敵陣に乗り込め!
須田から真相について聞き出したあと、千沙と詩音と灯は自転車を走らせ、愁の家に向かっていた。
千沙は須田から聞かされた話をまだ信じられないでいた。
愁と詩音が喧嘩したきっかけ、そして校内に愁の噂が広まったのは、すべて芽依によって仕組まれたものだったのだ。
なぜ会長がそんなことをしたのか想像もつかないし、そもそもそんなことをする人だとも思えないが、今は自分の中で折り合いをつけるより、愁に真実を告げに行くことだ。
優子経由で愁は家にこもりがちだと聞いていため、あらかじめ『今から家に向かいます』とメッセージを送ってある。
この横断歩道を渡れば愁の家が見える、というところで信号待ちをしていると、詩音が不安げに呟いた。
「……私、愁に会いに行っていいのかな」
「何言ってるんですか。会いに行っていいに決まってますよ」
「でも、ひどいこと言っちゃったし」
芽依に乗せられてしまったとはいえ、愁に怒ってしまいそれがきっかけで喧嘩になってしまったことを負い目に感じているのだろう。
「謝ればいいんですよ。それに、先輩にも非がないってわけでもないですし、喧嘩両成敗ってヤツです」
「でも……」
詩音は地面に視線を落とす。
信号が青に変わったが、詩音は動こうとはしない。
無駄に真面目な人だな、と千沙は思う。自分には出来ない考え方だ。ついため息が出る。
「はあ、詩音先輩ホントいじらしいですね。そりゃ先輩が夢中になっちゃうのも分かります。……じゃあ、灯。私達だけで行こっか」
「え? う、うん」
詩音を残し、2人は再び走り始めた。
「良かったの? 姉さん置いてきちゃって」
「もちろん。先輩は渡せても、見せ場は渡せないから」
詩音に思うところがないわけではないが、やっぱり好きだから、存在が邪魔だと思ったことはない。でも、これが果たして見せ場になるのかは分からないが、いないならいないでいいと思ってしまった。
「千沙」
「人間は0か1じゃないの! ある日突然どうでもよくなるかもしれないけど、しばらくは未練たらたらなのは当然!」
うっぷんを晴らすように、首を上に向け、叫ぶ。
詩音に愁は譲った。だけど、じゃあ明日から愁に対して何の感情も抱きません! なんてのは無理な話だ。よく分からないけど奇跡が起きて……という期待を完全に0にすることはできない。
しかし現実にはそんな事が起こる可能性は低いし、仮に愁の気が引けても恋を選べるかは分からない。
「私って嫌な女だな……」
急に自己嫌悪と劣等感が湧いてきて、千沙は灯には聞こえない音量でつぶやいた。
愁の家は若干古くなったように見えるものの、千沙の記憶とほとんど変わっていなかった。瓦屋根で、壁の色から増改築を行った事がわかる、2階建ての日本家屋。少しずつ今風の家が増えつつあるが、市内にはこうした家が多く残っている。
玄関前にたどり着くと、灯が呼び鈴を鳴らす。
……反応がない。
「留守かな?」
灯は玄関左側にある、6つ並んだサッシに視線を向けた。カーテンは締め切られており、人の気配はない。
そういえば幼い頃、基本的に玄関は開けっ放しになっていて、愁の家に遊びに行くときは勝手に上がっていたことを思い出した。
流石に今は……と思いながらも千沙は引き戸を引く。鍵はかかっておらず、懐かしい神田家の香りが漂ってくる。
「お邪魔します」
「千沙!?」
当たり前のように家に上がっていく千沙に、珍しく困惑した様子の灯が声を上げる。
「大丈夫。昔はよく先輩の家にこうやって上がりこんでたから」
「ええ……」
千沙が靴を脱いで家に上がる。灯は時間にして数秒ほど土間に立ち尽くしていたものの、結局千沙に続いて家を上がる。
家の中は静まり返っており、誰かがいるような気配はない。
「部屋はこっち」
階段を上り、廊下の突き当りに愁の部屋へ続くドアが見えた。
ドアをノックする。しかし反応はない。
「先輩? 入りますよ」
愁の部屋には鍵はついていない。ドアを開けた千沙の目に入ったのは、部屋の真ん中でうつ伏せに倒れている愁だった。
「先輩!?」
