第四章 第二話
目を覚ましたとき、ウルルはベッドに寝かされていた。体が沈み込むマットレスのやわらかさと、信じられないほど軽いのにあたたかい羽毛の寝具。その心地よさに、ついもう一度目を閉じたくなってしまう。
眠る直前の出来事が頭をよぎる。ウルルを利用しようとしたマニュルスの奸計は、ついに大司祭によって阻まれた。
あのあと、どうなったのだろう。寝ている場合ではないとはっと気づいたウルルは、ゆっくりとベッドに身を起こした。
最後に目にした光景を振り返る。しゃがみこんで、そのまま床に倒れた自分に、あわてて駆け寄るスヴィカの顔が見えたあとで、まぶたが重く閉じられた。
「スヴィカ……」
いなくなってしまっただろうか。すこしあせって部屋を見渡す。
スヴィカはウルルのそばにいた。ベッドと並列で並べられたソファーに足を投げ出して横たわり、居眠りをしている。まだ、そこにいてくれている。ウルルはほっとした。
ウルルは長衣に着替えさせられていた。聖者が着る、首もとまで覆うかっちりとした聖衣ではない。薄い綿素材で大きなポケットが二つある寝巻きだ。ウルルのブーツは、クローゼットらしき戸棚のまえに、きちんとそろえて置かれている。たぶん、着てきた服もあのなかにしまわれているのだろう。ちょうどベッドのすぐ横に、はだしでつっかけられる革製の靴が置かれていたので、それを拝借した。
「お、起きたか」
ウルルが身支度する音でスヴィカもうたた寝から目覚めたらしい。ソファに身を起こし、うーんと腕を伸ばして伸びをしている。
「そろそろ無理やりにでも起こすか、と思ってたところだ。おまえが気絶して……丸二日だからな」
「そんなに時間が経ってたの……⁉」
体感では、せいぜい数時間だと思っていた。
「いま、何時?」
「午前十一時。もうふらつかないか? だったらそこの水飲んで、風呂に入ってこい」
スヴィカがぐい、と親指で示すほうに、バスタブとシャワーが備え付けられていた。喉の渇きをおぼえたウルルは水差しからガラスの杯に水を汲み、ごくごくと飲み干す。ひさしぶりの水分は舌に甘くて、二杯ぶんをひといきに空にした。
風呂場に行き、やや面食らった。窓を通じて吹き抜けになった部屋とつながり、バルコニーに位置しているからだ。
ここはなんの建物なのだろう。宿泊施設なのか。
よくわからないが、地上数階ぶんの高さにある部屋なので、外からはバルコニーの様子は見えないだろう。のぞかれる心配なし、と判断したウルルは、真珠の艶を放つ都市が眼下に広がるなか、あたたかな湯でさっぱりと身を清めた。
着替えを持って入るのを忘れた……と思ったところで、スヴィカが気を利かせて、脱衣所のかごに入れておいてくれた。ウルルの旅装はきれいに洗われていて、石鹸のいいにおいがした。
「ここ、どこなの?」
服を着て、洗いたての頭をタオルで拭きとりつつ、ウルルが尋ねる。部屋は床も天井も真っ白だ。ヘイラの都市や、星聖堂とまったく同じ。部屋の様式もまたヘイラ流なのだと思わせる。
「十二司祭の共同邸宅らしい。ここはその客室」
「へえ……」
スヴィカと二人だけで使うのはもったいなさすぎるほど、広い部屋だ。ふんだんに置かれた観葉植物の類でなんとか平衡感覚を失わずにすんでいるが、ずっと全面真っ白な空間にいたら、どこが壁なのか見誤って激突してしまいそうだとウルルは思った。
「スヴィカも着替えたんだね。その服、見たことない」
スヴィカは飾り気のない白いシャツに、黒いズボンを穿いていた。
「スティヤルナに用意してもらった。聖地のど真ん中で偽物の聖者の格好してるのは、なかなかキツイものがあるからな」
スヴィカはあきれたような半眼になり、顔をひきつらせた。
「腹も減っただろ? 十二司祭が飯を用意してくれてる」
湯に浸かり、全身の血行がよくなると、体がどんどん目覚めてくるのをウルルは感じた。飯、と言われたとたんに腹がぐぎゅと鳴る。
「それと、落ち着いたらスティヤルナが話をしたいってさ」
