そうだね。最近僕らに痛い目に遭わされた誰かに、そそのかされたとか」

 シラノがもっと逆上するかとベランジェは心配していたが、シラノの口調は冷静だ。だが彼がアルマンに突きつけている羽根ペンを持つ手は、やはり小さく震えている。

 まだこらえるのか、シラノ。固唾を呑む。

「さすが、さとい坊っちゃんだ。なに、リニエール氏はちょっとしたお得意さんでね」

 つい最近聞いた名だ。二束三文の荒地を買わせたあの悪どい作詞家の捨て台詞を、シラノもベランジェも思い出す。

「彼はいつも特製の香水パルファンをお買い上げ頂いてる上客なんだが、どうやらずいぶんな嫌がらせに遭ったらしい。しかもそれをやらかしたのが、僕の親族とそのお抱えの手紙書きだって言うじゃないの」

「意趣返しってこと。でもこんな事をしても、僕らが彼にお金を返す理由は無いよね」

「金のことは俺の知ったことじゃないさ。大方聞いたが、リニエール氏も今さら帳簿の書き直しは面倒だろうよ。キミの言う通り、例のメール自体はただの嫌がらせさ。もっとも父さんやキミの様子を見るに、予想以上に効果はあったみたいだけどね」

 飄々ひょうひょうとした様を、アルマンは一向に崩さない。いつグラニエリが、シラノが、その得物にものを言わせてもおかしくない程に、彼らの間の空気は緊張している筈だ。少なくともベランジェにはそう見えている。

「ま、仕事のついでもあってね。何より」

 アルマンはくるりと振り返り、

「同類の匂いがしたからね。この世にもう何人といない同類だ、一度は顔を合わせておくべきか、とね」

 今度はベランジェを、射抜くように見据える。やはり。

「どうしてあなたが吐息アレンヌを?」

 ベランジェが問い詰めたかったそのままを、シラノが代弁する。アルマンはシラノとベランジェを一度ずつ見比べ、何事かにあきれるようなため息をわざとらしく吐いてから、

「“フレンチ・コネクションのみ子”はそっちの臭ぇのだけじゃないってことさ、坊っちゃん」

 何かの二つ名らしき耳慣れない言葉を口にした。

「……なんだって」

 訊き返すシラノに応えるように、アルマンは留めていたシャツのボタンを上から二つ、ぷち、とはずす。


 露わになった胸元にシラノたちが見たのは、ベランジェと良く似た、素肌を侵すような母斑シミ

 ベランジェの苔色のそれとは異なる、紫色に近い紅の母斑シミが、アルマンの上半身を覆っていたのだ。


「なんだ親父、坊ちゃんたちに教えてあげてないのかい。事実を伏せるばかりが誠意じゃないと思うよ、俺は」

 シラノはグラニエリに視線をやって、アルマンの言葉の意味を求める。グラニエリは額に汗を滲ませ、動かず押し黙ったまま、アルマンを睨みつけている。意識して、シラノと目を合わせないようにしている。

「伯父さんは知っていたの? ベルの正体を」

「焼けてしまったサン=フロランのぼろ屋敷。確かクリスチャン・ノラン……そう、キミのお兄さん夫婦が住んでいたね」

 グラニエリより早く、アルマンが続けて口を開く。唐突に兄の名を出されて、シラノは肩をびくりと強張らせる。アルマンが何故そんな昔の話を持ち出したのか、全く見当がつかない。だが。

 アルマンは唇をにたりと歪めて、ドア際のベランジェに向き直る。そして、告げた。


「あの屋敷が燃えたのは、ベランジェ・ル・ブレ。キミのせいだよ」

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