ふたりのしにがみ - Banshee and Sylphide -

 永遠という檻に現れたふたりの妖精。

 死の風の運び手、シルフィード。

 終わり告げる者、バンシー。

 彼女たちはまだ知らない。

 そこに広がる広大な闇の姿を。




   1


 窓を叩く水の音がやけにはっきり聞こえる。それがいつもの始まりだった。午前五時。時計を見なくてもわかる。それでも青い背をしたスマートフォンに手が伸びてしまう。ぼやけた視界の中でその表示を見る。気分が悪く、いまにも吐きそうだった。おなかの中身をぐちゃぐちゃにかき混ぜられた痛みの残滓ざんしがまだ渦巻いている。その感覚はまぼろしだと自分に言い聞かせ、端末の画面を覗く。

 午前五時を三分過ぎ、十二月二十五日の土曜日。

 時刻の下にはふたりの女の子が並んでいた。

 片方は自分より背が低いが、その眼が特徴的だった。右眼が青、左眼が緑に染まっている。ヘテロクロミア、虹彩異色症らしいが、周囲にはカラコンだと言われている。常にツインテールなんか作ってるから仕方ない。彼女は高校の制服を着ていた。紺地のブラウスに青いリボン、スカートはブルーのタータンチェック。亜麻色に透き通る髪はとても触り心地がいい。ハルナはたいせつなひとだ。どれだけ退屈な日常を繰り返しても常にそばにいてくれる唯一の存在。まるでひまわりみたいな笑顔。どこにも黄という色彩がないのに、常に喜色きしょくをまとって見える。

 その隣にはほとんど同じ服装をした、あまりぱっとしない見た目の娘がいる。セミロングの黒髪で、枯れ木みたいな印象の女。それがリンネ、自分だった。もっと綺麗に笑えばいいのにと思う。下手なのだ、笑うことが。そしてその過去だけはどうあがいても変えられない。

 自撮りした写真。クリスマスイブにふたりでケーキを食べる前。だから背景の端に苺のショートケーキがふたつ写っている。見切れているが有名なチキンの箱もあるし、紅茶のたたえられたカップも置かれていた。あのケーキは美味しかったんだっけ、それとも甘すぎて残してしまったんだっけ。わからなかった。事実としては昨日の出来事だというのに。

 すぐにドックの一番目に表示されている電話アイコンをタップした。この時間、もうハルナは目を覚ましている。あの子も朝が早い。声が聞きたかった。前回は終わり方がひどすぎたから。履歴からコールする。

「リンちゃん?」

 やさしく問いかけるような口調でハルナが出た。ほっとした。気分の悪さも、痛かった記憶も、その声を聞いているだけでぜんぶ溶けて消えていく。いつも変わらない。そのことに安心する瞬間もあるんだ、と彼女の声は教えてくれる。

「うん。朝早くからごめんね、ハルナ」

「いいんだよ。うれしいから」

 電話越しでも彼女がほんのり微笑んでいる姿が目に浮かぶ。それは自分勝手な妄想かもしれない。実はぶすっとしながら声だけで喜んでみせているとか。

 ……そんなことあるはずがない。

「はは。わたしもうれしい」

 くだらない想像をした自分を笑った。口にした言葉も嘘じゃなかった。うれしかった。それがたとえ決まりきった事実だったとしても、自分が早朝から電話をかけたことに喜んでくれるいる相手がいるということはかけがえのないことだった。

「今日のカラオケ、あとで予約しとくね」

 治奈が台本でも読むようにすらすらと言った。

「今日もいっぱい騒ごう」

「だね。楽しみにしとく。シャワー浴びるから、それじゃね」

「うん、ばいばい、リンちゃん」

 通話を終えてからも、しばらく耳の近くにスマホを構えたままにしていた。彼女の声が逃げないように。記憶から消さないように。今日はクリスマスなんだ。普通なら喜ばしい一日。そう自分に言い聞かせる。

 それからリンネはベッドの中でスマホのロックを解除して、ホーム画面に移動した。まず最初にインストールされているソシャゲを消していく。動画系アプリ、SNS、日記帳、プリインストールされていた株価なども。ホーム画面の二ページ目はコンパスとミュージックだけが残った。背景写真は文芸部の部誌が設定されている。表紙に桐の花が描かれた青い本だった。どうしてこれが設定されているのだろう。これさえもう、わからない。

 朝食を食べようとリビングにいく。静かだった。雨音が不規則に響いてくるだけ。冷蔵庫を開ける。牛乳のパックがひとつと、切れかけのマーガリンのケースにナイフが突き刺さったままになっている。それしかない。空っぽといっても差し支えない中身を見て、餓死という単語を意識する。連鎖して頭が痛んだ。

 シャツとジーンズに厚手の上着を羽織る。すみれ色の傘を手に、ピンクの長靴を履いて団地の廊下に出た。どっちも自分には似合ってない気がする。でもハルナがくれたやつなんだ。こつんとかかとが床を打つ。風でかすかに雨粒が飛んでくる。灰色の景色が目の前に広がっていた。エレベーターはない。階段で降りていった。最寄りのコンビニまで五分くらい歩いた。途中でシャワーを浴びていないことに気づくが、面倒で戻らなかった。