この二日間で邸宅内部の位置関係を把握したようで、食堂まではスヴィカが案内した。一階上がったところにある。
建物全体に吹き抜けが多く、外の空気をたくさん通す作りになっていた。個室以外はなるべく、壁で隔てない作りにしているらしい。窓はひとつひとつが大きく取られている。窓のそばに、飲食用の長机が置かれていた。
スヴィカが近くにいた給仕人らしき人に目配せすると、出来立ての料理が運ばれてきた。スヴィカはウルルをうながし、二人して並んで外をながめるようにして横並びに座る。
目覚めたばかりのウルルに配慮してなのか、食事は果物と穀類を中心に、胃に優しく調理されたものばかりだ。ウルルが特に気に入ったのは、牛乳と蜜に浸したパンをやわらかく焼き上げたものに、酸味のある小さな丸い果実のソースをまぶしたものだ。舌にじゅん、と優しい甘さと、果実の甘酸っぱさが広がる。ナイフとフォークを握りしめてウルルは、そのうまさに悶絶した。
しばらくすると、神官に伴われてスティヤルナが登場した。祈念大祭の準備で忙しい合間を縫ってきたらしい。滞在時間は何分まで、とお付きの神官に言い含められてから、ウルルからふたつ離れた短辺の席に腰を下ろした。
「お口に合いますか。普段、我々が口にできる食材しか調達できず、申し訳ない」
スティヤルナはすまなそうにして、開口一番にそう言った。厳格に戒律を守る聖者が口にできるものということで当然、肉や魚、香辛料などの刺激物は出てこない。
「いえ、とんでもない。俺、このパンが好きです」
「そう。それはよかった」
ウルルの正面に腰かけ、スティヤルナはにっこりと笑った。
星聖堂の祈祷場で激昂した厳然たる指導者は、普段は親しみやすい人物のようだ。年はマニュルスよりもやや上くらいか。四十手前に見える。切れ長の目もとが涼やかで端正な顔に、腰まで届く銀色の長髪が、聖賛地の指導者にふさわしい神秘的な印象を与えていた。
「あらためて、礼を言います。ウルル・カニーナとスヴィカ・レーブル。聖賛地を救ってくださって、ありがとう」
スティヤルナは深く頭を垂れた。
自分たちがどんな役に立てたのだろう。ここ二日ほどの時間が飛んでいるウルルのために、スヴィカが補足する。
「反スティヤルナ派の筆頭だったマニュルスは、おまえを結晶漬けにして、それをヘイラの威信回復に利用するつもりだったのさ」
「恥ずべきことです」
スティヤルナが遺憾を示して苦い顔をする。
「マニュルスを含めた反対勢力はすべてヘイラから追放しました。私が信頼を置く地方都市の教会に分散させ、そこで一から、修行のやりなおしをさせます。十二司祭とその他神官、合わせて三分の一ほどの仲間を失いました」
「……それだけでいいんですか?」
スティヤルナを殺しかけた者たちに対する罰としては、あまりにも寛大な気がして、ウルルはそう尋ねていた。
「罰することは簡単です。ですが私は彼らに、おのれの命をかけてできる償いをしてほしいのです。どうかあなた方にも、ご容赦をいただきたい」
スティヤルナが頭を下げたので、ウルルもあわてて頭を垂れた。
「彼らは恐怖で、この世界を支配しようとしました。ヘイラという理想郷を守るためです。理想郷ヘイラを守りたい気持ちには、いささか共感するところはある。けれど、腐りかけたヘイラは変わらなければならない。政導部との癒着があった事実や、堕落した聖者たちの実態をきちんと公表し、再び理想郷になれるように励むことを、人々に誓わなければならないと思うのです」
スティヤルナの熱意が湧き水のようにあふれ出す。
「大司祭はさすがですね。まだ目覚めて二日しか経っていないのに、そんなふうに自分の思いをすらすら語ることができるなんて。俺は、封じ子になって八年です。その間、あんまり人と話さなかったから。ひさしぶりにまともに人と話したら、言葉がうまく出てこなくて苦労しました」
「ああ」
スティヤルナはにこりと笑う。