千沙の脳裏に最悪の結末がよぎった。慌てて愁のもとへ駆け寄る。
「そんな、先輩……」
力が抜け、千沙は愁の傍らでへなへなとへたり込む。
「千沙、落ち着いて」
千沙に続いて部屋に入ってきた灯は、千沙とは正反対に落ち着いている。
「で、でも、先輩が」
「よく見て、体が動いてる」
千沙が愁の頭に耳を近づけると、
「寝てる……」
愁の寝息が聞こえた。なんて人騒がせな先輩だろうか。頭を引っ叩いてやりたくなる。
「とりあえず起こそう」
「先輩、起きてください。先輩」
千沙は愁の背中を揺すった。服越しにも愁のゴツゴツした体の感覚が伝わってきて、なんだか心臓がドキドキしてくる。
「んん〜」
愁は不機嫌そうな声を出すと寝返りを打ち、目を覚ました。
何者かに体を揺すられ、目を覚ました愁の視界に入ったのは千沙の顔だった。隣に灯もいる。
そのままもう一度眠りに落ちようと思ったものの、よく考えるとおかしい。ここは自分の部屋なのになぜ千沙と灯がいるのだろう。
「なんでお前らここにいるんだ!?」
一気に目が覚め、慌てて飛び起きる。
「呼び鈴鳴らしたけど、出なかったので上がりました。昔勝手に上がっていいよって言ってたじゃないですか」
背筋を伸ばし、昔の話を持ち出す千沙。
「確かに昔そんなことは言ったけど」
「というかなんで部屋の真ん中で寝てたんですか?」
「いや、昼夜逆転してたから戻そうとしてたんだけど……眠くて。で、何しに来たんだ」
「先輩の変な噂流していた犯人が分かりました……生徒会長です」
あくびをしていた愁の表情が一瞬で真顔になった。
「……嘘だろ?」
寝落ち直前まで犯人は誰かと思いを巡らせていたものの、結局分からないままだった。一体どうやって特定したのだろうと思ったものの、
「本当です。詩音先輩が身を張って須田から聞き出してくれました」
「身を張って!?」
むしろそっちの方が気になってしまい、反射的に千沙に詰め寄る。『須田から』というのも聞き逃がせない。
「大丈夫です。私達が助けに入ったので、詩音先輩は何も害は受けていません」
「そ、そうか」
一体何をしたのか気になるが、千沙がそう言うならば信用してもいいだろう。それよりも、今優先すべきはこれからどうするかだ。
「それより、あとは証拠を持って出るところに出れば解決ですね」
出るところに出る。確かに今回の件は有耶無耶にしてはならない事態だ。
しかし、それでいいのだろうか。大人に任せてしまったら、芽依が何を考えて、なんの意図でそのような事をしたのか分からないまま終わってしまうのではないだろうか。それは嫌だった。
「いや。きっと何かあるはずだ。可能なら、話し合いで解決したい」
「でも……」
「自分が撒いた種は自分で決めたいんだ。ところで……そういえば詩音は?」
部屋を見渡してみるが、どう見ても千沙と灯の2人しかいない。
「合わせる顔がないとかで」
「はぁ〜」
ため息をつくと、詩音に電話をかける。
不器用な彼女だ。詩音と喧嘩してしまったのはこちらにも責任がある。堂々と家にやってきていつものように涼しい顔をしていればいいのに。
『……もしもし』
3コールで詩音が出た。
「……詩音」
『何?』
言うべきことは決まっている。一度深呼吸をすると、再び口を開く。
「すまなかった。あと、ありがとう」
『……』
詩音の声が聞こえなくなった。切れたかな、と思い耳を離して画面を確認するが、通話時間は増え続けている。
「詩音?」
『……私こそごめん。愁のことを疑ってしまって。それに』
「いや、俺の方こそ」
『私も』
「いや俺も」
『私も』
「……」
『……』
なんだかおかしくて、お互い笑いだしていた。電話越しの詩音は妙にいじらしい。
ひとしきり笑い合ったあと、彼女の名を呼ぶ。
「詩音」
『何?』
口調から、苦笑を浮かべている詩音が思い浮かぶ。
「また学校で」
『うん。またね』
電話を切ると、ジト目でこちらを見ている千沙と目が合った。
「何だよ」
「何でもないですよ。ただアツアツだなーって思っただけです」
