第四章 第三話
夕刻にヘイラを出発する。飛行船は夜通し、ヘイラの東方に向けて飛んだ。
真っ暗ななかで進むべき方向を間違えないよう、たくさんの明かりを焚く。地上から見上げると、発光する巨大なくじらが、空を遊泳しているようにでも見えたかもしれない。
二日目の昼に、ブロトルフ付近に到着した。草原に巨大な飛行船を下ろす。操縦士と、道中の運行管理をしてくれていた人たちに見送られて、ウルルとスヴィカはブロトルフの村へと歩み出した。
八年ぶりに踏みしめる、故郷周辺の大地。
なつかしさはある。だがそれ以上に、昔となにも変わっていないところに安心した。
ほどなくして視界に、ブロトルフの村が見えてきた。村落の周囲は木柵で囲まれ、正面に木製のアーチがある。
ひさしぶりの故郷に近づくにつれ、ウルルは不安でどきどきしはじめた。
帰郷について、なんと言われるだろう。封じ子の任を解かれるまえの帰郷だ。掟破りだと、いい顔はされないだろう。拒絶の予感から、脚が重い。
ウルルの歩みがのろくなり、とうとう止まった。スヴィカはその背をぽんぽんと叩き、励ます。
「ちゃんと話、伝えたいんだろ? 大丈夫だ。もしも石を投げられたら、俺が投げ返してやるから」
いまは一人じゃない。ちゃんと味方になってくれる人がいる。スヴィカの心強い言葉に勇気づけられ、ウルルは再び、村のほうへと歩み出した。
アーチの近くで遊んでいた数人の子らが、近づいてくるウルルに気づいた。青い耳を見て、首をかしげている。自分たちと同じ、青い耳。けれどこの村の人ではなさそうだ。一体だれだろう。子どもたちは追いかけっこをやめて、まん丸な目で不思議そうにウルルを見つめる。
「あの……。こんにちは。村長さんに、ウルルが帰ってきたって伝えてくれる?」
話しかけられた子どもたちはお互いに顔を見合わせる。ウルルの指示に従うべきか否か、目配せで相談しあっていた。
異邦人の指示を受けた子どもたちが動き出せないうちに、近くを通りがかった人が、招かれざる客の来訪に気づいた。
「ウルル……⁉」
通りがかったのは、ルクシュだった。
ルクシュはおどろき、両手で下げていたアルミ製の容器を取り落としてしまった。しぼりたての動物の乳が入っていたらしい。白い液体が地面にぶちまけられて、土に吸われていった。
ルクシュはすっかり大人になっていた。でも八年ぶりの再会でも、ウルルにはすぐに彼だとわかった。眉のあたりで前髪を切りそろえた、どんぐりのような丸みのある黒髪に、実直そうなつぶらな瞳。真面目でおとなしそうな見た目は、昔と変わっていない。
「ルクシュ、ひさしぶり」
警戒心を抱かせないよう、ウルルは落ち着いた声色で話しかける。
「俺が帰ってきたことを村長さんに知らせて。大事な話があるんだ」
ルクシュは怯えて、身じろぎひとつできないでいた。
掟破りの、封じ子の帰還。村の土地に踏み入らせてしまった。ウルティマフ神のさらなる怒りを買うかもしれない。ウルルをどう扱ったらいいのか。ルクシュは恐怖に支配されて、自分でなにも判断できないでいるのだ。
「お願いだよ、ルクシュ。俺を追い出さないで」
ウルルの懇願に、はじかれたようにルクシュはきびすを返し、走り去った。
ルクシュが知らせたのだろう。人が徐々に、村の入り口に集まってきた。人数が増えて、人だかりができた。
みんなウルルには近づこうとはしない。困惑した顔で遠巻きに見つめるだけだ。異質な物に対する視線を向けられながらウルルは、村長の到着を辛抱強く待った。
「なにしに来た……!」
だれもなにも言わない沈黙状態に、我慢が爆発したのだろう。だれかが声をあげた。
「どうして掟破りをする! 封じ子は役目を解かれるまで、故郷の地は踏めない。そんくらい、あんたも知ってるだろう!」
一人が声を上げると、一人、また一人と、続々と声を上げるようになる。
「そうだ! 村に災いをもたらしたらどうする!」
「封じ子はみんな、我慢してきたんだ! それをあんた一人のわがままで、台無しにする気か!」
