第四章 第一話

 陽が昇り周囲が明るみはじめる。すると、聖賛地ヘイラの全容があきらかになった。

「うわあ……」

 朝日をはじく街並みを目の当たりにして、ウルルから感嘆の声が漏れる。

 聖賛地の建造物は、すべてがゆるやかな曲線を描いている。曲線のさきに尖塔がいくつも並んでいる建物もあった。あらゆる建物が荘厳で、儀礼的な目的で作られたのではないかと思わせる。

 面白いのは建物の材質だ。木材でも、レンガでも、石でもない。ウルルがこれまで目にした、どんな建築素材とも違っていた。表面はなめらかで、つるりとしている。ガラス質ではない。乳白色にオーロラの艶が浮かぶ、貝殻の内側のような質感だ。真白い建物が立ち並ぶあたり一面、雪をかぶったようになっており、建物に反射する陽の光で目が痛くなりそうなほどだった。

「すごいね、これが」

「ああ。なかなかに神秘的な光景だろ? 見た目だけはいかにも、あらゆる穢れを祓う聖地って感じだ」

 神学校時代にも、聖門のなかをうかがう機会はあったのだろう。幻想的な光景にも特に飲まれていないようで、スヴィカは古巣をそう評する。

 ウルルもスヴィカも、フードを深くかぶり、顔を隠しながら移動した。聖都市も、準聖都市と同じだ。規模の割に人口が少ないので、外を歩いている人にはお目にかからない。だが二人とも、招かれていない客人だ。不用意に顔を見られるのは避けたいので、警戒は怠れなかった。

 ここからは目立たないように移動して、依頼主を探す。

 探すといっても――。心当たりはなにもない。ウルルたちの来訪を知らせる手立ても特にない。このまま足を棒にして途方に暮れるかと思われたところで、スヴィカは思考をさきまわりしていたようだ。

「依頼主はおそらく十二司祭か、その関係者じゃないかと思う。だから教会本部に乗り込んで行くのが手っ取り早いかもな」

「どうしてわかるの?」

 十二司祭はヘイラの精鋭だ。儀礼などを中心となって執り行う指導者たちだと、以前スヴィカに習っていた。

「十二司祭は地位が高いぶん、おいそれと外には出られない立場にある。だとすれば、わざわざ悪徳仲介人に頼ってまでおまえを探させるのも、辻褄が合う気がするんだ。聖賛地の司祭が呪われた兎を探してるなんて知れたら、世界をゆるがす大事件になるからな」

「スヴィカの言うとおりだとして、どうして十二司祭が俺なんかを探すんだろう。聖賛地は呪いを忌み嫌うんだよね。それほど徳の高い人だったら、ますます俺なんかに近づきたくないだろうに」

「目的まではさすがに不明だな。そいつは会って、たしかめりゃいい」

 教会本部で十二司祭に会いたいと歎願したところで、はたして受け入れられるものなのか。

 どう教会本部に乗り込むか。一度作戦会議をするかと広場に戻ったところで、空から白いものが降ってきた。はじめは、巨大な鳥かと思ったのだ。でも違った。白い外套を身にまとった人だった。

 フードを目深にかぶったその人は、ウルルたちの目のまえに降り立つ。片手に、盾のような大きさの凧をたずさえている。これで空を渡ってきたものらしい。

「ウルル・カニーナ?」

 名を呼ばれ一瞬ひるんだが、ウルルはうなずきを返す。

「今朝未明、聖門が破られたと知りました。聖賛地の十二司祭が封じた扉を壊すなんて……。きっとあなた以外ありえないと思った。それで、これで探しました」

 その人物はこれ、と言いながら、片手にたずさえた凧をゆらす。

「莫大な量の呪いを検知したので、降りてきたら……当たりでしたね」

 目のまえの人物はフードのなかに手を差し入れる。取り出したのは片眼鏡だ。おそらく、呪いの総量が見通せる透視の眼鏡。スヴィカのものは聖者を演出するための偽物だったが、どうやらこれは本物らしい。

「あなたに聖賛地に来ていただくよう、依頼したのは私です。ひとまず人目につかないよう、こちらへ」

 白衣の人物はきびすを返し、足早に移動する。ウルルはスヴィカと顔を見合わせたあとで、その背中を追いかけた。

 白衣の人物は広場を出るといくつか角を曲がる。その背中を追いかけて行くと、何本もの太い円柱が三角形の屋根を支える建築様式の建物が見えてきた。白衣の人は堂々と正面から入る。

 床から天井まで、本が無数に並べられている。図書館だ。白い聖衣を着た聖者たちが、ぽつん、ぽつんと閲覧席に点在し、静かに読書をしている。そのなかを突っ切り、書架へとたどりついた。白衣の人物は、右手に色石の並んだ手甲をはめている。なにもない壁面に向かいその手をかざすと扉が出現して、勝手に開いた。

「なかへ」

 ウルルとスヴィカをさきに入れたあとで、白衣の人物も続く。三人が入ると、さきほどまでそこに存在していた扉は、溶けるように消えてしまった。

 薄暗いなかで、白衣の人は壁に向かい手をかざす。すると周囲がほの明るさで満たされた。互いの姿が確認できる。ようやく安心したようで、白衣の人はばさりと、フードのおおいをはずした。

「ろくな説明もなしにここまでお連れした無礼をお許しください。私は十二司祭のマニュルス・ハフと申します」

 あ、とウルルは思い当たる。マニュルスは、ヘイラの指導者の右腕だという司祭だ。十二司祭の一角でもある。いまは指導者たる大司祭が奉行により不在なので、実質はこの人が、ヘイラの宗導部の実権を握っているはずだ。