千沙はプイと視線を愁からそらす。
「千沙」
「……なんですか?」
「会長と話をつけてくる」
月曜日の放課後。愁は久しぶりに制服に袖を通し、学校へ向かった。
本来ならば帰る時間に学校へ来るという行動に、奇妙な感覚を抱きながら校門を通り抜ける。
愁へジロジロと無遠慮な視線を向けてくる生徒もいたが、努めて無視して生徒会室へ向かう。
予め芽依には話をつけてあり、芽依から送られてきたメッセージは『放課後に生徒会室で待ってるよ』という短いもので、内容から愁の意図を気づいているのか、そして芽依の思惑を計り知ることはできなかった。
初めて足を踏み入れた生徒会室は、照明が消えていてなんだか薄暗かった。
開け放たれた窓から差し込む太陽の光が窓の前に立つ芽依の顔を照らし、外から吹き込む風が芽依の短い髪を揺らしている。
「会長」
愁が芽依を呼ぶと、
「一体何の相談かな?」
後ろで手を組んだ芽依は目を細め、初対面の相手でも心を許してしまいそうな人懐っこい笑顔を浮かべる。
千沙達を疑うわけではないが、本当にこの人がやったとは思えない気がしてきて、ありえないとは思いつつも、適当な雑談をしてこの場を後にすることを考えたくなってしまう。
しかし、それは詩音達の献身を無下にすることになる。
「……俺の変な噂広めたの会長ですか?」
意を決し、尋ねた。
「うん。そうだよー。誰から聞いたの?」
芽依は拍子抜けするほどにあっさり認めた。
「……詩音たちが須田から聞き出してくれました」
「詩音ちゃんかー。本当はついでに詩音ちゃんと別れさせられればよかったんだけど、思いの外絆が固かったなー」
表情と発言内容が一致していない。カップルを別れさせようとして失敗した、という発言には到底似つかわしくない、真夏のひまわりのような笑みだ。
「どうして、そんなことしたんですか」
芽依は窓の前から離れて薄暗い室内へ移動すると、
「それはもちろん……君が気に食わなかったから、かな」
目を細めて笑顔を愁に見せる。
恐ろしい顔をしているわけでもないのに、妙に不気味に感じた。
「それだけ……ですか」
「うん。それだけだよ〜」
「ちゃんと説明してください」
知らないうちに芽依から強い恨みを抱かれるような事をしてしまっていたならまだしも、『気に食わない』それだけの理由で根も葉もない噂を校内にばらまくという行動は、愁の常識では理解できないものだった。
「うーんそうだなあ、私人を好きになったことがないんだよね。なのに君はなんかよろしくやってて気が食わなかったってところかなー」
「なんで俺なんですか。別に校内にカップルなんてそれなりにいますよね?」
「なんていうのかな。私って生まれつき人を観察するのが上手いみたいで、人が何を望んでいて、何をすれば私の思い通りに動いてくれるかがなんとなく分かっちゃうっていうか。だけど君は私が頼んでも部活にも生徒会にも入ってくれない。それならどうするのがいいと思う?」
愁は芽依の発言の意図を察した。思い通りになってくれない人間がいるなら、目の前から消してしまえばいいということなのだろう。
「それで俺を学校に来られなくしたってことですか?」
「せいかーい! 納得できたかな?」
芽依は両手を胸の前で音を立てて合わせ、満足げに微笑む。
「できるわけないじゃないですか!」
何から何まで何一つ共感も理解もできなかった。芽依は誰とでも仲良くなれるコミュ力の高い人物かと思いきや、その実は怪物のような存在だったのだ。自分は今『何』と会話しているのだろうかというおかしなことをつい考えてしまう。
「……なんで?」
芽依は素朴な疑問を親に聞く子供のように首を傾げる。
「なんでって……」
直感的に悟った。芽依は煽っているのではなく、本当に分かっていない。だからこそ、何と答えたらいいのか分からなかった。
「ま、答えられないよね。ともかく、私には君の存在が我慢できなくて、めちゃくちゃにせずにはいられないの。君は思い通りにならなかったけど、みんな私の思った通りに動いてくれるから君をここまでボロボロにできて、それは思い通りにいった。どう、すごいでしょ?」
