第一幕 中
「昨晩はよく眠れましたか、リニエールさん」
東南東の日差しの下、バスティアから海沿いのD80ルートを北上する事一時間。ヤシの木の並ぶ観光地らしい街なみを行きながら、シラノは後部座席の客人に声をかける。
「なんか、爆発騒ぎがあったんだって? 相変わらず物騒なんだねえ、コルシカは」
見知らぬ土地に気持ちも弾んでいるのか、客人リニエールは笑顔で応えた。
ハンドルを取るのはベランジェだ。グラニエリから譲られたコンパクトな赤いルノーは、シラノと共に行動するのに良く馴染んだ足だった。昨日のだらしない格好と違い、ライトグレーのスーツにしっかりネクタイを締めている。胸元の包帯も見えない。
「ご無事で何よりでした。よりによってこのタイミングで、しかも泊まられたホテルが標的だったなんて」
丸眼鏡の奥の目をさらに丸くして、リニエールは驚いた。
「おいおい、そうだったのか。あれか、ユニオンコルス・マフィアってやつかい」
「いえ、捕まったのは民族主義運動の団体だったそうですよ。過激派って呼ぶほうがわかりやすいかもしれませんが」
「そうなのか……お、私の曲だ。聞いた事あるかい」
音楽専門の放送局
コルシカ島を発祥の地とし、フランス・マフィアとも揶揄される秘密結社ユニオンコルス。だが彼らがフランスの
一九七〇年代、ユニオンコルスの中心を為していた大規模ヘロイン密輸組織フレンチ・コネクションは、米国警察の組織摘発や内輪もめにより崩壊する。以来、フランス本土のユニオンコルス構成組織のほとんどは、シチリア人系イタリア・マフィアとの勢力争いに敗れて消滅、あるいはその傘下に組み込まれていった。
今や名ばかりとなったユニオンコルスの残存組織は、本拠地であるコルシカ島や活動拠点であったマルセイユを中心に、詐欺や恐喝、売春などの非合法な営利活動を細々と続けているのみであった。
グラニエリ家は小規模ながら、滅び行くユニオンコルスにおいてその名を残す事ができた、数少ない組織のひとつだ。今は不動産仲介企業グラニエリ・カンパーニュをさしあたりのフロント企業とし、国内外の不動産を媒介とした詐欺やマネーロンダリング、フランス国民議会議員と癒着しての汚職などの知能犯罪に手を染めていた。その利益の一部をイタリア・マフィアに上納することで、今も
シラノことシラン・ノラン、そしてベランジェ・ル・ブレも、グラニエリ・カンパーニュに社員として籍を置く、グラニエリ家の構成員だ。手付けとしての事前契約はメールと書類で済んでいたが、二人がリニエール氏と実際に顔を合わせるのは初めてだった。フランス本土ではパリ営業所の別の社員が担当におり、最後の確認としてリニエール氏に実地訪問を勧めたのだ。
ホテルの立ち並ぶ港町マシナッジオから、内陸方面へ折れる。五分もせずに賑やかだった町並みは消え、背の低い広葉樹の森と岩肌が繰り返す、曲がりくねった細い山道に変わる。標高五百メートル。
「もうすぐですよ、リニエールさん」
「そうかい。しかしこう、妙に荒れたところになったね」
「お話ししている通り、区画整理はこれからですよ、これから。鉄道と国道が近くまで伸びて、バスティア空港からのアクセスが格段に良くなるらしいです」
バックミラー越しに、薄く乾いた笑みを見せるシラノ。不安を素直に表すように、リニエールの口数が少なくなる。何度目かの「まだかね」の後で、ベランジェは舗装道路から外れた小さな空き地に車を停める。
「さあ、ここから少し歩きますよ」
「おいおい、道路に面した土地じゃあないのかい」
「今は違いますよ。整備計画上新しい国道が通るポイントを避けて選んでいるんです。メールでもお知らせしておりましたが」
