風の名 - Snow Wind -

 終わりを想う四人の少女。

 そのあいだに吹き抜ける、

 春を告げるその風の名前。




   1


 クリスマスを終えた翌日、リンネは再び五時起きした。なんの夢も見ていなかったから、気が抜けてまたすぐ寝てしまった。まばたきしたくらいの感覚で次にスマホを見たら、八時を過ぎている。のんびり浴室に入り、あたたかいお湯で汗を流しながら今日の予定を決めていく。

 ドラッグストアに行ってサプリメントとゼリー飲料を持てるだけ買って戻る。次はスーパーで牛乳を4パックとフルーツグラノーラをがっつり。小休止でぼんやりしているとあっという間にお昼になるだろうから、書店に向かいつつ駅ビルにあるカフェで昼食にする。本屋ではハルナの読んでるようなものを選ぼう。

 予定を決めるとお仏壇にお線香をあげて念仏を唱える。昨日買った食事を吸い、適当なワンピースを着た。どうせコートを羽織る。一応、出る前に鏡を見た。そんなに変ではなくてよかった。

 外は昨日と違ってよく晴れている。リンネの足取りは軽くなり、思った以上に早く買い物が済んだ。冷蔵庫にゼリーと牛乳を詰めるとすぐまた出かけた。おなかが空いている。食欲は人間の欲求の中でもひときわ強い。というより、飢えて死ぬのが苦しくていやだ。脱水症状もやばい。どれだけ経験を積んでも苦痛はひとを狂わせてしまう。そして狂いでもしなければ死ぬことなんてとてもできない。

 駅前まで歩いていく。その途中でハンバーガー屋を視界に入れた。足が止まる。トーカのことを思い出していた。まさかいるわけがない。なのに店内に入った。いつものやつを頼んでから窓辺の席を見る。空いていた。この店舗には地下と二階があるので、リンネは上から順に覗いてみた。

 二階にはいない。洒落乙しゃれおつなノートパソコンをいじってるおばさまがいるだけだ。すぐ降りて一階を見直し、地下に行く。いなければ適当な席でさっさと済ませてしまおう。

 ちらっと視線を走らせる。

 いた。

 眼帯をつけた白髪の女の子が無心に本を読んでいる。彼女の手元にはポテトの山とLサイズのカップがあった。例の竹刀袋もある。近づくと雪花という白抜きの文字が読み取れた。

 リンネははす向かいの席に座る。その位置から目を凝らした。彼女は左手で本を支え、右手の小指でページをっている。背表紙を見るにライトノベルのようだ。それも女の子向けの。表紙にはイケメン男子に囲まれた女子が描かれている。カメラ目線なのがいつも不思議だ。買えと眼で訴えているのかもしれない。買わないが。

 これだけ近づいてもトーカは気づかなかった。紙をめくるときも、ポテトを口に運ぶときも、ストローを吸うときさえも。観察してみたがものすごい集中力で、ながら読みの熟練者というおもむきだった。

 じゃあ逆にどこまでやれば気がつくのか。

 リンネは隣の席に座ってみた。特に気にするそぶりはない。今度は向かい合わせ。要するに相席の構え。椅子が地面を擦る。その音ですこし身動ぎをしたのでさすがに気づいたのかと思ったら、のんきに飲み物をすすってそれきり。からかわれているのかなと思ったので次はポテトを一本、盗んでみた。無反応だ。かじると塩辛さがやけに鮮明だった。

「いやそれはないでしょ」

「うわっ」

 膝がテーブルの裏を打った。すごい音。

「だいじょうぶ?」

「おまえ、どっからえてきたんだよ」

「ひとをカビみたいに言うね」

 気づかないうちに生えてるものの代名詞だ。だから生鮮食品が苦手。冷蔵庫に入れておいてもだめなものはだめだとよくわかる。

「カビってなんだよ。そこはきのことかたけのこだろ」

「ぎりぎりたけのこはわからないでもないかな。でもきのこは無理があるでしょ」

「宗教戦争がしたいのか」

「別にしたくない」

 もう一本、ポテトをもらった。この子と会話してると炭水化物が欲しくなる。消費カロリーが多めになる感じ。

「勝手に食べるなよ、もう」

「めっちゃ冷めてるね」

他人様ひとさまのポテトによくそこまで言えるな」

 トーカがペーパーナプキンで右手をぬぐい、それから本にしおりを差して閉じた。

「このポテトどろぼう。そんなものばっかりだと、またこの前みたいになるぞ」

「あいにくと別のものも食べてますので」

「不健康なものばっかりってるくせに。顔を見ればわかる。ちゃんとした食事をしないと寿命だって縮むんだ」

 ほっといて。言う前にずきりと頭が痛んだ。まだこの身体には寿命の話が馴染んでいない。自分がいつまで生きられるのかということを意識すると連鎖的に様々な記憶が頭の中に押し寄せてきてしまう。未来。そんなもの、わたしには——その思考を無理やり止めるため、リンネはテーブルに自分の額を打ち据えた。

「なにしてんだよ!」

「痛いのを痛いので止めてる」

 深呼吸をしてから周りの眼を気にした。まあ、見られているよな。トーカも目立つし。でもこれで連鎖は止まった。頭痛も鎮まる。打った頭は、痛いは痛い。でも内側から襲いかかってくるやつより全然マシだ。

「おかしなやつ。オレの相方もたいがい変だけど、おまえほどじゃない」

 リンネの耳が反応する。

 相方ってのはときどきカップルの片割れを指すことがある。

「彼氏いるの?」

 いるなら自分の心を離す好機になる。男女の間に入ったときの修羅場はあまり愉快なものではない。

「は? いないる」

「なんつった?」

「いるいる。すごいいる」

 頬を染めるとトーカは典型的な赤となる。彼氏持ちじゃないのはよくわかった。いや、いるにはいるのだろうが、それは本とか画面、なんなら頭の中であって、リンネが会話する相手にはならないだろう。そうこうしているうちに、トーカが指を一本二本と立ててカウントを始めた。両のてのひらを開いてこっちに見せつけてくる。

「すくなくともこれくらいいるし。モテすぎてわけわかんないくらいモテるんだ。オレって無自覚系モテ女子なので」

 本当に自覚がなかったらけっこうおもしろいかもしれない。

「顔真っ赤だよ、トーカ」

 指摘すると彼女は下を向いた。肩が震えててかわいそうなのがかわいい。

「そういえばまだ一回も連絡してなかったね。せっかく登録したのにさ」

 話題を変えながら卓上で握りしめられている手に触れた。あたたかい。楽しんでいるのに、時間が長く感じているのに、リンネは冷えているらしい。

 すっと手が引っ込められる。

「なに勝手に触ってんだよ。距離感ぶっ壊れすぎだっての」

 上擦った声を聞くと背筋が震えた。ハルナの恥じらう姿が頭の中にまたたく。それはつまり、彼女のまとう空気がだれかに似通にかよっていて、自分はそれに惹かれているだけなのではという疑問にもなる。だれでもよかった、なんて倫理観の欠如したことが言えたらいいのに。