「あなたがウルルさんをここまで連れてきてくださった方ですね。お礼を申し上げます」

 スヴィカに向かい、マニュルスは軽くほほえんだ。

 マニュアルはダークブラウンの髪をきっちりと七三にわけている。目の色は薄すぎず、濃すぎない青色だ。外套の下にまとう聖衣はスヴィカのものとよく似ているが、対照的に色は真っ白だ。神官の正装をしたその姿は聡明さであふれている。皮膚の色艶もよく、年は三十なかば、というころに見えた。これで宗導部の長とは信じられないような若さだ。

「私は聖都市から出られない。また、私が使いを出したと知られれば騒ぎになります。そのために、少々無茶とも思える手で、ここまでお越しいただきました」

 なぜ正体を隠して業者に依頼をするなどと、まわりくどいことをしたのか。スヴィカの推測が的を得ていた。

「宗導部、特にほかの十二司祭にはぜったいに知られてはならなかったのです」

「そこまで警戒するなんて。一体、なにが起こってるんですか」

 ウルルの問いに、マニュルスはうなずく。

「宗導部が、呪力を抽出する儀具の開発に成功したのです。この新しい儀具は、人から呪力を抽出し、保存することを可能にするものです」

 これが本当ならば、すごい話だ。世界中の解呪師が不要になるかもしれない。ひょっとして、ウルルの呪いも吸いだしてもらえるのではないか。ウルルは、ほのかな希望で胸をときめかせた。

「――しかし、おそろしいことになります」

 もたらすのは、喜ばしい結果だけではないようだ。

「宗導部の頂点には、スティヤルナ・ミョフクレさまがおられます」

 スティヤルナは十二司祭の長である大司祭。いまは奉行中で不在の、正規の指導者だ。事前にスヴィカから聞いていた情報をウルルは思い出す。

「スティヤルナさまは、この儀具の開発にずっと反対の立場を取られていた。ところが十二年奉行に入られたのをいいことに、十二司祭で反スティヤルナ派の一派が開発を推し進めたのです。スティヤルナさまの奉行あけまで、開発が遅延しないかと成り行きを見守っていましたが、残念ながらそのまえに儀具が完成してしまった。連中が次に考えそうなことはひとつ。世界中から呪力を集めることです」

「呪力を集めて……どうするんですか。俺には、いいことのように思えます。なかなか解けない呪いに苦しんでいる人はたくさんいますから」

 ウルルだってその筆頭だ。だが、楽観視できる要素がなにもないらしい。マニュルスはずっと苦し気な表情のままだ。

「本来切り離されているべき、政導部と宗導部の癒着。聖者の収賄に戒律違反。聖賛地はすこしずつ腐敗しはじめています。腐敗は民にも漏れ聞こえ、以前ほどの求心力がなくなってきている。民からの信頼が落ちることで、ノールリオス教は人々への影響力を失い、政導部にも幅を利かせづらくなってきた。この事態を打開しようと、反スティヤルナ派は、技術の独占と恐怖による支配によって、ヘイラの威信を回復させることを思いついたのです。そのために真っ先に狙うのはウルルさん。あなたでしょう。世界最強の呪いを秘めたあなたは、連中の喉から手が出るほどほしい逸材ですから」

「呪力を吸いだす儀具に救いを求める人が殺到して、ヘイラへの支持は盛り返す。裏を返せば、ヘイラがそれだけ多くの呪力を溜められることになる。溜めた呪力を攻撃に転じることも可能になる。そういう筋書きか」

 腕組みをしたスヴィカが質問を投げかける。マニュルスは「ご明察です」と薄くほほえんだあとで、厚い唇をきゅっと引き結び、言いにくそうに付け足した。

「スティヤルナさまは、まっとうな手段でヘイラを正そうとしておられた。ですが反スティヤルナ派はその主義をよしとせず、急進的に事を進めようとしている。反スティヤルナが動くまえに、あなたを保護しなければと思ったのです」

 依頼主の目的がこれで、あきらかになった。

「明日より、祈念大祭の準備がはじまります。同時に、スティヤルナさまも十二年奉行が明ける。そうしたら、どう対処すべきか相談しようと思います」

 マニュルスが手で指し示したさきに、はるかさきまで続いている回廊が、光にぼんやりと浮かび上がった。

「ヘイラ中心地までの隠し通路です。万が一、ヘイラが危険にさらされたときのため、こうした脱出用の隠し通路がいくつもあるのです。十二年奉行に使われる星聖堂せいせいどうまでも、ここを渡っていける。ウルルさん、明日までそこで身を隠しましょう」

 ウルルはうなずく。通路も建物と同じで、壁面がつるりとして真っ白だ。ウルルは長い廊下のさきを見据えた。

「連中の儀具は厄介ですが……。正しい使い方をすれば、苦しんでいる人の救済に役立てることができるかもしれない。私は――あなたの呪いを抽出するのに儀具を活用できないか、スティヤルナさまに打診してみるつもりです」

 ウルルははっと目を見開いた。祈念大祭での呪いの浄化話は、スヴィカの嘘だった。おのれにかかった呪いの解呪は、世界最高の浄化の地でも不可能なのだと、一度はあきらめかけた。だが、希望が見えてくる。

「あなたの解呪が終わったら、儀具は完全に凍結させます。私も大司祭も儀具に頼らず、ヘイラを立ちなおらせるべきだと考えているから」

 矜持に裏打ちされ、マニュルスの凛々しい瞳が輝きを増す。

「たしかに、おまえを利用しようとしているやつはいた。でも、依頼主はおまえを救おうとしてくれていた。よかったな」

 スヴィカはそう言ってウルルにほほえみかけたあとで、マニュルスに目線を向ける。

「じゃあ、これで依頼は果たしたってことで」

「ええ、ご足労をおかけしました。所定の金額を、フレイさんにお渡しします」

 スヴィカと手を組むのは、聖賛地に入るまで。入ったあとで報酬を受け取ったら、好きにしていい。それが約束だった。同盟が終わるのだ。ここからさきはもう、一人でも大丈夫。

