第二幕 紅《くれない》の香り襲来の場  前

 北へ伸びる半島の山々を挟み、バスティアから西へ車で一時間。

 サン=フロラン湾の青い浅瀬に、色とりどりのボートを敷き詰めた波止場。足首まではっきりと見通せる透き通った海に、水着の来賓たちが賑わうビーチ。その景色を奪い合うように、大小新旧のビーチホテルが立ち並ぶ、小さなリゾート。

 山間の県道、D81を下ってきたシラノとベランジェの車は、真新しいピッツェリアと小汚い食堂タベルナが並ぶ波止場通りの角を曲がり、もう一度内陸へ向かう。ランチタイムで人通りの多いストリートは、海から離れて登るにつれて細くなり、広い敷地の屋敷やプール付きの別荘以外は、生い茂る木々と植え込みばかりが目立つようになる。

 石造りの壁が途切れた所で、ベランジェは道路から外れ、閑散とした砂利の駐車場の隅に車を停めた。

「ああ、もう伯父さんも着いてるんだね」

 前向き駐車のプジョーを見つけて、シラノ達はグラニエリが先着している事を知る。閉鎖された石造りの教会、サンタマリア大聖堂の陰に隠れた白い漆喰作りの二階建てが、シラノの義姉のいるベルローズ診療所だ。


 木々の隙間からわずかに潮風が届く窓辺で、美しいロクサーヌはひとり、つぶやくように歌っている。

 一床のみの小さな個室で、日差しにずっと当たっているせいで、少しそばかすが増えている。小さな庭の青々とした植え込みは、今は花をつけていない。春と、もう少し秋が深まってから咲く、このあたりでは珍しいアザレアだと、いつかシラノが教えてくれたことをベランジェは思い出す。

 ロクサーヌのかつて腰まで長く伸ばしていた金髪ブロンドは、今は肩を過ぎたあたりで丁寧に切り揃えられている。以前シラノが訊ねたところ、診療所を訪問する美容師がひと月おきに整えてくれるらしいと、グラニエリが話していた。

 ベッドの上で、上半身を前後にゆっくり揺らしながらぶつぶつと歌うそれは、コルシカ語の古い子守唄だ。時折おやすみニンニーナおやすみニンニーナと言っている事以外は、どんな歌詞なのか、シラノやベランジェにも、グラニエリにもわからなかった。

 栗色の紙袋を抱いたまま、グラニエリはしばらくの間、その光景をじっと眺めていた。見とれているようにも、ベランジェには見えた。短い廊下から老看護婦が現れたところで、グラニエリは開いたままの引き戸をノックして声をかける。

「やあ、マダム・ノラン」

 ロクサーヌの鼻歌も、体の揺れも止まらない。返事もない。マルグリットと名札を付けた付き添いの老看護婦に、かまわないかと目で訊ねてから、グラニエリは病室へ足を踏み入れる。歩幅を小さくし、ロクサーヌをじっと見つめながら、彼女のベッドサイドへと寄る。シラノも、そして一歩離れてベランジェもそれに続く。何度来ても、まるで通過儀礼のようなそのシークエンスは変わることがない。ベランジェはそんなことを感じた。

