アカシックレコーダー - Reverb of Bloom -
死にたくない。
明日も、
明後日も、
一年後だって。
1
ハルナとトーカを天秤に乗せながら、ミルクにひたされたフルグラをスプーンでつつく午前六時。
卓上に乗せられたスマホが震えた。
朝がはやいな、あの子も。そう思いながら喜んで応答する。しかしスピーカーから聞こえてきた声は、これまで一度も聞いたことのないものだった。
「もしもし? うちはトーカの相方なんやけど」
うわ。
「ただいま留守にしています。ピーッという発信音のあとに、」
「見くびらんといて。うちはそんなんで誤魔化されへんで」
例の関西弁の子だというのがすぐにわかった。こういうとき過激に反応するのはいつだって奪われる側の方なのだ。
「ええと、トーカの彼女さん?」
「相方や言うとるやろが!」
なんだ、そこまで深い仲でもないのか。と、油断しない方がいい。厄介ごとはいつも時間差でやってくる。自分の本音にあとから気づくなんていくらでもある話だ。
「それで、その相方さんがなんのご用件で?」
ちょっと余裕っぽく話してみると、その子は間を取ってから本題に入った。
「うちんとこのトーカが餌付けされた上にプレゼントで好感度操作されとるさかい。ほんまに任せてええんかうちが面接したろ思うてな」
保護者タイプというわけだ。
「日程はいつですか」
「じぶん、おちつきすぎやろ。もうすこし取り乱してもええんとちゃうか」
そうは言っているが、相手も平静な口調をしていた。ツッコミに多少はキレを感じる気がするけれど、それも会話上の必要性に迫られてという感じだ。トーカと違い、自分の感情をうまくコントロールできるんだろう。
あるいは、外面を取り繕っている。
だからリンネも油断しない。
「しっかり者アピールしとこうかなと思って。面接、もう始まってるんでしょ?」
「わかっとるみたいやな。今日の午後一時、駅前にある
知った店名を告げられる。クラシックな雰囲気で敷居が高く感じられ、あまり使う場所ではなかった。地の利は向こうにある。
「時間厳守で頼むで」
「はい。じゃあその時間に」
「しっかり首洗っときや」
言われなくてもそうするつもり。電話を切った。
すぐハルナに通話を入れる。
「おはよ、リンちゃん」
おちつく声音。こんな時間でもすぐ出てくれる。ハルナに家庭がなければいっしょに住みたいくらいだ。そしたら自分もいまよりもっとちゃんとした生活をしようって思える気がする。
「おはよう、ハルナ。今日、突然の保護者面談を受けることになった」
「ええと」
「例の白髪の保護者。ほら、ハルナが気になってるっていう」
「あ、ああ。シノさん」
「それそれ。呼び出された」
「ええぇ……。リンちゃん、ひとりでだいじょうぶ?」
「たぶんなんだけど、ひとりで行かないと不合格になると思うんだよね」
これはハルナから離れるためにやっていることだ。
彼女に付き添われたりしたら、すぐにボロが出ることだろう。
「そっか」
「でさ、面接対策にプレゼントを持って行こうと思うんだ。なにがいいとかわかるかな? もちろん、わたしの狙いはトーカの方だから、あくまでも第一印象をよくしたいだけなんだけど」
言っててちょっと複雑な気持ちになる。ハルナを傷つけてないかなとか。離れたくないなとか。本当は間違いであってほしいとか。でも終わりにしたい気持だってあるんだとか。失敗したくないし、失敗してしまって欲しい。そういうのが色々と胸の中で渦巻くから、胃の粘膜が現在進行形で焼けてるようないやな感じがしている。
「えっとね。シノさんは切り花が好きだよ。だから花束がいいと思う」
「マジか。花束ね。じゃあ買っていくことにしよう」
「あのね、リンちゃん」
ハルナが珍しく低く深刻そうなトーンで話した。
「どうしたの?」
「なにが起きてもおちついて対応してね」
ハルナにそんなことを言われるとちょっと怖くなってくる。
「どういうこと? シノさんってちょっと病みが入ってるタイプとか?」
そうであっても不思議じゃないけど。
「ええと。もしかしたらそうかも」
なるほどね。
「わかった。覚悟して行ってくる」
「やっぱりついてっちゃだめ?」
ハルナの問いかけは、ときに現れる彼女流のおねだりだった。リンネの心を甘くくすぐる。頭の中には、自分の顔を覗き込む彼女の眼が、青と緑が交互に輝いて暗示をかけられてるんじゃないかと錯覚するような時間が再生されている。想像の中だと美化されているなどと思いがちだけど、実際はもっとすごいんだ。
「だぁめ」
だからリンネは断れる。そばにいたらこうはいかない。
「でも、終わったらいっしょに遊ぼっか。なんならシノさんも誘ってさ」
「シノさんがよさそうだったら、そうしちゃおっかな」
ずきり。
あ、この感情の名前をわたしは知ってるな。
「そうしよう。終わったら連絡する。もちろん、他に用事があるならそっち優先でいいから」
「そんなの……
「うん。またね、ハルナ」
電話を切ったリンネはシャワーに入り、ナイロンタオルで首をよく洗った。まだすこし胸が痛む。それは胸やけによるものじゃない。まだ見ぬ関西弁を操る少女、シノ。ほんのすこしとは言えハルナの心を奪った人間に対する敵意。