 コンビニではゼリー飲料とミックスサンド、それにジャムとマーガリンのコッペパンを三食分買った。野菜ジュースも三本。レジ袋をつけて。電子マネーで払った。昔の自分ならここで雑誌も一緒に買っていた。漫画、ファッション、グルメ情報とかのやつ。いまはそれをちらと横目に見て通りすぎるだけだ。

 同じ道を引き返す。袋が揺れる。なにもかもがグレーに見えていた。雨で陽が遮られているから。理由がそれだけでないことはわかっている。寒かった。手を擦りながら階段をのぼる。扉を開けた。鍵はかけてない。この時間帯、不審な人間が入って来ることはないと知っていた。

「ただいま」

 こだまだけが返事をした。濡れた傘を扉に立てかける。服を脱いで洗濯機の上に放る。換気扇が回り続けている。鏡を覗いた。まるで生気のない顔。給湯器をオンにし、水栓を持ち上げ、てのひらで冷たい水を受け止めた。お湯になるのを待ちながらどこへともなく問いかける。

「ねえ、ハルナ」

 いつもは言わないことを、もしかしたらどこかで、それも何回も言ったかもしれないことを問いかけてみる。

「こんなわたしでも、あなたは好きでいてくれるのかな」

 怖くなって、身体を拭くのも半端なまま部屋に飛び込んだ。他に泣きつく相手もいない。毛布にくるまってハルナの取ってくれたうさぎのぬいぐるみを抱きしめた。それから、日課をまだ消化していないことに気づく。仏壇の前にいって線香をあげた。手を合わせて念仏を唱える。

「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ」

 こなす順序がめちゃくちゃだった。ようやくおちついてから、半端に乾いた髪の毛を櫛とドライヤーで整えた。ベッドと枕も助けてやる必要があった。錯乱は問題を起こし、そこには利息がついてくる。

 服を着て朝食をさっさと済ませると、ミュージックから見覚えのある曲を順番に聞いていった。なにを歌うかくらい決めておかないと、ハルナがずっと歌い続けることになってしまう。彼女が声を枯らしたりしたらいやだ。

 あんなことをしておいて、わたしはまだそんなことを思っているの?

 シャツの胸元を握りしめた。今回はおちつくのにだいぶ時間がかかっているようだ。リンネはスマホに映っている本の実物をデスクから取り出した。それからハルナの書いたファンタジー短編を読み始めた。永遠に等しい寿命を持つ吸血鬼と人間の織りなす恋愛譚。どこにでもある話。何度も読んだ物語。暗唱さえできるかもしれないその作品を読んでいく。そうすることでちょうどいい時間になる。

 九時をすぎるともうお腹がすいていた。朝からいろいろとやったせいかもしれない。ハルナと待ち合わせる前にもう一回、食事をすることにした。準備を整えてから白いバッグをげてハンバーガー屋に行く。順番待ちをしながらリマインダーにハルナとの約束を設定。いつものセットを頼んでから窓辺の席に歩いた。この時間、そこは確実にいている。

 そこでリンネはいつもと違う光景を見た。

 黒い竹刀袋を背負った白髪の少女が座っていた。けだるげだけど、ボーイッシュで凛とした横顔をしている。真っ黒なジャージがよく似合っていた。白の三本線だ。見えている右の瞳は赤い。息を飲むほど鮮やかに深い赤だった。その一点を見つめ、リンネは席に着くことも忘れて立ち尽くしていた。

「ん?」

 少女がこちらを向く。左側の眼は眼帯でおおわれていた。彼女がみじかい髪をかき上げる。もしかしてハルナの同類だろうか。そう思ったけれど、彼女の眼を見つめているとそんな軽口を叩く余裕は出てこない。トレイを握った手に汗が滲みだす。

「おまえ、不死か?」

 少女は枯れたような声でそう言った。こういうのをハスキーな響きと言うのだろう。立ちあがるとリンネよりすこし背が高かった。

「おまえからは永遠の気配がする」

 リンネはすぐ答えられなかった。ただ、そこにある白と黒と赤が、三つの不吉な色彩が、自分を終わらせてくれるのではないかというちいさな希望となった。

「そうかもね」

 リンネはささやくように言った。

「同じ日々を繰り返すことを永遠と呼ぶのなら、わたしはきっとその中にいる」

 名も知らぬ少女の前で立ち尽くす。

 揚げたてのポテトがどうしようもなく冷めるまで。




   2


 とても哀しい夢を見た。リンちゃんに包丁で刺し殺される夢。でも、それだけならまだ堪えられる。どうしようもなくいやだったのは、ハルナもまたリンちゃんのおなかに包丁を突き立てていたことだった。どうしてそんなことをしたんだろう。まるで感情が消えたかのように冷静で、ふたりとも致命傷になるまで行為を続けた。部室はまっくらだったので、ハルナたちから噴き出した血の色なんてわかるはずがない。なのにリンちゃんの顔ははっきりと真っ赤に染まって見えた。それを洗い流す涙が白く輝いて、その美しさが網膜に焼きついている。