そうだったかな。納得の行かない様子でつぶやくリニエールに、サイドドアーに回り込んだベランジェが手を差し伸べ、降りるように促す。タブレットを手にしたシラノが前を、ベランジェが後ろを。二人がリニエールを挟むように一列に並んで、木々の合間の砂利道を歩き出す。
ここです、とシラノが手で示す先に広がっていたのは、リニエールの思い描いていた図とは似ても似つかない、自然に晒されるままの酷い荒地だった。
「そんな……おい、こんな所、話が違うじゃあないか!」
斜めに切り立った岩肌に、ブルーチーズのような不健康な色の茂みが、申し訳程度に貼り付いている。ぽつりぽつりと生えているのは、常緑樹のホルムオークと樫。山の西側で日照も悪く、緩急の激しい傾斜の地面には、彼らの他に誰かが足を踏み入れた気配など微塵も無い。
「おや、お気に召しませんか、リニエールさん。ご紹介の通り、リグリア海を臨む緑豊かな高台ですよ。気持ちいいでしょう」
「ふざけるんじゃあない! こんな……こんなクソ田舎のクソ土地で! 手付けに十万ユーロ(※約千四百万円)取りやがったのか! 1
リニエールは口を開けたまま、しばらくうろうろと歩き回り、その土地を見回した。眉間に皺を寄せ、たるんだ頬を震わせ、
「農地並みのお値段、とお伝えしたでしょう。リニエールさんも納得ずくで事前契約書にサインして、お支払い頂いたはずですが」
「農地以下だ! 何にも建てられんよ、こんな土地。あんたのメールとも、見せてくれたビデオとも全然違うし、代理人の報告とも何もかも合わない! 紛れもない詐欺だ、詐欺!」
わめき散らして詰め寄るリニエールに、
「困りますよ、リニエールさん。この土地はあなたの為に、他のお客様をお断りして確保しているんです。事前契約の通り、しっかりお買い上げ頂かないと。区画整理が実際に始まってしまったら、買い手も中々付かなくなりましてね」
「こんな土地買えるわけがないだろう。六十万ユーロの価値がどこにあるんだ、この……ッ!」
胸倉を掴もうとしたリニエールの手首を、シラノの手が一瞬早く取り、軽々といなす。勢いを
「本土でやっているような、インチキ老人ホームでも建てればいいんじゃあないですかね。ま、こんなクソ田舎にどれだけの方が大事な親御さんを預けるかは、リニエールさの人徳次第、ってとこでしょうけど」
口から遠慮を取り払い、言い放つ。
「何だと……」
「調べましたよ、リニエールさん。国からたんまり援助を受けて、いくつも介護施設を建ててるそうじゃあないですか。利用者からもしっかり取るもん取りつつ、その実ヘルパーも少なく、食事もまともに取らせないような所ばかりだとか」
リニエールの顔色が変わったのが、数歩離れたベランジェからも見て取れる。眼鏡のつるの食い込んだこめかみに、脂汗がじっとりとにじんでいる。言葉を失ったリニエールを前にして、シラノはさらに続ける。
「そうして浮かせたお金の行き先も、あまり人に言えたものじゃなさそうだ。あれだけかわいいアイドルたちに囲まれていて、まだ物足りないんですか? いやはや、
わざわざ韻を踏んで小馬鹿にしながら、シラノはリニエールを見下ろし、鼻を隠してくくと笑う。
ベランジェは今まで、シラノがこうして標的を追い詰める場面を何度も見てきた。シラノが仕事をしている間、ベランジェの目には彼がやたらと生き生きとして見える。相手を騙すメールを打つ時も、羽ペンで荒くれ者を倒す時も、彼は嬉々としてペンを振るう。だがやはり、騙されたと知った標的の顔が、驚愕や絶望の色に染まる瞬間。この時が一番、シラノは
「き、貴様の知った事か! ともかく、この契約は無しだ! 戻ったらすぐに通報してやるぞ、この詐欺師どもめ!」
「いやいや。そんな面倒なこと、なさらないほうが良い。ね、ベル?」