それは嫉妬という名前の感情だった。
「なにそれ? 自分勝手すぎるでしょ」
ふっ、とリンネは自嘲する。
シャワーの音が淡々と鳴り続ける。まるで雨の中にいるようだ。あたたかくやさしい雨に打たれながら、リンネは自分の額を壁に打ちつけた。
銀行のATMで年末年始に向けての予算を存分に引き出してから、駅にある花屋で適当にブツを選んで束を作った。できあがったものを見て、無意識のうちに避けているものがあることに気づいた。極めてちいさな花びらの集合でできたそれの名前をリンネはどうにかして思い出さないように努めた。でも無理がある。菊を忘れるなんてリンネには無理だった。頭痛。強く激しい。
十二時頃、先乗りのつもりで例の喫茶店にあがった。暗い内装の店内にコーヒーのいい香りが漂っている。席はじゅうぶんに空いていた。リンネは奥の方の席に行く。
そこに色素の薄い少女が座っている。綺麗だ。白金色の髪を伸ばし、褐色グラスの金縁眼鏡をかけ、優雅な手つきでティーカップの
脳は痛みを感じないと言うが、その周辺にあるすべての血管が膨張して神経を圧迫しているような感じがする。心臓の鼓動とはすこしズレたタイミングで耳の裏と頭の奥に血が巡って、痛い、痛い、と意識するほどさらに痛くなってしまう。
花束を抱えてリンネは彼女の前に立った。
「こんにちは、お嬢様」
自分から声をかける。プラチナの女の子は動揺するそぶりも見せず、卓上にそっとカップを置いた。
「なんや、じぶん」
その子はゆっくりと眼鏡を外す。
薄いブルーの瞳がまっすぐにリンネを射抜いた。まるで自分の魂を覗かれているような、そんな怖気が走り抜けた。そんな感覚、これまで味わったことがない。似ているのは、しばらく見ていなかった鏡を覗き込むときの感覚。むかしむかしそのむかし断食をしたあとに鏡を覗き込んだときに感じたショック。もう長くない、という、瀕死の自分の姿を見たときの衝撃が近い。
「…………。ちょっとそこ座り。いくつか言いたいことがあるわ」
意図的かどうかわからない沈黙を挟み、その子は空いている席を指さした。リンネは座る前に
「シノさん?」
「せやで。あんたが噂のリンちゃんやろ」
「うん。これ、プレゼント」
花束を差し出す。
「ひとの気持ちがもので簡単に動くと思うとったら大間違いやで」
そりゃそうだ、と思いながらもリンネはそれを押しつけた。
「でも、花が好きってハルナに聞いた」
「好きなんやない。どうしても必要なんや」
ちょっと乱暴にシノは花束を奪った。
「まあ、ありがたくもらっとくわ。買いにいく手間が省けるしな」
彼女の
「あ、この子になんか飲み物頼むわ。ほら、なんも頼まんのはあかんやろ」
「カフェオレをホットで」
「自前やで」
「承知」
店内は暖房がよく効いている。だから寒さは心理的なものだ。
「なあ、自分。病院行った方がええで」
シノは
「うちな、そういうのわかってまうんよ。ほっとくとじぶん、ガチで死ぬで」
「そうだね」
答える自分の頭がまた破裂しそうになるけれど、だんだんとマシになっていくのは頭の中に入ってくる情報が古びていくから。つまり同じことを頭の中に入れ直しているのは思い出しているのと同じようなものなので、だんだんとつらくなくなるということなんだと思う。
「わたし、そんなに長生きするつもりはないよ」
「本気?」
イントネーションが変わる。声が張り詰めている。リンネは硝子越しに相手の眼を見つめる。瞳孔が開き、自分自身を睨んでいるのがはっきりと見て取れた。
それは一瞬のこと。彼女はすぐ眼をつむり、
「はあ。じぶんな。あんなかわええ子にめっちゃ愛されとるのに、なんでそんなことが言えるんや」
口調がもとに戻った。大げさに誇張された関西弁。
「ハルナのことかな」
「トーカとは大違いや。ああいうのを純情可憐っちゅうんやで」
「わかる」
見る眼があるじゃない。
ずきり。
胸を撫でる。これならじゅうぶんに脈がありそうだ。
「うちがハルナちゃんやったら、無理くり病院に突っ込んどるところやで。でも、あの子がそうしてないんやったら、うちもなんもせえへんよ」
シノが飲み物を口にする。そこにちょうどカフェオレが来た。わたしも、と思ってリンネもカップをかたむける。舌先に触れる熱さは頭痛に比べたらたいしたことない。
「それとな。うちのトーカやけど」
「うん。あなたのトーカ」
「いや、いまのはそういう意味とちゃうで」
今度はツッコミとはっきりわかる軽さでシノは言った。
「ま、じぶんやったら問題ないやろ。好きにしてええで。煮るなり焼くなり」
「ふうん。じゃあ、あれしたりこれしたりしてもいいんだ」
「そのあれやこれがなにを意味しとるのか、うちは一切関知せえへんからな」
語気を強める彼女はすこし頬を染めていた。わかってるくせに。
「ああ、それと」
そう言いながら彼女は視線を花束へとおとす。
テーブルの下にあるそれをリンネも見た。ぱらぱらと花びらがおちる。その色は鮮やかさを失っていた。枯れている。そうとしか言えない見た目に変わり果てた。