 わたしはとんだわがまま女だ。

「いいじゃない。現実だって物語に負けないスピードで進むもんだよ。無自覚系モテ女子だから、他人が恋におちる瞬間なんてわからないんだろうね」

 行間を読んでごらん、とリンネは挑戦的な眼差まなざしを向けてみる。

 トーカは赤い瞳を床に向けた。

「わからないでもないですし。オレって恋する乙女なので」

「ははっ」

 はいそうですか、と思ってリンネは顔を近づける。表情を形作る皮膚の、その温度がわかってしまうくらいの距離まで。

 ますます当惑して眼を見開くトーカがおもしろかった。彼女はあわあわとなにを言うべきかわからない様子でリンネの肩に手を押しつけた。

「はやいはやい。オレって過程も大事にするタイプの文学少女なので、そんなインスタントな関係はお断りです」

「こんなの、まだお湯を注いだうちにも入らない」

 だから、この子はわかっていないんだと思う。

 時間は一瞬のひらめきみたいに過ぎていくことを。

 それに過程がどうのというのなら、恋が階段を一段ずつのぼるだけで達成できるようなものであるのなら。だったら一足飛いっそくとびに駆けあがってしまえばいいだけだ。その方法をリンネは知っている。

「いっしょに本屋行こうよ。ちょうど本を探してるんだ。いいでしょ、文学少女?」

「まあ本のことでしたら」

 とても文学好きには見えないボーイッシュな白髪は、唇を尖らせながらしぶしぶと了承した。

「じゃ、よろしくね、トーカ。初デートの先導、お手並み拝見させてもらうよ。無自覚系モテ女子だからまたなにかやっちゃうかもしれないけどさ」

「ほんとこいつぐいぐい来る……」

 消え入りそうなか細い声。

 リンネは下手くそな微笑みを造る。

 あなただって、いつ死ぬかわからない。

 だからわたしは、過程なんてすっ飛ばして、自分の心をたしかめたいんだ。




   2


 今日はお昼過ぎに本屋に行くとリンちゃんに会えるかも。そんなふうに感じる素敵な朝だった。お母さんが作るお味噌汁を飲み、焼き魚をお箸で解体し、ご飯を口に運ぶ。ほうれん草とかつお節のおひたしもおいしかった。食後のほうじ茶を飲みながら、ハルナはスマホで今日更新分の無料漫画を読む。その途中でお父さんがゆっくりと起きてきてふたりに朝のあいさつをした。両親の瞳の色はどちらも茶色がかっていて、自分とはまるで似ていない。

 歯を磨いて部屋に戻ると読みかけのライトノベルに手をつける。お昼までだいぶ時間があった。表紙にはかっこいい騎士様とその後ろに控えたお姫様が描かれており、裏表紙には中古本であることを示すおおきなラベルと、それがさらに値下げされた証であるちいさなラベルが貼りつけられている。学校の先輩におすすめされたのだけど、新刊では置いてなかったので古本屋をいくつか巡って手に入れた。読むだけなら電子書籍でいいはずだけど、ハルナは苦手だった。

 紙派だから、だろう。文芸部のみんなと同じ。物心がついたころからスマホがあったけれど、あれで文章を読んでると目がちかちかしてくる。それにセールでもない限り定価でしか本を買えない。先輩には新品を買えとか、なんなら電子書籍〝も〟買えと言われる。そうしたいけど、そんな予算はない。

 お昼はトマトクリームスパゲティとサラダ。デザートにうさぎさんカットの赤りんごが出てきた。ぜんぶおいしくたいらげて歯磨きをしてからおでかけの準備をする。今日も外は寒そうなのでペンギンになるしかない。

 お母さんに「本屋さんに行ってくるね」とちゃんと報告。

「今日は永遠野さんと別?」

「うん。今日は別」

 ちょっと期待してるけど。というかそっちの方がメインまであるけど。

「車に気をつけていってらっしゃいね」

 車という音がすこし強めだった。巳虎みとら一家はまだあの事故のことを忘れていない。

「わかってる。行ってきます」

 左側通行を徹底して駅までの道を歩いた。風に吹かれからからと音を立てて転がってくる枯葉や、肩を寄せ合って歩く人間のペア、車道を自転車で突っ走りながらマフラーを棚引かせるひとなどを見た。

 街を飾っていた赤、緑、白の撤収は進み、世の中は年末年始に向けて急速に和風の色に切り替わっていく。

 ハルナはすこしいやな予感に襲われて、おそるおそる昨日の花屋さんを見た。だれもいなくてほっとする。

 揺籠ゆりかご詩乃しの

 本物とは思えない名前だった。帰宅してから調べたところ、揺籠という苗字がこの世の中に存在しないことがわかった。だとしたら芸名とかペンネームだけど、そんなものを他人に名乗る理由がいまひとつわからない。一度その姿を思い出し始めるとハルナはぼんやりとしてしまった。

 それに彼女は自分のことをバンシーだなんて言っていた。そんなことあるのだろうか。ここは日本なので、アイルランドの伝承に出てくる妖精がぽっと出てきても信じがたいものがある。

 いやでも、たぬきさんが出てきて頭の上に葉っぱを乗せて、その場でなにかに変身してみせたとしたら、自分は化けだぬきの存在を全面的に信じるのか。ぽんぽこ。たぶん、大道芸かなにかだと思ってスルーしてしまうだろう。

 じゃあ、花が枯れて見えたのは?

 ハルナは左眼を押さえて、これ以上は考えないようにしようと思った。

 駅ビルにつながる階段を踏みしめて、行く先を見上げる。

 どくん、と胸が鳴った。

「死にたくない、死にたくない。今日も明日も死にたくない」

 ほんの一瞬前まで、そこにはだれもいなかった。もちろん、死角はいくらでもある。下から上にあがるんだから、いまちょうどそこに出てきただけと考えた方が自然だ。そう考えておちつこうとする。

 黒いパーカーを着て日傘を差した女の子は、階上の手すりに背中をあずけて不思議な詩を暗唱していた。透き通るような白金の髪に、色付き硝子を使った金縁の眼鏡。

 彼女はこちらに気づいていない。

 でも、ハルナは逃げることができなかった。

 思考がまとまらない。

 逃げろ、と声がする。それが自分の声だってわかってる。

 でも無理だった。身体が動いてくれない。

 怖くて震えて、たぶん、そのせい。

「あれぇ?」

 気づかれた。

 光がレンズに反射していた。相手の眼が見えない。でも視線はきっと重なってる。ハルナはぴくりとも動けず、彼女のことを見つめていたから。

「偶然ってあるもんなんやなあ」

 その子はゆっくりと階段をおりてきた。

「またぉたね。うちのこと、すこしは覚えてくれとる?」

 右手に傘を持ち、左手で眼鏡のふちをついと持ち上げる仕草。とても自然で優雅な感じがした。

「ユリカゴさん」

「名前で呼んでもええんやで」

 ハルナのパーソナルスペースはけっこう広い。手がギリギリ届かないくらいのその距離に入られるだけで、普段ならそわそわしてしまう。だけどその子は簡単に入ってくる。そしてそれに違和感がなかった。

 リンちゃん以外そんなひとはいなかったのに。家族でもないのにそんなことができる他人がいるなんて、やっぱり信じたくない。

「なんなら愛称つけてもええで。好きな風に呼んでや。それとも、名前の方は忘れてもうたかなぁ」

 平凡やしな、と彼女は言った。

「もっと独創的な名前やったらすぐに憶えてもらえるんやろな。最近聞いたなかでは、リンネなんて珍しい名前やなと思ったで」

 胸の中で心臓が跳ねまわる。

 どうしてこのひとはリンちゃんのことを知ってるの?