わあわあと怒声に嘆きの声が入り混じり、周囲は混沌とした。
「あの、皆さん。ちょっと落ち着いて……!」
どんなにウルルが声を上げても、その音は群衆の声にかき消される。
思ったよりも早く、最悪の展開になるなんて。
これでは村長を呼び出してもらうどころの騒ぎではない。いったん出なおさざるをえないかと思ったところで、石の塊がウルル目がけて飛んできた。
とっさにウルルは両腕を交差させて、頭をかばう。でも石は当たらなかった。顔を上げると、スヴィカが村人のまえに立ちはだかっている。足もとには投げられた石が落下していた。体を張って、投石から守ってくれたらしい。
場が一瞬、冷えた。その隙をスヴィカは逃さなかった。
「ちょっとはこっちの話を聞けよーっ!」
体の大きなスヴィカが声を張り上げると、小柄なブローフたちにとっては相当な迫力がある。さきほどまで騒いでいた一団はびくりと肩を震わせ、静かになった。
「掟、掟、掟。そんなに神の怒りが怖いか。おまえらを呪いで苦しめる神に、なにを期待する? 神の言葉よりも、仲間の訴えに耳を貸せよ」
ざわめきが広がる。今度のはウルルを罵倒する声ではなく、ひたすらに戸惑う声だ。
「せっかくいい話を持ってきてやったんだ。村長を呼んでこい」
それでも動かない人の群れに、痺れを切らしたスヴィカがちっと舌打ちをする。
集まった人たちは、だれかが動いてくれないかなと、互いに期待の目を向けるのみだ。だれも責任を取りたくないのだ。
「もうこうなったら、俺たちから出向くか」
スヴィカの提案に乗りたいが、村にこれ以上足を踏み入れたら、一族の神経を逆なですることになる。
ウルルがためらっていたところ、人だかりが左右にゆらめいた。列を成す人をかきわけて、ウルルに向かってくる者がいる。
「どいて! どいてー!」
悲鳴とも思える声で懇願しながら、群衆をかき分けて小さな兎があらわれた。
「……母さん……」
ウルルは息を飲んだ。
息せき切らして駆けてきた、小さな獣人はつかつかとウルルのほうに歩み出てくる。
ひさしぶりの、母との再会。あの日から八年。
母は、突き飛ばすような勢いでウルルの胸もとにすがりつく。青空に母の慟哭が、響き渡った。
旅立つ息子になにひとつ、ねぎらいの言葉をかけてやれなかった。一生ぶん、抱きしめてやれなかった。後悔と悲しみが、涙とともに放出される。
ほかに言葉はない。別れのあいさつもできずに縁を絶った息子との再会に、言葉など出ようはずもない。
ウルルは、記憶している姿よりもずいぶんと小さくなった母の体を抱きしめて、背中をさすった。
「ただいま、母さん。会えなくて寂しかったよ」
ウルルの口から寂しいという言葉を聞いてまた母は、喉から血がほとばしるのではないかと思えるほどの激しい泣き声で、声を嗄らした。
「ごめんなさい。ごめんなさいー! もうぜったいに、あなたを離さないからー!」
ウルルの体にしがみついて泣き声を上げ続ける母の悲愴な姿は、封じ子の悲惨さを克明に突きつける。その場にいる人はだれもがいたたまれなくなり、自分たちの、守り継いできた伝統の末路から目をそむけだした。こうまでして、封じ子の伝統は担い続けなければならないものなのか。わずかな疑心暗鬼が、だれの目にも浮かんでいた。
「すまんな、どいとくれ」
まただれかが奥から人ごみをかきわけて、再会の抱擁を交わす親子のもとに歩んできた。
丸眼鏡をかけた、おだやかそうな中年の男だ。
「……村長さん!」
「おお……。おかえり、ウルル」
村長は困惑した顔をしつつもウルルの帰還をねぎらい、連れらしいと判断したスヴィカにも軽い会釈をする。
「母さん、ちょっと待ってて。俺はどこにも行かないから」
しっかりと肩を抱き、目線を合わせて言い含める。落ち着きを取り戻した母は、涙でべしょべしょの顔でしっかりとうなずいた。
「お願い村長さん。話を聞いてほしいんです。まずはこれを読んでください」
ウルルは荷袋のなかから、スティヤルナが持たせてくれた書簡を取り出した。