「彼女の具合はどうかな」

「ええ、最近は食事の進みもいいです。この間グラニエリさんに頂いたミラベル(※西洋スモモ)、お気に入りみたいですよ」

 歌い続けるロクサーヌに代わってマルグリットが答えるのも、いつもと変わらない。そうですか、とグラニエリは頷き、嬉しそうに目を細める。

「ねえ、マルグリット。クリスはまだ帰って来ないの?」

 ロクサーヌは急に歌をやめ、看護婦に唐突に訊ねた。

 グラニエリたちが近づいても、ロクサーヌはまるで彼らなど見えていないように、マルグリット、マルグリットと呼び続ける。

 シラノは懐から、昨夜ろうで封をした自分の手紙を取り出し、

「クリス兄さんからまた手紙が来たよ、義姉さん」

 ロクサーヌに差し出した。兄の名と手紙、という言葉を口にすればひょっとしたら、と思ったが、ロクサーヌはシラノの方にも、手紙の方にも、目を向けようとしなかった。

 失礼しますよ、とマルグリットがシラノから手紙を受け取り、胸ポケットの小さなレターナイフですらりと封を開く。そして、

「ほら、ロクサーヌ。旦那様からお手紙ですよ」

 と手渡す。するとロクサーヌの表情がぱっと華やぐ。少女のように頬を染め、待ちかねたその手紙に薄茶色の瞳を何度も走らせる。

「マルグリット! クリス、もう少ししたら、私をアメリカへ連れて行ってくれるんですって」

「ええ、ええ、そうですか。じゃあそれまでに、お身体を治さないといけませんよ、ロクサーヌ」

「もう平気なのよ、マルグリット。どうして私、病院にいるのかわからないわ」

「あなたの体には自分ではわからない、とても恐い病気が潜んでいるの。私と先生がちゃんとついていますから、ゆっくり治しましょうね」

 シラノより六歳上の兄の、さらにひとつ上のロクサーヌだったが、言葉遣いも振舞いも、まるで十かそこらの少女のように、幼くつたないものだった。ひと目だけならかわいらしく見えなくもないが、この人はこの先ずっとこうなのかと、ベランジェには空恐ろしくもあった。

 夫の死という受け容れ難い現実を突きつけられ、ロクサーヌは身ごもっていた子を流産し、心を壊してしまった。ショックに起因する記憶障害を伴う幼児退行は、入院して四年が経つ今でも、回復の様子を見せていない。

 いつからか心を許したマルグリットと言葉を交わす以外は、誰とも語らず子守唄を歌い続けるロクサーヌ。その心はひょっとしたら、夫クリスの仕事に関わっていた人間すべてを、拒絶しているのではないか。クリスの素性とその死を知っているベルローズ老医師は、かつて皮肉交じりにそう告げた。

 日がかげり、風が少し冷えた。マルグリットがストールをかけてやると、ロクサーヌは痩せた頬にえくぼを作って、ほのりとほほ笑む。そして便箋を広げたまま、楽しそうに、また鼻歌を始めるのだ。

 黙って身を引き、ロクサーヌの元から離れたシラノに、ベランジェはぼそりと言う。

「相変わらずなのか」

 ベランジェはもちろん、シラノやグラニエリのことも、その視界に存在すらしないような振る舞いを見せたロクサーヌの姿を見かねて、ついこぼしてしまった一言だ。

「仕方ないよ」

 シラノは片方しかない眉を傾けて、寂しそうにそう笑った。

 彼女の様子を見てグラニエリも会話を諦めたのか、

「すみませんが、これを」

 抱えてきた紙袋をマルグリットに預けようとする。だが。

「あげてみてください。貴方ならきっと大丈夫でしょう」

 と、マルグリットはそれを受け取らなかった。袋からこぼれ出る甘い香りに、中身がいっぱいのミラベルであるとマルグリットは気付いていた。

 グラニエリは一度シラノを振り返る。体格の良いグラニエリをシラノはいたずらっぽく見上げ、目を伏せて一度頷く。おいおい、とベランジェは言いたかったが、グラニエリは黙って一歩前へ出て、紙袋の中のミラベルをひとつつまむ。

 ベッドの傍らに膝をつき、目の高さをロクサーヌより低くして、捧げるようにそれを彼女の顔に近づける。

 すると、ロクサーヌの歌はぴたりと止んだ。

 グラニエリは見た。一度だけ、一瞬だけではあったが、ロクサーヌの瞳は間違いなく自分の事を認識した。確かにロクサーヌと、目が合ったのだ。

 便箋を離さぬまま、ロクサーヌはグラニエリの手から直接ミラベルをついばみ、唇で捕らえて取り去った。皮ごと食べられるそれに指先を添えて、果汁がこぼれないように口に押し込む。もぐもぐと噛み締めて、ごくりと飲み込むと、心なしか満足そうにほほ笑んで、また歌を歌い始めた。

 今度はグラニエリが喜ぶ番だった。もう一度ちらりとシラノたちを振り返った彼の顔は、五十手前の男のそれとは思えないほど、隠し切れない喜びにほころび、彼はもうひとつ、もうひとつとミラベルを彼女に差し出した。