 電話で呼び出されたとき、ハルナはバッグの中にお母さんの包丁を忍ばせていた。リンちゃんの家は近所だから、わざわざ学校まで行く必要なんてない。でも待ち合わせ場所を学校にしたいって言うならそれに従う。リンちゃんの言うこと、望むことを叶えるのがハルナの役目だった。

 リンちゃんがハルナの小説を酷評したのは二年生が始まったあと。ハルナは自分の書いてるものが傑作だなんて思っていないので、リンちゃんがだめ出しをするなら、やっぱりその通りなんだって考える。あこがれている作家の先生と比べるとやっぱり全然なわけだし。だから賞とかに出す勇気もなくて、部誌に自分の小説を載せてるだけでもじゅうぶんに勇敢と言えた。

「今回も中二病全開だね、ハルナ。痛々しい。たまには作風を変えたら?」

 覚えている台詞はこれだけだ。ハルナのことを示す言葉としては間違ってない。中学生のころ、自分の眼の色が左右で違うといじられたことがあるから、眼帯をつけて隠したことがある。自分では割といい感じの見た目だと思った。でも周囲からは低評価の嵐を受け、それをもって中二病の発症と称された。以来、ありのままでいるようにしているけど、センスの方は変わらないままだ。

 その日の放課後を境に、ふたりはすっかり疎遠になった。

 でもハルナは平気を装う。鏡を見て練習した、ちゃんとした笑顔というものを使って。そうするとリンちゃんは戸惑ったような顔をする。罪悪感からか目を伏せて、それきり黙って去っていく。そんなところが愛しくなるのは、典型的な依存症だと思えなくもない。

 そんな日々の果て、わざわざ休日の学校の、文芸部の部室に呼び出された。ハルナは終わりを予感する。彼女の中にある前世の記憶も、それが終わりの合図であることを告げていた。リンちゃんは私を殺す気だ。でもそれは決して彼女の本心ではない。だから彼女は武器を忍ばせて学校に向かった。ひとりきりでは寂しすぎるから。

 周囲のすべての人々の顔がグレーに塗りつぶされた電車の中で揺られ、ハルナは必ず後攻でリンちゃんを刺そうと決意を固めている。彼女はきっと、うまくハルナを殺せない。だからハルナも、同じようにへたくそにリンちゃんを刺す。相手を失うのが怖いと震えながら、ふたり、真っ赤に染まるまで刃を突き立てる。

 首を振った。いつまでもこんな夢にはつきあっていられない。今日はせっかくのクリスマスなんだ。リンちゃんとカラオケに行く約束をしている。

 スマホが鳴った。すぐに応答した。

「リンちゃん?」

「うん。朝早くからごめんね、ハルナ」

 どこか寂しげな響きで名前を呼び捨ててくるリンちゃん。遠慮なんて要らない。だけどこの言い方が変わってしまうことを願っているわけじゃない。

「いいんだよ。うれしいから」

 リンちゃんはきっとほんのり微笑んでいる。それは自分勝手な妄想かもしれない。リンちゃんは口先だけでハルナを甘やかし、へんてこなことばかりしている自分を嘲笑しているのかも。

 ……なんて、そんなことあるわけない。

「はは。わたしもうれしい」

 リンちゃんが笑い飛ばしてくれる。やっぱりうれしい。

「今日のカラオケ、あとで予約しとくね」

 ちょっと早口で続きを話す。

「今日もいっぱい騒ごう」

「だね。楽しみにしとく。シャワー浴びるから、それじゃね」

「うん、ばいばい、リンちゃん」

 もう通話が切れてしまう。それが寂しくて、ハルナはしばらくスマホを握ってる。まだ耳の中にリンちゃんの声が残っていた。消せるわけがない。自分からはとても。なのになぜ思い出せないことがあるんだろう。だから人間の身体がきらいだ。どんなにたいせつなことだって、いつの間にか消えてしまっている。

 クリスマスの朝なのに憂鬱なことばっかり考えてる。なんでだろう。楽しい毎日ばっかり過ごしているから、頭のどこかがそれはだめだと警告してるのかもしれない。それがリンちゃんと殺し合うような夢を見せた。どんな理由にせよ、それはどうしようもなく堪えられないことだった。

 浴槽に湯を溜め始める。汗と共にこんな考えは洗いおとしてしまおうと思って。




   3


〈雪花〉とだけ書かれた竹刀袋を眺めていた。このあたりにこんな名の学校や道場はない。この子の名前なのだろうか。あるいは、ちょっと気取ったブランドの品。それにしては文字以外の装飾がない。さまざまなことを考えたけれど、結局、ふたり並んでポテトを口に運んでいる。SNSの中二病レスバトルみたいなやり取りを終えてから、それっきりなにも会話をしていない。刀で斬られたりということもなかった。

