第一幕  後

 僕の大事なモナムールロクサーヌ


 身体の具合はどうだい。

 シカゴの仕事は忙しいけど、なかなか派手で楽しいよ。

 今度は地元の同業者とコラボだ。デカい見合いバーを仕切ることになってる。

 春になったらオープンだ。


 もうすぐコルシカも寒くなるね。

 身体をいたわっておくれ。

 もう少し落ち着いたら、きっと君をアメリカへ呼ぶよ。


 キスをきみにジュヴゾンブラス



「ぼちぼちメシにしようぜ、シラノ」

 久し振りにぎっしり詰まった冷蔵庫を眺めて、ベランジェは今夜のメインディッシュを物色する。小切手は三日もせずに無事に処理され、グラニエリ・カンパーニュの口座宛に土地の代金がしっかり入った。どうやら通報は諦めたようだ。オンラインで口座の額を確認し、ベランジェとシラノはハイタッチで勝利を祝った。

「うん、もうちょっと」

 ベランジェとシラノは、グラニエリから譲られた古いヴィラに二人で暮らしていた。バスティアから内陸へ車で二十分。住宅地と市街地を挟んで遠く地中海を臨む、小高い丘の南向きの平屋だ。ルガイユ(※トマトとハーブの煮込み)の香りを乗せて、南向きの窓に風が入る。今年の初物のフィガデーリ(※豚赤肉の腸詰め)を取り出していたベランジェも、つられて戸棚を開けてダイストマトの缶詰を探す。

 フライパンのオリーブオイルで輪切りのフィガデーリを炒めて、荒く刻んだタマネギと瓶詰めニンニク、ターメリック、鷹の爪を加える。途中でフィガデーリを一度取り出すのが正道らしいとベランジェは知っていたが、そんな手間はかけない。トマト缶をどばっとぶちまけて、手で千切ったキャベツをばらばらっと投げ込んで、弱火にしてフタをする。十分、いや十五分は暇が出来た。自分の手際に、ベランジェはふふんと鼻を鳴らす。

 キッチンの隣の玄関に行き、ベランジェはシューズボックスの上の小さな鉢に手を伸ばす。カプチーノの泡のようにふんわりと鉢を覆う、背の低い緑色の草。コルシカ・ミントの一種だ。ぴんと伸びた葉を二、三枚ぷちりとちぎったベランジェは、それを一枚唇で湿らせてから、噛まずに飲み込む。

「ベル、また葉っぱ食べてるの。やめなって言ったじゃない」

「たまにだよ、たまに。それより手紙、また義姉ねえさんか」

 呆れたように咎めるシラノに、ベランジェは聞き返して話をそらす。シラノに選んでもらったスマートフォンで、届いていたリジョン・シネマのニュースメールをチェックする。今週末封切りの映画に出ている日本のアイドルの少女が、舞台挨拶でコルシカを回りに来るとか来ないとか。

 広告欄に、カレールウの新商品があった。タップすると、あからさまにインド人めいた格好の男が踊る動画と、濃厚なクミンの香りが再生される。香りのコマーシャルも意外と効果があるな。煮込んでいるフライパンにカレー粉をぶち込みたい衝動に駆られた自分を、そんなことを考えてごまかす。

 カーテンがゆらり舞う窓辺で白い羽根ペンを手に、そして薄いブルーの便箋を前に、シラノは夕空を遠く見ている。オレンジと青は七対三。まだ照明はいらないが、きっと夜はすぐに訪れる。

 シラノの羽根ペンは、荒事に使うそれとは当然別のものだ。羽根は小指ほどに慎ましやかで、傍らの簡素なボトルに詰まっているのも、安物のブラックインク。後ろからひょいとベランジェが覗き見ると、眼帯を外したシラノが、開かない右目でじろりと牽制するが、やはり心はまだ遠い空の方にあるようだった。