「スヴィカ。これまでありがとう」

「いいさ。解呪できることを祈ってるよ」

 スヴィカはそっと右手を差し出した。さよならの握手だ。

 手を組むときは、ウルルから手を差し出した。別れるときは、スヴィカから手を差し出す。

 呪われて以来、スヴィカははじめてできた友だちで、ほんのりと恋心をときめかせた人だった。もう会えなくなるのは寂しかったけれど、この旅が期限付きなのははじめからわかっていたことだ。ウルルはしっかりとその手を握り返した。

「ありがとう、スヴィカ。またいつかどこかで、会えたらいいね」

「会えるさ。どこにも見つからなかったら、おまえの故郷に行けばいいんだろ? 呪いは解けるんだ。おまえは、故郷に帰れる」

「そっか……。そう、だね……」

 もといた場所に帰れる。あたりまえの喜びがあることに、ウルルは気づかなかった。

 この苦しみは終わるのか。

 本当に――?

 本当に。終わるのだ。いまはまだ、信じられない気持ちのほうが大きいが。

 最後にスヴィカはウルルを抱き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。厚みのある、大きな体。抱きしめられていると、心まで抱きしめられたようできゅっと切なくなる。

 体を離したあとで、スヴィカは真顔で餞別をくれた。優しい言葉の餞別を。

「なあ、ウルル」

「なに?」

「もしこのさき、おまえが困って、助けを必要とすることがあったら――。そしたら、助けてって大声で叫べよ。俺はどこにいても駆けつけるから」

「そうなの? それは――」

 本当だとしたら、このうえなく嬉しい。ウルルははにかむ笑顔に、その気持ちを込めた。

「ただし、法外な報酬をいただくけどな」

 にかっと歯をむき出して、スヴィカが言い添える。

「ねえ。せっかく別れのあいさつが決まってたのに。最後のひと言が余計だよ」

 スヴィカは肩をすくめてみせた。裏稼業から足を洗うのか、それとも続けるのか。真意を計りかねるような仕草だった。

「じゃあな」

 スヴィカは背中を向け、片手を振り上げる。マニュルスが右手をかざすとスヴィカのまえに扉が出現した。スヴィカは、ウルルのほうを一度も振り返らずに出ていった。

(行っちゃったな)

 いなくなってしまうと、やけにあっさりとした別れだったように感じる。でも、これくらいさっぱりとしていたほうが、心が寂しくならなくてちょうどいい気もする。

「行きましょう。マニュルス司祭。俺をスティヤルナさまに会わせてください」

 ウルルはマニュルスに先導されて、長い回廊をすすみはじめた。回廊は上下左右が真っ白だ。どちらが前方でどちらが後方なのか。方向感を失いそうで、足もとがおぼつかなくなるような不思議な浮遊感がある。まるで削り出した鍾乳石のなかを進んでいるかのような心地がした。

「そういえば、北の大橋のほうで、聖者さまがブルーガにおそわれたそうです」

 気になっていた件を、ウルルはマニュルスに伝えた。

「ええ、聞き及んでいます。そちらも、早く対策を練らないと」

 聖地にたどり着いた聖者が、すでに報告済みだったのだろう。マニュルスは歯噛みした。

「二年ほどまえに、ブルーガ族の統率者が代替わりをしたそうです。どうやらその統率者が、協定を破ると言い出して一族を扇動したらしい。これも、以前ほどは教会の威厳が感じられなくなっているせいでしょう」

 ヘイラの行く末を案じて、やれやれと司祭はかぶりを振った。

 三十分ほど歩いただろうか。やがて回廊が開けた場所へとつながる。上階へと続く階段があった。

「お疲れさまでした。ここは、もう星聖堂のなかですよ」

「へえ。地下でつながっているんですね」

 階段を上がり、出たところは広大な空間だった。

「いま、明かりをつけます」

 マニュルスが壁面に右手をかざすと、部屋全体がほの白く発光した。

 回廊と同じく、一面真っ白な空間だった。天井がウルルの身長の何倍もある。祈りの場らしく、ウルルから見て真正面に祭壇がある。ウルティマフ神を象徴する、狼を象った頭部だけの石像が飾られている祭壇だ。支えもなく、高い位置に埋め込まれるように設けられている。あんなところにどうやって作ったのだろうという素朴な疑問とともに、人の手によるものではない畏怖を感じさせる。

「ウルルさん、すみません。私はひとつ、嘘をつきました」

 マニュルスが申し訳なさそうに切り出す。

「スティヤルナさまが十二年奉行に入っておられると言ったのは、嘘です。大司祭は、あちらにおられます」

 マニュルスの指さすほうをウルルは見た。

 ウルルから見て右手側。部屋の隅に、巨大な水晶の結晶があった。剣のような大きさと形をした、半透明の鉱石が結びついて塊になったものだ。

 ウルルはじっと目を凝らす。よく見ると石の奥に、人の姿を確認することができた。分厚く透明な石の壁に閉じ込められて、輪郭ははっきりとはしない。シルエットからするに、長い髪をふわりと腰の下に広げた姿で、その人は水晶のなかに浮かんでいた。