シラノが視線で促した。ベランジェはそのタイミングを待っていた。合図に気付きリニエールがはっと振り返ったが、もう遅い。ベランジェはリニエールの背後から、がっしりと肩を抱くようにして動きを阻む。
「おい、何を……!」
「ま、ごたごた言いなさんな。ここはひとつ深呼吸して、落ち着いて考えてみてください。ほら、こうするんですよ」
ベランジェはすぅ、と大きく空気を吸う。
そして、頬に一度呼気を含んでから。リニエールの鼻先にふぅ、と息を吹きかける。
リニエールがぴくりと眉を動かす。甘いような、苦いような。砂糖漬けのハーブのような香りが、リニエールの
「ほら、揉めるのも、
すかさずシラノが、リニエールの耳元でそうささやく。リニエールの目に一瞬だけ、シラノの眼帯の陰の黒い火傷が見える。これがこの男の本性、そのものか。リニエールは思うが、もう遅い。
ベランジェの手を払おうとしていた、リニエールの腕の力が、抜ける。
「考えるのも、悩むのも、面倒臭くなってきたでしょう。いいんですよ、大丈夫」
リニエールの手がだらりと落ちる。目は閉じていないが、瞳に力はもう無い。ベランジェが後ろから、足のふらつく赤子を立たせるように、両手で彼の背中を支える。
「さ、一筆だけいただければ、おしまいですよ。ほら、ベル」
シラノが胸ポケットから取り出したのは、カートリッジ式の万年筆と、丁寧に折り畳んだ一枚の契約書。そしてベランジェは、リニエールの懐をまさぐって小切手帳を引っ張り出す。
シラノはリニエールの右手を丁寧に取って万年筆を持たせ、裏返したタブレットに契約書を乗せて、ほらと促す。リニエールはうつろな目で、ゆるゆると万年筆を動かす。まだ意識の片隅で抗っているのか、手はがくがくと、たどたどしく動く。乱れる筆圧で紙にしわが寄る。同じように小切手にも、六十万ユーロの金額と日付、そしてリニエールの銀行口座と、シラノの指示する引き落とし先の銀行口座。
紙の上に残ったのは、
「ありがとうございます。ああ、そうそう」
契約書と小切手を胸ポケットに収めながら、シラノはわざとらしく手のひらをぽんと打つ。
「さっきの区画整理公共事業の話、実は一昨年には既に
斜めの荒地をうつろな目で見つめたまま、リニエールは何も語ろうとしない。ベランジェが手を離してしまえば、そのまま倒れて崖へ転がり落ちてしまいそうだ。
「サインは頂きました。空港までお送りしますよ。実際に視察した上での、現地で頂いたサインだ。よもや引っくり返そうなんて事はないですよね」
万年筆を納め、代わりに羽根ペンをすらりと抜く。昨晩フィリップ達
「僕のメールを読む間、ちょっとは夢にひたれたでしょう。ここがどれだけ素敵な土地で、それを使ってどんな利益を得られるか。考えている間は幸せだったでしょう」
ポケットのダーツボックスから、針のペン先と小瓶を取り出す。ペン先を小瓶に浸し、ハンケチーフで水気を切る。
「くそ……覚えて……っ」
寝言のように、か弱く。だが明らかに憎しみを込めた声で、リニエールが口走る。
そんな言葉も意に介さず、
「あなたの
シラノはリニエールの首にペンをぷすりと刺し、眠らせた。
「弱くなってるよなあ、やっぱり」
バスティア市街地名物の渋滞の中、ハンドルに頬杖をついて、ベランジェはため息ながらぽつりとぼやく。
「ベルの
めいっぱいの買い物袋からミネラルウォーターのボトルを取り出しながら、シラノはさらりと返す。交差点の角には、ちょうど今飲んでいる『サン=ジョルジュ』の真新しい看板。酸素ボンベ代わりにペットボトルを背負った深海魚の、涼やかなダイビングのシーンだ。
