第四章 第四話
村での生活がはじまった。
もうすぐ秋になり、そのあとで冬が来る。秋のうちにたくさんの収穫で食料を蓄えて、厳しい冬を乗り切る準備を整える。大事な時期だ。
自宅の敷地内に使っていない納屋があるので好きにしていいと母から言われ、ウルルはありがたくそこを借り受けることにした。掃除をして、最低限の家具をそろえて、スヴィカと住む家にした。
村に帰ってきたその日の晩に、ひさしぶりに母の手料理を味わった。母はちゃんと、ウルルの好物を覚えていた。
蜂蜜マスタードをたっぷりと塗った、鶏ハム肉の甘辛いサンドイッチ。表面がぱりっと硬めのパンをコンロであぶり、なかがふっくらとしたところに、新鮮な野菜と、ベル野菜の酢漬けと、ハムを挟んだところにマスタードがまぶされている。
ひと口かじり、その変わらぬうまさにウルルは悶絶した。涙を流した。蜂蜜マスタードが甘すぎず、辛すぎず、絶妙な味付けなのだ。やはり母の手料理に勝るものなどない。旅先で似たような味を求め続けて、そのたびに裏切られ続けてきたウルルはようやく、むくわれた。
ウルルが戻ってきてから数日たっても、相変わらず村人からの風当たりは強いままだ。よければ無視をされる。悪ければ、にらまれてこそこそと噂話をされる。直接暴力を振るわれたり、家を荒らされたりとひどいことはされない。みんな、ウルルの呪いが怖いからだ。ウルルを怒らせたり、悲しませたりしたら、心の鍵がゆるんで呪いが漏れ出してくる。だから触れぬ、かかわらぬという態度で、ひたすら避けるばかりだ。ウルルと対等に接してくれるのは、家族と、年老いたまえの封じ子と、村長くらいなものだ。
人の思いは、そうそうすぐには変わらない。けれどどんなに冷たくされても、ウルルは平気だった。
封じ子もほかの村人たちに混ざり、普通の生活を送る。あたりまえのように家族と暮らす。自らがそう実践することで、まずはウルルから、呪いをおそれる気持ちをなくしていく。呪いを背負いながらもその重さに怯えることのない姿を見せることで、徐々に人々の意識を変えていく。
ふくれあがった呪いは、ウルルの生涯をかけただけでは消えない。このさき長い時間をかけて、いずれは浄化するために、まずはウルルからはじめるのだ。ウルルには強い意志がある。だからどんなに嫌われても平気でいられた。
それに、人から冷たくされるぶん、家族やスヴィカが、心をあたためてくれるからなにも問題なかった。離れていた時間を取り返すかのように、母は毎晩、おいしい料理を作り、ウルルのことをもてなしてくれる。もう食べられないと音を上げるほどたくさん作り、ウルルの腹を満たしてくれる。
それから納屋で眠るとき、ベッドの上でスヴィカは必ずウルルを抱きしめてくれる。その心地よさに安心して、畑仕事で疲れているウルルはすぐに眠りに落ちてしまう。
スヴィカとはキスも、そのさきも、まだしていない。
ウルルが発情期を迎えた日に口づけをしながら、スヴィカの手で導かれたのが唯一の性的な触れ合いだった。
ノールリオス教では、婚前交渉は禁じられている。ブロトルフの人は教えを守り、発情期を迎えても結婚するまで行為はしないものだと、ウルルは教えられてきた。でも、神を信じないスヴィカが戒律を守るとは思えない。手を出してこないのは、教えを信じるウルルに気を遣っているからかもしれない。
性交渉がないことを、ウルルは深く疑問には思わず、スヴィカの腕に抱かれて安心して眠りに落ちる毎日だった。
ひと月も経過するころ、わずかな変化があった。
夕食に風呂を終え、そろそろ就寝かという頃合いに、納屋を尋ねてくる人がいた。
こんな遅い時間に?