「私の場合は、完全に時が止まっていたからです。いまの私は、十二年まえの続き。眠っていた間、衰えはない代わりになんの学びもない。あなたがいろいろな経験や思いを、積み上げた八年間とは比較にならないのです」
時間の経過にじりじりとあせった顔をした神官に耳打ちされて、スティヤルナは席を立った。
「すみません。大祭が終わるまではなかなか腰を落ち着けることもできない状況です。くわしい話は、大祭あとに」
ヘイラに残された者たちが奔走したのだろう。聖者の三分の一が離別した状態でも、祈念大祭は予定どおり、六日後に開催された。
ウルルとスヴィカは特別に邸宅からの外出許可を得て、市中でその模様を見守った。同じように大祭の様子を見守る巡礼者たちも、ぽつ、ぽつと通りにあらわれはじめ、大聖堂のある方角を見守った。
空が薄紅色と薄紫色の二層になり、その境界が溶け合う。昼と夜が混じりはじめる時間に、大祭が静かにはじまった。
ヘイラに祈りの歌が響く。
スティヤルナの声だ。儀具による拡声の技を利用しているのだそうで、町じゅうに響いている。やがてスティヤルナの歌声に、十二司祭の声が混じる。一人、また一人と、聖都市を訪れていた聖者たちがその声に共鳴し、同じ歌を響かせる。
聖都市の町全体が、厳かな歌声につつまれる。歌声は準聖都市のほうにも伝わっているだろう。閉ざされた聖門のまえに、市民や、祈念大祭に合わせてこの地を訪れた巡礼者など、大勢の人が詰めかけて耳をすませている様子が目に浮かぶ。
体の奥に朗々と響く。魂が磨き上げられるような、荘厳で玲瓏な調べだった。ウルルは静かに目を閉じて、歌に身をゆだねた。
歌は次から次へと連なった。ウルルはおどろき、あっと息を飲む。歌に反応して、空中に星屑のきらめきが舞ったのだ。一瞬、目の錯覚と思えたが、光は空中のあらゆるところでまたたいては消えている。周囲からも感嘆の声が上がっていた。
「聖者たちの歌に反応して、エイラが反応してるんだ」
「へえ。きれいだね」
天から大量に星の粒が降ってきたかのように、いまや目に見える範囲すべてが、きらめきを帯びている。
陽が沈み、あたりが完全に暗闇に満たされる。
長い歌がやんだ。はじまりのときと同じように、一人、また一人と詠唱していた聖者の声が消える。やがてスティヤルナ一人となり、その声も静かに消えて、祭りは厳かに収束していった。
あらゆる穢れを祓う聖賛地の歌を浴びてもやはり、ウルルの呪いが消えることはなかった。
「まあ、なにも変化なしか。わかってたことだけど、ちょっとだけ残念だな」
ウルルはスヴィカに向かい、ぺろりと舌を出す。以前なら、残念だと口にしたくなる気持ちすら封じ込めていただろう。でもいまは、本音を漏らすのが怖くなくなった。
スヴィカはなにも言わない代わりに、ウルルの肩に手をまわし、ぐっと抱きよせた。言葉よりも雄弁な、なぐさめだった。
祈念大祭あけの翌日、スティヤルナは邸宅内の一室にウルルたちを呼び出した。さっそく話がしたいのだそうだ。祭りの後始末でまだ忙しいだろうに、ウルルのことを最優先に考えてくれているらしい。
場所は十二司祭の会議が行われる部屋らしい。十二人が一度に座れる長机が部屋の中央を占拠していた。
「ウルルさんにかかった呪いを解けないか。私なりに仮説を立てました」
前置きもそこそこに、スティヤルナが切り出す。
「まず、ヘイラの者では無理です。私でさえ、その呪いは消せない。いまの世に、あなたの呪いに匹敵するほどの聖なる力を持つ者はいないのです」
「そう……ですか……」
神の課した試練に一人で耐え抜く孤独をあらためて突きつけられた気がして、ウルルはしゅんとする。兎の耳が前方に向かって軽く弧を描いてしょげた。
「……どうして神さまは、ブローフ族にだけこんな呪いを背負わせたんでしょうか。神さまを怒らせたって、俺の先祖はなにをしてしまったんでしょう」
「そのことなのですが」
スティヤルナは咳払いをする。