 偶然の一致だろうか。

 ハルナはなにを言えばいいのかわからなくなる。自分の表情がこわばっていくのをかろうじて感じているけれど、それさえも自覚する余裕がなくなりそうだった。

「なぁ。名前呼んでみてや」

 それとは逆に、その子は眼鏡を外してにこりと笑んで見せた。傘の作る暗がりの中でも薄い青眼が綺麗だし、その表情はとてもなめらかだ。きっと本心から笑ってる。そう思わせるような自然さがあった。でも、だからこそハルナはすこし怖かった。

「シノ、さん……」

 精一杯の声は、ほとんどささやきのようにちいさかった。

「せやで。覚えとってくれたんやなぁ。うれしいわぁ」

 ハルナは困り果てて視線を地面へと逃がした。黒い斑点みたいなものが石造りの階段にへばりついている。それの正体はガムらしい。ハルナはガムを嚙まない。歯にくっつくとよくない気がするので。それと同様に、この子とずっとお話をしていたらよくないことが起きる気がした。

「……うちばっかりぺらぺらしゃべるもんやさかい、きらわれてしもたかな」

 音も少なくユリカゴさんがのぼっていった。彼女の足元は革製のスニーカーで固められている。

「うちな、こんなやからあんまり友達もおらんねん」

 眼鏡をかけ直して空を見上げる。ちょうど日に雲がかかっていく。彼女は日傘を閉じながら自嘲した。まるでもうすぐ死ぬみたいな笑い方だった。そんな感じ方をするのは、自分が前世の記憶なんてものを持っているからかもしれない。

 ハルナは自身の左眼をおおう。

 てのひらが熱い。

「はあ。やめや、やめっ」

 かつん、と傘の先端が地面を突く。

「こんなくらぁいことうとったらできるもんもできへんわ。そやろ?」

 ユリカゴさんの造る笑みはとても上手なものだった。

 だから、このひとはリンちゃんとは違うってことがわかる。

 それに安心したハルナは、失礼だけど「そうだね」と答えた。そして続ける。

「ユリカゴさんは笑ってる方が素敵、かな」

「もう! せめてそこは詩乃さんやろ」

 傘の持ち手をこっちに向けて、ユリカゴさん改めシノさんは笑った。

「でもうれしいわぁ。うちはな、笑ってるとこを褒めてもらえるのが好きやねん」

 わかる気がする。笑顔を褒められるときにあるふたつの感情のうちのひとつ。これまでの自分の努力を認められてるって感覚。

 だって、このひとはきっと、かなり練習をしてるはずだから。

 ひとの手が造った花に向かって、ハルナはようやく歩き始めた。

「シノさんは苦労してるんだ」

 気安いかなと感じてしまう言葉遣い。

「せやで。そりゃもう苦労が絶えへんねん」

 でも彼女はそれをいやがらない。

「あっち行ったりこっち行ったりせなあかんし、パートナーはポンコツやしな」

 おおきなため息をきながらシノさんはうつむき、首を振る。

 なるほど、とハルナは思った。

 友達はいなくても彼氏はいるんだ、と。

「いいね、パートナーって呼べるひとがいるなんて」

 シノさんは表情を苦笑いに切り替える。いや、自然とそうなったように見えた。

「そんなええもんとちゃうで。無理やり決められたんや。うちにはどうすることもできへん」

 そっか。そういうパターンもあるんだな。

許嫁いいなずけみたいなもの?」

 自分でその単語を口にしてみると、彼女の使っている眼鏡がただ金色なだけじゃなく、本当に金でできた高級品みたいに見えてきた。

「似てるかもなあ。こういう縁って、そのうち腐ってまうんや」

「でも、ほっとけないんでしょ?」

 くすっ、とハルナは笑った。

 シノさんはそれを見て、心底いやそうな表情を作りながらほっぺたの色を変える。朝食のりんごを思い出させる。

「あんなん野放しにしとったらうちの評判までだださがりや。せやからほっとけん。ほんまにそんだけや」

「そういうとこが好きなくせに」

 ハルナが意地悪なことを言うと、シノさんの声のボリュームがあがった。

「なにうてんねん! あんなわけわからん女、うちが好きになるわけないやろ」

 ……女?

「女の子と結婚するの?」

 ハルナは割と真面目な顔で言った。

「ちゃうちゃう! なんか重大な勘違いしとるで!」

 でも、とシノさんは言った。

「ううん。面倒見てやっとるっちゅう意味ではそんなに遠くもないのがいややわ。不出来な夫を持ったかわいそうな女なんやなあ、うちは」

 そっかあ、と思いながらハルナはニコニコしている。

「応援してるね、シノさん」

「なんや、急に距離ちこぉなったね」

 それはシノさんがなんだかんだ言って照れてるように見えるからだ。たしかに重大な勘違いをしている気がするけれど、思ったより目の前にいるひとは悪くない、と感じていた。

「気ぃ許さへんほうがええで。うちはバンシーやってうたやろ」

 それは気のせいだった。

「どういう意味?」

「そのままの意味。じぶん、死なない身体をしとるやろ」

 また太陽が出始める。シノさんは傘を開き、こちらを見た。

「うちらはな、そういうやつを消すのが生業なりわいなんや」

 これまでの会話はぜんぶおふざけだったらしい。

 シノさんの声は低く、彼女にしてはどすが利いている。

 だからハルナは変わった。

「できると思う?」

 ハルナは両の瞳でまっすぐに相手のことを見る。

 射抜くように、外さぬように。

「私とリンちゃんの間に挟まるなら、あなたの方に消えてもらうよ」

 冬の風が気にならないほど、ハルナの心は沸騰していた。




   3


 駅ビルの六階に行きつけの本屋がある。というより、そこ以外にはそれっぽい店がない。隣の駅が非常に栄えているので、本気ならそっちに行った方がいい。でも、それなら誘う相手は断然ハルナだった。目の前にいる眼帯白髪剣道少女の方ではない。なお、この子が本当に剣道をしているかどうかはいまのところ不明だった。

「おまえの方こそどうなんだよ」

 トーカがエスカレーターの手すりを握ってなにやらぶつぶつ言っている。

「なにが?」

「案外おまえみたいな地味子が遊んでるって言いますし」

「遊ぶってどういうこと?」

「ふえ?」

「ふえ? じゃないよ。なにするのか具体的に言ってごらん」

 トーカは黙ってしまった。

「十股もかけてれば遊び方も派手なんだろうね」

 なにがどうとは自分も言わない。身体にひきずられてあれこれしたってどれもこれも刹那的になりがちで、なんなら自分がいやになってしまう。だから遊ぶと言ってもやるなら真剣にやるしその向こう側にあることだって見据える。ちゃんとした時間さえあれば、無責任な行為に走るつもりなどない。

 また頭が痛くなる。頭蓋骨の内側にある血管が弾け飛びそうなほど脈が強い。目の前がちかちかと白くなり視界の一部が欠けていく。でもだいじょうぶだ。深刻さはだんだんと薄れていく。