よだれを垂らして眠るリニエールをバスティア・ポレッタ空港のベンチへ寝かせ、二人はそのまま去った。ついでとばかりに、バスティアのラグノオ・バーで魚フライのランチを取り、新しく出来た大型スーパーマーケット「モノプリ」で日用品を買い込む。ひと仕事を終え、ちょうど羽を伸ばしたい気分が、二人の間でマッチしていた。
「でもよ……このままだと俺、本当に使い物にならなくなっちまうんじゃねえか」
「今日に限ってどうしたの。なに、僕はベルを励ませば良いの?」
冗談でも嫌味でもなく、シラノはベランジェにそう訊ねる。そうじゃねえけど、とベランジェは小さく返すが、それ以上の言葉が出てこない。
ベランジェの吐息には「感情を怠惰にさせる」効能があった。それが具体的に何なのか、ベランジェの体内で、吸い込んだ人間の体内で何がどう作用して起きている現象なのか、シラノも、そしてベランジェ自身も知らなかった。ヘロイン等のダウナー系ドラッグの症状にも似ているが、ベランジェ自身に意識の乱れは無く、対象にも後遺症や依存性は残らない。
昨晩シラノがフィリップ達テロリストに送ったメールにも、ベランジェの吐息を添付していた。フランス国内のシェア上位メーカー製
「ベルの吐息も、
「期待してないって事か?」
「んー近いような気がするけど、違うかな。便利だからって、そればっかりに頼ってちゃマズいな、って考えてるだけさ」
煙に巻くような答えにベランジェが首を傾げると、シラノはまた鼻を隠してくくと笑った。切れ長の目を、銀色のペン先ほどに、細い
「でもよ。何つーか、やっぱりこう、わかりやすい業績とか上げておかねえと」
「あ、わかった。伯父さんのこと気にしてるんだ」
ん、と肯定が口まで出かかったが、ベランジェは頷きはしなかった。その通りなのだが、はっきり言葉にしたくはなかった。
知能犯罪を生業とするグラニエリ・カンパーニュとはいえ、昨夜の様な
「そんなに卑屈にならなくても、ベルはこうしてちゃんと僕と仕事してるのに」
「葉っぱくせえ息を出す以外は、メシと
日頃シラノに思う彼の印象を、ベランジェは素直に口にする。コルシカ島の公道には信号が無い。週末の渋滞はまだ動かない。
確かにシラノは、普段から新しい技術や知識の吸収に余念がない。標的を騙し切るメールの書き方、虚偽の資料の作り方、偽装の手の回し方。合法違法に関わらず、あらゆるものを仕事へ活用することに貪欲だ。
そうしたポテンシャルの高さを買われたシラノは、今やアントワーヌ・グラニエリの立派な右腕として名を馳せていた。十九歳という若さにして、その文武でグラニエリの黒い生業を支える、『
「新しい事は面白いからね。ベルも覚えてごらんよ、面白そうに見えるとこからでいいんだから」
シラノは時折ベランジェに、そうした仕事の
今の自分では本当に、少し便利なオマケを持っているだけの、彼のお付きでしかないだろう。そのオマケも、どうやら消費期限が迫っている。ひと回り以上も年下のシラノに仕えることそれ自体は、決して不快ではない。だが役に立たない自分を見る周囲の、もといグラニエリ氏の評価が彼のストレスにならないか、それだけがベランジェは心配だった。
「今からサバットでも覚える? 教えるよ」
両拳を顔の前で握って、ファイティングポーズを取るシラノ。フランス式キックボクシングとも呼ばれる護身術だ。シュッ、と繰り出したパンチに握られていたのは
「考えとくわ」
「ホント? そんなに勤勉でいいのかい、
「それ、お前が勝手につけて広めたんだろ。結構むずむずするんだぜ、こんな歳でそんなん呼ばれると」
はにかんでボトルを受け取ったベランジェの前で、ようやく渋滞が動く。せっかちな後続車が鳴らしたクラクションに、ベランジェは慌て気味にアクセルを足で押す。
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