「私はこれまでの正道派とはすこし、異なる考えを持っています。正道派はノールリオス教が伝える歴史はすべて、実際に起こったこととして信じるのを定説としていました。ですが、話のなかには後世になって付け足されたような、理由の判然としない、不可思議でいっぱいのものも多くあります。それこそウルルさん、あなたがたの一族が呪いを背負ったいきさつのように。ノールリオスの史実を貴ぶのは結構ですが、考えることを放棄して話を鵜呑みにするのははたして、教義を理解すべく、深淵へと身を投じる者として望ましい姿勢と言えるのでしょうか。私は、地政学的な裏付けや文献をもとに、正しい歴史の姿を知りたいと思っているのです。正史に混ぜられた偽の話をよりわけ、正当な歴史を知ることこそ、私の務めだと思っています」
スティヤルナが巻き紙を机に広げる。全体に黄ばんで古びている。ヘイラ付近の地図のようだった。
「いまのヘイラは実は、旧聖都市が遷移された場所なのです。もともとのヘイラはここにありました。氷河で陸地が削れていまは、渡るには船で行くしかなくなってしまった」
スティヤルナが指を滑らせるほうに、たしかに、ぽつんと小さな島がある。ヘイラのある孤島からさらに西へ赴いたところだ。
「ここには聖地ヘイラが誕生したとき、つまり千年まえの文献も多く眠っているものと思われます。ぜひ収集して、真の歴史を知るための研究に役立てたい。ブローフ族の呪いに関する記録も調べたい。ですが……。島には近づけず、それはかなわないままです」
「なんでだ? 海流がまずいのか」
スヴィカの問いに、スティヤルナは首を振る。
「いえ、潮の流れは問題ありません。この地に溜まるヘイラグがあまりにも強力で、人の侵入が拒まれるのです。あなたもヘイラに入るときに、体調の変化に見舞われたでしょう。それと同じことが、ヘイラの何千倍の規模で起こります。私も何度か上陸を試みたのですが、島全体が発光したようになり、もう目を開けていられない。頭痛や吐き気で、立っていられないほどです」
スティヤルナが口惜しそうだ。
「あの……」
ウルルがおずおずと提案する。
「ひょっとして俺なら、この島に渡ることができるんじゃないですか? ヘイラに近づくとき、スヴィカは頭痛がするって言っていました。でも俺はなんともなかったんです。俺の呪いが、ヘイラの強力な聖の力を中和していたから」
スティヤルナがうなずく。
「今日ご相談したかったのはそのことです。千年間溜められたウルルさんの呪いは、旧聖都市の放つ光にも耐えうる力を持つでしょう。あなたが周囲に力を広げて保護膜のようなものを張れば、なかにいる人たちは守られ、複数人で渡ることもできるかもしれない」
どうやるのか。想像はつかないが、きっと儀具を媒介にするのだろうとウルルは推測した。
「島に渡れても、俺一人ではどこになにが埋まっているのか探し出せない。ほかの人の力が必要です。俺、やってみます。バルブンの保護膜で、俺以外の人も島に渡れるようにします」
「儀具をお貸ししましょう。ヘイラで一番、強力な儀具です」
スティヤルナは机のかたわらにもたせかけていた錫杖をつかむと、ウルルにしかと手渡した。
スティヤルナの指示で、旧聖都市へと渡る調査隊が編制された。十二司祭の一人を頭にし、その下に若手で、力仕事の得意な聖者たちを数十名ほど組み入れた編成だ。
調査隊とともに、ウルルとスヴィカは船に乗り込む。島へ近づいたところでウルルは、錫杖を頭上に掲げた。飛び出したバルブンを帆のように広げ、船全体を覆い、調査隊の人たちを守る。
ウルルがさきに上陸すると、船が停泊しているのに近いところで、バルブンの傘を大きく拡大する。島全体を覆うよう、端から端までしっかりと広げた。ウルルのバルブンが陽の光を遮る。快晴の日なのに、島のある陸地だけ、厚い雨雲に覆われたような天候になる。