「生きて……いるんですか」

 ウルルは驚嘆で息を吐いた。おそるおそる石に近づく。するとおぼろげながら、なかにいる人の表情が見えるようになった。目を閉じ、眠っているように見えた。

「生きています。スティヤルナ司祭は、十二年まえに時を止めました。いまはこうして、結晶のなかで眠っておられます」

 マニュルスは水晶に手をかざす。触れてはならぬものを忌避するかのように、その手は決して、半透明の鉱石に触れることはなかった。

「この石は、スティヤルナさまのヘイラグが実体化したものです。十二年まえ、反スティヤルナ派と口論になり、スティヤルナさまは命を脅かされた。そのとき、体から大量のヘイラグが飛び出し、結晶化することで司祭を守ったのです。以来、大司祭はおのれのヘイラグに閉じ込められたまま。どんなにヘイラグをぶつけても、物理的に壊そうとしても、この鉄壁の封印はびくともしませんでした。表向きには大司祭は十二年奉行中のため、人との接触を断ち、星聖堂にこもりきり、ということにしています」

 やや白く濁った石の奥にいるスティヤルナを、ウルルは心配そうに見つめた。頼みの綱だった相談相手はただ、物質のようにそこに在るだけだ。

「私も途方に暮れています。どうしたら司祭は、お目覚めになるのか」

 マニュルスはうなだれて首を左右に振った。

「大司祭のヘイラグの力はあまりにも強すぎた。本人でさえも、この結晶を壊すことができない。おのれを守るための力が、逆におのれを沈黙させることになるなんて」

 悄然とするマニュルスの隣で、ウルルも肩を落とした。徳を積んだ司祭たちの頂点に立つ大司祭のヘイラグは、世界でもっとも強力なはず。それに対抗しうる力を持つ者などいないだろう。

「我々がここに隠れていることが、すぐに反スティヤルナ派にも知れるでしょう」

「そんな。どうしたら……」

 反スティヤルナ派の一派が、ウルルをつかまえにくる。つかまればウルルは呪いを抽出される。自分に秘められた莫大な量の呪いが、それを悪用しようとしている者たちの手に渡る。ウルルが一番、避けたかったことだ。

「ウルルさん」

 マニュルスが顔を上げる。

「打開策がない……わけではないのです。それでも、成功したとしても一時しのぎにしかなりませんが」

「……教えてください。俺がつかまって、呪いを悪用されるのは困ります。そのために俺にできることはなんでもします」

 話を切り出す緊張からなのか、マニュルスが唇を舐めた。

「聖の力と呪の力は、相反するものでありながら、力の使い方は同じです」

 実感を持って、ウルルはうなずく。ウルルに力の使い方を教えてくれたときに、スヴィカが言っていたことと同じだ。

「ですので……。大司祭を結晶化させた術が、あなたでも使えるのではないかと」

 ウルルは目を瞠る。

「あなたがバルブンを結晶化させてそこにこもれば、それはあなたを守る堅牢な盾になる。だれもあなたに手出しできなくなる」

(マニュルス司祭はなにを、言っているんだろう)

 ウルルの頭が混乱でゆれる。ウルルも大司祭と同じように、結晶のなかで眠れと説いているのか。

 でも、一理ある。そうなれば反マニュルス派はウルルに近づけず、呪力が手に渡ることもない。

 けれど大司祭と同じことができるとは限らないし、眠ったところで、ウルルは目覚めることができるのか。大司祭ですら、おのれの封印が解けないままなのに。

「ただヘイラグをぶつけるだけではだめでしたが、大司祭を目覚めさせる方法は研究を続けています。なんとか結晶化の作用がわかり、分解のための儀具の開発に乗り出したところです。ただ、儀具の開発にはあと数年は要するでしょうけれど」

 石の奥のマニュルスは、体が腐敗する様子もなく、ただそこで眠っているように見えた。たしかに眠った時点で、時が止まっているのだ。

 ウルルが結晶の奥で眠れば、呪いの力を狙う人はいなくなる。眠れば、ウルルは時を止める。

 ひょっとして結晶とともに眠りにつけば……。ウルルは老いず、したがって次の封じ子に、呪いを渡す必要もなくなる?

 おそろしい考えが頭をよぎった。けれど次第におそろしさよりも、利点を見出す気持ちが勝るようになる。

 結果としてそのほうが、みんな幸せではないだろうか。

 ウルルの呪力を封じれば、とりあえず反スティヤルナ派は世界最強の呪いを手にすることはできなくなる。ほかにも呪力を持っている人を狙うだろうが、ウルルに匹敵する呪力を集めるまでには、ある程度の時間がかかるだろう。その間に、残されたスティヤルナ派が反対勢力に対抗しうる手段を見つければいい。

 ブローフ族にとっても、いい話だ。若い世代が、次に呪いを継承するのは自分ではないかと、怯えて暮らさずに済む。ウルルがずっと呪いを背負えば、残された人と、これからさき生まれてくる人たちは、平和に暮らせる。

 心が、ぐらついた。

 以前のウルルならばきっと、こう思っただろう。自分は眠ったままでいい。それでほかの皆が助かるのなら――。

 いまでもほんのりと、その気持ちがないとは言えない。けれど――。

 絶対的になにかが、間違っている気がした。

「マニュルス司祭、あの。俺、それだけはできません」

 マニュルスの眉間が、一瞬だけぴくりとひきつった。

「俺が眠れば、俺の呪いの力を狙う人は、あきらめてくれるでしょう。俺がずっと眠っていれば、もう呪いを受け継がなくてもよくなるかもしれない。それは大勢の人を救うことになるのかもしれない。すこしまえの俺だったら、その話を魅力的に感じたと思います。だれかが傷つくくらいなら、自分が傷ついたほうがいい。ずっと、そう思ってきたから」