 四つめで「もういらないわ」とつっけんどんに拒絶され、紙袋をサイドボードに置いて離れたグラニエリだったが、その頬はゆるんだままだった。

「グラニエリさんも、律儀に通って頂いてるからでしょう」

 嬉しそうな中年男の日頃の努力を、マルグリットは優しくねぎらった。そうですか、と短く答えただけだったが、グラニエリは満足そうに頷いた。

 歌い続ける義姉と、それをすぐ横で見守るグラニエリとマルグリット。シラノはそのを、少し離れた遠くから、薄い薄い微笑みのまま見つめている。ベランジェから見てそれらは尚遠く、声をかける事もできない。冗談も浮かんでこない。その手紙を書いたのはシラノだ、などと、言って誰が救われるはずもない。

 結局ここでも第三者のまま、見舞いが終わるまで黙って立っていることしか、ベランジェにはできなかった。


「伯父さんは、再婚しないの?」

 病室を出て階段を降りる時、いきなりシラノはそう訊ねた。急にどうした、とベランジェは一度は面食らうが、少し照れくさそうに、

「話は無くはないが、今はどうだろうな」

 目を逸らして答える。

「伯父さんなら、いいんじゃないかな。兄さんも」

 最後尾のベランジェからは、シラノの表情は見えない。声の様子は変わらない。だが、それが本心からの言葉だとは、ベランジェには思えなかった。

「馬鹿を言うんじゃないよ、シラン」

 短い言葉で笑い飛ばすが、はっきりとは否定していない。そんな風にベランジェには聞こえる。だが何も言えない。ソファがひとつぽつりと置かれた狭い受付に辿り着くまで、ベランジェは無言を貫いた。

 マルグリットに見送られ、三人は診療所を出る。と、グラニエリのスマートフォンが鳴った。足を止めたまま、彼はメール画面らしき液晶画面をじっと見ている。

 気にせず彼の脇を進むシラノに続いて、ベランジェがグラニエリを追い越した、その時。

 ごくごく弱い、何かの花のような香りが、ベランジェの鼻腔にまとわりついた。

 何だったっけ、と、ベランジェは自分の記憶を少したどる。今嗅覚が捉えた香りは、いったい何のものだっただろう。何故今、したのだろう。

「……すまん。先に帰っていてくれ」

 スマートフォンを見つめたまま、グラニエリは低い声でそれだけを言う。そしてシラノの返事も待たずくるりと身を翻し、足早に診療所の中へ戻っていく。

 少しの間伯父の背中を見送り、そのまま駐車場へ向かおうとするシラノを、

「し、シラノ。ちょっと」

 ベランジェは肩を掴んで止める。

「どうしたの」

「いや、その……なんか今、ヘンな匂いみたいなの、しなかったか」

 気のせいかもしれない。シラノに肩入れしすぎて、グラニエリさんを変に疑っているだけかもしれない。要領を得ないベランジェの様子を、

「ミラベルの香りが残ってたんじゃないの。伯父さん、ずっと抱えてたし」

「いや、あれの香りじゃなくて……もっとこう、キツい花みたいな匂い」

「僕の鼻はコレだから、ちょっとわかんないよ」

 困ったような笑いを少し浮かべて、シラノは自分の鼻を指差す。黒く硬いシラノの火傷は、鼻の奥、嗅細胞のある鼻腔の一部にまで達しているらしい。自分の嗅覚は常人に大きく劣っているのだと、いつかベランジェはシラノから聞いたことがあった。

 そんなシラノの自嘲の笑みも、乾いてすぐに消えた。機嫌が悪い。だがベランジェは直感していた。シラノをここで、このまま行かせてはいけない。

「そうだ。グラニエリさんのアレ、メール見てたスマホ、確かAndroidアンドロイドだったよな」

「ちょっと前のXperiaエクスペリアだったはずだけど……何が言いたいの?」

「う、うまく言えないんだが……俺のと同じ感じの匂い、だった気がする」

 ごく僅か、シラノは地面に片目を泳がせ、考えを巡らせる。メールを見た途端不自然に立ち止まり、にわかに引き返したグラニエリの姿を思い出す。

 そしてシラノは、思い当たった何かに弾かれるように駆け出し、再び診療所へ飛び込む。ベランジェもまた、言いようの無い不安を胸に感じながら、その後を追った。


 階段を駆け上がる。悲鳴が聞こえる。病室に飛び込む。義姉さん!