ウルルが帆を張り続けている間、調査隊は次々と上陸し、旧市街地の調査に走った。旧聖都市は、いまの聖都市の十分の一もないほど小さいらしい。とはいえ、陸の孤島となった旧聖都市全体を覆うように長時間、保護膜を張り続けるのはかなりきつい。呪力の放出は微弱でよくても、探索作業が終わるまでの数時間、持たせる必要があった。集中が切れると、バルブンが暴走する危険がある。
どうして千年もの間、呪いを受け継ぐ決まりができたのか。なにか呪いを解くのにつながる手がかりはないか。めぼしい情報が見つかるまでぜったいに帰らないという強い覚悟で、ウルルは調査にのぞんでいた。
スヴィカも隣にいる。調査隊は町の探索を優先するため、常にウルルを気にかけることはできない。疲労で倒れないか。逆流したバルブンに飲まれないか。お目付け役がスヴィカだ。出発まえは特別料金だのなんだのとウルルにうそぶきつつも、根の優しさが隠しきれていない。本当はウルルの付き添いとして神官を付ける予定だったところ、スヴィカが望んでその役に志願したのだということを、ウルルはスティヤルナから聞かされていた。
ぜったいに成果を得るのだという根性で呪力を解放し続けるウルルの気持ちに応えるように、調査隊はてきぱきと実にいい動きぶりだった。貴重な研究材料がそこにあると知りながら、これまでおいそれとは足を踏み入れられずにいた土地だ。聖者たちにとっては宝物庫ともいうべき島へ渡してくれたウルルの窮地を救おうと、全員が心をひとつにして挑むひたむきさがあった。
聖者たちが資料を回収し、船に積むために一時戻ってくる。彼らは台車に乗せた石板の山を嬉しそうに見せて、成果報告をしてくれた。
旧市街は残念なことに建物が倒壊し、門柱や壁面などにわずかに、かつての名残を留めるばかりになっているものも多いそうだ。一方で宗教施設や図書館だったと思しき場所は、内部に保存された資料とともに当時の姿のまま残っている。そのため調査隊は、地中を掘り返すことなくめぼしい文献を回収できているのだ。今回の調査でほぼ全量を持ち帰れるだろうとのこと。嬉しい進捗だ。
ウルルの体調を気遣い、作業時間は長くても半日という取り決めになっている。限られた時間内でなるべく多くの物を持ち帰ろうと、台車を押した聖者たちが海岸と旧市街とを何往復もしていた。自分のために、懸命になにかをしてくれる人の献身はなんと尊いものだろう。その姿にウルルは胸を打たれた。
古代の文献はほとんどが石媒体だ。厚みがあり、持ち帰るのは大変だが、逆に風化しやすい素材でなかったことで、今日まで残ってくれていたことがありがたい。調査隊はめぼしい石板を集めきると、ウルルの体力が尽きるまえに島を脱出した。
いきなり倒れないよう、呪力を放出する力加減には気を配っていたつもりだ。だが、巨大な呪いの制御は、数頭の獰猛な獣の手綱を、まとめて握っているようなもの。獣たちが暴れ出してあさっての方向へ引っ張り合いにならないよう、神経をすり減らす制御が要求される。くたびれきったウルルは、船がヘイラに寄港するなりすぐに寝込んでしまった。
目覚めたのは翌朝だ。昨日の昼過ぎからほぼ丸一日に近い時間、眠っていたことになる。
ウルルの目覚めを知ったスティヤルナから、さっそく私室に呼び出された。
案内されたのは書斎だ。白い床石を塗りつぶすように砂色の厚い絨毯が敷き詰められて、使い勝手のよさそうな大きな木製の机が置かれている。ほかの部屋と違い、全体が白色で統一されていないのは、スティヤルナの好みを反映しているからだろう。
夜っぴてウルルたちの持ち帰った資料を調べてくれていたらしい。スティヤルナは徹夜の疲労から目を赤くして、頬が疲れてしぼんでいた。
「ブローフ族が呪いを背負うことになったいきさつが、こちらの石板に書いてありました」
スティヤルナは机の半分を埋めて広がっている石板の山のなかから、一枚を取り出した。椅子に座ったら顔が見えなくなるほど、石板は大量に積まれている。だがここにある石版は、持ち帰ったぶんのほんの一部にすぎない。