 それはウルルの信条で、他人への優しさだった。

「でも、その考えは間違っているって気づいたんです。だって俺が傷ついたら、傷つく人がいるから」

 息子が呪いの継承者となった衝撃のために、臥せってしまった両親も。嘘つきの聖者を癒すためだとだまされて、その身を捧げた友だちを思い、怒りを燃やしたスヴィカも――。

 だれかがその身を捧げることで、苦しむ人がいる。自分を傷つけることは、自分の大切な人も傷つけてしまうことにもつながるのだ。

「自分を犠牲にしてだれかを救うのは、間違ってる。俺がそうするのを望まない人がいる限り俺は、べつのやり方を考えることにします」

 ウルルはマニュルスをしかと見据えるため、フードを下ろした。

「マニュルス司祭。あなたの狙いはなんですか」

「狙い?」

 とたんに司祭は、困った生徒をなだめるような顔つきになる。詐欺師が善人を装ったような顔。

「ここまで俺を連れてきたのも、俺を眠らせようと誘導するみたいなことを言うのも、変です」

「なぜ、そう思うんです」

「だって、詐欺師は――」

 ヘイラを目指す道すがら、スヴィカの教えてくれたことを思い出す。

「一見、信じられないようなうまい話を、相手に信じさせるのがうまいそうですよ。コツは、相手に考える隙を与えないこと。あなたの提案もありなのかもしれないって、俺は一瞬、考えることを放棄しそうになった。バルブンを抽出する儀具で俺の呪いが解けるかもしれないっていう話も、できすぎてる。本当にそんな儀具があるんですか?」

 一族が千年背負って来た重荷をなくしてくれる都合のいい道具なんて。聖者を騙ってウルルを聖賛地まで連れていこうとしたスヴィカと、なんら変わらない。そうそううまい話なんて、振ってくるはずもない。

 マニュルスがふと、表情を消した。ポケットに右手を入れる。取り出した手には、銃が握られていた。手で包めば隠れるくらいの小さな銃だ。

 恐怖で、頭の後ろがぴりっと痺れた。マニュルスは銃口をウルルに向ける。

「聖銃です。なかに、私のヘイラグを込めた弾丸を装填してある」

 ウルルは体をこわばらせた。構える暇も与えず、マニュルスはあっさりと引き金を引く。

 どん、どん、どん、と六発、爆発音とともに弾丸が飛び出し、目にも止まらぬ速さで床を撃つ。ウルルは真横に飛びすさり、連射される弾をすんでのところで避けた。

 床に横滑りしたが、狙い撃ちにされたらたまらないと急いで顔を上げる。銃口から白い煙が立ち上っているのが見えた。

「だめか。スティヤルナのときのように、バルブンが飛び出すかと思ったのに」

 いまので全弾使い切ったらしい。マニュルスは首をかしげて、新たな弾を装填している。

「大司祭を結晶に閉じ込めたのは、あなただったんですね……」

 マニュルスは、きっといまのようにスティヤルナに銃を向けた。おのれの身を守るために、大司祭のヘイラグが結晶化して、その体を包んだのだ。

 肯定を示して、マニュルスはにっこりと笑う。

「ええ。十二年まえに、言い争いになってね」

 マニュルスは、ゆっくりと顔をスティヤルナに向けた。親愛の情がたっぷりこもった顔をしているのが、不気味だった。

「この人はね、一部のスティヤルナ派を残して、私を含めた十二司祭を切ると言い出したんですよ。理由は、汚職に手を染めたから。……ひどい話です。ほかの者はともかく、私は決して、私腹を肥やそうなどとは思っていなかった。ただ宗導部と政導部が円滑にやっていけるような橋渡しのつもりだったのに。それをこいつは……!」

 マニュルスは勢いよく、銃口をスティヤルナに振り向ける。

「起きた出来事の表面だけを取り沙汰して、騒ぎ立てた! 清廉潔白なままでは、宗教の力は地に落ちるばかりなのに……。汚れ役をあえて買って出る必要性をわからずに、ただ私を軽蔑した!」

 マニュルスは結晶に銃を向けて、どん、どん、と弾丸を二発発射した。弾は水晶の壁に弾かれて、離れたところの床に穴を開けただけだった。

「すべてあなたのためだったのに。あれほど、あなたに尽くしたのに」

 銃を握った手ががたがたと震えている。大司祭の役に立ちたかったという強い愛情と、その気持ちを裏切られることで愛が反転した憎しみが、マニュルスのなかで渦巻いていた。マニュルスは再び、銃口をウルルに向ける。

「ヘイラグも、バルブンも、原理は同じ。大司祭のヘイラグに匹敵する強大な呪いを持つあなたならできるはず。バルブンが結晶化するまで、試してみましょう」

 ウルルを、命の危険を感じるところまで追いつめるつもりらしい。そうまでして、ウルルを眠らせたい理由がある。

「む、無理です……!」

 ウルルは悲鳴を上げる。

「そんなことをしても俺には、大司祭と同じことはできない! 恐怖に支配されたら、呪いが暴走してしまう! あなたを呪い殺してしまうだけです!」

 ブルーガにおそわれたとき、ウルルのバルブンはウルルを保護するのではなく、相手を攻撃するために向かっていった。それで相手を、殺しかけた。

「ほう。あなたは、人を呪い殺したことがあるんですか?」

 師に裏切られた怒りで震えていたマニュルスは、すっかり落ち着きを取り戻していた。冷静にウルルに問う。

「……ありません」

「ならば」

 マニュルスは一歩、ウルルのほうに足を踏み出す。詰め寄られる恐怖でウルルは、わずかに後ずさった。

「怖いでしょう? 私を呪い殺すのは。自分の呪いで、人を死に至らしめたくはないでしょう? それこそ、自分は呪われた存在なのだと――神から嫌われた存在なのだと、証明してしまうことになりますからね」