「何をしているんだ、伯父さん!」

 ベッドのロクサーヌに覆いかぶさるグラニエリを目にして、シラノは叫ぶや否や飛びかかる。グラニエリの襟を両手で掴み、力任せに引っ張る。

「うああああああっ!」

 逆上のままに雄叫び、グラニエリの大柄な体をベッドから引き剥がし、床へ投げ飛ばす。サイドボードの花瓶が落ちて、変えたばかりの花が散る。

 ベッドの上のロクサーヌは、恐怖に声をあげ泣いている。引き千切られた寝巻き。白い肩に刻まれたわずかな爪跡。シラノの顔にかっと赤い血が上ったのをベランジェは見る。まずい、と思う。だが。

「ああああッ!」

 よろよろと立ち上がったグラニエリの顔を、シラノの拳が強かに打つ。サバットのフォームも何も無い、ただ握った手を叩きつけるだけの行為。普段ベランジェが見ているスマートさからは考えられないほどに、シラノは髪を振り乱し、激情任せに彼を壁にどうと押し付ける。そして。

「だ、ダメだシラノ! そいつはマズい、やめろ!」

 胸ポケットから羽根ペンを抜き放ち、逆手に握って振り上げたのだ。

 ベランジェは慌ててシラノに飛び付く。後ろから羽交い絞めにし、グラニエリから引き離そうとするが、

「離せよベル! 何で止めるんだ! こいつは、こいつは……ッ!」

 涙と怒りに声を震わせ、ベランジェの懸命の拘束から尚も逃れようと、シラノは両腕を振り回す。

「わかった! わかったから、とりあえずストップだ! グラニエリさん、あんたも……ちょっと、何やってんですか!」

 壁際からゆらりと逃れたグラニエリは、尚もベッドに近寄る。脅えるロクサーヌが悲鳴を上げる。より強く力を込めて、シラノが凶器を握った手を振り回す。

「うお……っ!」

 ペン先がわずかにベランジェの左頬を掠める。目の下ぎりぎりに、赤いひと筋の線を描く。シラノは気付いていない。騒ぎを聞きつけたマルグリットとベルローズが、何事かと病室へ駆け込んで来る。

「看護婦さん、先生! ちょっとだけこいつを頼みます、えっと……アレだ、ほら、鎮静剤とか!」

 呆気に取られていたマルグリットたちも、ベランジェに言われるがまま、二人がかりでシラノを押さえつける。押し倒したロクサーヌの胸に顔を埋めるグラニエリの髪を掴み、ぐいと引っ張り上げて、ふう、と吐息を吹きかける。

 そして。

「もうやめて下さいよ、面倒でしょう・・・・・・? 勘弁して下さい」

 グラニエリの耳元で、諭すようにベランジェは唱えてみる。シラノが普段そうしているのを真似て、

「ほら、面倒・・な事になりますぜ、グラニエリさん。お嫌いでしょ、面倒は・・・

 面倒、の言葉を相手の鼓膜に焼き付けるように、何度も何度も繰り返す。やがて、ロクサーヌを押さえつけるグラニエリの手から力が抜ける。

 ロクサーヌはその隙にベッドから這い出し、半裸のまま病室から飛び出して行く。ベランジェの吐息に気力を失ったグラニエリは、その場で床に尻を落とす。

「落ち着いてもらったぜ。とりあえずこれでいいか、シラノ」

 義姉の危機が去ったのを見て少し落ち着いたのか、シラノもすっと腕を下ろした。必死の形相で彼に取り付いていたベルローズも手を離し、マルグリットは慌ててロクサーヌを追う。

「さて、グラニエリさん。次は俺、あいつを止めるお約束はできませんぜ」

 茫然自失のままのグラニエリを見下ろし、普段より強い口調を意識して、ベランジェは弁明を促す。

「ル・ブレ君。私は、今、まさか……」

「ここに来てとぼけても誰も得しませんよ、グラニエリさん。シラノが……俺たちが納得できるように、話してもらえますよね」

 ベランジェが答を待つ間に、グラニエリは何度か彼を見上げ、何か言いかけてやめる。そして最後に、自分のスマートフォンを懐から取り出し、力ない指先で少しだけ操作してから、黙って手渡す。