ウルルは訝りつつ、扉を開けた。秋が深まりつつあり、夜は冷える。夜気が部屋に流れ込んできた。
玄関に立っていたのは、フード付きの外套をかぶったルクシュだった。
「ウルル」
寒いなかを歩いてきたらしい。鼻の頭が赤く染まっている。
「ルクシュ⁉ どうしたの……? とにかく上がって。いま、お茶を淹れるよ」
ウルルがうながすのにも、ルクシュはその場で立ち尽くしたままだ。
「ウルル……」
ルクシュがフードを下げる。飛び出した兎の耳は、しんなりと芯を失い、前倒れにしょげていた。
「ごめんなさい……。いままでのこと……。本当にごめんなさい」
ルクシュの目からぱた、ぱた、と涙がこぼれ落ちた。
「きみに呪いを背負ってもらいながら俺は……。ろくにお礼も言っていなかった。村を出ていくきみのことを、抱きしめもしなかった……!」
「ルクシュ……」
ウルルは謝罪におどろき目を瞠る。
「本当にごめんなさい。大事な話があるって戻ってきたきみの言葉に耳を貸さないで、一方的に怖がって……。呪いを背負ってくれた感謝も忘れて……」
ルクシュは嗚咽で肩を震わせた。
「情けないけど、正直に言うよ。きみがここに留まることになって迷惑だって、はじめはひどいことを考えてた。でも掟を破っても村には、なんの災いも起こらなかった。神さまを怒らせたからだって、俺たちが勝手に思い込んでいただけだ。ようやくわかったんだ」
震えるルクシュの肩に、ウルルは優しく手を添える。
「ごめんね、ウルル。俺のことなんて許してくれないかもしれない。でも俺はこれから、昔と変わらずきみに接するから。俺以外の人もちゃんと、きみの言葉に耳をかたむけて、感謝してくれるように。俺ももう、呪いを怖がらないよ」
「ルクシュ。俺は怒ってないよ」
ウルルは幼なじみにほほえみかける。
「きみも含めて、村の人たちが掟にとらわれたままなのは……すごく悲しかった。でも、怒っていない。きみを恨んだこともない。呪いを背負ったことは……後悔したこともあるけど、でも、きみに背負わせたほうがきっと、もっと後悔してた。俺に謝りにきてくれて、ありがとう」
旧友はひしと抱きあい、失われた月日の埋め合わせをした。
その晩は遅くまで、お茶を片手に離れていた間のことを語り合った。はじめはスヴィカのことを怖がって、ちら、ちらと視線を送るばかりになっていたルクシュだけれど、怖い人ではないとわかったようで、ほどなくして緊張を解いていた。
スヴィカとのなれそめに話がおよぶと、その場にいるのが気まずかったのか、スヴィカはさきに寝室に消えてしまった。
ルクシュの態度が変わると、まわりの人もすこしずつ感化されてくる。
呪われるまえと同じように、ウルルに接してくれるようになった人がすこしだけ増えた。まだ半信半疑ながらもとりあえず、無視をしたり、悪口をささやくことはやめた人が半分くらい。あとの半分はいままでと変わらない。それから悲しいことだが、封じ子と同じところでは暮らせないと主張して、村を出ていく人たちもいた。
このさきもずっと、生まれ故郷で暮らしてゆくはずだった人を追い出してしまった。自分のせいで。
ウルルの心がずきりと痛んだ。でも、まえを向く。まずは話を聞いてくれそうな人たちを味方にするところからはじめねば、という精神だ。
そうして季節は、本格的な冬が到来しようとしていた。
冬の間は毎日のように曇天で、三日に一度は雪が降る。農作業や家畜の世話。それから住みよくするための納屋の改修は一時、お休みだ。自然と家にこもる時間が長くなる。スヴィカとの時間が増える。
夜も深まり、そろそろランプを消そうかという頃合いだ。スヴィカは寝台に身を横たえて、ウルルが入ってくるのを待っていた。寒さを増してから、暖炉には絶えず火が入り、部屋じゅうがあたたかい。この状態でスヴィカの腕に包まれると、ウルルはいつもすーっと簡単に眠りに落ちてしまう。
「あのさ、スヴィカ」
村に戻り、そろそろふた月になる。毎晩、スヴィカはウルルを抱きしめてくれるけれど、あいかわらずそれ以上、手を出してくる気配はない。今夜ばかりは、ただ眠るわけにはいかない。