「ハルナちゃんも知っとるんやけどな。うちはバンシーをやっとる」
バンシー。どこかで聞いたことがある。おそらく、どこかの伝承に出てくるなにか。だめだな。ハルナみたいにぱっと出てこない。
「ピンと来てないみたいやけど、要するに余命宣告が仕事みたいなもんや」
シノの手つきは優雅だった。なんの音も立てずにカップを置くことができる。最初の一回、そのあまりの自然さから見落としていた。だけどいま、じっくりと見ているからこそわかる。色素の薄いその子は、なにか重大な不幸を背負っている。
なにより彼女の冷めた眼は、どこかのだれかと同じだった。
人生を諦めながらも、死への恐怖に怯えてる。そういう質の光があった。
「じぶん、そのままやと一年以内に死ぬで」
そして、その言葉は正確無比だった。
「ああ、そうだね」
なんだろう、これ。
鼓動が強く早い。
「もういっぺん
シノはつぶやく。
「うちはな、死にたくない。死にたくないんよ。明日も、明後日も、十年後だって」
その気持ちが痛切にわかる気がする。
でも、それはとっくの昔に忘れてしまった感覚でもあった。
「そうだね」
だからリンネは、自分の口から出ていく音がひどく虚しいものだと思った。
「わたしもそう。ハルナがいるんだもん。死にたくなんてないんだよ」
2
やっぱり心配なのでリンちゃんのいる喫茶店に向かってしまうハルナ。もうすぐ面接の開始予定時刻、というとき、ビルの入り口にそのひとはいた。
一輪の薔薇を片手に、腕組みをしている黒いジャージの女の子。白髪で男の子っぽい、赤い瞳の、眼帯なんてつけちゃってる、竹刀袋を背負ったひとりの少女。
なにしてるんだろう。決め顔で待機して。変なの。率直にそう思った。
「こんにちは、トーカさん」
「わひぃ!?」
ハルナが話しかけると、トーカさんはだいたいこんな反応をする。まるで悲鳴みたいな声を上げて距離を取る。前回もひそひそ話が気になって近づいただけで驚かれた。ハルナはトーカさんに向かってすごんだ覚えはなく、こんな反応をされる理由がまったくわからなかった。
「あ、どうもこんにちはハルナさん」
リンちゃんに聞いた通りこの子やっぱりすごい変。
「シノさん待ち?」
「ぴえっ、うん! そうですそうです」
「どうして丁寧語なの? 気にしなくていいのに」
むしろトーカさんみたいなタイプは呼び捨てが基本っぽいのに。リンちゃんのこととか、リンネって呼んでそう。
と考えたとたん、ハルナの心はじっとりじめじめとした。
「き、気にしますぅっ。オレってこう見えて丁寧語系気弱女子ですので!」
まるでそれに反応したみたいに、トーカさんとの距離が開いていく。音もなく後ろにスライドしていくのが地味にすごいと思った。
「ごめんなさい」
たぶん、これは嫉妬の感情だ。やっぱりリンちゃんと自分の間には何者も介在させたくない。
勝手だな。
私だってシノさんのことを気にしてるのに。
そして、それをきっかけに誓約を破れるなら。
そうしたら、リンちゃんの方も後腐れなくハルナから離れられるって、自分勝手なことを考えているのに。
「おい、だいじょうぶか」
あれ。
いつの間にかすぐそばにトーカさんがいた。自然にやわらかい笑みを浮かべ、ポケットをごそごそしてから、しっかりたたまれたタオルハンカチを取り出した。
「これ、使えよ。女の子に涙なんて似合わないぜ」
なんか言ってる。
でも、差し出された布はぴしっとアイロンがけされていて、涙を拭くと柔軟剤の香りで気持ちが幾分かまぎれた。意外としっかりしてるんだ。
「おまえ、リンネのことが本当に好きなんだな」
彼女はまたバラを持って腕組みをするポーズに戻っていた。しかも今度は片足をくの字に折り曲げて背を壁にあずけるというアレンジが加えられている。そんなことしない方がかっこいいと思うんだけど。
「うん。好きだよ。だいすき」
「オレって恋心を理解する系女子なので、その気持ちは応援する」
聞いたことない単語がするする出てくる。
「うん。でも、最近はちょっとシノさんが気になってたりするんだ」
「えっ」
すっとんきょうな声を上げるトーカさんを見て、ハルナはすこしだけ体温を上げる。言っちゃった。それが恥ずかしく、そして後ろめたい。
「あう、えと、その。シノさん、ちょっとリンちゃんに似てるし。でもリンちゃんとはずっといっしょだから、親友って感じでそれ以上はもう考えられなくて」
自分の口からもするすると嘘が出てくる。
「なるほどな」
トーカさんはうんうんとうなずいた。
「シノなあ。あんな感じだから、オレと違ってぜんぜん色恋と縁がないんだ」
自己肯定感の高さがすこしうらやましい。
「だからさ」
彼女は正面からこちらを見る。眼の赤色がやけに冴えている。
「仲良くしてやってくれ。オレのことは気にせず。だって、自分の人生だろ。好きなように生きて、好きなように死ななきゃね。後悔しちゃうぜ」
「そう、かな」
ハルナは知っている。
好きなように生きることが、どうしようもない問題を引き起こすことを。