 リンネはどこか拍子抜けした気分でうつむいている。

「気のせいかもな」

 相手はそう言って、下を向いているリンネのさらに下から、じっとこちらを見上げてきた。そんなことをしなくても、顔を見せろと言えばそうする。最初から距離感に不具合があったのだ。いまさらなにを遠慮することがあるのだろう。

「あなたがなにをしたかったかによる」

 リンネは答えて、目の前にいる白い子の頬をつついた。

「永遠の気配がする、でしょ。だから言った。その中にいるって」

 言えば言うほど、目の前の少女はふくれたような顔になる。眼帯の方の眼を撫でて、頬を赤くしながら言い返してくる。

「よく見たら違ったの。勘違いでぶった斬ったら取り返しがつかないじゃんか」

 ばつが悪そうという言葉を普段使いすることはない。その数少ない機会が巡ってきた。その子は歯をぐっと噛みしめて、次になにを言うべきか考えているようだった。

 よく見たら違う、か。この子の眼にはなにが映っていたんだろうな。リンネはさっさとポテトを食べ終えると、オレンジジュースをすすりながら考えていた。この白い女の子がなにを求めているのかとか、やっぱりその眼帯はハルナと同じ病を押さえつけるためのアクセサリなのだろうかとか、なんならその竹刀袋もそうなんじゃん? とかそういう些末さまつなこと。

 なんだか楽しい。

 リンネはそれに驚いた。

 わたし、いま楽しんでる?

 アラームが鳴った。リマインダーだ。もう十時を三十分も過ぎていた。あまりにもときが経つのが早すぎる。リンネはすこしあわてて席を立つ。

 トレイに手が触れた瞬間だった。

「わるかった」

 そう彼女は言った。

「なんで?」

 リンネは意地悪く問いかけ、それから続けた。

「楽しかったよ、あなたといるの」

 すると、白い肌にまた紅が差す。

「いやっ、その……」

 言いよどむ少女がかわいいと思う。ハルナとは違う、まるで年下の男の子だった。自分の胸がすこし躍っていることがおかしい。異性と勘違いして身体が高揚しているのだろうか。それはありえない。体温が低い。手が冷たくて、トレイの温度がわからない。血が流れていく先は首元と頭の中だ。耳鳴りがする。

 そっか。名残惜しいんだ。

 リンネはすでに氷とオレンジの香りがわずかに残るばかりのカップを残し、残りをゴミ箱に捨てた。それからまた元の席に座り直す。紙の底がテーブルを叩くと氷の崩れる音がした。

「あなた、名前は?」

 口説くとき、リンネはまず名前からくようにしている。

白雪シラユキ刀香トーカ

 真っ白な雪の中に咲く刃の花。その鉄の香りが血の赤を連想させる。音しか聞き取っていないのに、すぐそうしたイメージが脳裏を駆け抜けていった。

「かわいいんだ」

「オレはかわいくねえよ」

 否定されればされるほど、リンネからすればおもしろい。初心うぶな印象がいつまでも消えない子だった。それに一人称がオレ。オレっ娘とはね。ハルナの書いた小説にそんなキャラクターがいた。

「シラユキがかわいいし、トーカだって悪くない」

 追い打ちをかけたらどんな反応をするだろう。ポケットの中に手を入れてスマホをいじくる。褒めてやると、思った通り真っ赤になる。白い肌がそれを引き立たせる。あるいは、その身に流れる血の方が肌の白を強調しているのかもしれない。

 私はさっとスマホを取り出してその顔を撮影する。

 でも、そこに映るアルビノはとてもよくない兆候でもある。

 視界が揺れる。

 リンネは頭を押さえた。ほんの一瞬だったが、眩暈と頭痛が同時に訪れていた。もう終わったはずなのに、耳鳴りがおおきく残響する。

「おい、だいじょうぶか」

 トーカの声がする。だいじょうぶ、と言いたい。なにか忘れている。それが近いことか遠いことかすらも意識できない。もう痛みも揺れも鎮まっているのに、ひどい夢を見たあとのように自分の身体は震えていた。

「おまえは永遠なんかじゃないよ」

 目の前に手が差し伸べられる。白くてなめらかな肌のつや。ハルナ以外の女の子の手なんて握りたくない。

 でもいまそこにあるものは、自分を救ってくれるかもしれなかった。その直感を信じたくない。信じたい。いつか理科室で分銅に釣り合うように塩を積んでは取り去ったときのように、その天秤は上下を繰り返していた。