ウルルは意を決して、寝巻の前ボタンをはずしはじめた。
「俺に遠慮することないんだよ。ノールリオスの教義は大事だけど、俺は、スヴィカも大事だから」
「なんの話だ?」
ふくらはぎまで覆う長衣は、ボタンを全開にすると簡単にはだけてしまう。ウルルは下着だけになり、スヴィカに寄り添った。スヴィカがぎょっと目を剥いている。
「せっかく恋人になったんだし、ね?」
ウルルから誘うと、スヴィカは首まで真っ赤になった。
「ば、馬鹿……! いきなり変なことするなって!」
「変なことじゃないよ。俺はずっとしたいって思ってた。ここに来てからますます、スヴィカのことが好きになったから」
人からつらく当たられて、ウルルの心がすり減ったところにたっぷりの愛を注ぎ、寄り添ってくれた。べたべたと甘やかすのではなく、なんでもないような顔をして、いつもさりげなく隣にいてくれるスヴィカの優しさを、ウルルいつも噛みしめていた。
「あー……」
スヴィカは気まずくなり、頭を掻く。
「いや、でも。式を挙げるまではまずいだろ」
「婚前交渉は禁止のこと? 破っても俺は気にしないよ」
「それもそうだが。べつに教義なんざ破っても問題ないと俺も思うけどな……」
めずらしく、スヴィカの歯切れが悪い。
「スヴィカはなにを気にしてるの?」
ウルルはきょとんとした顔だ。
「だって……。おまえ、妊娠するかもしれないだろうが」
「へ?」
「まえ言ってただろ。獣人の雌型だって。雌型は妊娠できる体だって」
「ああ、そのこと――」
ウルルだって忘れていたわけではない。
「俺が妊娠するかもしれないから、気にしてたの?」
スヴィカはうなずく。
「だから、結婚まえにするのはだめだと思ってたの?」
「そうだ。ちゃんと式挙げてからでも遅くないからな」
「……スヴィカ、俺と結婚するの?」
結婚を考えていたなんて、はじめて知った。
秘匿していた思いをうっかりこぼしてしまったことに気がついたらしい。スヴィカがうげっと気まずそうな顔をした。ふーっとため息を吐くと、観念したように頭を掻く。
「……親に捨てられた子どもがどんな運命をたどるか。俺は身をもって知ってるから。だから自分の子どもなんていらない。そう思ってた」
「スヴィカ……」
「でも、あたたかい家族になってやれるんなら、子どもを持つのもそう悪いことじゃない。おまえの家族を見てたら、そう思えるようになった」
親から切り離されたスヴィカの寂しさを想像して、ウルルの胸が痛んだ。本当はずっと、家族がほしかったのだろう。
「大丈夫だよ。俺、スヴィカと結婚する。スヴィカの、本当の家族になるから」
スヴィカの顔が、かーっと赤くなった。
「ま、まだ決まったわけじゃねえ、けど。でも俺は、おまえが嫌じゃないんだったらいずれは――」
なめらかな口調で人をあざむいてきた口巧者が、しどろもどろになっている。
「うん、嬉しいよ」
ウルルはスヴィカに抱きついた。裸の背に触れてよいものか。戸惑いを浮かべつつもスヴィカは両腕をまわして抱きしめ返した。
ひとつだけ。スヴィカをがっかりさせてしまうかもしれない報告をする必要がある。
「ごめんね。俺、発情期は来たけど……。雌の機能はちっとも目覚める気配がないんだ。だから、子どもは産めないと思う」
発情期が遅すぎたせいだとウルルは考えている。もともとは、兎族の数が極端に減ったときに、種の存続のために進化した機能だ。人口が安定しているなかにあっては体も、簡単に種の本能を忘れてしまうだろう。
「試してみるか?」
体勢を入れ替えられ、ふわりとベッドに押し倒された。スヴィカも長袖とズボンを脱いで裸体になる。
静止する間もなく、唇を被せられた。ウルルの小さな唇を食べるかのように、スヴィカは何度も、情熱的に吸って、ついばむ。その流れで息もできないほど、濃厚に舌を絡められた。
これほど深いキスをするのははじめてだ。
「こんなのしたら、やばいだろ? だから、いままでしなかった」
唇を離すとき、スヴィカがわざとのように舌を出す。つーっと銀糸が引いた。
キスだけで、ウルルはとろかされた。とろん、と半目になる。体の奥が、きゅんと疼いた。
(いまの、なに……?)