ヘイラの大司祭の印が押された封蝋を目にして、はじめ村長は首をかしげ、次に差出人を見て仰天していた。十二司祭の頂点に立つ大司祭、スティヤルナ・ミョフクレの名が書かれている。説得の役に立つようにと、スティヤルナがしたためてくれた手紙だ。
村長はその場で、封を開けて内容を確認する。老眼らしく、眼鏡を頭の上に押し上げて、目を細めて文字を追っていた。
書簡には、旧聖都市から持ち帰った資料により、ブローフ族が呪いを背負うことになった真相を解き明かしたと書かれている。手紙を読み終えると、村長はおどろいて顔を上げた。
「よもやこんなことが……」
「これがその記録です。原本は石板なので、さすがに写しですが。これもスティヤルナさまが持たせてくれました」
ウルルは荷袋に刺してあった巻物を開き、村長に見せる。
「うむ」
古代文字なので読めるはずもないが、写しをながめて村長は、たしかな証拠に裏付けされたものらしいとうなずく。
「なにが書いてあるの?」
ウルルの母が、村長に問いかけた。もしかしたら母の望む答えがそこに、あるのではないかと希望を目に宿らせている。
成り行きを見守っていた人々も、どうやら自分たちにまつわる重大なことが書かれた手紙だと理解したらしい。固唾を飲んで村長の言葉を待った。
「ブローフ族が呪いを背負ったのは、神の怒りを買ったからではない。我らの祖先は千年まえ、自ら志願したのだ。この世の呪いを浄化するために」
村長はスティヤルナの手紙の要点をそのまま伝えた。余計な誤解や憶測を生まないように、あえて言葉は足さない。その配慮が逆に、事情を知らない村の人たちを当惑させてしまった。混乱の声が続々と上がる。
「村長さん、みんなも。聞いてください」
疑惑に満ちたいくつもの目線がいっせいに、ウルルに向けられる。ウルルはぎゅっと両手でズボンの太ももをつかみ、緊張を逸らした。
「千年まえ、世界を覆っていた呪いはあまりにも大きかった。どんな強力なヘイラグを持った聖者でも、太刀打ちできないほどに。だから呪いを心に封じ込めるのが、唯一対抗できる方法だったんです。呪いをおそれずにいれば、いつかその恨みは忘れられ、浄化することができる。俺たちの祖先はそのことを知っていた。だから呪いを背負ったんです。呪いをおそれない、勇敢な人たちだったから」
様子が気になり戻ってきたのか、密集する人の群れの端にルクシュがいるのを、ウルルは見つけた。
「呪いをおそれ、封じ子を避けていてはいままでとなにも変わらない。呪いをおそれる気持ちから、封じ子のなかで呪いがますます、大きくなるだけです。呪いをおそれないで。それが、浄化するための唯一の手段なんです」
いまや村じゅうの獣人がウルルのまえに集まっていた。自分を遠巻きにする人たちの心に届くように、ウルルはまっすぐに訴えた。
「呪いをおそれないで! どうか俺を、この村に受け入れてください!」
しぃん、とあたりは静まり返った。
「帰ってきて、ウルル。この村にいられないのなら、今度は私も一緒に行かせてちょうだい」
そう言って、最初にウルルを抱きしめたのは、母だった。続いて群衆からふらふらと、頼りない歩みでウルルに近づく者がいる。ウルルに呪いを受け渡した、まえの封じ子だ。老年に差し掛かった男は、母に抱きつかれるウルルの背にそっと手を置いた。
ウルルを受け入れるのか、追い出すのか。判断は村長にゆだねられた。
重んじるべきは真実か。それとも村の人たちの気持ちか。板挟みになった難しさに村長はふーむとうなりつつも、さほど迷うことなく決断した。
「記録と違って、記憶は頼りない。呪いをおそれないことこそ、浄化の手立てというのならば、我々は変わらなければならない」
人におもねるよりも事実を重んじることをよしとする理性を備えている人なのだろう。村長は、ウルルが帰還してもよいと判断した。わあっと歓声を上げて、ウルルと母は抱きあった。
ウルルは村に帰れることになった。けれど、おかえりを言ってくれたのは両親と、まえの封じ子と、村長だけだった。あとの人は黙認だ。掟を破って本当に大丈夫なのか。不安から、ウルルに冷たい視線を向ける者が多かった。