 いまのわたしは責任感の強い人間ではない、とリンネは思いながら言葉を続ける。

「トーカって本命はいるの?」

「むすぅ」

「むすぅって言葉にするやつ実在するんだね」

「このくらいわかりやすくしてないと伝わらないだろ。オレはいまとても機嫌が悪い。むすぅ」

 ふぐみたいな顔だ。ちょっと間が抜けてる。口にはしない。どこでふぐが聞いてるかわからない。

「パフェでもおごろうか?」

「文学少女を甘味かんみで釣れると思うなよ」

「じゃあ本で釣れと。なんか欲しいのがあるの?」

「いや別に、いまはこれと言って」

 とは言いながらも、書店に着くとトーカは真っ先に文庫本のコーナーに突っ込んでいった。

「恋愛小説が好きなんだね」

「なんでそう思う?」

 トーカの手にした本の表紙には、見目麗しい男女が色鉛筆のような質感で描かれている。

「恋する乙女って言うから、読むものもそういうのが多いのかなって」

「ふっ。オレはそれほど単純ではない」

 トーカは本を一度棚に戻してもう一回取り出して戻して視線を名残惜しそうに背表紙に残してもう一度手に取ってから棚に戻した。なんだよそれは。

「欲しいなら持っていきなよ」

「お金がね、ないの」

「本で釣るって言ったじゃん」

 リンネは薄いピンクの長財布を出して中身を確認する。残金は五桁に乗っている。すくない、と感じる自分の感覚はかなり狂っているとリンネは思う。高校生アルバイトの最低時給から考えるに、休日を二日くらいつぶさないと手に入らない額がそこにはある。しかもいま通っている学校は特別な理由がない限りバイト禁止のため、収入はゼロだった。

 でも貯金を使い切ろうとしたらもっとむちゃくちゃなことをしないといけないしな、と思うから、これくらいの無駄遣いは無駄とすら思わなくなっていた。

「一万くらいでどう?」

 トーカがきょろきょろし始めた。電線にとまってる小鳥みたいだ。

「なにしてんの」

「ばか。軽々しく一万とか言っちゃだめだぞ」

「なんで?」

「無邪気な。オレみたいに端正な顔立ちのモテ女子にお金の話をしてるんだぞ? まわりからどんな目で見られてるかわかったもんじゃない。気をつけなさい」 

 よくわからなかった。トーカは子供っぽいし、わたしはわたしで高校生らしい背格好をしているつもり。だからトーカとの間で交わす会話に邪推の入る余地なんてないと思う。トーカが非合法なビジネスに手を染めてるっていうなら話は別だけど。

「トーカが恥ずかしいならやめとく」

「オレじゃなくておまえのためだろ」

 うまく嚙み合わない会話の歯車は調整しないで放っておく。

 結局、トーカは最初に手に取った一冊以外を買わなかった。つつましい。リンネの方はというと、当初の目的にしていた本がどれなのかよくわからなくなってしまい、あきらめてなにも買わなかった。怠惰だ。

 リンネは万札を崩してから、買った本をトーカに手渡す。

「カフェにでも行こうよ」

 本を手にしつつ、トーカがうつむいた。

「お金がない」

 もう聞いた。

「いやそれくらいおごるし。ここの上においしいスフレパンケーキが食べられるお店があるよ」

「すふれぱんけーきっ」

 よく使う場所だ。ハルナもそこのパンケーキが好き。フルーツ&ギリシャヨーグルトでなんとなく栄養バランスも取れた気になれるのがいい。

「いやでもそういうおしゃれスイーツは本より高いイメージが」

 まごまごしていてじれったいので、強制連行した。

「本当にいいのかしら」

 店の中でまでそわそわしおって。リンネはあきれる。最低でも十人は彼氏彼女がいると自称するのだから、そのコミュ力を活かしてもっと堂々とした態度でつきあって欲しいものだ。

 店員さんを呼んで注文を始めても、トーカはぜんぜんだめだった。

「これふたつ。飲み物はどうする?」

「これ一杯でもう一冊」

「いいから選びたまえ」

「えと、えと、」

「オレンジジュースふたつ。食前で」

 待っている間にも、本を開いたり閉じたりして、遠くの席に座っているマダムたちをチラ見している。情けないことこの上ない。トーカは借りてきた猫のようだった。その猫っぽいかわいさがあるだけ救い。

 オレンジジュースが来た。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございましゅ」

 なんで店員さん相手に噛んでるんだろう。

 生態観察を続ける。トーカは氷をかきわけてストローを差し、口をつけた。ちょっと目を細めたのでっぱかったのかな。リンネも飲んでみて、そういう顔になるのも致し方ないと理解した。ハンバーガー屋で飲むものよりもずっと生きたオレンジの味がする。

「さっき買ったやつ、作者買い?」

 なんてことのない雑談で時間をつぶそうと思って、適当なことを言ってみる。

「ええとぉ。オレって探求心強めのタイプだから、どちらかと言うと題名重視」

「ふうん。絵とかは?」

「題名見たあと、なんか違うなってなったらいやかな」

 じっと見つめていられるのが堪えられないのか、トーカの視線は机の木目をなぞってる。

「文章が好きなんだね」

「オレって文学少女ですので」

 うちの学校にいたら文芸部に誘ってあげるんだけどな、と思って首をかたむける。

 トーカは頬を紅潮させて、リンネと目を合わせようとしない。白い肌を赤く染めてしまう、身体に流れる熱い液体、それを全身に送り込む心臓の鼓動を感じてみたいと思った。それはひとりひとりの人間に固有のリズム。本当にたいせつなひとの鼓動なら他の人間と間違うことなんてない。だから、目の前にいる少女がどんな音を奏でているのか感じ取りたかった。この子がハルナとは違うことを確認するために。

 考えている間に、メインのデザートがやってきた。

 厚手のパンケーキがふたつ、その上にはヨーグルトの塊が丸く置かれ、その場に崩れ、溶けている。細かくカットされたフルーツはキウイにイチゴ、オレンジにバナナ、ちいさなミントの葉が数枚散らされ、見た目からして甘く華やかな印象だ。

「来ちゃった」

 トーカはそんなことを言ってから、ごそごそとジャージのポケットを探る。スマホを取り出すと、背面をパンケーキに向け、つたない手つきで画面をポチっている。シャッター音がなかなか聞こえてこない。

「あんまり時間かけると冷めるよ」

 さっさとスマホを奪い取り、トーカの分のパンケーキで一枚、そして彼女の手元を画の中に入れて一枚。ついでだから彼女の後ろに回ってセルフィーモードにする。

「あの、あの」

「笑え」

 リンネとトーカを入れて一枚。

「目線をカメラに」

「むりむりっ。オレって恥じらう乙女なので」

 しょうがないから見上げるような視点でもう一枚。それでスマホを返してあげる。

「ほら、冷める」

 席に戻って自分もナイフとフォークを取った。右手で切って左手で口に運ぶ。トーカの方は、先にパンケーキをズタズタに引き裂いてから、改めてフォークでひとかけらずつ食べていた。こぼすのが怖いのか前傾姿勢になっている。

「ねえ、トーカ」

 彼女はパンケーキを飲み込んでから答えた。

「なに?」

「あーん」

「ああん?」

 トーカのひとくちを参考に自分の分を切り分けて、口元に突きつけてみた。

「えっと。これって」

「あーんだよ。お食べ」

 彼女は顔を背けた。

「恥ずかしい」

「じゃあ、あげない」

 ぱくりと自分で食べてしまう。

「うぅ」

 白髪の少女はうなる。染まった頬に手を当てて、きっと自分の顔の熱さに当惑していることだろう。別に友達同士ならこれくらい普通な気もするけど。こんな態度だから想像上のデートしかしてないと思われる。現実ってとっても刺激的だから、慣れてないのが一目瞭然だ。