「これは?」

 映っていたのはベランジェにも馴染みのある、G‐Mailジーメールの画面だ。開かれたままのメールには、短く一言「そろそろ着くよ」とだけ書かれており、見慣れたクリップマークが付いている。

「グラニエリさん、ひょっとして、これ開いた時に……」

 添付ファイルは、画像ファイルに偽装したスメルデータファイルだった。ベランジェは反射的に口と鼻を手で覆うが、既に一度開封されているそれは、もう一度タップしない限りは再生されないことを思い出す。

 基本的にG‐Mailジーメールでは、添付されたスメルデータファイルを自動で開封するかどうか、受信側ユーザーの任意で設定できる。だがこの機能には現状、未解決の不具合が残っていた。スメルデータの拡張子を、ある種の画像圧縮形式のそれに書き換えて添付すると、そのメールが未読である場合に限り、設定に関わらず自動的に拡張子を変換、開封してしまうのだ。

 シラノもよく使う手だった。不動産等、標的の人物に買わせる資料に混ぜ込んで、この偽装スメルデータを添付するのだ。いかにも資料の写真らしいファイル名をつけ、ベランジェの吐息を開封させる。思考能力が低下しているところに調子の強い本文で契約の締結を急かしたり、取引を優位に進める為に、放置されたままのこの不具合を活用していた。

 絶句しているベランジェの傍らに、シラノが歩み寄り、無言で画面を覗きこむ。そして、ベランジェと同じ推測に辿り着いたのだろう。ぴり、と空気が張り詰める。

 自分達以外にも“ベルフェゴール”がいるのか。だが、ベランジェの吐息が引き起こす症状と、今のグラニエリが取った行動は全く異なっている。こんなにたが・・の外れた行いをさせるものではない。真逆に近い現象だ。各々に考えを巡らせていると、

「息子のアルマンだ」

 グラニエリがぽつりと、ふたりが聞きなれない名を口にした。

「息子さんが、いらっしゃったんで」

 ベランジェは訊いてから、間抜けな質問な風に思えた。だがその存在を、グラニエリ本人からも、シラノからも耳にしたことがない。

放蕩ほうとうが過ぎたのでな、とうの昔に家を追い出したのだ。十五の頃だったか」

「それが今になって何故」

「多少真っ当になったようでな、今はグラースで香水パルファンの仕事をしている。実の息子とメールしあうくらい、おかしくはなかろう」

 そりゃそうですが、とベランジェは言うが、聞きたいのはそんな事ではなかった。なおも問いかけようとすると、交代するようにシラノが前に出て、

「息子さんも“ベルフェゴール”だったんですか?」

 グラニエリに問う。もうシラノの声も口調も、普段の冷静さをおよそ取り戻しているようで、ベランジェはほっとする。

 シラノに訊かれたグラニエリは、しばらく目を泳がせて答をためらってから、

「……違う」

 と短く答える。これはおそらく違わない・・・・・・・・な。ちらりと自分に目配せしたシラノに、ベランジェは肩をすくめる。

「このメール、僕のところへ転送しておきますが」

「かまわん」

「伯父さんはこの後息子さんと?」

「その予定だ。夕食は家で取るらしい」

「伺いますよ、少し調べてからね」

 落ち着きを取り戻してはいるものの、シラノの声はあくまで冷たい。だが怒りが露わにならないよう、努めて声を、感情を抑えこんでいる。ベランジェにはそう聞こえていて、そして当然グラニエリにも、そう聞こえているはずだ。

 シラノはグラニエリのスマートフォンを手早く操作し、押し付けるように突き返す。そして、組み合いで乱れた襟や袖をいそいそと直し、グラニエリに背を向ける。

 別れの挨拶も無しに去ろうとするシラノに、グラニエリは手を伸ばす。

「すまない、すまないシラン。私は……」

 最後の最後で言葉になったグラニエリの謝罪を、

「謝る相手は僕じゃないだろ!」

 とうとう御し切れなかったシラノの怒りが、一蹴する。

 灰色の雲はいよいよ厚く、薄暗い廊下をシラノの一喝が響き、抜けてゆく。

 数秒の後に満ちた静寂の中、がくりと頭を垂れたグラニエリを残し、二人は足早に病室を後にした。

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