腰のあたりがむずむずとして、落ち着かなくなった。
「雌になると、こっちも膨れるのか?」
スヴィカの手がウルルの乳のさきをつまむ。男の偏平な胸だが、ウルルの乳はなぜか、乳輪とそのまわりが軽く盛り上がっているのだ。指でふにふにとつままれる。
「あっ……!」
スヴィカの指が淡い色をした乳首をかすめると、それだけでウルルの体は大きく震えた。嬌声に気をよくしたのか、スヴィカの指は執拗に濃い桃色に色づいたふくらみをなぞる。腰がむずむずする感覚と、疼痛とが、入り混じったしびれが広がる。
「まだ触ってないのに。もうこんなだ」
「あ……」
スヴィカがからかうようにブランケットをめくり、根もとから屹立したウルルの雄の存在を知らしめてくる。
「ほら、ウルル」
スヴィカはウルルを両脚の間に抱え込むと、胸の尖りをいじりながら、屹立に手を這わせて軽くしごきはじめた。
「いゃ……っ。あっ、ああ……!」
人気のない岩場で、スヴィカの手で導出されたときの再現のようだ。
ウルルの体の奥が疼いてたまらない。くすぐったさと、切なさとで、男は本来、性交に用いるのではない箇所がしゅくしゅくと収縮を繰り返すのを感じた。
スヴィカの指が乳のやわらかくなっている先端をつまみ上げたとき、ウルルの胸の先からつーっと蜜がにじんだ。透明にわずかに白いものが混ざり、濁っている。
(あ……う……嘘……)
たったいま、胸から滲出した液体の正体にウルルはびっくりした。雌型は、雌としての発情を迎えると、乳をにじませることがあると聞いた。子作りのできる体に変化するからだ。
なんとか男性機能は目覚めたものの、雌としての発情は、自分には訪れるはずはないと思っていたのに。
下半身がようやく手の責めから解放された代わりに、スヴィカの左右の手で両胸のさきをつままれる。
「あっ……あっ……ああぅーっ……!」
胸の奥でつうんと疼痛がして、白く濁った蜜が胸のさきににじんだ。
「ちゃんと雌になってきてる」
耳もとで甘ったるくささやかれて、ウルルの背中がぞくぞくと震える。
「ほら。脚、開いてみろ」
「えっ……ああっ……⁉」
膝を左右に割られて、手が尻のあわいに差し入れられる。ぬるり、とした感触に驚愕した。
「はは。触ってないのに勝手に濡れてる」
スヴィカの指があふれだす粘液を蕾にこすりつけた。びりっとウルルの全身がしびれる。
「とろとろにやわらかくなってる」
「え……?」
スヴィカの指が蕾を押すと、指がぬかるみに飲まれるように軽く沈む。
「あ、ああー」
体になにかが入ってくる感覚にたまらず、ウルルは声を漏らした。
たっぷりとした蜜のおかげでたいした苦労もなく、指が隘路に差し入れられる。なかはすでにほぐれて、熱くなっている。スヴィカが指を震わせると、振動が伝わり、奥のほうに隠れている子宮をゆらした。
「あんっ、スヴィカッ……。それ、へんになる……!」
体に力が入らない。スヴィカの上半身に背中をあずけて、ウルルは刺激にもだえた。
「あっ、あっ、あうぅーっ!」
蕾からとろとろと蜜があふれて止まらない。尻のあわいをべっとりと濡らし、シーツに大量にしたたっていた。
ウルルのなかで雌の本能が目覚めた。体が燃えるように熱い。体の奥はもっと熱い。指ではなく、子種をくれる熱い塊が欲しくてたまらなくなる。自分でも無意識にウルルは体のまえで手を突き、腰を浮かび上がらせる。スヴィカの指を飲み込んだまま、軽く尻を振っていた。
「あうぅっ、あうぅぅぅっ……!」
浅ましい、恥ずかしいと思う心はどこかに行ってしまったらしい。ゆさゆさと何度か尻をゆらして、自ら指を出し入れした。
「ウルル……!」
相当に焦れていたらしいスヴィカに腰を引き寄せられ、熱いもので穿たれた。
「あーっ……! あああああーっ……!」
待ちわびていた刺激で体じゅうが歓喜した。しばらくゆさぶられていて、まえから熱いものがしたたるのを感じた。一度吐精してしまったらしい。
