第二幕  中

 香り物質とは、官能基による分類上、その大半が炭素水素酸素窒素の組み合わせからなる有機化合物である。SDCスメルデータコンバータ開発の最終的な目標は、従来型のカートリッジ式香り生成機器から脱却する為、生活圏内の大気中から分解したこれらの成分を用いて、あらゆる香りを半永久的に生成する事にあった。

 通話時の呼気を含む大気中から分解した成分をチップ内に貯蓄しておき、スメルデータを元にチップ内で香り物質を再現する出力モードと、一定量の気体に含まれる香り物質の組成解析を行う入力モードがある。果実臭の元となるエステル類や、安価な香料として作られるアルコール類等、組成の解析や再現についてノウハウの多い香り物質については、一定の精度での解析と再現、いわゆるリバースエンジニアリングに成功している。だがそれ以外の分類、こと窒素を含むアミン類の解析については、そもそも大気中に占める窒素の比率が高いことから正確な解析ができず、未だ技術的ブレイクスルーの発見を待つだけの足踏みが続いていた。

 Google‐Smellグーグル・スメルの範囲限定実験が期間の延長を繰り返している理由のひとつに、チップのメーカーであるブルーエア社の実験継続への強い要望がある。SDCスメルデータコンバータを世界へ流通させられる水準で完成させるには、まだ大量の試験ケース数が必要であり、あらゆるビッグデータを保有するGoogleグーグルとの連携は必要不可欠だったからだ。

 加えて、光分解ひかりぶんかいを利用していると公表された以外には、SDCスメルデータコンバータの技術は完全にブラックボックス化されている。Google‐Smellグーグル・スメル対応チップ分野の独占を狙うブルーエア社の思惑とは裏腹に、Googleグーグルは同社へその理論と設計の完全な公開を求めている。技術的問題点だけではなく、硬化し始めた両社の関係にも、何らかのブレイクスルーが必要な状況が続いていた。


「だめだ、わかんないね」

 書斎のデスクでモニターを前にして、シラノはため息を吐く。グラニエの息子アルマンのメール添付ファイルを解析していたシラノだったが、類似する香りデータはGoogle‐Smellグーグル・スメル対応データリストにも載っておらず、何の香りだったかをつきとめる事は出来なかった。

 もっとも、Google‐Smellグーグル・スメル‐APIから見た場合、「不明な香りデータ」である事はベランジェの吐息も同じだった。やはり“ベルフェゴール”はベランジェの他にも存在する。ほんの僅か、シラノたちはその確信を強めた。

「まあ、そうか」

 明らかに普段と様子の違ったグラニエリを思い出しながら、ベランジェも肩を落とした。

「誰か知り合いとかいないの、ベルみたいな息出せる人」

「そうそういてたまるかよ。むしろ俺以外に見た事無いから、いつも本当に俺の息のせいでああなってるのか、心配になってるくらいだ」

「他に誰ができるんだい、そんな事」

「誰かができるってことだろ、こうして」

 シラノのすぐ横に立ち画面を覗き込みながら、ベランジェも軽口を叩いてはいたが、新たな“ベルフェゴール”の出現への驚きは、笑い飛ばすにはあまりに大きすぎた。

 SDCスメルデータコンバータ自体もブラックボックスなら、ベランジェや、新たに現れた“ベルフェゴール”の吐息もそうだ。シラノも、そしてベランジェ自身も、彼が何故こんな芸当ができるのかを深く追求したことはなかった。

「アスモデ、ってとこかな」

「誰だって?」

「“怠惰の悪魔ベルフェゴール”じゃなくて“情欲の悪魔アスモデ”。催淫効果というか、理性のたがを外すほど性的欲求を強く刺激する香り」

「ムラっとくるってことか。アロマやらの効果としては、ありがちっちゃありがちなのかもしれねえけど。しかし、グラニエリさん相手になんだって……」

 言いかけて、ベランジェは口を閉ざす。あまりに出来すぎたメールのタイミングや、グラニエリの情欲がまっすぐにロクサーヌに向いたこと。そして、それを目の当たりにし、怒りに身を任せたシラノ。

 あまり触れないほうがいい部分だと、遅まきながら気付いた。病床のロクサーヌを想う二人の男の関係は、家族であり、上司と部下でもある。シラノの心中を察しながら、自分が推測したアルマンとやらの狙いをうまく説明する事は、自分にはちょっと出来そうにない。そう思って、ベランジェは沈黙を選んだ。

 だが、シラノはあっさりと、

「僕に対する嫌がらせじゃないかな」

 ベランジェが辿り着いた結論そのまま、さらりと言ってのけた。

 コルシカの民族は元来、仲間や家族との絆を重んじる。それはそのまま、ユニオンコルスの特色として色濃くあらわれている。幼い頃に両親を失ったクリスとシラノの兄弟を育ててきたのは、母の兄であるグラニエリで、生前のクリスも、そして今のシラノも、グラニエリの下で働くユニオンコルスの一員だ。

 伯父であり上司。何より長年の恩人であるグラニエリが、シラノの恋敵。だがきっとシラノは、グラニエリを立てて自分の想いは秘めておこうと心に決めている。そうに違いないと、ベランジェは踏んでいる。診療所の帰り際のやりとりの、再婚のくだりを思い返して不憫に思う。

 アルマンのメールは明らかに、自分達がロクサーヌに接触しているタイミングを計って送られている。おそらくはグラニエリとシラノが、ロクサーヌに並みならぬ想いを抱いていることを前提にだ。シラノの思いに水を差すようなこの行いに、ベランジェは怒りにも近い苛立たしさを覚えていた。

 と。

 シラノは座ったまま、背もたれからずらした頭を、横に立つベランジェの腕に、とん、ともたせかける。

「……どした」

 深くため息をつき、そして。

「ごめんね、ベル。それ、顔」

 消え入るようなか細い声で、謝罪の言葉を、小さく伝える。何の事だったかと、思い出すのに数秒かけてから、ベランジェは頬の傷のことを思い出す。意識して初めてちくり、と痛んだが、

「大したことじゃない、ありゃキレていいとこだ」

 そう言って、空いた片手でシラノの頭をぽんと叩く。

「目、危なかったね。ごめんね、ベル」

「まあいいさ、すぐ直る。もし潰れっちまってたら、俺もお前さんみたいに眼帯だったな」

 シラノは椅子の上で体をひねって、ベランジェの顔をじっと見上げる。眼帯をつけたところでも想像しているのだろう。ベランジェは自分でも少しイメージしてみたが、シラノほどしっくり来る気がしない。シャツはよれよれ、胸元には包帯のおっさんだ。シラノと並んでも、ただの珍妙なけが人にしか見えないだろう。

「左右対称に? それじゃ僕ら、明らかに中ボスのやられキャラだね」

「グラニエリさんがラスボスのコルシカ・クエスト、ってか? そもそも誰が攻めてくるってんだ」

 ベランジェのジョークに、シラノは鼻を隠しておかしそうにくくと笑う。ショートカットキーを何度か押して、香りデータを検索にいくつも窓を開いていたブラウザを閉じていく。六時にはグラニエリの屋敷で晩餐の時間だ。笑顔を取り戻したシラノは、パソコンをスリープさせて立ち上がる。

「さてね、誰だろうね」

「“情欲の悪魔アスモデ”さんのお出ましだろ。どっちがやられキャラか、ちょいと拝見しに行こうじゃないの」

 緊張感をシラノと共有しながら、ベランジェはルノーのキーをちゃらりと鳴らす。

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