彼女はアンバランスだ。そう思った。おしゃれで、自分には知らないことを知っている年上の女性という面がありながら、虫の羽を平気でむしり取り、それを得意げに大人に見せてくる子供のような残酷さも併せ持っている。
しかしそれであれば――叱って教育せねば。
「全然……すごくないですよ」
拳を握り、まっすぐに芽依の目を見る。
「またまたー冗談言っちゃっ――」
「羨ましくないですよ」
本当に羨ましくないことを強調するために、芽衣が言い終える前に言葉を被せる。
「何? 善人ぶってるつもり? ホント君気に食わないなぁ」
表情は笑顔だったが、言葉の節々に苛つきが混じっていることを愁は見逃さなかった。
「羨ましくないですよ」
もう一度念押しをする。
「確かに詩音や千沙、灯たちの考えてることがよく分かればうまくやれたなーと思ったことは何度もありますよ。だけど、うまく行かなかったからこそ、不安になって今できることを必死にやろうと思えるし、そしてその後はもっと仲良くなれるんです」
「それの何がいいの? 無駄に傷つくなんてバカバカしいよ。私みたいにうまくやれないと」
「バカなのは会長だよ」
「……は?」
言葉を被せ、批判し、あまつさえバカ扱い。流石の芽依も我慢しきれなくなったのか、ついに芽依の仮面が割れ、不機嫌さを隠そうとしなくなった。声のトーンも一気に低くなる。
「会長は自分が一人ぼっちなことに気づけていない」」
「私のどこが一人ぼっちなの? みんな私を慕ってくれるし、みんな私の事を好きでいてくれてるんだよ?」
「だからですよ。会長のやり方は果たして人に囲まれていると言えるんですか? その人のことを知ろうともせずに、ただ人形のように扱う。俺からすれば、あなたは一人自分の部屋で粋がる子供ですよ。それのどこが羨ましいんですか?」
「あ……う……」
芽依の顔に動揺が浮かび、そして無意識にだろう。後ずさりをしていた。
「だから俺は羨ましくない。ずっと子供なんてまっぴらごめんです。あなたはそれに気づかず、これからもずっと一人さびしく人形遊びをする子供で生きていくんだ!」
「……!」
芽依は衝撃を受けたように目を丸くしたかと思うと、うつむいた。しばらく待っても何も言い返してくる気配はない。
まずい。もしかして怒らせてしまっただろうか。
自分がここに何しに来たかを忘れてしまっていた。芽依と話をつけるためであって、決して怒らせるために来たわけではない。
「会長……?」
芽依に近寄ると、床に水滴が落ちていることに気づいた。
水道管から水漏れでもしているのかと思い天井を見上げるが、それらしきものは見当たらない。
再び水滴が床に落ちる。今度は出どころが分かった。それは、芽依の目からだった。
「ぐす……うっ……」
芽依は両拳で自分の涙を拭い始める。
まずい。女性を泣かせてしまった。しかもよりによって芽依をこの状況で。
これでへそを曲げられてしまったら、もう噂を止めてもらうなんてできっこない。つい場の熱に浮かされて柄でもないような事を言ってしまった。
「あの、会長……?」
両手を胸の高さに上げ、得体の知れないものを触れに行くように、恐る恐る芽依に近づくと、
「ごめんな……さい。噂は止めるから、許……して」
芽依の発言に耳を疑った。
「……本当ですか?」
思わず芽依との距離を縮め、尋ねる。
「本当だから……今日は帰って」
涙声でそう言われ、逆らえる気がしなかった。男は女の涙に弱いと言うが、分かった気がする。抗える気がしないどころか、強制力すらある。
「それじゃあ……失礼します」
出口に向かい、引き戸に手をかけようとしたところで一度振り返る。相変わらず芽依は涙を拭い続けている。
噂を止めることが出来たという達成感より、芽依を泣かせてしまったという後ろめたさを胸に、愁は生徒会室を後にした。
後日、本当に噂は流れなくなった。
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