ウルルは真実を知るおそろしさに、身がすくむ思いだった。でも自分のために。一族のために。知らなければならない。
「神さまとっておきの酒を飲んじまって、それで怒られたんじゃないか?」
スヴィカがどうしようもない軽口を叩くので、ウルルはつい噴き出してしまった。笑いとともに、深刻な気分はどこかに飛んでいった。深刻な場面で、スヴィカがあえて、馬鹿な話を振ってくれたことはわかっていた。
いいさ。
ウルルは覚悟を決めた。
どれほど救いがなかったとしても、いまはただ理由が知りたいのだ。自分たちがこうむってきた、不条理の理由を知りたい。知って納得はできないかもしれない。けれど知ることで、なぜ、どうしてとひたすら疑問に脚を引きずられているだけの状態からは抜け出せる。
「やはり、伝わっている話とはまるきり違っていました。……当時の十二司祭との協議の結果、ブローフ族は自ら志願し、呪いを背負ったと書かれています」
「え」
虚を突かれて、ウルルはまばたきをした。
「千年まえの世界は、それはひどい有様でした、長引く内乱により傷つく者、飢える者、大切な人を亡くす者がたくさんいた。それから、ろくに病の治療法も確立されていないような時代です。いまでは薬で簡単に治癒できる病が謎の奇病として扱われて、隔離されてただ死を待つだけの人たちも大勢いた。人々の憎しみ、悲しみ、苦しみは、それはそれは大きくふくれあがり、世界を覆い尽くさんばかりだった」
黒く厚い雲が、ウルブスヨルズゥルの陸地という陸地にかかり、暗い影を落とす。
「どうしてこれほどの苦しみがあるのか。だれにも癒せない悲しみがあるのか。世界は怨嗟に満ちていた。やがて内乱が収束し、世界の平定のため、いまの宗導部と政導部に当たる組織ができたころもまだ、世界には大きなバルブンが溜まったままだったのです。それはいつなんどき、人に取りついて悪さをするとも限らないもの。ところがバルブンは大きすぎて、ヘイラグで打ち消すことはできない。そこで十二司祭が考案したのが、呪いを人の心に封じ込める方法です。人の心から発生したのが呪いならば、人の心は抵抗なく受け入れられる。呪いに対する唯一の檻となります。はじめは、十二司祭のうちのだれかが、呪いを背負う話になっていたようです。けれど、そこで登場するのがブローフ族です」
話の流れに合わせて、スティヤルナの指は石板の文字をなぞる。該当する箇所をなぞってくれているのだろう。細かい文字が石の盤面上にびっしりと刻まれている。石板の文字は、いま使われている文字とはやや形状の異なるものだ。ウルルには読めない。スティヤルナの指の進みから、書かれている文字の分量でどのくらいの情報量になるのかの対応がわかるのがせいぜいだった。
「ブローフたちはかつて、内乱で傷ついた人たちの心身をヘイラグで癒すという、大事な役割を担っていたようです」
ヘイラグはどんな人でも微量に持っている。でもそれを使ってなにかをするためには、増幅させるような鍛錬が必要なはずではないか。聖者は特殊な呼吸法でヘイラグを増幅させると、スヴィカが話していたのをウルルは思い出す。
「俺の知るブローフには、そんなことができる人はいませんでした」
「歴史は忘れ去られ、ブローフ達がヘイラグの使い手だったこともまた、忘れ去られたのでしょう」
スティヤルナの指がまた新たな行をなぞる。
「ようやく、世界をひとつに束ねる政治と宗教の中心地を作る構想ができつつあった。その大事なときに、十二司祭になにかがあったら困る。勇敢なブローフたちは、自分たちが呪いを背負うと申し出たのです。――ここにこう、書かれています」
スティヤルナは文字をたどる。
「呪いは、人の心が発生させたものだ。そして呪いは、おそれるからこそ、その力を増す。我々ブローフはおそれない。おそれず呪いを自らの内側に招き入れる。呪いをおそれずにいればやがて、長い月日をかけて、怨嗟は癒されるだろう。これほど大きな呪いだ。浄化までには途方もない時間がかかるだろう。それでも我らは呪いを背負う。もうだれも、悲しまなくていいように」