吐精の余韻が落ち着いたところで、スヴィカの膝の上に抱え上げられ、向き合いながらつながった。あいかわらず体に渦巻く熱に浮かされていたが、ウルルを気づかい、スヴィカは律動をゆるやかにしてくれているようだった。
「ここ、甘いにおいがする」
すんすんと鼻で乳のさきを嗅がれて、先端を吸われる。
「な? 試してみて、よかっただろ」
「うん」
「でも、誤解するなよ。おまえが家族になってくれるなら、俺はそれだけでじゅうぶんなんだから」
「うん、そっか」
(ああ、幸せだな、俺――)
ウルルはスヴィカの頭を胸にかき抱く。
(スヴィカと本当の家族になって、それから――。新しい家族が生まれるかもしれないんだ)
体の奥にあたたかいものが注がれる。ウルルは目を閉じ、スヴィカの奔流とおのれの愉悦とが、溶け合うのを感じていた。
降雪の頻度が三日に一度から、五日に一度、十日に一度とすこしずつ伸びる。あたり一面を覆っていた雪がようやく溶ける。冬が終わり、春が来る。
春になったら結婚式を挙げよう。ウルルとスヴィカはそう約束していた。ウルルが選んだ人ならばと、両親も賛成してくれた。
式の準備をはじめたころ、スティヤルナから文が届いた。ブロトルフにはなじめたかと、ウルルたちの生活ぶりを気にかける言葉ではじまったあとで、ヘイラの近況報告が続いていた。
あのとき持ち帰った石板の解読が進み、史実の誤りについていくつか、正せる箇所がわかってきた。スティヤルナたちはまもなく、世界に向けて成果を発表する予定だ。そのなかには、ブローフ族が呪われた顛末についても含まれている。ブロトルフ以外でも、ブローフ族が偏見の目で見られなくなる日は、そう遠くない。
式の準備が着々と進むなか、結婚に猛反対する人たちもいた。ウルルが村に滞在し続けることを、よく思わない連中だ。ここに留まり、静かに暮らすだけなら目こぼしをしてやろう。だがさらなる掟破りで、結婚して家族を作ろうということならば黙ってはいられない、という理屈らしい。
ウルルとスヴィカの暮らしぶりは、普通だ。ほかの村人と同じように地に足がついている。掟破りで村に災いなど招かない。現に今年の冬は、いつもよりも吹雪がおだやかだったくらいだ。ルクシュをはじめとして、ウルルへの態度をあらためる人がすこしずつ増えはじめ、いまや反対派は少数になりつつあった。少数でも、最後の最後まで残った人たちだ。ほかの者よりも狭量で頑固なのだ。
二人の結婚を不安視する声が大きくなり、村長としても直談判の場を持たざるをえなくなった。
村の野外集会場にウルルとスヴィカ、それから結婚反対派が集められる。
反対派に向かい、ウルルは訴えた。
「俺が帰ってきて半年が経ちました。その間も俺たち、村に迷惑をかけなかったでしょう。やっぱりこれがあるべき道なんです。封じ子だって結婚して、家族を持ってもいい。封じ子だけれど、普通の人と同じように暮らしていい。どうか認めてください」
ウルルはひざまづいて、祈るように体のまえで手を組み、理解を求めた。
「俺だけじゃない。俺は、次に封じ子になる人もこれまでと変わらず安心して暮らせるように、やり方を変えたいんです。呪いを解きたいから。もうだれにも、悲しい思いをしてほしくないから。俺ももう、悲しい思いをしたくないから」
「俺は賛成です」
周囲を取り巻き、ウルルと反対派の協議を見守っていたルクシュが、声を上げる。
「俺はウルルに、呪いを肩代わりしてもらった。なのに俺は、感謝することも忘れて、ただおそれることしかできなかった。ウルルを村から追いだしたことを、ずっと後悔していた。俺たちさえ呪いを怖がらなければ――悪いことはなにも、起こらないってみんなもわかったでしょう? ウルルとスヴィカの結婚を、認めてください」
ルクシュも地面に膝を折り、訴えた。
「封じ子に普通の暮らしをください。儂が取り戻したいと渇望し、とうとう戻ってはこなかった普通の暮らしを、どうかこのさきの封じ子には」