「そうだよ。だからまず生きてみろよ。まあ、その言葉はリンネの方に必要かもしれねえけど」
はっとして彼女を見上げる。
「それは、どうして?」
「だってあいつ、生きるのが苦しそうじゃん」
ハルナは左眼を押さえた。トーカが眼帯でおおっているように、自分もまた左側に蓋をする。
「死ぬことばっかり考えててもしょうがない。違うか、ハルナ?」
そうかもしれない。
でも、そうなってしまったのもぜんぶ自分のせい。
だから、こんな私が他のひとに気を惹かれるなんて、そんなことやっぱり許されるはずがなかった。
「どうすればいいのかな」
ハルナは正直な気持ちを話した。
「リンちゃんになにをしてあげればいいのか、私ぜんぜんわからない」
正解が見つからない。自分はいったいどんな行動を取ればいいのか。どうしたらリンちゃんが幸せになってくれるのか。いっしょにいて彼女の願いに応え続ける以外の方法がなにひとつとしてわからない。
だから、シノさんへの一時的な感情は、そんな自分の気持ちを紛らわすための刹那でしかないとわかっているつもりだ。
「ま、そいつはシノと仲良くなってから考えりゃいいさ」
ぽん、とトーカさんの手がハルナの肩に触れる。
「そうかな」
ぺしって払いのけていた。それもほとんど反射的に。生理的にいやという感じはしなかったのに。不思議だった。
「あ、うん」
トーカさんは悪びれず手をひらひらとさせる。
「自分の本当の気持ちって、離れてから気づくとかそういうことがありますし。オレって恋する文学少女なので、そういったことには
嘘だと思うけど、フォローしようという気持ちだけはありがたく受け取った。
「そうしてみようかな」
ハルナは久しぶりに眼帯が欲しくなった。
「私もトーカさんみたいに、自由な風に吹かれてみたい」
「だれにでもできるさ。ただその気になればいいだけだからな」
寒風がアーケード街を吹き抜けていく。
「へくち」
やっぱり眼帯はやめようと思った。
3
シノとリンネ、どっちが会計するかで軽く舌戦を済ませたあと、階段をおりていった。ちなみに勝ったのはシノの方だ。口で負けたというより、リアルに札束でほっぺたを叩かれたため、リンネが戦意を喪失したというのが正しい経緯説明となる。
下には左手側にハルナ、右手側にトーカが待っていた。ふたりは対照的な方向を向いている。空と地面。アーケードの隙間に見える青を見つめるハルナに声をかけた。
「待っててくれたの?」
「あ、リンちゃん」
「冷えてない?」
トーカより先にハルナとハグする。これは自分のやろうとしていることと矛盾しているな、と我ながら思った。だけど胸に顔をうずめてくれるハルナに喜んでいる自分、これは偽れない。髪の毛を撫でる。今日もやわらかくて指通りがいい。
「気の多いやっちゃで」
かつん、と日傘で地面を打って、シノはトーカの方に行った。ふたりが顔を寄せてなにかを話すが、内容が聞こえない。彼女たちの距離は思っている以上に近そうだ。
「ねえ、リンちゃん」
ハルナはハルナで、ちょっとじとっとした目でリンネを見てくる。レアな表情だ。
「どうしたの?」
「私とトーカさんは似てないと思うな!」
なるほど。会話しちゃったわけね。
「うん。違うね。ぜんぜん違う」
「そうだよ。いっしょにしないで」
あいつだいぶきらわれたな。
そう思いながらひそひそ話をしている白めな人々を見た。
一方は日傘の柄で相手をどつきまわし、もう一方はそれに怯みながらもなにか言い返している。いっさいなにも聞こえないのが変だった。
「そういえばさ、シノが自分のことをバンシーって言ってたよ」
「うん」
ハルナが上着の袖を掴んでる。ぎゅっと強く。その手の筋を空いた手でなぞる。
「ハルナ、わたし——」
ずきずきと頭が痛み始める。早すぎるけれど、でも言わないといけないと思った。
「一年以内に死ぬんだってさ」
肩が震えていた。ハルナの方ではない。リンネの方だ。
「ねえ、ハルナ」
「なに、リンちゃん」
「わたしが一年後に死んだとしたら」
そう、それはたとえば、来年のクリスマスイブに。
「もしわたしが死んだとしたら、わたしのこと、ちゃんと忘れてくれるかな」
リンネはとっくのむかしに涙の正しい流し方を忘れた。眼に異物を入れるか痛覚を強く刺激することでしか、その体液は流れなかった。そしていまもそれは変わらない。頭が痛みハルナの顔すらも白く欠落した視界、それをさらに自分の両手で覆い隠す。泣きたい、と思った。涙が流れてくれればすこしは楽になると。あるいは自分がそれくらい心を動かしていると相手に伝えることができるのに。
涙は一滴たりとも流れない。
「死にたくない」
胸の空白から出てきたその言葉は、人肌に触れれば溶ける雪のように脆い嘘でできていた。
「死にたくないよ。明日も、明後日も、十年後だって」
そのすべてが、いまではまやかしになっている。
「だいじょうぶだよ、リンちゃん」
そして、何度その嘘を繰り返しても、ハルナは自分に向けて笑顔を見せた。
「忘れないし、死なせない。リンちゃんは私が守るから」
「ハルナ……」
ちいさな身体を抱きしめる。甘える。ずっと。永遠に、リンネは甘え続けている。