「思った以上にピュアだね」

 パンケーキを食べ進めながらリンネは言ってやった。

「このくらい普通なのに。無自覚系モテ女子ならそこはさっさと食べて感想を述べるくらいじゃないと」

「そうかな」

「そうだよ」

 でも、トーカはトーカらしければそれでいい。その〝らしさ〟がなにかまだよくわかっているとは言えないので、ナイフを使い終えてから手持無沙汰になっている彼女の左手を見てみた。机のうえで拳を作って動かない。

 そこに自身の右手をかぶせてみる。

「ぴよっ」

「ひよこか」

 それは高速で後ずさりして机の下に逃げていった。

「気安く触れるなよ」

「いいね」

 リンネは笑った。

「ちょっと〝格〟があがった感じがするよ」

「そうかな」

「そうそう。堂々としていた方がいい」

「これ以上かっこよくなってしまったらどうしよう」

 現状を改善してから言ってくれ。

「そのときになってから考えたら?」

 リンネはもう食べ終えているのに、トーカの方はゆっくりとかみしめるように甘い物を味わっていた。机に頬杖を突いてその姿を眺める。

 見れば見るほど似てないのに、どうしてか目が離せない。

 どうしてわたしは、こんなのにハルナの面影を感じているんだろう。

 浮気でもしているような心音と共に、リンネはふたりの時間をたゆたっていた。




   4


 そしてシノさんの影が揺れる。

「……え?」

 白金色の女の子がその場に膝をついてしまう。

「どうしたの。顔色が」

 足早に近づくと、シノさんの顔は真っ青だった。息も苦し気で、こちらを見る余裕すらなくしている。

 ハルナの瞳は正常で、疼きすらしていない。だから自分の瞳がなにかを引き起こしたのではないとわかった。じゃあ、純粋にシノさんの身体が悪いんだ。

「すまんな。うち、ちょっとあかんみたいや」

 尋常ではない様子を見て、ハルナはあわてた。このまま放っておいたらいけない。でも、どうするのが正解なんだろう。

「病院……救急車……」

 ハルナは迷った。

 それを見て取ったのか、彼女はハルナの上着の裾を握って首を振る。

「どっちもあかん。すまんけど、花をうてきてくれへんか……。きりばな……」

 話すのもつらそうだ。そのうわごとみたいな言葉は、普通ならうのみにできるものではなかった。花なんて病人の役に立たない。でもハルナはシノさんの言葉に従った。そうすることが正しい、という気がしたからだ。

 そこから一番近い花屋は駅の方にある。そこに向けて走った。

 息を切らしながら値札と小銭入れの中身を見比べる。とにかく数を揃えよう。だから安い薔薇をたくさん買った。それでハルナのおこづかいはほとんどなくなる。もうおにぎりさえ買えない。

 再び走って戻る。ハルナは上着の中で汗をかいていた。てのひらにもそれが滲む。

 彼女のまわりにはだれもいない。こんな様子をした女の子を無視するなんてひどい。けれどシノさんに近づくと空気が変わり、あたりが灰色になって感じる。周囲の建造物は石や金属でできているが、それは理由にならない。ひどく静かで、駅前とは思えないほど音がなかった。

 その手の中に、紫にきらめくなにかが見える。

 逡巡する時間は一瞬で終わり、すぐシノさんに花を差し出した。

「買ってきたよ」

「っ。ありがとな。これだけあればしのげるわ」

 彼女は紫色をバッグに放り込むと、渡された花束を抱きしめる。みるみるうちにすべての薔薇が枯れ、生彩をうしなっていった。葉も茎も枯死し、乾燥する。

「ちょっと無理してもうたみたいやな」

 シノさんの顔に生気が戻っている。

「いまの」

「はは。また見られてもうた。これじゃ、うちの方が消されてまうわ」

 シノさんは立とうとした。けれどその場でふらつき、柵に身体をぶつける。

「無理しちゃだめだよ」

 ハルナは地面にハンカチを広げ、そこにシノさんを座らせた。申し訳程度の気遣いだった。本当はもっとあたたかいところまで連れていってあげたい。けれど、ハルナの力では肩を貸して歩かせるのは厳しい。男の子みたいにできたら——左眼が疼く。

「どうしよう。どうしてあげたらいい?」

「ここまできたら甘えた方がええな」

 そう言ってシノさんは懐から財布を取り出す。かなり有名なブランドのエンブレムが光った。

「これでまた持てるだけうてきて。うちな、切り花がないと生きていけへんねん」

「そうなんだ」

「それだけじゃ足りへんけどな」

 日傘で陽光を避けながら、シノさんは続けた。

「応急処置みたいなもんや。礼はあとでさせてもらうで。なんなら財布からいくらか抜いたかてかまへんし、そんくらいは手間賃や」

「そんなことしないよ。待ってて」

 渡された財布が重い。こんなの久しぶり。数百万円とかそういう重さ。前世の記憶の中でも、とびきり豪華だったときの思い出がよみがえる。こんなの持ってるだけでドキドキしてしまう。

 いや、とにかく花を買うのが先だ。

 この短時間に二度も来たら店員さんも変に思うだろうな、と考えながら同じ店に入った。案の定と言うべきか、いらっしゃいませの後に向けられた視線がすこし長めにハルナに貼りつく。でも緊急事態だし気にしてられない。予算確認のため財布の中を覗くと、そこにはやはりお札がぎっしりと入っていた。ひえっ。冷や汗の出る額。シノさんってお嬢様なんだ。

 両手いっぱいに花を頼んだ。今度は薔薇だけではなく、その店にあるすべての種類を買う勢いで。そして色とりどりの花束ができあがった。ヒヤシンス、スイートピー、フリージアにクリスマスローズ。アネモネに寒菊まで、ありったけを網羅した。ごった煮過ぎて用途不明。ごはんです、とも言えないし。さいわい、店員さんは変な顔をするだけでそれ以上のコミュニケーションを取らなかった。

「お待たせ」

 シノさんはスマホをいじりながら待っていた。手と比べるとおおきなサイズ。革のカバーのせいで機種はわからないけど、高級品だと考えた方が自然だろう。

 花束をかたわらに置く。彼女は薄い微笑みを口元に浮かべた。

「どうして種類をわけた方がええってわかったん?」

「ううん。別に理由はないよ」

「そっか」

 ひとつひとつの花にゆっくりと指先を近づけ、味わうようにその花びらをなぞる。文字通りそうなのだと思った。切り花を一本枯らすたび、シノさんの表情に明るさが戻っていく。

「ありがとな」

 それがどこに向かって放たれた言葉であるのか、ハルナにはわからなかった。自分が感謝されているという自惚うぬぼれを抱くには、そのつぶやきはあまりにもやさしすぎる。だからきっと花にお礼をしているのだ。大地から切り離されて死にゆく花の、その残滓ざんしみたいな命を吸い取ってしまうことにさえ、彼女は感謝の祈りを捧げている。

 枯れ果てた花束が二束、仕上がった。

「おちついてきたら、なんやねむうなってきたわ……」

 シノさんが柵に背をあずけて目を細める。

「だめだよシノさん! それ寝たら死んじゃうやつだから!」

「五分。五分だけ」

「だめ!」

 手を伸ばして彼女をひっぱる。そんなことで持ちあがったりはしない。けどシノさんはすっくと立ちあがった。そしてペンギンみたいな恰好をしているハルナにぎゅっと抱き着く。