 でも、もういやなんだ。

 たすけて。

 リンネはトーカの手を掴む。

「ファストフードなんて身体に毒だぜ」

 同じものを食べてる口がよく言える。そう思って、リンネは笑おうとした。

 うまくできない。

 どれだけの時間を生き続けても、自分は結局、笑顔を造るのが下手なままだ。




   4


 朝の雨模様も次第に薄れ、いまでは灰色の道路のところどころに黒く染みのようなものが残るだけだった。

 ハルナは学校で使っているダッフルコートを着ていた。もこもことして、ペンギンの赤ちゃんを思わせる。

 カラオケ屋に向かう途中。

 一軒の花屋の前でハルナは足を止めた。

 視線の先に真っ黒なパーカーと赤黒チェックのロングスカートを履いた女の子が立っていた。その手の中にはクリスマス用のミニブーケがあった。プラチナにきらめく長い髪を垂らし、薄い褐色グラスの金縁眼鏡をかけ、聞いたことのない歌を口ずさんでいる。


 死にたくない、死にたくない。

 今日も明日も死にたくない。

 十年後だって死にたくない。

 生きていたい、生きていたい。

 明日も明後日も生きていたい。

 五十年後も生きていたい。

 だからうちは死にたくない

 ずっと幸せに生きていたい。


 旋律の伴わないそのうたは、その場の思いつきでではないと感じさせるほどはっきりとした口調で発せられていた。

 歌う少女が薔薇の切り花に指先が触れさせる。はらはらと花びらがおちていくのが見えた。さきほどまで命の残りを咲かせていたはずのそれが、一瞬で色褪せ、枯れてしまった。

「ん?」

 女の子がハルナを見た。色眼鏡のせいで本当の瞳の色がわからない。ただ、その虹彩の色は真っ黒ではなかった。夜になるすこし前の空のよう。その子は眼鏡のずれを人差し指でついと直すと、ゆっくりとした歩みでこちらに近づいてきた。

「見てしもたん?」

 不思議なイントネーションで白金しろがねの少女が問いかけてくる。ハルナの瞳を覗くその眼は、自分のすべてを透かして見ているかのようだった。身体がすくむ。

「その……うん……」

 ハルナはわずかな逡巡ののちにうなずいた。虚言きょげんろうしても仕方ない。そしてどうしても目が離せなかった。こんなに他人をじっくりと見つめるなんて、相手がリンちゃんでなければありえない。それくらいハルナには他人の眼というものが恐ろしかった。目玉模様を忌避きひする鳥と同じく、すぐに飛び去るのがいつものやり方だった。

 でも、その子の眼は違った。その中心点にある黒さえもが薄く、硝子板の向こうにある本当の色はどうなっているんだろうと、そんなことを感じさせられるほど綺麗だった。だからハルナは、自分の胸がほんのりとあたたかいことを自覚していた。

「わっ。じぶん、眼の色が左右でちゃうやん。かわええなあ。ねこちゃんみたいや」

 どきり、とする。

 リンちゃんと同じだ。彼女の声が頭の中で再生される。

 へえ、ハルナの眼、左右で色が違うんだ。かわいい。ねこみたいだね。

 それはさして珍しいものの言い方というわけではないはずで、自分だってヘテロクロミアの子がいたら猫みたいだなって思う。でも猫の場合はオッドアイと言うことが多い。ハルナのよく読んでる小説とかでも、中二病かそれに類するキャラクターはオッドアイと表現されることがほとんどで、ヘテロクロミアなんて表現は格式張ったファンタジーという感じがする。金銀きんぎん妖瞳ようどうという和風な呼び方もあるけど、自分の眼は金でもなければ銀でもない。

「せやけど、じぶんの青は濃いんやねえ。うちの眼はな、ほら、えろう薄いねん」

 やっぱり抑揚が変だなって思いながら、眼鏡を外す仕草に見惚みとれている。まっさらな光を跳ね返す瞳は、たしかにとても薄い青だった。晴天を思わせるような、澄んだいろあいの青。

「素敵、だね」

 思わず口をついて出た言葉は、これもあまり他人には言わないものだった。なんてことを。ハルナは自分の頬が熱くなるのを感じた。

 相手も驚いたような顔をしている。すぐに眼鏡をかけなおして、それから、なんだか照れ隠しでもするみたいにその場でくるりと回った。

「そないなこと言うて、うちは惚れたりせえへんで」

 漫画ならもう惚れてくれてるな、と思って、ハルナはくすくすと笑う。なんでこんなにおかしいと思えるのか、自分でもわかっていない。でも、その子はやわらかかった。冬の雨の日だということを忘れるほど、あたりをあたたかくすることができる。だから忘れてしまっていた。ついさっき見たもののことを。

「それにな、うちはいまバンシーをやっとる。せやさかい、ふつうの子とはなかようできへんよ」

 唐突に出てきたカタカナ言葉のことをハルナは知っていた。バンシーというのはひとの死を告げる妖精のことだ。ぼろ布をまとった老婆で、泣き叫びながら寿命が迫っていると教えるという。でも、それだけのはずだ。だから、とハルナは思い出す、さっきみたいに花を枯らせたりする力を持っているわけがない。