「忘れてよ」
「無理だよ」
「死んだ方がいいんだ」
「そんなことない」
「わたしはハルナの重荷だよ」
「リンちゃんは私のぜんぶだもん」
言えば言うほど自分がいやになる。まるでハルナの態度を引き出すために虚言を吐いているようなものだ。そしてリンネはわかってる。彼女が返してくれる言葉を。それはいくら生を重ねても変わらないものだからだ。自分がどうしようもなくだめに変わり果てたとしても、ハルナはずっと強く変わらずそこにいてくれる。そんな現実をずっと生きてきた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね、リンちゃん」
「うん」
リンネは微笑みを造ろうとする。
うまくできなかった。
4
「なにが永遠の気配や。あんなん風前の
詩乃はパートナーに怒りをぶつけていた。剣幕とはなにかを教え込む勢いだ。
「あんなんな、うちらがほっといても勝手に消えてくれるわ。どう考えてもハルナちゃんに集中してカタをつけた方がええに決まっとる」
「なんでそんなにイライラしてるんだよ。なに話してたんだ、おまえら」
「別にたいしたことは
周囲の音はノイズキャンセリングが働いているかのように聞こえない。それがパートナー、白雪刀香の持つ能力だった。風の妖精、シルフィード。優雅な響きだが伝承にあるような美しい存在とはすこし違う。見た目だけで言えばたしかに綺麗だったが、口を開けば知性のたかが知れる。気まぐれで、虚栄心が強く、そのうえサボり魔ときている。詩乃は、自分の中にある憤りのほとんどはこのパートナーのせいだと
「一年以内に死ぬから病院行け
「ははあん。それで腹が立ったわけだ」
刀香はいつもこういうタイミングでにっこりと笑う。
「おまえいつも死にたくないって一生懸命だもんな」
「そういうとこやで、じぶん」
日傘を叩きつけるが、相手より先に道具の方が痛みそうだった。それに握ってる手もじんと痺れる。
「長生きするつもりがない? 自由に生きる? ふざけんのもたいがいにしとき。命があるだけでも儲けもんなんやで。せやさかい、一日一日をたいせつに生きようって思えるようになるんや。これだから苦労してへんやつらの世迷言は」
「そりゃ個人の自由の話だろ。それにオレってこう見えて苦労してる系女子なので、リンネの言い分もわからなくはない」
まさにどこ吹く風、だ。本当にムカつく相手。
「はん! おおかた恋愛小説の読みすぎで、みじかい命っちゅうのに陶酔しとるんとちゃうか」
「酔って死ねるなら幸せだろ。自分の現実を見なくて済むんだ」
刀香の頬をはたこうと日傘を振り上げる。しかし、そこで詩乃はくらっとしてしまう。憎いはずの相手に抱き留められ、口元にバラを押しつけられた。その花の生気を吸うことで詩乃はなんとか意識を保つ。
「おまえもたまにはなにかに酔ってみろ」
赤い右眼が詩乃を見下ろしている。冗談めかしてはいない。本気の刀香だった。
「どうせ機会をうかがって始末するというのは変わらないんだ。結果さえ伴えば過程なんて問われない。そうだろ、バンシー
「シルフィード
刀香の力は強い。詩乃とその荷物をぜんぶまとめて軽く持ち上げることができる。
「遊べ、って言ってんだ。ハルナと。遊んでこいよ」
パートナーは白雪の名にたがわぬ冷たさで言った。心細くなる。気のせいだ、と言い聞かせる。そんなこと認めたくない。
「人生はみじかく、自由になる時間はさらにみじかい。活かせよ。せっかく
刀香はひょいと詩乃のことを抱き上げる。あろうことかお姫様抱っこで。
「お待たせ。ちょっと詩乃のやつが貧血気味だから今日はこれで帰るよ」
詩乃はムカつく同僚の顔に何度も平手打ちをぶちかます。たいして効果はない。貧血気味なのは本当だし、元々身体が強くない。こんな体勢では力も入らないし、なにより恥ずかしいことこの上なかった。
「お、お大事に」
リンネが物珍しそうにこちらを見ている。憐みの視線だ。
「わあ。詩乃さん……かわいい……」
ハルナの方も似たようなものだが、こちらは興奮気味だった。こんなシーンをリアルで見るのははじめてなのかもしれない。
「ええからはよタクシーでも呼んで帰らせてくれ」
詩乃は自分の顔をてのひらで覆い隠し、一刻も早くこの悪夢みたいな状況から抜け出したいと思った。
拾ったタクシーの中で、詩乃は手鏡で自分の顔を覗き込んでみる。
残り一年。
「うちにできるんかな」
ハルナ。その顔を思い浮かべる。
いくら非情を
看取るのは苦手だ。たとえ世界から切り離され死を待つのみの命だとしても。
「いくら斬るのはアイツや
でも、そうしなければ死ぬのは自分だ。自分と刀香。
「せやなあ。だから考えんと動かんとあかんのかもしれへんな」
鏡面の中で笑ってみる。ハルナに、あの永遠を生きる少女に、綺麗に笑える自分を見てもらおう。そのためにも、自分は恋愛ごっこをやってみるほかなさそうだ。
憂鬱を友として、詩乃はおちていく太陽から隠れるようにしてうつむいた。
5