「ふえ?」

 シノさんが頬をすり寄せてくる。

 ハルナは抵抗しなかった。

 そう、していなかった。

 変だ。こんなのおかしい。

 だって、いやな感じがまるでしない。

「ほんまに助かったわ。ありがと。ええと……」

 彼女は口籠くちごもってから続ける。

「せや。うち、じぶんの名前もまだ知らんかったんや」

 ハルナの思考は乱れた。

 突き放さないと。名前、まだ教えてない。あったかい。シノさんの薄青い瞳。どうしてこんなに近いのに。白くて綺麗。いやだと思えない。揺籠の中にいるように。おちついていく自分の心。高そうな金縁の眼鏡。唇がちいさい。まるで。空気がそっくりだ。こんなの違う。同じであるはずがない。絶対に否定しなくちゃいけない。花の香りがする。やわらかな肌の質感。吐息に触れてしまいそう。近すぎる。耳元に口が寄る。眼を合わせちゃいけない。突き飛ばせ。できない。できるわけない。だって、だって……。

「なあ。名前、教えてくれへん?」

 まるでこの子はリンちゃんだから。

「私は……」

 ハルナは抗えない。リンちゃんに質問されたら、正直に答えるほかなかった。

「私の名前は、巳虎みとら治奈はるな……」

「あは。ありがとな、ハルナちゃん」

 ありがとう、ハルナ。

 笑顔の影が重なる。

 そんなことは許せない。

 目の前の少女を振り払う。

 そして左眼を押さえた。

 疼いている。強く、激しく。痛みさえ伴って。

「ごめん、なさい」

 ハルナはいつしか涙をこぼしていた。それは押さ込んでいるはずの左眼からだけ、ぽろぽろとこぼれおちていく。

「ごめんなさい、リンちゃん」

 今度は自分が地面に座り込む。惨めな自分をたしかめるようにしてシノさんを見上げた。

 彼女は眼鏡をはずしていた。

 当惑した表情で、それでもハルナのことを見下ろしている。

 ああ、やっぱりだ。すべてがられてしまう。

 ハルナはそのまま自身の顔をおおい、いつ果てれるともしれない涙を袖でぬぐっていた。




   風の名 - Snow Wind -


 スマホが震える。その振動が刀香とうかの表情を変えた。

「ん? だれかからの連絡?」

 目の前にはパンケーキを食べ終えてオレンジジュースも飲み切り、今度はホットのカフェオレ、なんてブルジョワな金の使い方をする女子がいる。

 名前はトワノリンネ。

 あまり聞かない姓名だ。

 彼女からは永遠の気配がする。していた。してたかな。自信がない。

 でもそれ以上に危険なのは、ぱっと見は枯れ木っぽい地味子なくせにアグレッシブな性格をしているところ。初対面の時点で名前と連絡先を奪い取られた。いや、教えてと言われたから教えたので奪われたと表現するのは適切ではない。でも気分的には強奪されたに等しい。

 それはそれとしてディスプレイを見る。通知が来ると画面が光るのでわざわざメッセージアプリを立ち上げなくていいのがありがたい。刀香は電子機器との相性が最悪だった。

「相方からだ」

 メッセージには〈たすけにこい〉とあった。ひらがなは緊急性が高い。

「ほう。どの相方?」

 リンネはちょっとした単語からすぐ会話を捻じ曲げてくる。

「相方はひとりだよ。オレって純情可憐なシルフィードなので」

「なんだって?」

「純情可憐」

「十股しておいて?」

「オレは全員にピュアな愛情を抱いております」

 一度言ってしまったことなので、すでに引っ込みがつかなくなっていた。そんなことはどうでもいい。詩乃のところに急行しないとまずかった。

「悪いけど払っといて。借りはいずれ返す」

 マジでお金がないのも深刻な問題のひとつだったりする。

「わかったわかった。あとで連絡するから、余裕があるときにでもね」

 リンネはひらひらと手を振り、笑って見送ってくれる。なにを考えてるのかさっぱりわからないが、ひとつだけたしかなことがある。

 ずばり、リンネはオレに惚れてるね。

 それに酔っている時間も余裕もないのが惜しかった。エレベーターを駆け降りる。良い子は真似をしないこと。ビルの外に出てから改めて〈どこにいる〉とメッセージを送った。これの操作がなかなか覚えられない。メッセージの入力履歴からどうにかこうにかその文字列を送付した。体感的には五分くらいかけてしまった。

〈かいだん〉

 返ってくるメッセージが端的過ぎる。しかし詩乃とは駅の近くで待ち合わせをしていた。駅周辺の階段のどこかだろう。であれば距離的には感知できる。

 刀香は竹刀袋を開くと、そこに入れられていた日本刀の柄頭にてのひらを添えた。詩乃のことを意識する。プラチナ色をした相棒のことを。すこしすると、頭の中にいる方角がなんとなく伝わってきた。それだけでなく、左眼がじくじくと疼いてくる。痛みさえ覚えるほどに。彼女はてのひらで眼帯を押さえつけて、鎮まれ、と念じた。気休め程度だったが、それでまた走り始めた。

 居場所はわかった。だが、と彼女は考えながら走る。

 近くに別のなにかがいる。それも、自分では対処できないほどおおきな存在が。

 駅につながる階段のひとつ、その下にあるベンチに日傘が広がっているのを見つけた。そこにふたり分の気配がある。遠目にはなごやかだが、刀香は全身をこわばらせている。思わず竹刀袋から日本刀を取り出し、白刃を抜き放とうとしてしまった。

 しかしできない。刀香の持つ日本刀は、まだそのときが来ていないことを冷静に判断しているようだ。

 じゃあ、あれはなんだ?

 どうしてあんなものがここにいる?

 深呼吸をして雪花せっか風刃ふうじんを戻し、一段ずつ降りていく。

「かんにんな、ハルナちゃん。本当にうれしゅうて思わずぎゅってしてもうたんや」

「ううん。こちらこそごめんなさい。自分でも泣くなんて思ってなかったから」

 見慣れない女はツインテールをしていた。詩乃と仲良さげに話をしている。

 緊張したまま相方に話しかけてみた。

「詩乃」

 無反応。これはスルーされてますね。

 仕方ないのでもう一度呼ぶ。

「詩乃!」

「わっ」

「え?」

 ふたりが同時に振り向いた。

 詩乃はいつも通りの表情だ。褐色の硝子を使った金縁眼鏡にプラチナの髪の毛。メラニン色素の足りていない身体は、いつだって生気不足に悩まされている。だから刀香の眼を通すと、それはいつ消えてもおかしくない、勢いのない火のように見える。

 そしてもうひとり。

 右眼が青、左眼が緑に染まった少女。

 たったひとつの漢字で構成される、あの言葉を思わせる。口にはしない。

 そこには震えるほどの冷気が座っていた。

 オッドアイ、は動物に使うんだった、ヘテロクロミアの女子は詩乃の影に隠れ、それによってぞっとするような気配も霧散していった。

「刀香! ハルナちゃんのことなんでそないに睨むんや!」

 え、ええぇ……。昨日と話が違くないか?