 どうして自分はこれほどおちついていられるんだろう。ハルナはその疑問を胸中に隠したまま、リンちゃんと文芸部室にいるときのように振る舞った。

「わたし、普通ではないから。前世の記憶を持っているし、魂の伴侶がすでにいる」

「うそやろ」

 ぽかんと口を開けてこちらをまじまじと見てくるのがおもしろい。ちょっと刺激が強かったかな。ハルナはいつになく余裕な自分に酔いそうだった。どうしてこの子は、——そうだ、待ち合わせをしてる。リンちゃんと。似ている。外見が、じゃなくて。反応とか態度とか、そこにいる雰囲気が。

 だとしたら、それはとても哀しいことだった。

「邪魔してごめんね」

 そうハルナは言った。

「それじゃあ、私は約束があるから」

 足早に去ろうとする間際、肩を掴まれた。ハルナの身体はびくりと跳ねる。

「じぶん、ほんまに前世の記憶を持っとるんとちゃうか」

「そうだよ」

 振り返ったハルナは、はっきりとそう告げた。

 少女はプラチナの髪を撫で、ちいさな声でつぶやく。

「あのな、うち……」

 もごもご。そんな感じで口ごもってる。はやくいかなくちゃと思って、かわいそうだけど身体をひるがえす。

「またね」

「あっ」

 駆けていくハルナの背後から、おおきな声が聞こえてきた。

「うちは揺籠ユリカゴや! 揺籠ユリカゴ詩乃シノってうねん!」

 言葉は続く。

「ほんまに、また会おな!」

 どうだろ、とハルナは思いながら走った。あの子がもし追いかけてくるのならば、そういうこともあるだろう。でももしそうでなければ、自分は二度とあの子に会いたくない。ドキドキと胸が躍る。体温があがり始めていたのは、走るよりも前のことだった。 

 怖い。ともだちという関係を超えてくれるかもしれない他人、そこにひとりを超える人数がおさまってしまう可能性が。もしそんなことが起きれば、わたしはとんだ不義理者になってしまう。

 前世の記憶がこう告げている。

 おまえに永遠野凛音以外の人間を想う権利はない。

 それこそがハルナの誓約。

 彼女は息が切れて苦しんでもなお、リンネのもとへと走り続けた。




   5


 リンネは今朝会った赤い瞳の少女に心を囚われていた。カラオケ屋のそばにある木の根元をじっと見つめている。白雪刀香。漢字の書き方から連絡先まで、ほんのわずかな時間で聞き出して登録し、そして待ち合わせ場所に移った。彼女は押しに弱いようで、一度勢いを得たらあとは楽なものだった。トーカは安くてコスパのいい中華スマホを使っており、その最初のホーム画面には左上に設定アイコン、他はドックにあたる位置に通話とカメラのボタンしか存在しなかった。事情を深く追及する時間はなかったが、それはこれから作ればいい、と思った。

 いつぶりだろうな。ハルナ以外の人間にこれほどの熱量を持つなんて。

 スマホを手で持て余していると、なぜかハルナが息を切らしてやってきた。そんなことをしなくても予約の時間まではまだ余裕がある。

「どうしたの。よしよし」

 頭を撫でる。肩で息をするのと同調してツインテールが揺れている。別に照れているわけではないけれど、それでもほっぺたを赤くしているハルナの顔はかわいい。そんな頬に手を添える。とても気安いやり方。でもこんな子供扱いや好き勝手なスキンシップを許してくれるのがハルナだった。冷えた手にあたたかな温度が移る。

「遅れちゃうと思って」

 左眼を手で押さえるさまを見て、リンネの心は揺れた。青の瞳だけをこちらに向ける彼女をクリスマスに見るなんて、いままでになかった。こんなわずかな時間でハルナは心を乱してる。それはトーカという正体不明の女の子を見つけたのと同じくらい、自分にとっては衝撃的なことだった。

「なにかあった?」

 ぎゅっとその身体を抱きしめる。冬のこの時期、厚着のせいでお互いの体温なんてほとんどわからない。でも、隙間はある。額と額、頬と頬をすり寄せた。冷たいかな。心配になっても止められない。野の獣になったような気分だ。自分自身のにおいをつけて、ハルナは私のものなんだと主張している。

「ああう、うん……」

 言いよどむところもいい。もっと布の薄い時期ならいいのにね。冷えた手なんて首筋には添えられない。リンネは追及するのをやめた。ただでさえおおきな変化が起きている。だったら、ハルナにもなにかあるかもしれない。これまでにない出会いとか。それなら邪魔をしたくない。

 それは自分の興味が新たな他人に向けられていることの裏返しでもある。

 自分勝手だ。

 リンネの腕に力がこもる。ひどいな、と自嘲したい。その感情を表に出さないために、ハルナのことを感じていた。

「リンちゃん」

 ハルナが胸の中でつぶやく。

「時間すぎちゃうかも」

「ははは。いいよ、五分とかそのくらいなら大丈夫でしょ」

 自分は彼女より背が高いというだけで、それ以外のすべてにおいて劣っている。常識とか。その芯に詰まっている狂った正気においても。だから未来のない自分につきあわせてはいけない。なんなら突き放してもっとまともな道を歩かせた方がいい。陽のあたる場所を歩める未来がハルナにはあるはずだから。