一日はあっという間に終わる。お仏壇に手を合わせてシャワーを浴びて食事をして食事をしてサプリを飲んで食事をしてシャワーを浴びて寝れば終わり。他になにもやる気になれない。トーカを構うどころか、ハルナにさえ連絡できなかった。リンネは、これこそ自分本来の怠惰さだと思った。
まばたきで一日が終わるのであれば、当然、日々だって同じように過ぎていく。ほんの数回、目を閉じて開けるというだけ。それで今年ももう終わりになる。
それを助けてくれたのはやっぱりハルナだった。大晦日のお昼ごろ、無為に寝て過ごしているところに電話が来た。
「おはよ、リンちゃん」
「あっはは。おはよ、ハルナ」
自分がさっきまで寝ていたことを見透かされてる。おかしくて自分を
「明日は初詣、いく?」
年越しをいっしょに過ごす道筋もあるが、そのために必要なことをリンネはしていなかった。ご家族の方の好感度を上げて了解を取りつけなければ実現できない。でもこの方法は、クリスマスから積極的に動いていないと間に合わない。
いいさ。経験したことだから。頭が痛くなるけれど、ハルナと手をつなぎながらカウントダウンをしたときのことを思い出す。そのままの足でいっしょに初詣に行く寒いけどあたたかい新年の一幕。
「もちろんだよ。どこにしよっか」
「リンちゃんはどこがいい?」
選択肢はあったが、リンネは近場で済ますことにした。
待ち合わせは十時頃。
さっさと明日になればいい。そう思ったら早かった。寝て年をまたぎ、やや遅めに起きて朝のルーティンを済ますとハルナからすこし早めの電話が来て、リンネはいつもの恰好で外に出ていく。
「えへ。あけましておめでとう、リンちゃん」
「あけましておめでとう、ハルナ」
また新しい一年が始まるんだ、とそのときようやく思ったけど、胸の中には虚しさがいっぱいに詰まっていた。リンネにはそれが恐ろしくてたまらない。せっかくなにかを変えられるかもしれないと思ったのに結局はハルナに依存してなにも変わっていない。人間的な感情を失ってただ動くだけの肉塊になっていく。それらすべてが別にどうでもいい。そのようにして自暴自棄になった自分がどんな破滅を引き起こすのかわからないのがどうしようもなく怖かった。
どれもこれも自分の関心事ばかりであり、リンネの眼は世界を向いていない。その自覚があった。
「リンちゃん……?」
袖をぎゅっと掴み自分を現実に引っ張り戻してくれるハルナ。心配そうに自分の顔を覗き込む青と緑の生きた玉石。吸い込まれそうだ。そこにおちていきたい。
「ううん。平気」
平気じゃない、と言えない自分。
「行こう、ハルナ」
彼女の手を引く。てのひらの中に心地よい熱がこもる。
空はよく晴れていた。天気を動かす方法はない。
無限の時間があったとしても、おおきすぎるものは動かせない。
ちっぽけな永遠。
哀しみの感情は刹那のまやかしかもしれない。
だから天さえも代わりに涙を流してくれない。
そんなわたしはいったい、どうしたらいいの?
アカシックレコーダー - Reverb of Bloom -
かつてふたりは高校生らしいテンションの高さで、年を越してすぐ初詣に行ったことがあった。ハルナはリンネに手を引かれていく。まだ春は遠く風が吹けば身体が冷える。夜の街中ではそれがいっそう顕著だった。
その日のために用意した五円玉を控えめに
どうかこれからもずっとリンちゃんといっしょにいられますように。
ハルナが目を開けると、リンネはまだ願い事をする形のままで止まっていた。彼女の裾をひっぱる。はっと気づいたようにリンネが下手な微笑を向けてくる。
「ごめん、ぼっとしてたや」
そう言っておみくじを引きに行く。その年はじめてのおみくじは、リンネが末吉、ハルナが小吉だった。恋愛運の項目にはまあがんばれって塩梅のことが書いてある。
新学期が始まっても特になにか変わったことが起きるわけでもない。お互いに気の向くまま遊びに誘ったり試験勉強をしてみたりして過ごしている。三か月なんて「あっ」と言ったらもう終わっているものだ。
春休みになって久しぶりにカラオケに誘い、ふたりでほんのすこしだけ揺らぐ〝いつもの曲〟を歌って楽しむ。刹那としか表現のしようのないみじかすぎる時間の中で、その肉体にただ歌うという行為をさせる。
ゴールデンウィークにはお墓参りに同道する。はじめてのころには考えられなかったほどリンネはおちついている。菊をメインとした弔花を水のはった花立に差し、火のついた線香を香炉に横たえる。それから手を合わせて祈りの時間を共に過ごす。
リンネは泣かない。ハルナはそんなリンネに抱き着いた。髪を撫でられる。そのすべての指が愛おしい。相手がどう考えているのかはわからない。
夏にはお祭りにいく。新しい浴衣を買って、金魚すくいを眺める。飼うなんてとてもできないのだから見ているだけでよかった。風の中に混じる焼きそばの香ばしい香りと共に、ハルナは一瞬、彼女と共に行方不明になりたいと思う。
それはできない。リンネがそう望んでいないから。
でも、そういう過去や未来というものがありうることを彼女は知っている。