先代の封じ子も同様にひざまづき訴える。
「お願いします、どうか」
「どうか」
村人たちは次々に膝立ちになり、静謐な祈りを捧げるように手を組み、反対派に訴えかけた。
これでもまだ反対されたら、そのときはスヴィカとともに村を出ていくしかない。ウルルはひそかにそう思っていた。呪いの浄化という使命を果たすのは大事だけれど、ウルルの大儀でだれかが傷つくのは避けたかった。
できれば、封じ子であってもブロトルフに定住した前例になりたかったけれど、スヴィカと一緒にいられるのならば、場所にはこだわらない。どこでだって、普通の生活は送れるようになる。
集会場の席を取り囲む人が一斉に膝立ちになり、理解を訴える。いまや、立っているのは反対派の人たちだけだ。膝を折り和解を願う人たちの祈りの輪が、集会場をはみ出て、通りを埋めつくし、村の端々まで続いている。少数派なのは自分たちだと、まざまざと実感したのではないか。
これほど多くの人たちが、封じ子の普通の幸せを祈っている。その姿に、感じ入るものがあったのだろう。ついには反対派が折れて、結婚を認めることになった。
月が変わり、雪解けの水が山河を潤し、あたたかさを増したころ。
村でウルルたちの結婚式が行われた。
ウルルは伝統的な婚礼衣装に身を包み、指のさきから肘までを、アオスグリの実で真っ青に染め上げる。その青は、ブローフ族の持つ獣の毛並みを象徴する色だ。
婚礼衣装はシャツの上から、丈がへそまでと短めの上着を羽織り、その下に靴先が見えないほど長い衣を穿く。着ると硬さを感じるくらいの、贅沢な厚みのある生地だ。上着と長衣はどちらも黒の共布を使い、黄色い糸で、刺繍がふんだんにほどこされていた。
ブローフ族ではないので手こそ青く染めなかったが、スヴィカも揃いの衣装だ。黒衣に身を包んでいると、聖者のふりをしていたころの姿に戻ったような気がするのがおかしかった。
ウルルだけが、白い帽子をかぶる。兎の耳を入れる筒のある、円柱形の帽子だ。丸めた厚紙の土台に布を張ってあるので、へたらない。かぶると、天に向かって角を生やしたようになる。
「スヴィカ俺と……。ずっと一緒にいてください」
ウルティマフ神のまえで、生涯の愛を宣誓する。この村のだれもが慕い、まただれもがおそれた神は一体、どんな顔をして見守っていることだろう。
「誓うよ。神じゃなくて、俺自身に」
青く染められたウルルの両手を握り、スヴィカは指のさきに口づけた。
宣誓式が終わったあとは、丸一日、宴が続く。娯楽らしい娯楽がない村では、結婚式が最高の娯楽になるのだ。ゆえに内容が濃く、長時間化する。歌に踊りにやることが盛りだくさんで、主役の二人は朝まで解放してもらえない。
陽気な歌に、踊りが続く。円舞の中心で仲間たちと騒ぎながら、ウルルはこう思った。
いつかまた、あの歌を歌う日がくるだろう。いま流れている陽気な音楽とはかけ離れた、おぞましい音階を持つ、呪いを継承するための媒介の歌を。けれどウルルも次の封じ子も、悲しい気持ちであの歌を歌うことはない。なにも悪さをしない呪いをただ、次の人に渡すだけだ。そう確信に満ちて、ウルルは笑った。
長い結婚式が終わり、式の疲労から翌日、翌々日と休息を取っていた村人たちもすこしずつ、いつもの生活に戻って行く。ウルルたちも平穏な生活に戻り、しばらくが経過した。
「ねえ、スヴィカ」
ある日の二人きりの昼食の席で、ウルルはスヴィカに提案した。
実は式のまえからひそかに、考えていたことだ。スヴィカにいつ伝えようか、迷っていた。
「もう一度、旅に出るのはだめかな」
パンをかじっていたスヴィカは手を止める。
「どうして。おまえ、ここの暮らしが好きだろう。もうどこにも、行く必要はないんだぜ」
「うん、そうだね」
もうだれも、ウルルが村に留まることに文句を言わない。
「ちょっと考えていたことがあるんだ」