 ひやり、と冷たい氷の刃を、首筋に当てられた気がした。

「あなたたちの一族は、体にできた不愉快なできもののような存在です。痛いしうざったいが、さらなる痛みが広がるので、これ以上悪さをしないのであれば、放っておけばいい。そういう存在。けれど呪いの力で人を傷つけたら、今度こそ世界中から忌み嫌われるでしょう。聖賛地も民も、もはやあなたがたを野放しにすることはない。とりあえず思いつくのは、徹底的に数を減らしたあとで、どこかに閉じ込めて、呪い継承のための器としてだけ生かすというところかな」

 マニュルスの目が残忍な色で塗りつぶされて、自然な輝きを失った。

「一族のために呪いを背負ったあなたです。そんな末路は望まないでしょう? だったら、ただ強く念じればいい。呪いの力で、私を殺したくはない。ただ自分の身を守りたいだけだと」

 ああ、どうしよう――。

 もう一度、弾丸が発射されたら――。ウルルはそう念じてしまうかもしれない。

 マニュルスがまた一歩、ウルルのほうに迫る。

「さあ、ウルル」

 こつん、と石の床を打つ靴音。ウルルの兎の耳は、二人ぶんの靴音をとらえた。

 二人分――。

 ウルルははっとした。マニュルスの靴音に重なりたしかに、響いたべつの靴音がある。

 もうひとつは、すこし離れた場所から聞こえる。遠くの靴音はすこしずつ、大きくなっている。

 だれかが星聖堂の祈りの場に、近づいてきているのだ。

 だれなのか。ウルルに思い当たる人物は、一人しかいない。

 まさか、どうして。

 ウルルはたしかに、その人が出ていく姿を見ていた。なのに、どうやってここまでやって来たというのだろう?

 その瞬間、あっと思い、脳がぴりっと痺れた。

 その人と最後に別れるときに、ウルルはかすかな違和感を覚えていたのだ。自分では違和感の自覚はないままに。

 その人は、ウルルの解呪が成功することを祈っていると言った。祈る。なにかの成功を、神に祈願する。それは常套句にすぎないと思っていたので、特段気にかけていなかった。

 でもいまになり、スヴィカが口にするのは変だ、と気がついた。スヴィカは神さまを信じていない。だから神に、祈るはずもない。些細な言動、行動にこそ、その人の本質は宿るものだ。

 あれはきっと、マニュルスを油断させるための演技だったのだ。マニュルスの魂胆なんかなにもわかっていない、ただの裏稼業請負人のふりをするための。そして感傷を長引かせることなく、あっさりとウルルと別れるための。

 ウルルが本当に困ったとき。助けを必要としたとき。

 スヴィカは大声で助けて、と叫べと言った。そうしたら、ウルルを助けに駆けつけるからと。

 苦しい、つらい、悲しい、怒っている。

 スヴィカはウルルが、心の声を上げることを望んでいる。かつて救えなかった友の代わりに、心の声を上げてほしいと。

 たぶん別れたときからスヴィカは、マニュルスの正体を見抜いていたのだ。すぐにウルルが困った事態に陥ると見越していて、きっと戻ってくるつもりでいたのだ。

「助けて……」

 いまだ銃を向けられて硬直したままのウルルは声を、絞り出した。

「助けてっ……。助けてー!」

 大声で助けを請う。マニュルスには、追い詰められたウルルがただ、むなしい命乞いをしているだけにしか見えないのだろう。あざけるように口もとをゆがめた。

 こつん、こつんとブーツの靴音が近づき、やがて。

 さきほどウルルたちが上がってきた階段から、スヴィカが姿をあらわした。銃を握った右手を構えながら。

「動いたら撃つ」

 スヴィカはそう短く言い放ち、銃口をマニュルスに向ける。マニュルスはあわてて、銃をスヴィカに向けた。

「貴様、さっきの運び人か。どうやって……」

「俺たちは聖門を開けたんだぞ。色石を持ってる。あんたの手の甲に付いている石の配置を覚えたんだ」

 隠し扉を開閉する鍵の並びをスヴィカは覚え、ウルルたちが過ぎ去ったころに色石を使い、あとを追ってきたらしい。

「あの程度のヘイラグでいいんなら、俺でも開けられる」

「なるほど」

 ふん、とマニュルスは皮肉気に鼻で笑う。

「聞こえたのは、ウルルが助けてって叫ぶ声だけだ。まあでも、最初っからあんたが嘘つきだってわかってたからな。ここでなにがあったのかは、だいたいわかる」

「スヴィカ!」

 駆け寄りたい気持ちを抑えつつ、ウルルはその名を叫んだ。いつマニュルスに狙われるかわからないので、不用意に動くことはできない。

「遅くなって悪かったな。ウルルと二人きりにならないと、こいつは本性あらわさないと思ったから」

「ううん、いいんだ。いいんだよ。助けに来てくれて、ありがとう」

 形勢逆転のようで、事態は好転していないのが実情だ。スヴィカとマニュルスは互いに銃口を向け合ったまま、膠着状態になっている。

「なぜだ。私の計画が事前に漏れていたのか?」

「違うよ」

 スヴィカはあきれたように首を振る。

「あんたさ、こんな裏仕事してる人間のまえで、呪いを集める儀具が開発されたなんて情報、不用意に口にしちゃだめだろうが。俺じゃなくても、金儲けに利用しようと湧いて出てくるやつがうじゃうじゃいるぞ。はじめから儀具なんてないから、いまいち危機感がなくて、俺がいるまえでも無造作に口にしたんだろう」