秋が来るともう終わりが近い。木の葉が赤や黄にいろづき普段とはまたすこし違う表情が目に映ったかと思えば、もうそこにはクリスマスイブが間近に控えている。
甘くておいしいケーキを買っていく。去年と同じものを。
そして彼女の住む部屋の扉を見たとき、そこに貼りつけられている手紙に気がついた。
ごめん、ハルナ。わたしはいっしょに行けない。
そうだったな。クリスマスイブに彼女は突然失踪したのだ。
ハルナはうろたえた。同じ終わりを過ごせないかもしれない、というそのことに。
彼女は左眼を輝かせると、ポケットの中から合鍵を取り出した。
中に入ると、シャワールームから水音が聞こえてきていた。
急いで中に入る。
リンネは水に打たれながら横たわっている。腕には縦にまっすぐと線が入っていた。赤い。その色が流体によって広がり、消えていく。まだそんなに時間は経っていないようだ。彼女はすぐ近場にあったタオルでリンネの腕を縛る。それから救急車を呼ぶかどうか考えた。
ハルナはそれ以上、なにもしなかった。
時間が経つ。
「ハル、ナ……?」
「うん。そうだよ」
残り時間はわからない。けれど彼女はリンネと共にいられることに安心している。
「……わたし、また、失敗したんだね」
「そうだね。うっかりなんだから」
はは、と彼女は笑った。死に際の最後の一笑はとても美しくて、ハルナの胸はぎゅっと締めつけられる。
この時間も、もうあとわずかだ。
「ハルナ……頼めるかな……」
なにを、とは聞かなかった。
ハルナはそばにおちていたセラミックナイフを手にする。
「うん。わかったよ、リンちゃん」
「ごめん。ごめんね、いつも」
「いいんだよ。ぜんぶリンちゃんのためだから」
その言葉のすべてが嘘だ。
よいわけがない。あらゆることは自分のため。
だから刃をリンネに向けて振り下ろす。
ぱっと目の前に血のしぶきがあがる。
だんだんと意識がぼんやりしてきた。
リンネの息が止まる。もう鼓動すら伝わってこない。
それが終わりの合図。
ハルナは足元の床が突然抜けたかのように、全身のすべてがおちていく感覚に襲われる。視界はブラックアウトし、ぞっとするような冷たさに全身が支配される。
そしてハルナは雨の音で目を覚ます。窓を叩くその音が鮮明に聞こえて、ハルナの一年の始まりを告げる。
「どうしたの、ハルナ?」
「ううん。昔のことを思い出してた」
ハルナは前世の記憶を覗き見る瞬間、まるで白昼夢に閉じ込められたかのように外界からの入力を失っている。唯一の例外はリンネの声だった。彼女に声をかけられると、どんなときでも感覚がいまに戻ってくる。まだ自分はいまの周回の初詣を済ませていない。
「そっか。もうすぐ順番だよ」
リンネはそれ以上、追及しなかった。
「今年はなにをお願いしようっか」
「えへへ。私はいつもといっしょ」
「ふふ。じゃあわたしもそうしようかな」
この日のために用意した五円玉を控えめに
どうかこれからもずっとリンちゃんといっしょにいられますように。
その虚しい願いを心の中で唱えてから、群衆の中に混じるひとりの少女の視線を感じ取る。
ハルナは振り向き、青い瞳でその子を見つける。
トーカだ。
おみくじを引く。今年はふたりとも大吉だった。恋愛運も上々で、ふたりの恋はばっちり成就するのだという。まったく同じ文面のものを他のだれかも受け取っていることを知りながら、ハルナは笑顔でリンネに抱き着く。
お昼は家で食べる約束なので、という言葉を使ってリンネから離れたハルナは、家に帰るルートをそのまま歩いたあと、自宅前を通りすぎる。
さらに先へと歩いていって、それなりに広い砂地の公園に出た。
ブランコに座り、軽く揺らす。
両眼をおおって、そのまま待った。
白雪刀香はハルナに向かって一直線に歩いてくる。
「よう」
今日の彼女はパートナーを連れていない。花も持っていなかった。いつものジャージに竹刀袋を背負っているだけだ。
「なあ、ハルナ」
「ミトラ」
ハルナは即座に訂正した。それから両眼を世界に向けた。
刀香が赤い右眼で
「同じだ。なのに違う。おまえはいったいなんなんだ?」
「ミトラです」
彼女の両の瞳は青く醒めていた。
「えっ。カラコン?」
トーカは肝心なときがだめ。
「いまはですね、そういうボケはいらないタイミングなんですよ」
ごほん、と白髪は咳払いをする。
「おまえがまともな人間じゃないのは、オレもシノもとっくに気づいてる」
空気が震えなくなる。
竹刀袋から日本刀が取り出された。刀香はそれを鞘から抜き出そうとするが、うまくできないようだった。ちっ、と舌打ちが聞こえてくる。
「あなたはシルフィードですね。風を操る妖精」
「そうだ。永遠を狩るもの、死を運ぶ風、シルフィードⅢ」
「白雪刀香は偽りの名ですか?」
「いや。生まれたときからその音を憶えていた。理由など知らないし、興味もない」
彼女は刀を抜くのを諦め、隣のブランコに座った。
「オレたちがここに来たのは必然だ。世界が消せと言っている。
キィ、と音を立ててブランコが揺れ始めた。
「あなたはいくつ?」
「記憶のある年数だけで言えば、十六だ」
「同い年ですね」
「冗談だろ」