ああ――。
ウルルの目に、大粒の涙が浮かんだ。
呪いは、神に背負わされた罰などではなかった。先祖は自らの意志で、呪いの担い手となることを決めていたのだ。奇しくもウルルが、幼なじみのルクシュに代行を申し出たのと同じように。
それからもうひとつ、歴史の真実と一致する符号がある。
「星聖堂で俺は、こう思ったんです。呪いは封じ子のことも、封じ子を大事に思う人のことも、傷つける。呪いを怖がるから傷つくんだ。だったらもう、俺は呪いをおそれないって。だからあのとき俺は、自分の力を最大限に解放して、あなたの封印を破ることができたんです。自分で自分の力を制御できるって、強い気持ちで信じられたから」
はら、はらと頬に涙が滴る。
「昔のブローフたちも、同じだったんですね。俺の先祖は覚悟をもって、呪いを背負うことを決めていた。そんな話、ちっとも知らなかった。知っていたら、みんなきっと、傷つかずにすんだのに」
当初の崇高な目的が忘れ去られてしまったのは、一体いつのことだろう。連綿と呪いを背負ってきた人たちも、その人たちを村から追い出した人たちも。ブローフはだれもが苦しんできた。呪いを恨み、神をおそれて憎んできた。もっと早く知ることができていたならば。どんなに救いとなっていたことか。
「だれかが燃やした情熱の火は……」
スティヤルナがウルルに示唆を与える。
「後世にも、正しく受け継がれるとは限らない。思いは風化し、事実はねじ曲げられやすいものです。特に、世界に溜まった呪いの淀みをすべて集約した、巨大な呪いはだれからもおそれられた。人々がブローフに向ける畏怖の視線が、いつのまにか事実をゆがめ、あなたたちから誇りを奪い取ってきたのです。呪いをおそれる気持ちが大きくなり、あなたたちが受け継いだ呪いは浄化されることなく、さらにふくれていった。いまや聖賛地の聖者といえども、その力に対抗しうる術を持たないほどに」
不穏な発言でウルルを不安がらせないよう、スティヤルナはすぐさま言葉を接ぐ。
「けれどこれでようやく、呪いへの対抗の仕方がわかった。――おそれぬことです、ウルル。あなたが自ら、真理を導き出したとおり」
スティヤルナの言葉にウルルは何度もうなずき、唇を噛んで嗚咽をこらえた。
「図太くなったと思ったのに。泣き虫なのは変わらないのな」
スヴィカはシャツの袖でウルルの目もとをぬぐった。ウルルは、清潔なハンカチで拭いてほしかったと多少げんなりしたけれど、ぽん、ぽん、と涙に押し当てる手つきが優しかったので、許した。
涙が引くとウルルは言った。
「俺、故郷に帰ります。一刻も早く村の人たちに会って、真実を伝えたいから」
「そうしなさい。紙に、いまの資料の写しを取らせます。それから、飛行船の発信許可を出しましょう。故郷はブロトルフでしたね?」
「ええ」
「であればここから徒歩で戻ると、ゆうに百日はかかる。飛行船ならば一日と半分。大幅な時間短縮になります」
「……ありがとうございます……!」
スティヤルナの心遣いに、ウルルは顔を輝かせた。
「苦しめられてきた人たちに、一刻も早く真実の光を」
ウルルと思いを同じくするスティヤルナは従者を呼び寄せ、出発に向けたもろもろの手配をはじめた。
「スヴィカ」
別れを切り出すつもりで、ウルルは名を呼んだ。
「ああ。部屋に戻って荷物をまとめるぞ。俺も飛行船ははじめてだ」
「え」
スヴィカはあたりまえのように、ついて来るつもりでいる。それでウルルは、別れを切りだす機会をすっかり逸してしまった。
(まだもうすこし、スヴィカと一緒にいられるんだ)
幸運をかみしめて、ウルルはスヴィカの背中を追いかけた。
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