 理由を述べつつ、なんとなく核心ではなかったようなぎこちない顔をして、スヴィカは言い足す。

「あと会った瞬間に、なんか全体的にうさんくさいと思ったんだよな。長いこと詐欺師をやってた直感だ。作り笑顔はすぐにわかる」

 マニュルスは虫を嚥下したかのように苦々しい顔で、スヴィカをねめつける。

「自ら地獄に身を投じるとはな。知ってしまったからには、生かしてはおけない」

「まあ聞けって。悪いようにはしないからさ。俺と取引しないか?」

「取引?」

 スヴィカは変わらず、マニュルスから目線をはずさずに、ウルルに告げる。

「ウルル、一緒に歌を歌おう」

「歌……?」

 こんなところでなにを? ウルルはいぶかしげに首をひねる。

「呪いを継承するための歌」

 スヴィカのひと言に、ぐさりとナイフで胸を刺されたような衝撃で、ウルルの全身が震えた。

「なに……言ってるの……?」

 心臓がどくどくと早鐘を打つ。

「ブローフ族の呪いは……。一族のだれかが継承する掟になってただけだ。歌を媒介にすりゃ、ブローフ族じゃなくても継承することは可能なんだろ。だったら俺にも、呪いはうつせる」

 マニュルスがわずかに、目を見開いた。目にほのかな期待がちらついている。

「そんなの、だめに決まってるだろう!」

 ウルルは思わず、声を張り上げた。取引を制止しようとするウルルには構わず、スヴィカは引き続き、マニュルスに持ちかける。

「なあ、マニュルス。俺がウルルの呪いを背負う。そうしたら……。俺を好きに利用すりゃいい。ただしこっちも、相応の対価は要求させてもらうぜ。どうだ? 脅かして利用するよりも、よほど効率がいいだろう?」

「だめだ!」

 馬鹿な考えを、ウルルは全力で否定する。

「だってこの人は、俺のことを結晶化させて、呪いと一緒にずっと眠らせようとしているんだよ! そこのスティヤルナ司祭と同じように……!」

 スヴィカが望んだとおりにはならない。スヴィカは利用される。ただ永遠に、眠らされてしまうだけだ。

「そうか」

 目の端に入る、巨大な水晶の結晶ができた経緯を理解したらしい。スヴィカは不敵に笑う。

「ウルルを水晶漬けにすれば、世界最強の呪いは消える。消えたことにできる。それをヘイラの手柄に仕立てるつもりか? スティヤルナがこうなったのもあんたのせいみたいだから、大司祭がその身を挺して呪いを消したとかなんとか理由をつけて、大司祭がいなくなったことの後始末もつけられるな。一挙両得ってわけか」

 すべての計画があらわになったマニュルスは、ぐっと唇を噛む。

「いいよ、ウルル」

 スヴィカははじめて、ウルルのほうに顔を向けた。

「俺に呪いをうつせ。それで、俺は眠る。それでおまえが助かるんなら、それでいい」

「な、に……言ってるの……」

 さきほどの比ではないほどの衝撃がウルルをおそう。体からさーっと血の気が引いて、頭がぐらぐらとする。足もとがおぼつかない。

「なに言ってるの! そんなのだめに決まってるだろう!」

 あらんかぎり、ウルルは声を張り上げる。

「きみはっ……」

 泣きたくはないのに涙がせり上がってきた。やっぱり自分は、泣き虫のウルルだ。気持ちがぐらつくとまた、泣いてしまいそうになる。

 でも、泣かない。ウルルはおのれを奮い立たせる。どうしても伝えたい言葉がある。涙で震える声ではなくて、まっすぐな声で伝えたい。

「人が傷つくくらいなら自分が傷つくほうがいい。俺の大切にしていた言葉を、きみは嫌いだったじゃないか」

「そうだな」

 はじめての口論をなつかしんで、スヴィカは口もとをゆるめる。

「だったらどうして、自分が傷つこうとするんだよ。嫌いだった俺の信条と、同じことをしないで」

 そう言われるのが、はなからわかっていたみたいだ。スヴィカは叱責を甘んじて受け入れるように、うん、うんと何度もうなずきながら聞いていた。

「おまえはそう言うだろうな。でも、ウルル。俺が間違ってた」

 ウルルがおのれの間違いに気づいたように、スヴィカもまた、おのれの間違いに気づいていた。

「たしかに最初はおまえのことを、馬鹿だと思った。自分が損しているのに、それでも笑ってるおまえが信じられなかった。でも、わかったんだ。おまえはただ、だれかを助けたかっただけなんだ。結果として自分が犠牲になるとわかっていて、それでも――。だれかの泣いた顔なんて、見たくなかったんだ。そうだろ? その気持ちはとても、損得だけじゃ割り切れない」

 そうだよ、スヴィカ――。

 スヴィカの言うことを肯定したい気持ちはある。でも、いまは言えない。言ってしまったら、ウルルのために傷つくことを選ぶスヴィカを、肯定してしまうことになるから。だからウルルは両手を軽く握り、ただ話に耳をかたむけることしかできなかった。

「おまえのことを、大事だと思った。だから大事な人を守りたいって言うおまえの気持ちが、痛いほどわかったんだ。俺はおまえを泣かせたくない。おまえが泣かなくて済むのなら――。自分がどうなろうと、怖くない。なあ、おまえなら俺の気持ち。わかってくれるんじゃないのか……?」

 たしかにウルルも、大事な人を守れるのなら、自分はどうなっても平気だと思っていた。だれかを助けたい本能的な欲求が、呪いを背負うのが怖いとか、呪いを背負ったあとの孤独はいやだと思う気持ちをはるかに超えていたからだ。

「わかるよ、スヴィカ」

 ウルルは慎重に言葉をつなぎ合わせる。

「俺も、スヴィカと同じように考えていたことがある。だからスヴィカの気持ちは、よくわかるよ。……わかるけど。わかるからこそ、否定する」

「ウルル……」

「だってそれじゃ、俺はちっとも救われないんだよ!」

 スヴィカの目が、はっと見開かれた。

「スヴィカが俺を大事に思ってくれるのと同じ。俺だって、スヴィカが大事だ。俺のせいで自分の大事な人が傷ついたら、俺は悲しいよ」

 軽い衝撃に弾かれたスヴィカの体が、軽くゆれた。

「人が傷つくくらいなら自分が傷ついたほうがいいっていう考えは、優しいみたいだけど、むしろ残酷だよ。だってその優しさは、きみを大事に思っている人を傷つけるんだから」