刀香が眼帯を外す。冷気をまとった白い瞳が露出する。ほとんど硝子玉のように透明なそれは、治奈の身体だけでなくその中身までをも見通した。
「肉体年齢が同じというだけで、同い年というのは無理があるだろ」
「そうかもしれませんね。でも、ハルナの感覚でいえば、あななたちも、リンネも、みんな同じくらいの年頃なのですよ」
キィィ、と繰り返しブランコは揺れる。
「あなたたちは私の経験してきたときの中には存在しない。そちらも、私たちがいったいなんなのかまだ把握できていないでしょう」
「まあな。ただ、オレにはなんとなくわかっている。おまえは妖精とかそういう次元の存在じゃない。もっと高次のなにかだ。それはつまり、オレたちの相手は神だと言っているに等しい」
「そうですね。調べてみるといいですよ。ミトラとヴァルナのことを」
「……マジで言ってんのか。ミトラ=ヴァルナだって?」
「そう」
ハルナの繰り返してきた、人間からすれば永遠に近い有限の時間の中に、トーカやシノと似た容姿の人間はこれまで一度も出てこなかった。
リンネもきっとそのことを直感でわかってる。
「シノには、私たちの間に挟まれば消すと言いましたね。でもそれはハルナがそう思っているだけのこと」
ミトラのこぐブランコはちいさな振れ幅で動き続けていた。
「お願いをしてもいいですか?」
ハルナの声を使い、隣にいる若い妖精に向かって、大声で言った。
「私たちの仲を引き裂いて。そうしなければ終われないから」
キィィ。
キィィ。
いやな音の震えが鼓膜に響いてくる。
「アカシックレコードには白雪刀香も揺籠詩乃も記録されていない。もしも私の罪を清算するチャンスを星が遣わせてくれたのだとすれば、あなたたちならそれができる、ということなのでしょう」
「ふっ。できなけりゃ、こっちが星に消されるだけだ。寿命で。だからオレは本気の恋なんてしない。いつ死ぬかわからないんだ。本気で入れ込んじまったら、多くを失恋させてしまうことになる。そんな罪深いことはできないよ」
「自己評価の高さよ」
ミトラはブランコを止めた。
「三分後、私はハルナに身体を返します。いまやりとりしたことはハルナの記憶に残さないので、そのつもりで」
「そもそも、ハルナもリンネも、おまえのことを知っているのか?」
くすっ、とミトラは心底から出てくる
「さあ、どうですかね。すくなくともリンネは知らないでしょう。あのアカシックレコーダーは、心と身体をうまく使えていない。それが人間の限界であり、救いなのでしょう」
「含みがあるな」
「ハルナには私がついているのでね。だからリンネのように壊れずに済んでいる。あなたもアカシックレコーダーになります? その刀が星とつながっているなら、きっとそれができるでしょう」
「お断りだ。シルフィードというのは罪人の魂でできている。だからオレはきっと前世にとんでもない悪行をしでかしたに違いない。それをわざわざ
「そうですね」
ミトラは白髪の少女に向けて笑う。
「それがいいでしょう。未来も過去もひとつで結構。人間を見ているとそう思える」
「じゃあな」
トーカがブランコから飛び、音もなくふわりと着地した。
彼女は振り返らずに歩いていく。
約束通りの時間が過ぎると、ハルナは両目をおおって泣いていた。
理由はわからない。自分のものではない気がした。
リンちゃんに会いたい。会って甘えたい。
そんな気持ちが雫となって
どれくらい泣いていたかわからない。
頭上がふっと暗くなる。近くにひとの気配がある。
それでハルナはようやく顔を上げた。
「トーカに泣かされたん?」
リンちゃん。
ハルナは目の前の少女に抱き着いた。
「リンちゃん、リンちゃん」
その胸を借りて泣く。どうしようもない。身体中の水分が枯渇するまで泣けそうだった。ハルナはリンちゃんのことを想って布を濡らした。
「どうしたんや。うちはリンちゃんちゃうで」
「違うもん。リンちゃんだもん……」
「重症やな。ま、好きなだけ泣いとくとええわ。よしよし。ハルナちゃんはかわええな。どっかのボケもこんくらいやとええねんけど」
彼女の細い指が髪の毛を撫でる。姿形は違っていても、その感触は想い人によく似ていた。
こうするしかない。こうするしかないんだ。
「ありがとう、リンちゃん……ううん、シノ、さん……」
顔を上げたハルナは、ポケットに入れていた大吉のおみくじを握りしめた。
恋は実る。
「私たち、もっと仲良くなれるかな」
「せやなあ。ハルナちゃんがいっぱいかわええとこ見せてくれたら、うちも倒錯してしまうかもしれへん」
ぱっと作り出された笑顔、人工のその花をハルナは見つめた。
その向こう側には、やっぱりリンちゃんの面影が見えた。
ジェネリック。代替物に恋ができれば、自分はあの誓約を破れるかもしれない。
「うん。がんばってみようかな。シノさんが私のこと、好きになってくれるように」
ハルナもまた精一杯の微笑みを造る。
それを見たシノの頬は紅潮し、その赤が残影となってハルナの心を占め続けた。
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