ここからが本番なのだ。すこしずつ皆を説得して、呪いに対する脅威を忘れさせないとならない。そうしないと、ブローフはまた愚かなことを繰り返すだけだ。自分の命が尽きるまでに、ここにいる人の考えを変えなければ。
どんなに時間がかかっても、どんなに抵抗に遭っても、ウルルは必ずやり遂げるつもりだった。
村の入り口で木柵にもたれかかり、沈む夕日をスヴィカと二人で見つめた。
ウルルはひとまず、村に帰れることになった。成り行きをここまで見守れば、スヴィカも安心だろう。今夜あるいは明日、ブロトルフを発ってしまうに違いない。
「次はどこに行くの?」
「まだ決めてない」
「……詐欺の仕事を続ける?」
「どうかな。重大な契約違反だ。もうフレイから仕事はまわってこないだろう」
自分の意志ではないとはいえ、人をだます稼業から手を引いてくれるのならありがたい。
「……嘘だ。続けられると言われたところで俺は、もう詐欺師は廃業する。自分が得するためにもう、人の気持ちを利用したくない」
その言葉を聞いてウルルは安心した。ウルルの伝えた言葉はちゃんと、スヴィカの心に届いていた。
「それよりさ、おまえそろそろ言えよ」
「なにを?」
「俺のことが好きだって」
瞬間、ウルルの頭が恥ずかしさで沸騰した。
「はあー? それはスヴィカでしょう? 俺のことが好きって、言ったらどうなの」
「なんで俺がおまえのこと好きなんだよ」
「だって、それは……」
星聖堂の一件を、ウルルは思い出す。
「俺が傷つくくらいなら、自分が傷ついたほうがいいって言ったじゃないか。きみは、自分の命もかえりみないで俺のことを、守ってくれようと、して……」
言葉にするとあらためて、すごさを実感する。
そう、本当にすごいことなのだ。スヴィカは命に代えても、ウルルを守ってくれようとした。スヴィカははじめ、自らを犠牲にするなんて、損をしているだけだと馬鹿にしていた。けれど、自分を犠牲にしてだれかを守りたい気持ちを、信じられるようになったと言っていた。ウルルのことが大事だから。
(俺は、スヴィカが好きだ)
スヴィカはウルルがはじめて、本音で接することのできた人だ。そっけないふりをしながら本当は優しくて、それから命がけでウルルを守ろうとしてくれた勇敢な人だ。ウルルは、スヴィカのことを好きになっていた。
「認める。おまえが好きだよ」
スヴィカがさきに降参した。
「ウルル・カニーナ。俺はおまえが好きだ。怒りも悲しみも、全部飲み込んでまえを向いて歩いてきたおまえを。嘘つきの聖者たちと同じことをするなと俺を叱ってくれたおまえを。自分を犠牲にしてまで守りたいだれかがこの世界にはいるんだってことを教えてくれたおまえを、俺は好きになった」
くすんだ橙色の太陽が、地平線へと沈みゆく。昼と夜の境目が白く輝きはじめた。
「俺も、スヴィカが好き」
太陽が完全に沈んだら、頬の赤らみは夕陽のせいではないことがばれてしまう。
「きみと出会って俺ははじめて……。本当は怒っていることを、悲しんでいることを、言葉にしてもいいんだって思えた。きみの優しいところを、好きになったよ」
陽が沈みきるまえにもとに戻ってくれ、俺の顔色。どれほど火照っているのか。その熱をたしかめようと、ウルルは頬に手を触れた。
「ほかに行くところがないならさ。しばらくここで暮らさない? 農作物の世話に、家畜の世話。やることがいっぱいあるよ」
「そうだな。仕事もなくなったし。おまえがまた旅に出たくなるまで、ここでしばらく厄介になるか」
再びブロトルフを出るときには、スヴィカは当然、ウルルと一緒のつもりでいる。
ずっと一緒の約束は、だれもがあたりまえのように欲しがる。でも決して、あたりまえのように交わせるものではない。優しい保証に、ウルルはひどく安心した。
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