 ずきりと痛む。胸も頭も。

「行こっ、リンちゃん」

 何分、そうしていたのだろう。言われてから力をゆるめる。時間は簡単に飛ぶ。身体に任せたことをしていると本当に一瞬で消え去る。

 ハルナの先導で部屋に移り、ハーフムーンタイプのタンバリンを借りて、ふたり分の烏龍茶を運ぶ。ドリンクバー付のフリータイム。まずはハルナから。曲は決まってる。語りと歌詞の交わる七分越えの不思議な歌。リンネたちよりもすこし年下。つまりけっこう古い曲。世代が違うよな、と思いながら決めておいたはずの曲を探す。あのひとはなんて読むんだっけ。い、い、い……ボカロの曲を入れてハルナに回す。ほとんど台詞みたいに歌いながらすぐ次が入って返ってくる。話し相手になって欲しいなんて、そんなの本当はわたしが使うべき言葉だなんて思って、次を探すのと歌を聞くのとどっちを優先すべきか迷ってしまう。

 言葉が出てこないこのもどかしい感じ。忘れているんじゃなくて、どんなの歌ったら盛り上げられるかなとかそういうの。ちいさな悩みに右往左往している自分の心。

 ああ、楽しいな。クリスマスなんだもん。これが当たり前だよ。いつのまにかシラユキなんて言葉を入れてる。知ってるような知らないようなのがころころ出てきた。同じ雪なら粉雪の方。なんとなく音程を知っている。はず。そう、こんな冬によく歌われている定番の歌。私たちと似た年齢。古いなあ、と思いながら入れてパス。するころにはみじかいイントロが聞こえ始めて自分の番。ハルナとは離れ離れの街に住みたくない。手を握りながらどこか遠くに旅に出たい。各駅停車に乗り込んで他人のことなど見ないまま肩をあずけて終点に向かう。都会とは逆方向。何度も行った場所。海の見える恋人の丘。

 ハルナが左手を持ち上げ、てのひらを開いてポーズを作る。どっかで見たことあるような。ハッとしたり、ぴょんと跳んだり。ああ、MVの動きだ。わたしはそれに追従してぴょこぴょこしながら機械みたいに歌ってみる。

 こういうことって、なかよしのふたりだからできるんだ。どこにでもあるだろうけど、リンネの人生ではここにしかない。

 ターンエンド。知らない曲が始まる。一度くらいは聞いたことがあるはずだから、単に忘れてしまっているなにか。バタフライエフェクトなんて言葉がちらつく。ちょっとした行動によってなにかがおおきく変わることを指すらしい。でもカラオケで歌う曲なんていつだって変わりがち。もっとおおきな変化のことが頭から離れない。

 白い髪の女の子。

 自分の番がくる。まだ次の曲入れてないよ。歌いながら考える。ちょうどいいタイミングで控えめにシャラシャラとタンバリンが鳴って、リンネの心を震わせる。

 リンネは快と罪悪の感情に酔いながら歌って歌って歌い続けた。

 ハルナと共に、その刹那を。




   ふたりのしにがみ - Banshee and Sylphide -


 黒いパーカーを着たアルビノの少女は、駅近えきちかにあるビルの二階にあがる。そこに待ち合わせの喫茶店があった。洒落たコーヒーを淹れる店で、中はあまり広くないが、店内はちょうどよく暗かった。褐色の眼鏡をついと持ち上げ、薄ぼやけた視界の中、やけにはっきりと見えるはずの白髪を探した。

 テーブル席は壁側のソファと反対側のアンティークな椅子とでふたりが使えるようになっている。その一番奥に黒い三本線のジャージを着た少女を見つけた。椅子側に座っている。左眼は眼帯におおわれており、客観的に見ても目立っていた。

 近寄ってみると、壁に雪花と書かれた竹刀袋を立てかけ、一心に小説を読んでいる。本が文庫サイズよりすこし縦に長い。新書にしては分厚く、いろあいがやけにやさしい。

 揺籠詩乃は目を細めながら背表紙を見る。

 それは若年層向けの恋愛小説だった。

「なんや刀香とうか、また対象年齢下がっとるやんか」

「わっ」

 刀香は詩乃しのの言葉を聞いて、初めてその気配に気づいたらしい。静かな店内におおきめの声が反響した。

「ほんまに色恋の好きなやっちゃ」

 視線を走らせる。中身が減ってないカップがひとつある。詩乃はソファに座った。やわらかい。メニューからウインナーコーヒーを選んで頼む。待ちながら刀香に「ぼちぼち読むのせんとき」と言った。

「永遠を探しとってんちゃうの?」

「それらしいのは見つけたさ」

 刀香は白い髪を触りながら、赤い瞳をきらりと輝かせた。

「あいまいやね。ほんならうちの方が早かったわ」

「あ?」

 カップと皿が机に置かれてかちゃりと鳴る。詩乃は眼を凝らし、慎重な手つきで把手はしゅを握る。表面が生クリームでおおわれたコーヒーを口元に運び、ゆっくりとすすっていった。