 刀香は居住まいを正してから反論を始めた。

「いや、詩乃。そいつ、昨日言ってたやつだろ」

「シノさんの知り合い?」

 くだんの女はちらっと頭だけ出してこちらのことを見てくる。なんか子猫みたいだった。でも騙されない。ひとを見た目で判断してはいけません。

「そうだ。オレはそいつの相方」

「せや。こいつがうちのパートナーのウルトラスーパーデラックスごくつぶしやで」

 なんでそこまで言われないといけないの。詩乃の口の悪さは刀香にだけ特別ひどかった。ツンデレを演出するにしても、もうちょっと手心を加えて欲しい。

「オレはごくつぶしじゃない。よってウルトラもスーパーもデラックスもつけられる謂われはない」

「じゃあ、一日の中で働いとる時間と、どうでもええ恋愛小説読んどる時間と、どっちが長いかうてみい」

 刀香は真剣に数えてみた。

「8対2。小説が2、かな……?」

 刀香の体感的には9くらいは仕事をしているが、そこはすくなめに申告した。

「ハルナちゃん。これがうそつきの顔や。よう見て覚えとった方がええで」

「そうなの……?」

 え、ええぇ……。

「なんでそんなこと言われないといけないんだよ。オレは常在戦場の精神でいるんだ。そういう意味では人生をぜんぶ仕事に突っ込んでるって言ってもいい。これほどまでに勤勉なやつが他にいるだろうか」

「なにが常在戦場や。せやったらトーカは毎日毎時間死んどってもおかしくないわ。ぼけーっと本読んどる間なら、うちみたいなか弱い女の子でも余裕で始末できるで」

「そうなの……?」

「んなわけあるか」

 詩乃の隣にいる女、ハルナとか呼ばれているやつは、一々詩乃の言うことをうのみにしようとする。有利な方につく姿勢を見るに、やはり油断してはいけない相手だ。

 それに、最初に感じた気配は錯覚などではない。詩乃の言っていた寿命の見えないやつというのはこいつで間違いない。

 しかし厄介なことになった。絶対零度をすら思わせるこの気配。

 こいつの正体は十中八九、

「あんな、ハルナちゃん。このトーカってのはほんまにボケボケなんや。特に本を読んどったらなんも気づかへんで。この前、ポテトを何本までなら盗めるかチャレンジしてみたんや。どうなったと思う? ぜんぶいけたわ。あれならまるごといっても気づかんとちゃうか」

「このっ、ポテトどろぼう!」

 どいつもこいつもひとの食べ物をほいほい盗みやがって。

 思考より怒りの方が先に立つ。

 むすぅ。

 ふくれながらハルナのことを見る。

 気にはなるが、いまのところこちらに敵意はないようだ。雪花せっか風刃ふうじんも即断即決モードになっていない。対処するにはおおきすぎる存在なので、タイミングを見計らう必要がある。その最適な時機は自分よりも刀の方がよく知っているはずだ。

 そうとも。自分は詩乃に言ったじゃないか。

 斬るべきものはいずれユキカゼが見つける。だから急ぐ必要はない。

 シリアスに考えていると、横からハルナが口を挟んだ。

「詩乃さんと刀香さん、やっぱり仲がいいんだね」

「ひゅえ?」

 変な声が出た。

「ないない! ないわぁ!」

 味方のはずの詩乃が割とマジで否定してくる。立ちあがり、そして刀香に頭をぶつけた。顎にヒットする。ぜんぜん平気だけど。

 痛そうにしながら詩乃がささやいてくる。

「この子、ガチでやばいで」

 刀香はとっさにシルフィードの力を使った。空気の振動を操り、音の伝達を阻害する能力だ。万が一にも自分たちのひそひそ話を聞かれたくなかった。

「すぐにでもかたづけた方がええんとちゃうか」

 刀香はうなずく。それから首を振って否定した。

「オレもそう思ったが、雪花風刃ゆきかぜが止めた。いま行くと返り討ちにあう」

「っちゅうことは、刺激したらあかんな。なにされるかようわからん」

 刀香と詩乃はちらちらっとハルナの方を見る。

 ハルナはにこやかだった。なかよしタイムだと誤解されてそうだが、いまはその方がいい。

「さっきもリンちゃんとの間に入ったら消すっちゅうとったで。うち、ガチで消されると思うて生きるのあきらめかけたわ」

「マジでやばいやつじゃん……。で、リンちゃんってのはどなたかな?」

 ちなみに自分もさっきまでリンちゃんって感じのやつといっしょにいた。リンネ。トワノリンネだ。

「わからん。けどもしやがある気がしてしゃあない。確認せなあかん」

「それがトワノリンネだったらどうしよう」

 オレ、消されちゃうかもしれない。

「せやったらうちらも覚悟の決めどきやと思うで。いままでほんまにようやってきたわ。こんなアルティメットシューティングスターごくつぶしとな」

「どこからそんな修飾語が出てくるんだよ」

 そうこうしていると、いつの間にか目の前にハルナの姿が。

「わひぃ!?」という声がふたつ重なった。

 刀香はとっさにシルフィード、風の妖精としての力をオフにする。自分たちの声がどこから相手に聞こえていたかわからない。もしかすると〈ひぃ!?〉の部分だけが相手に聞こえていたかもしれず、その違和感に気づかれて消される未来もありえた。

「ねえ、詩乃さん、刀香さん」

 笑顔が怖い。

「私、お邪魔だよね?」

 ふたりは顔を見合わせた。

「そないなことないで」

 詩乃が速攻でフォローする。

「ハルナちゃんみたいなかわええ子はいくらいてもええんや」

「そうそう。オレ、女の子にもやさしいジェントルマン系レディなので」

 怖すぎて言葉遣いがめちゃくちゃになっちゃった。

「ううん。無理しないで。わかるもん」

 ハルナの笑顔を見ているとハレーションを引き起こしそうだ。まぶしいということ。まるで太陽でも見てる気分になる。だから直視できない。

「ふたりはいっしょにいる時間を大切にした方がいいよ」

 詩乃に目配せする。

 合わせろ、詩乃。

 了解やで、刀香。

「うん、そうする!」

「うん、そうするわ」

 呼吸の合いっぷりはその年最高の出来だった。


 というわけでふたりは駅を離れ、いくつもの横断歩道を渡り、中央公園と呼ばれている広い敷地に出た。寒空の下、芝生の上を子供たちが駆けていて、それを奥様がたが見守っている。