式の直前に再び、石板解読の追加情報を知らせる、スティヤルナからの手紙を受け取っていた。
「もうすぐスティヤルナさまから、歴史の真実が公表される。でも、ブロトルフに戻ってきてわかった。どんなに偉い聖者さまの言葉でも、すぐに受け入れるのが難しい人たちもいる。だからいくらブローフ族が神に呪われたっていう話が嘘だったとわかっても、そう簡単に、考えが変わらない人もいると思う」
ウルルも半年におよぶ時間をかけて、村の人を説得した。何人か、去ってしまった人がいた。最後まで結婚に反対していた勢も、わだかまりが完全には消えていないだろう。
「だから俺が世界をめぐって、呪いをおそれない俺の姿を直接見せたいんだ。呪いはなにも悪さをしないことをその目でたしかめてもらって、もう呪いをおそれないでって訴えたい。……だめかな?」
スヴィカは食事の手を止めてしばらく、考えているふうだった。
「まえは望んでいないのに、村を出ていかなくちゃならなかった。でも今度は前向きな気持ちで、ここを出ていきたいんだ。旅の最中はとにかく、どこにも長居しちゃいけない、人と話しちゃいけないと思ってたから。世界を、ちゃんと見てまわりたい気持ちもあって」
ちら、とスヴィカのほうをうかがう。あまりにもだんまりな様子に、不安が頭をもたげてくる。
せっかく、安心して暮らせる場所に落ち着いたばかりなのに。ひとつのところで定住して、家族とともに、おだやかに暮らしていくのがスヴィカの望みなのかもしれないのに。その望みに反するような提案を、ウルルはしてしまった。
「ウルル」
「なに?」
「その提案には……」
スヴィカがため息を吐き出す。やはり乗り気ではなかったかと、ウルルがしゅんとしかけたところで裏切られた。
「大賛成」
スヴィカがおどけて、顔をウルルのほうに突き出す。
「実はな、出稼ぎしてまわらないかって提案しようと思ってたんだ。ここじゃ、商売らしい商売もできないだろ? このさき食い扶持が増えるなら、いまのうちにもうすこし稼いでおきたいと思ってさ」
ウルルは、ぱっと顔を輝かせた。
「スヴィカ! 俺、嬉しいよ!」
またスヴィカと旅ができるのだ。今度は大きな町にたくさん立ち寄りたい。町の名所を見てまわりたい。考えただけで心が躍る。
「それで、出発はいつにする?」
「明日! って言いたいところだけど、しばらく家をあけてもいい準備ができたらかな」
貯蔵庫の食糧は実家に消費をお願いし、また留守の間の納屋の掃除も頼んでおいた。野宿に必要な道具、数日ぶんの保存食に飲料水、地図、お金。必要なものをリュックに詰め込む。四日ほどかけて準備があらかた終わり、いよいよ明朝、出発することになった。
朝焼けで空が白みはじめたころに、村を出発する。
家族とは、長くとも一年は開けずに、一度戻ってくる約束を交わした。その間、頻繁に手紙を書いて近況を知らせることも。
しばしの別れを惜しみ、母はウルルをきつく抱きしめた。見送りに来てくれたルクシュとは、抱擁の代わりに肩を組みあう。
「じゃあ、行ってきます」
ウルルは手を振り、村をあとにする。
八年まえ、ウルルは一人だった。大勢に見送られて、一人ぼっちだった。逃げるようにしてそうっと村を出ていった。
でも今度は、一人じゃない。それと行ってきますはまた、帰ってくることの約束だ。いまのウルルには、帰る場所がある。
呪われた兎はいまも、呪われたままなのは変わらない。でも、今度の物語は悲劇じゃない。ウルルがスヴィカとともに創ってゆく希望の物語だ。
春の気配をぞんぶんに吸って伸びやかに生える草を踏みしめると、青々とした香りが昇り立つ。一歩、また一歩と、ウルルは陽の出の方角へと歩みを進めた。
嘘つき聖者に兎の呪いは解けません 森野稀子 @kikomorino33
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