 二人の会話の応酬に、マニュルスが痺れを切らし、あきあきとした顔をしているのが見て取れた。もう、おしゃべりを続ける猶予はない。

 俺は、呪いを背負った。自分の意志で。自分で決めて。

 それで救われる人がいたのは事実だ。でもその決意が、ウルルの大切な人を傷つけたというのもまた、事実なのだ。

 だったらこうする。ウルルが呪いを背負っていても、ウルルのことを思うだれかがもう、傷つかないようにする。

 ウルルは覚悟を決め、マニュルスにそれと気づかれないように、一度だけ息を深めに吸い吐きした。

 呪いをおそれるから、みんなが悲しい思いをする。呪いなんて、背負いたくないって思う。でも、たかが呪いだ。ウルルが心を乱さなければ、封印が解けることはない。ウルルのなかにしまっておけるものだ。

 俺は俺の呪いを、もうおそれない。

「だれかが傷つくのでもない。自分が傷つくのでもない。俺は、みんなが助かるべつの道を行く」

 だから、出ておいで。

 ウルルは檻のなかの呪いに、そう呼びかけた。

 黒い竜巻がウルルの胸から飛び出し、螺旋を描きながら天井目がけて立ち上る。

(くうぅ……!)

 全身が天井のほうに吹っ飛ばされてしまいそうな引力を感じる。ウルルは床をしっかりと踏ん張った。

 黒い螺旋は、物理法則を無視した独楽のように、縦横無尽に部屋を飛びまわる。ウルルはその一端を、マニュルスに差し向けた。

「ひっ、ひぃい……!」

 右手首をウルルのバルブンに拘束されて、マニュルスは恐怖から喉の奥が引き絞れるような悲鳴を上げた。思わず銃を取り落とす。

「呪われた兎め! 私を殺してみろ! 一族もろとも破滅だ!」

 恐怖にかられたマニュルスは、そうウルルを罵る。

「あなたは殺さない!」

 自らに誓うように、ウルルはマニュルスの罵声をねじふせる。

「ぜったいに殺さない! 終わるまですこし、そこでおとなしくしてて!」

 ウルルはてんでばらばらの方向に飛びまわるバルブンを、頭のなかでひとつにまとめるイメージを描く。複数の黒い帯が束になったところで、ぐん、と拳を叩きつけるようにして、一気に水晶の結晶めがけてぶつけた。

 聖の力ヘイラグと、呪の力バルブンは、互いに作用を打ち消し合うもの。この世でもっとも研ぎ澄まされた聖の力に対抗しうるのは、千年もの間、だれにも解けないほど強力な呪いだけだ。どれほど徳の高い聖者のヘイラグをぶつけても、なしのつぶてだったスティヤルナのヘイラグは、ウルルのバルブンならば、きっと壊せる。

 大量の黒い矢が空から降り注ぐように。バルブンが結晶へとぶつかっていった。

 がしゃん、と耳をつんざくけたたましい音がして、結晶が壊れた。破片が飛び散り、聖なる間の光に反射してまばゆい光を散乱させる。

 鉱石のなかにいた人物の、全身があらわになった。白い聖衣に、同じく白の肩掛け。手には錫杖をたずさえている。

 砕けた石が消える。最後のかけらが溶けて消えたところで、スティヤルナは錫杖を握りしめ、ぱっちりと目を開けた。

 スティヤルナの体が、内側から光っている。あまりにも強い聖の力が、閃光を放っているのだ。

 その強烈な光に圧倒されたらしい。ウルルが引き戻すまでもなく、バルブンが心に引っ込んできた。

「……マニュルス――!」

 いましがた長き眠りから醒めたばかりの人から発せられたのだとは思えないほどの、気迫に満ち満ちた咆哮が部屋じゅうに轟く。スティヤルナは全身からまばゆいヘイラグの光を発しながら、かつての同胞をにらみつけた。

「す、スティヤルナさまっ……!」

 神の怒りが顕現したかのようなおそろしい姿に、マニュルスはどうすることもできず、がたがたと震えている。ひざまづいて頭を垂れ、必死に許し乞いをした。

「自らの行いを正当化しようとするばかりか、私に銃口を向けるとはーっ……!」

 聖の力が巻き起こす疾風になぶられ、銀色の長髪がぶわりとふくれる。スティヤルナのヘイラグはマニュルスをとらえ、四肢に絡みついた。

 観念したようでマニュルスはがくりと頭を垂れ、抵抗することもなく光の拘束のなかで沈黙し、気を失った。

 命を狙っていた相手がおとなしくなるのを見届けたあとで、スティヤルナはウルルとスヴィカに交互に目線を向ける。

「青みががかった耳に、銀の髪。……ブローフ族……?」

 眠っている間は、周囲の物音はいっさい聞こえていなかったらしい。巨人にひょいとつまみあげられ、十二年まえのあの日から、今日のこの日にぽとりと落とされたようなものだ。スティヤルナにはいきさつがまったく把握できていないことだろう。

 説明しないと。そう思ったところで、ウルルの体がぐらついた。

 まわりの音が遠くなる。自分ではしっかりと立っているつもりなのに。空中に張られた不安定な布の上を歩いているかのように、足もとがふわふわゆれた。

 呪いの力を、一度に大量に解放しすぎた。ウルルは疲労から、気を失っていた。

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