 平和だった。安全地帯にいるという安心感がすごい。

「あの子、根はすごいええ子やねんけどな」

 詩乃曰く、切り花をたくさん買ってきてくれたらしい。自腹で。しかも謝礼として出された札束の受け取り拒否までしたという。

 もらっときゃいいのに、と刀香は思った。詩乃のだったら財布ごと持っていっても罰は当たらない。

「うちな、お金には几帳面やから財布の中身たしかめたんやけど」

 そしてこいつは本当に人間を信用していない。

「ほんまにレシート通りにしか使こうとらんかったで」

 普通だよ。

「オレも悪い子だとは思ってないよ。ただな」

 よくない風が吹いている。冬にしてはあたたかく強い風だった。春一番と誤解させるほどのうなりを伴う。

「いつか斬らなきゃいけない。オレとあいつは、やるかやられるかの関係だ」

「巻き添えはごめんやで」

 詩乃がつぶやく。

「ああ。おまえのことは必ず生かす」

 深刻なトーンで返すと、詩乃は珍しくだんまりになった。

 オレってやっぱり決めるときは決めるタイプだ。

 そう思って詩乃の手を引く。

「行くぜ、詩乃」

 そうすると、彼女はいつも不機嫌な声を出す。

「じぶん、調子に乗んなや」

 いいじゃん、ちょっとくらい。刀香は笑顔で振り返る。日傘の絵が腹を打った。それさえも楽しくて、刀香は笑いながら先を歩いた。




   5


 書店のライトノベルコーナーに行くと、リンちゃんが行ったり来たりしていた。上着のポケットに手を入れて、どこか上の空な表情。

 ハルナは自然なふうを装って彼女に近づく。

「リンちゃん」

 すっと前に出てあいさつすると、リンちゃんが笑った。

「やっ、ハルナ。偶然だね」

 そう言って撫でてくれる手。髪の毛をすくようになぞる五本の指。親指、人差し指、中指、薬指、小指。そのすべてが愛おしかった。

「あれ、ハルナ」

 彼女はすこしよれたハンカチを取り出し、ハルナの目元をぬぐった。左眼の方。

「どうしたの。なにかあったの?」

「え? ううん、なにも」

 ハルナは咄嗟に左側を隠す。

「そんなわけないじゃん。ハルナを泣かせるとか絶対に許さない」

 涙のあとがまだ残っているなんて思ってもみなかった。シノさんもトーカさんもなにも言ってなかったから。でも、リンちゃんは視力がとてもいい。いつも最高値。だからわかってしまったんだ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 それに、ハルナを泣かせたのは自分自身だ。だからリンちゃんが許さないというのなら、罰せられるべきは自分ということになる。

「それ、だいじょうぶじゃないひとがいうセリフだよ」

 人目をはばからずぎゅっと抱き締められる。

 幸せだ、私は。

「話したくないならいい。けど、いつでも甘えていいんだよ。わたしがいつも甘えているんだから」

 それから、リンちゃんに手を引かれて上の階に行った。レストランフロアの一角にある素敵なカフェ。メニューには明るい色のスイーツがたくさん写っている。

「実はさっき食べちゃってさ。わたしはいいから、ハルナ、好きなの頼みなよ」

「え……。そんなの、悪いよ」

「いいよ。ハルナが食べてるのを見るのが好きなんだ」

 リンちゃんの押しに負けて、ハルナはスフレパンケーキとハーバルティーのアップルジンジャーを頼んだ。

 やってきたカップの中、すりおろされたリンゴが生姜風味のお茶に浮かんでいる。あたたかな飲み物を口にしたらすこしおちつく。ほっと吐息がこぼれる。

「あのさ、ハルナ」

 リンちゃんはちょっと言いづらそうに声をかけてくる。

 どくん。

 その心音の乱れには覚えがあった。

「わたし、いまちょっと他の子が気になってるんだ」

「……どんな子?」

 平静なふりをして上目遣いでいてみる。

「それがさ。髪の毛が真っ白なんだよ。根元までばっちりだから天然っぽい。変でしょ。恋愛小説ばっかり読んでて、とんでもない見栄っ張り。すぐバレる嘘をぺらぺらしゃべっててやばかった」

 どくん。どくん。

 ハルナは胸を押さえてその震えを感じ取る。

「目立ちそうな子だね」

「さっきまでいっしょにいたんだけど」

「リンちゃんは、その子のこと、どうしたいの?」

 左眼を押さえる。だめだ、と思う。この動作、くせになってる。心をおちつけるための方法。見せちゃいけないのに。

「わからない。なんかその子、なんとなくハルナに似ててさ。見た目じゃないよ? 雰囲気が」

 からん、と音を立ててグラスの中の氷が動く。リンちゃんが口を潤す仕草に見惚みとれている。

「わたしのこと、なんか変えてくれるんじゃないかなって期待したり」

 だって、とリンちゃんはつなぐ。

「わたし、ハルナに甘えっぱなしだから」

「そっか。じゃあ、応援するね」

 そんなこと、言いたくない。

 だけどハルナは止まれない。

「リンちゃんが好きなようにするのが一番だもん。私、リンちゃんのこと束縛したりしないよ」

 本当は離したくない。他のだれにもリンちゃんに触って欲しくない。それくらい強い感情が胸のうちで渦巻いている。それが血液に乗って全身に巡り、身体の芯まで熱していく。

「束縛なんて……そんなことされてると思ったことないけどな」

 くす、とリンちゃんは笑う。

 造ったものじゃない。自然だ。わかる。上手なときは。

 自分とは違うんだ。なにもかもが。

「むしろさ。わたしの方がそうしてるんじゃないかって思うよ」

 視線を逸らさないで。

 そんなことさえ言いたくなるほどハルナはわがままになる。

「縛ってくれていいのに」

「それ、なんか変な意味に聞こえるんだけど」

 リンちゃんの手がテーブル越しに伸びてきて、ハルナのほっぺたをつついた。

 こんなちいさなやり取りだって、ハルナはうれしい。

「変なことを言うのはこの口かな?」

「うん……このくち」

 逆らおうと思えない。リンちゃんの流れの中に自らを浮かべたい。

 だから、言おうと思う。言わなくちゃいけないって。

「私も」

 強く強く、どくん。

「気になるひと、いる。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけリンちゃんに似てるの」

「へえっ。どんなひと? かっこいい?」

「ふえ?」

 あ、男の子だと思われてるかも。ハルナは笑ってしまった。それは勝手に出てきたものだった。

「ううん。全体的に色が薄い女の子」

「えっ、そうなの。もしや同じ相手じゃあるまいな。よくあるじゃない。同じひとを好きになってしまったお話」

 あるかな。あるかも。

「ううん、でも、違うと思う。なんか変な関西弁を使う子だから」

「じゃあ違うな」

「でも……その子といっしょにいたひとはそっくりだった、かも……」

「マジか。そういや、相方いるって言ってたぞ。それって、ボーイッシュな感じで、黒いジャージを着てて、ついでに剣道部の子がもってるような袋を背負ってる?」

 いた。そんな子が。

「まさか……トーカさん?」

「その子だよ。シラユキトーカって言うらしい」

 リンちゃんがスマホで見せてくれる。

 白雪しらゆき刀香とうか

 もう連絡先まで手に入れてるなんて。リンちゃん、こういうことは得意だ。いや、得意になってしまった。あまりにも長いときがリンちゃんをそんなふうに変えてしまった。

 左眼よ、右眼よ、どうか痛まないで。

「もしかしてわたしたち、略奪愛をしようしてる?」

「ははは……仲良さそうだったけど、どうなんだろうね」

 互いに、相手以外に愛しいひとを作れたら。

 そのとき、私たちは終わりを迎えられるのだろうか。

 わからない。

 怖い。

 怖かった。

「……ごめんね、ハルナ」

 リンちゃんが椅子を移動させる。私の隣に座ってくれる。肩を寄せて、頬を流れる雫を拭きとる。ハルナは泣いていた。泣いてばかりだった。

「自分勝手だったよ。ハルナ以外に気を向けるなんて」

「いいの」

 その涙が自分のためのものであることを、ハルナは重々承知していた。

 だから、自分だって別のひとを見ようと思ったんだ。

 それがあまりにも一方的で身勝手だとわかっていても。

「いいんだよ、リンちゃん。好きに生きて。私だってそうするから」

 パンケーキがやってくる。店員さんがすこし気まずそうにしながらお皿を置いた。

「ほら、ハルナ。あーん」

「うん。あーん」

 リンちゃんが切り分けてくれたパンケーキを口にする。

 甘かった。

 こんな甘い甘い日々がこれからもずっと続いてくれればいいのに。

 そう思うほどハルナの胸と眼は痛み、そのたびにリンちゃんが抱きしめてくれた。


 あの風の名がもしも終わりというのなら。

 あとすこしだけ、

 どうかあとすこしだけ待って欲しい。


 そうしたら、私は——

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