「見つけたんよ。寿命のまったく見えへん子を」

 イントネーションの狂った関西弁で続ける。

「めっちゃかわいい子やったで。じぶんと交換して欲しいくらいやったわ」

 その声のトーンは低くおちついていた。彼女の脳裏には今朝見たヘテロクロミアの少女の顔がいまだ消えずに残っている。その身体の中にはなにもない。生きている人間は命の火を燃やしながら生きている。燭台に刺さったろうそくの長さは不平等だが、生きている限りその先端を燃やすしかない点については平等だった。

 なのに、その子の中には命の灯火ともしびが見えなかった。まるで物質のように。詩乃は自分の首筋に触れた。どくどくと脈打っている。生きている証だ。そして身体はあの女の子のことを思い出すたびに熱を帯びる。ほんの一瞬。脳裏からその姿を消すことでしかそれを鎮めるすべはない。

「関係あるかもしれないな。オレの見つけた女からも永遠の気配がした」

 刀香がコーヒーを舐めて、顔をしかめる。

「カフェラテにしとけばよかったやん。砂糖だってたっぷりあるで」

「コーヒーはブラックが一番。豆の香りを殺さず、」

「なんもわかってへんのにそれっぽいこと言うてもあかんで」

 詩乃はスプーンをカップに入れてかき混ぜる。クリームと液体が攪拌されたそこに、砂糖を一杯、二杯、三杯、四杯、溶け残ることを恐れず十杯。

「おまえ、なんでコーヒーなんて頼んだんだよ」

「気分や。じぶんと同じやで」

 詩乃は褐色の眼鏡をはずし、冴え冴えと月のごとく輝く少女、刀香の姿を見た。首をかしげると自身の白金が揺れる。トリートメントで辛うじて手触りを維持しているそれをなぞり、色素の薄い青の瞳で見つめた。

「そっちはどこまで進んどるん?」

「連絡先を交換した」

「はあ?」

「いや、なんかそいつけっこうぐいぐい来るから。別にいいかなって思って」

「まあええわ。視るには好都合やし。スマホ出しいや」

「うん」

「連絡先に登録したん?」

「いや、通話一回しただけ」

「なんでしとらんの。本読む時間あんならそんくらいできるやろ」

 詩乃はスマホのロック画面で1を連打したあと、通話ボタンをタップする。着信履歴には揺籠ゆりかご詩乃しのの名前の他、数字の羅列がひとつあった。

「その子、名前は」

「トワノリンネ、だって」

 アルビノの少女はその音を聞くと、視線を床に走らせた。茶色がよく磨かれてつやを見せている。

「ふうん。なんか因果な名前しとんやね」

 連絡先登録をしつつ、漢字は? と訊く。刀香は答えられなかった。

「……うちが会ってたしかめたるわ。じぶんもそんなあまったるいフィクションなんで読んでないで働き」

「急ぐ必要はねえよ。斬るべきものはいずれユキカゼが見つける」

 刀香は黒の竹刀袋を背負うと、眼帯のある左眼をてのひらで押さえた。

「それまでは生きてることを楽しんでくる。恋をするのもその一環ってわけでね」

「なんもわかっとらんくせによう言うわ」

 そのままスタスタと去っていくので、詩乃はため息をつく。

「勘定まで押しつけていきよった。ほんま最悪のパートナーや」

 会計を済ませて詩乃が外に出ると、入り口前で腕組をした刀香が待っていた。

「なんや。颯爽さっそうと去っていったから、もう行ってんと思うとった」

「いや、なんか、あの流れは外に出る感じだと思って」

「雰囲気だけで勝手せんといて。ショバ代の無駄や」

 頭痛でも起こしているかのように詩乃は頭を押さえる。

「しっかりせなあかん。永遠狩りができんかったら雪花せっか風刃ふうじんに見放されるで」

「そのときはそのときさ」

 詩乃は刀香の頭をはたく。

「なんだよ」

「色ボケでもしとるんちゃうか。情なんて持ってたらいざってときどないもこないもならん」

 詩乃はぽつりとつぶやいた。どこか自嘲の響きもある。

「しくじったらそこでしまいなんやで。うちらの代わりはいくらでもおる」

「だから好きに生きる。その結果、理不尽に死ぬかもしれない。それも含めて自分の人生だろ」

 刀香が詩乃の手を引く。

 詩乃は刀香の手を握りしめる。

「なんなん……」

 彼女はそう音をこぼして、高くそびえる駅ビルの頂上、そのさらに上に広がる曇り空を見上げた。だんだんと開けて水色に広がっていくそこを見つめた。

 詩乃は手を引かれたまま、だれにも聞こえないようその言葉を捨てる。

「恋か。ええな、そんなもんに酔ってられるなんて。うらやましいわ、ほんまに」

 あざけりの言葉を弄する彼女の顔に笑みはなく、遠くから吹く風はまだ冬が始まったばかりであることを教えていた。

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