「今日みたいな客ばっかりなら、仕事もちょっとは楽なのにね」

 シラノがぽつりと呟いたのを、ベランジェは聞き逃さない。

裏社会ミリューのシラノ・ド・ベルジュラックともあろう方が、良心の呵責かい?」

「後ろ暗い奴のほうが、大人しく泣き寝入りしてくれそうかな、って話」

 そっけない答が真意でないように、ベランジェには聞こえている。上手くいった騙しの規模や金額が大きい時ほど、それを終えた後のシラノは憂鬱な顔を見せた。外では普段通りの素振りと眼帯で表情を隠していても、四年も寝食を共にしているベランジェには、さすがに察する事ができた。

 仕事を始め、共に暮らすようになってしばらくは、シラノが自宅でも眼帯をしたまま過ごしていたと、ベランジェは記憶している。当時はまだ十四歳だった少年が、縁も所縁もない、それこそ素性もわからない三十過ぎの男と暮らすのだ。部下相手とは言え緊張するのも当然だろうと、ベランジェは理解していたつもりだった。

 その後、シラノが眼帯を外すようになったのはいつからだったか、ベランジェははっきりとは覚えていない。だが。

「グラニエリさんの仕事が嫌なら、無理して続ける事はないんじゃないか。お前さんならきっと、どこでどんな仕事でも成功するさ」

「僕は嫌じゃないんだ、ベル。でも、嫌がる人はいるんだよな、って」

 昔よりは明らかに、素直に胸の内を話し合える仲になれた。それは自負でも驕りでもないはずだと、ベランジェは確信していた。

 シラノの手紙の宛先は、少し歳の離れた義姉ロクサーヌ。今は亡き実兄クリスチャン・ノランの妻だ。

 最愛の夫であったクリスを火災事故で亡くした時、その死を受け入れられなかったロクサーヌは、心を病み、今はサン=フロランの小さな診療所で療養生活を送っている。たまたま彼女一人が家を出ており生き延びたのは、不幸中の幸いだったのか、あるいは。

 もうしばらくは離れられない、待っていてくれ。クリスがアメリカで大きな仕事をしている体で、シラノは義姉に手紙を書き続け、そしてたまの見舞いで義姉を励まし続けていた。

「メールにしないのかい」

「いやあ。今の義姉さんに、Androidアンドロイドなんか動かせるかな」

iPadアイパッドの方がいいだろ、療養のヒマつぶしにちょうどいいんじゃ」

「ああ、miniミニの新しいの出るしね、今度」

 他愛ない会話の間も、シラノの片方しか開いていない瞳は、空の遠くをずっと見つめている。まだ何か書き足りないのだろうか、シラノの羽根ペンは風にそよいで、最後のサインを待っている。

 ベランジェは確信している。シラノは義姉あねロクサーヌのことを想い続けているのだ。家族としてではなく、ひとりの女性として。

 ロクサーヌは兄クリスの幼なじみで、彼女はシラノを実の弟のように可愛がってくれた。そんな思い出話くらいしか、自分と知り合う前のシラノと彼女のことを、ベランジェは知らない。だが汚れ仕事で医療費をまかない、その傍らで一途に義姉を励まし、また騙し続けているシラノの姿を、ベランジェはこの四年間ずっと見守り続けてきた。これが彼なりの愛でなくて、何だと言うのだ。

 ベランジェはそう思っていたが、それをシラノに話すことはしない。

「明日、義姉さんのお見舞いに行くよ」

 思い立ったようにシラノが言う。ベランジェは少しためらってから、遠慮を見せてみる。

「いつも思うけど、俺はそれ、一緒にいていいもんかね」

 シラノの想いはこの先どう報われるのだろう、どう報われたいのだろう。義姉のことを語るシラノを見るたび、ベランジェの苔色の胸に苦味が広がる。

 自分は彼の為に、何かできることがあるだろうか。

「いつもそれ聞くけど、ダメって言ったことあったっけ」

 シラノは肩越しに、ベランジェに笑いかける。噴きこぼれたトマトの焼ける香ばしい音で、キッチンのコンロがベランジェを呼びつける。

「ちょっと、またトマト鍋焦がしてる! この間も……」

「だ、大丈夫だって。ちょっと火ぃ入れすぎなくらいが旨いんだって!」

 慌てて火を止めに行くベランジェの背中をしょうがないなと笑ってから、シラノは手馴れた筆運びで、便箋びんせんに兄の名を入れた。

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